All Chapters of 七年の冷遇、離婚後は御曹司に溺愛されます: Chapter 81 - Chapter 90

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第81話

つくづく思う。嫌いな相手と口を利くのは、これほどまでに気分が悪くなるものなのだと。それに何より、二人はすでに離婚協議書にサインを済ませ、離婚届の手続きも先生に頼んでいるところだった。それなのにこの男は、まだ彼女が「ただの当てつけ」と思い込み、当然のように命令口調で話しかけてくる。「何か勘違いしてない?あなたは今、どんな立場から私に命令しているつもりなの?」宥里は眉を上げ、冷ややかな目で知輝を見据えた。その眉間に浮かぶ苛立ちは、かつての知輝のそれとまったく同じだった。知輝の瞳がかすかに揺れた。宥里がこんな表情を見せたのは、これが初めてだった。「俺はお前の夫で、お前の息子の父親だ。それ以外に、俺がどんな立場だと言うんだ?」宥里が「その立場も、もうすぐなくなるけど」と言おうとしたその時、病室のドアが勢いよく開き、彩葉が血相を変えて、まっすぐ宥里のほうへと飛びかかってきた。誰もが反応する間もなく、彩葉の両手はすでに宥里の襟元を掴んでいた。「この役立たず!あなた、陽太のこと、どうやって面倒見てたのよ!入院までさせて!」真っ先に我に返った知輝が、慌てて彩葉の手を宥里の襟元から引き剥がし、力ずくで彼女を引っ張った。「彩葉、何をしてるんだ!」だが彩葉は知輝には目もくれず、なおも宥里を睨みつけたまま、鋭く詰め寄った。「あなた、母親としての自覚あるの!ないなら出ていってよ!本当に後悔してる。あの時、あなたを陽太の母親に選んだこと!」「……何を言ってるの?」「彩葉!黙りなさい!」富美子は体面も何もかまわず、暴走する彩葉を引き剥がした。「あなた、正気なの?ここは病院よ!」「びょ……病院!」彩葉はそこでようやく我に返った。「陽太、大事な陽太!」彩葉は富美子の拘束を振りほどき、陽太のもとへと駆け寄った。青白い小さな顔と、苦しげな表情を見た途端、涙がぼろぼろとこぼれ落ちる。ちょうどそのとき、陽太が目を覚ました。陽太が目を覚ましたのを見て、皆が一斉に周りへ集まった。彩葉は陽太に一番近い位置に座り込む。「陽太、目が覚めたのね、どこか痛いところない?うちの陽太、可哀想に……陽太……」「叔母ちゃん、うるさいよ。叔母ちゃんの声で起きちゃったじゃないか」陽太は不満げに小さな顔をしかめ、開口一番、文句を口にした
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第82話

宥里は少し驚いていた。まさかこのタイミングで絢斗から電話がかかってくるとは思っていなかったのだ。だが、考え直してみれば、彼がこの時間に電話をかけてくるということは、おそらく賠償の件についてだろう。まあ、それもいい。結局のところ、彼は自分と詩音を助けてくれた恩人だ。彼の秘書も、そのせいで実際に怪我をしている。自分が受け入れられる範囲であれば、支払うべき賠償はきちんと支払うべきだろう。宥里はそれ以上深く考えず、知輝への気兼ねもなく、その場で電話に出た。「もしもし、貞末さん」声は淡々としていて、どこか距離を感じさせるものだった。電話の向こうが、一瞬静まり返った。数秒後、耳に届いたのは絢斗の、よく通る心地よい声だった。「お前、今何してる?」宥里は前方の道を見た。そろそろ赤沢家に着く頃だろう。だが、絢斗のその問いには答えなかった。自分が今何をしていようと、絢斗には関係のないことだと思った。「この時間にかけてきたということは、この前の件ですか?言ってください。私が受け入れられる範囲であれば、ちゃんと協力しますから」不意に、急ブレーキがかかった。陽太を抱いていた宥里の体は、大きく前にのめり込み、スマホを取り落としてしまった。幸い、シートベルトをしていたため大事には至らなかった。不機嫌そうに知輝を見やろうとしたところで、信号が赤になっていることに気づく。信号が変わったためブレーキを踏んだのだろうと思い、それ以上は何も言わなかった。その間、電話の向こうからは絢斗の声が響いていた。「おい!宥里、聞いてるのか?宥里?何かあったのか?答えろ、宥里!宥里、お前どこにいる、今すぐそっちに行く!」宥里は知輝のほうはもう見ずに、シートの下から苦労してスマホを拾い上げると、まだ少し息を弾ませながら言った。「大丈夫です。今車に乗っていて、さっき急ブレーキがかかって、スマホを落としてしまっただけです」電話の向こうがまた静まり返った。今度はやや長い沈黙で、数秒経ってからようやく絢斗の声が再び聞こえてきた。「どうしてそんなにそそっかしいんだ。スマホすらまともに持っていられないなんて、一体何ができるんだ」「まともに話せないなら、切りますよ」恩を受けていなければ、この絢斗という男とこれ以上話すことなど何もなかった。「
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第83話

絢斗が何を怒っているのかは、彼女には関係のないことだった。宥里はスマホをしまい、再び窓の外へと視線を戻した。このまま無言で赤沢家の屋敷まで行くのだろうと思っていたところ、先に沈黙を破ったのは知輝のほうだった。「さっき、誰からの電話だった?」「どうでもいい人よ」宥里は淡々と答えた。「どうでもいい相手がわざわざ電話をかけてきて、しかもお前の身を案じるものか?」先ほど、彼ははっきりと聞いていた。宥里のスマホが床に落ちたとき、電話の向こうの男が明らかに慌て、こちらまで駆けつけようとさえしていたことを。知輝には、どうでもいい相手にそこまでするとは思えなかった。宥里も当然、知輝がそう尋ねてくるのを嫉妬だとは思っていない。そのくらいのことはわかっている。おそらく彼は、自分が電話にかまけて子供の世話を疎かにしたと思っているだけだろう。結局のところ、知輝の目に、いや赤沢家の人間全員の目に、自分はただの子守にすぎないのだ。「それが何か?私にも自分の交友関係くらいあるし。誰から電話がかかってこようと、赤沢准教授に逐一報告しなければならないの?」宥里は冷ややかに笑った。「知輝、私は香織さんじゃないわ。あなたの教え子でもない。私に構わないで」「はっ、お前はどうしていつも香織の話を持ち出すんだ。前にも言っただろう……」「もういいの」宥里は間を置かず遮った。これ以上続ければ、また終わりのない口論になる。そんな争いにはもう飽き飽きしていた。「私が悪かったわ。香織さんの名前を出すべきじゃなかった。もう言い争うのはやめましょう。疲れたわ」知輝には、まだ言いたいことがあるようだった。だが、宥里のきっぱりとした態度を見て、結局それ以上続けることはなかった。しばらくして、車は赤沢家の屋敷へと入っていった。前回宥里がここを訪れたのは、陽太を週末預けに来たときだった。あのとき富美子は、土曜日に陽太を連れて昔の同級生たちとの同窓会に出席すると言っていた。ところが実際、土曜日に富美子が陽太を連れていったのは、知輝と香織のあの結婚式だったのだ。前回来たときの自分は、まだ赤沢家の嫁だった。だからこそ、一言一句、一挙手一投足に気を配っていた。けれど今回は、心境がまるで違った。離婚はまだ手続き中とはいえ、時間の問題にすぎない。だからこそ
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第84話

宥里が部屋を出ようとしたところへ、彩葉と富美子が急ぎ足で入ってきた。とりわけ彩葉は足取りも荒く、宥里の姿を見るなり、当てつけのように強く肩をぶつけてから、そのまま真っ直ぐ陽太のほうへと向かっていった。宥里は肩を押さえた。研究所で一日中働き詰めのまま、仕事終わりに病院へと駆けつけたのだ。今の彼女は本当に疲れきっていて、これ以上誰かと張り合い、気力を消耗する余裕などなかった。ただ一刻も早く母親としてやるべきことを済ませて、この息の詰まるような空間から立ち去りたかった。だが宥里にとって意外だったのは、今回、知輝が口を挟んできたことだった。「彩葉、前も見えないなら、その目は飾りか?」彩葉は呆気に取られたように知輝を見た。今の言葉が本当に自分の兄の口から出たものなのか、耳を疑った。自分が宥里を見下し意地悪をしてきたことは、誰もが知る事実だった。これまでも自分は、ずっと宥里にこんな態度を取ってきた。そのたびに兄が見ていても、彼は何も言わなかった。むしろ、宥里のほうに気をつけろ、人の邪魔になるな、とさえ言うこともあったのだ。それが今回に限って、まさか自分を咎めるとは……!富美子でさえ、驚いた顔で息子を見つめた。息子はいつからこんなに宥里を気にかけるようになったのか。まさか彼女の肩を持つなんて。そういえばさっき病院で、宥里は知輝と離婚するとまで言っていなかったか?ふん、なるほど。この女、駆け引きのつもりだな。まさか知輝がそれに引っかかるとは。富美子は不満げに顔をしかめた。息子が宥里のために彩葉を叱ったことが、どうにも気に入らなかった。宥里にも冷ややかな視線を向けた。「この人が勝手に入り口を塞いでいたんでしょうに。何も彩葉を責めることないじゃない」富美子は不機嫌そうに知輝に言うと、視線を宥里に向けた。「もうこんな時間なのに、皆まだ食事もしていないのよ。あなた、台所に行って皆に何か作ってちょうだい。陽太は今体調が悪いんだから、あっさりしたものにしてね」宥里はもともと台所に向かうつもりだったが、それはあくまで陽太のためだった。赤沢家全員分の料理を作る体力も気力も、今の彼女には残っていなかった。断ろうと口を開きかけたところ、知輝が再び先に口を開いた。「母さん、うちには料理担当の家政婦がいるだろう」驚いたのは
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第85話

「皆さんは自分のことをしてください。私のことは気にしないで」要するに、今は誰にもそばにいてほしくない、ということだった。高橋は逃げるように台所をあとにした。ほかで様子を窺っていた使用人たちもそれ以上とどまる勇気はなく、次々に立ち去っていった。一方、知輝だけはその場を離れず、宥里の背後に立ち、彼女が野菜を切る様子を眺めていた。「あいつらは、以前からずっとお前にこんな態度だったのか?」知輝が尋ねた。「ええ、大体そんなものね」宥里は淡々と応じた。感情を交えずに、ただ事実を述べているだけだった。実のところ、過去、彼らの態度は今回よりもずっとひどいものだった。知輝は眉を寄せた。「それなら、どうして俺に言わなかったんだ?」「どうしてあなたに言わなきゃいけないの?」宥里は手元の野菜に集中したまま答えた。「あの人たちだって、この家の人たちの態度を見ているだけだから」赤沢家の人間そのものが、嫁である自分をずっと疎ましく思い、まるで家政婦のように扱ってきた。下の者たちがそれを見て真似するのは当然だ。自分を軽んじないはずがない。そしてそのすべての元凶を辿れば、他でもない、知輝自身に行き着くのだ。もし知輝が少しでも妻である自分を気にかけていれば、彼の両親や妹も少しは彼女を尊重していたはずだ。けれど知輝自身が自分に対して冷淡で疎遠だったからこそ、赤沢家の人間が彼女を大切に扱うはずもなかった。知輝には、宥里が言わんとしていることが当然理解できた。これほど辛抱強く宥里の話に耳を傾けたのは、彼にとって初めてのことだった。なぜだかわからないが、今、宥里の横顔を見つめていると、この女がどこか以前とは違って見える気がした。その変化に引き寄せられるように、彼は思わず一歩近づいていた。気づけば、相手の首筋から漂うかすかな香水の香りまではっきりと感じ取れるほどの距離だった。「香織の部屋は、もう探させている。すぐに家から出ていくはずだ。もう意地を張らずに、家に帰ってこい」宥里の体が強張った。知輝の体から伝わる温度と、背後から首筋にかかる彼の息遣いを、はっきりと感じ取っていた。こんな唐突な近さは、以前であればもしかすると彼女を喜ばせたかもしれない。だが今は、ただただ強い不快感しか呼び起こさなかった。宥里はまな板を横にず
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第86話

宥里がまだ十代だった頃、一時期、囲碁に深く夢中になっていたことがあった。当時、彼女はまだ貞末家に身を置き、幼い頃から当時の当主、貞末壱郎(さだすえ いちろう)の手で育てられていた。壱郎は独断的で威圧的な人物であり、彼女に対する躾は苛烈を極めた。囲碁は、壱郎が宥里に学ぶことを許していたものではなかった。ただでさえ限られた時間を囲碁などに費やすくらいなら、その分の時間と労力をすべて学業へと注ぐべきだというのが、壱郎の絶対的な考えだったのだ。けれど自分は、本当に囲碁が好きだった。だからこそ壱郎の目を盗み、寸暇を惜しまずこっそりと独学を始めた。独学で基礎を身につけたあと、さらに腕を磨きたくて、囲碁を教えてくれる年配の先生をわざわざ探し出し、教えを受けた。その先生も、おそらく今はもう亡くなっているだろう。やがて一人で碁を打つだけでは物足りなくなり、こっそり大会にも出場するようになった。それが十三歳から十六歳まで続いた。けれど、いつまでも隠し通せるものではなかった。自分がこっそり囲碁を学び、大会に出場していたことは、結局は壱郎の耳に入ってしまった。彼は激怒し、すぐさま使用人に命じて彼女の碁盤を叩き壊させると、権力に物を言わせて囲碁界に残っていた自分の記録をすべて抹消させた。目的はただ一つ。囲碁への未練を完全に断ち切らせることだった。さらに壱郎は、今後もしまた囲碁に関わったことが知れれば、自分の囲碁に関わった人間を誰一人許さないと脅してきた。真っ先に標的にされるのは、自分に囲碁を教えてくれたあの先生だった。そういえば、あの先生を密かに探してきてくれたのは、絢斗だった。そのせいで、絢斗もまた壱郎にひどく殴られたのだった。絢斗のことを思い出し、宥里の瞳がわずかに翳る。とにかく、あの日以来、自分は二度と碁盤に触れず、壱郎の言いなりの従順な孫娘へと戻った。それは壱郎が亡くなるまで続いた。貞末家で過ごしたあの日々を思い返し、宥里の胸がざわついた。その気持ちを静めると、彼女はまっすぐ碁盤の前へと歩み寄った。盤面を眺めていると、どこか見覚えがある気がした。よくよく見てみると、それは自分が十六歳の時、こっそり出場した名人戦、その決勝で打ったあの一局だった。あの時、彼女は黒番で、相手は白番だった。あの対局のことは、今でも鮮明に覚え
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第87話

この一局を、正臣は白番の立場から、もう長いこと検討していたが、いまだに突破口を見つけられずにいた。そう考えると、あの当時の天才棋士がどれほどの実力の持ち主だったか、想像がつくというものだった。その凄さを知れば知るほど、正臣はますます気が逸り、なんとしても彼女を見つけ出したいという焦りが募っていった。「俺の和室には、用もなく入るな。この家では、自分の立場をわきまえていればいい」正臣は宥里を見下すように言った。その声には何の感情も込められておらず、使用人に命じるときの口調とまったく同じだった。「わかりました」宥里は淡々と応じた。これ以上何か言う気力もなかった。少しでも言葉を返せば、そのままきりがなくなることを彼女は知っていた。だからあえて、それ以上は何も言わなかった。時間を見ると、鍋で煮ているものがそろそろ出来上がる頃だった。彼女は背を向け、台所へ戻ろうとしたが、そこでまた正臣に呼び止められた。「最近、お前が知輝と揉めていて、家に帰っていないと聞いたが」正臣が問い詰めるように言った。宥里は知輝のほうをちらりと見たが、何も言わなかった。正臣は続けた。「お前たちの関係については口を出さない。だが、お前が赤沢家の嫁である限り、赤沢家のしきたりは守ってもらう。それに、お前がこうも毎日何もせず暇を持て余しているのも良くない。人間、暇になるとろくでもないことばかり考えるようになるものだ」そこで知輝が説明するように口を開いた。「父さんと話したんだが、お前に仕事を見つけたほうがいいと思ってな。そうすればやることもできて、家の中だけに視野を狭めずに済むだろう」宥里は眉をひそめた。つまり、この父子は自分に仕事の世話を焼く気か。「そうだ」正臣が頷きながら椅子に腰かけ、自分に茶を注いだ。「お前に取り立てて秀でた能力があるわけでもない。あまり大した仕事は務まらないだろうし、下手に外に出せば、赤沢家の顔に泥を塗ることになりかねん。そうだな、うちの棋院に来るといい。受付やお茶出しでもすればいい。そうすれば見聞も広がるし、赤沢家以外の人間とも知り合える。それに、人との接し方や仕事をきちんとこなす力も身につくだろう」宥里は思わず可笑しくなった。こんな話を先生や先輩が聞いたら、二人ともきっと怒り狂うだろう。とりわけ先生なら
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第88話

正臣は再び湯呑みを勢いよく置いたが、今度は怒りからではなく、興奮からだった。彼は盤上に増えたその一つの白石を、食い入るように見つめていた。その表情は、初めて囲碁大会で優勝したときよりも、なお興奮しているように見えた。「見事だ!実に見事だ!なんでこの一手に気づかなかったんだ、まさに神業だ!」正臣はその白石の周囲を指で何度も辿り、声まで震え始めていた。「生きた……白が生きたぞ!」「何が生きたんですか?」知輝は正臣の向かいに腰を下ろし、黒番の立場から盤面を検討した。囲碁にさほど興味はなかったが、幼い頃から父に教わっていたし、長年見聞きしてきたこともあって、盤面くらいは理解できた。正臣はその白石を指しながら、知輝に言った。「見ろ、この局面だ。本来、白はすでに完全な敗勢だった。実際、あの対局のとき、白番は前の一手のあと、そのまま投了したんだ。だが見ろ、今、この白石が置かれた位置を」知輝は正臣に導かれるまま、一手一手を目で追っていった。たしかに、この白石が置かれる前は、白はほぼ打つ手のない局面だった。彼の実力では、どう考えても局面を打開する方法など思いつきようがなかった。だが、この白石が一つ置かれた瞬間、白には一気に活路が開けた。完全に死んでいたように見えた白が、たちまち生きたのだ。さすがの知輝も、これほど見事な一手を目の当たりにして感嘆せずにはいられなかった。「誰だ!この白石を置いたのは誰なんだ!」正臣は立ち上がり、興奮した様子で辺りを見回して石を置いた人物を捜すと、真っ先に知輝へと目を向けた。「知輝、お前か?」彼はたしかに覚えていた。今朝出かける前まで、この局面は白が敗勢のままだったはずだ。それが今、白石が一つ増えている。知輝は首を振った。「俺じゃない。俺にそんな実力はありません」正臣は自分の息子をよく知っていた。囲碁において、たしかに知輝にそんな力はない。では、一体誰なのか?この家の中で囲碁を理解しているのは、自分と知輝以外には誰もいないはずだった。そう考えると、正臣は使用人を呼びつけた。「今日、俺が留守にしていた間、誰か和室に入った者はいるか?」使用人はしばらく考えてから首を振った。「いいえ。ここ数日、旦那様が和室には誰も近づけないようにとおっしゃっていましたので、私どもは誰
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第89話

「本当か!」正臣は目を輝かせ、興奮のあまり我を忘れた。あれほど大事にしていた盤上の石を、勢い余って何個か崩してしまうほどだった。「ええ、間違いありません」知輝は正臣のスマホを指差した。「連絡先はもう送ってあります。一度、本人に聞いてみてください。何かわかるかもしれません」正臣は興奮した様子で電話番号をスマホに保存した。息子の前で取り乱すのをどうにか堪えたものの、そうでなければ今すぐにでも電話をかけていただろう。「今日はもう遅い。明日、迷惑にならない時間になったら電話してみよう」正臣は知輝の手の甲を軽く叩いた。「知輝、今回は本当に助かった。ありがとうな」自分の父親の力になれたことが、知輝も嬉しかった。「西村先生の息子さんとは一度簡単にお話ししただけですが、その天才棋士は姓が貞末だったそうです」「貞末?」正臣は一瞬呆気に取られた。「花丸市で貞末姓といえば、決して珍しくはないな。あの貞末源一郎氏だって貞末姓じゃないか」知輝は微笑んだ。「その棋士は貞末家の人間ではないと思います。俺が知る限り、大富豪の貞末源一郎さんには養子が一人いるだけで、実の娘はいません。貞末家の分家に娘が一人いるようですが、彼女は囲碁をたしなまず、今は大学院に通っています。その他の貞末家の傍系については、俺も詳しくは把握していません」正臣は頷いた。「うむ、貞末家ではなさそうだな。聞いた話では、貞末家の亡くなった当主は囲碁を特に嫌っていたそうだ。理由はわからないが、貞末家の人間は基本的に囲碁関連のことには一切関わらない」正臣は棋院の副会長として、これまで棋院を通じて大小さまざまな大会を開催してきた。主催者側が貞末家に協賛を持ちかけたことも何度かあったが、そのたびに貞末家は頑なに拒否し、囲碁に関することには一切関わらないと表明していたのだ。これを見る限り、あの天才棋士が大富豪の貞末家の人間である可能性は、ほぼないと言える。「とにかく、西村先生の息子さんを見つけてくれただけでも、父さんにとっては大きな助けだ」正臣は満足げに息子を見つめた。自分がこれだけ長く探し回っても何の進展もなかったことを、知輝はほんの短い時間でやり遂げてしまった。この息子は本当に優秀だ。けれど、あの嫁である宥里のことを思い出すと、正臣の目に
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第90話

宥里はトレイを手にしたまま戸口に立ち、香織が握っている陽太の手をじっと見つめていた。宥里の視線に気づいた香織はすぐさま手を引っ込め、まるで悪さを見つかった子供のように慌てて立ち上がった。「ごめんなさい。陽太くんが病気で、私に会いたがっていると聞いたので、駆けつけたんです。宥里さんもいらっしゃるとは知らなくて。知っていたら来ませんでした」また、この態度だ。赤沢家の誰かがいる場に自分がいると、香織はいつもこの調子になる。宥里はそれを目にするたび苛立ちを覚えた。だが、それ以上に強かったのは、ただただ呆れる気持ちだった。案の定、彩葉が立ち上がり、香織の腕を引いて再びベッドに座らせた。そして目を吊り上げ、宥里を睨みつけて言った。「私が電話して呼んだのよ、何か文句あるの?陽太が会いたいって言うから呼んだのよ。あんたに文句を言われる筋合いはないでしょう」陽太は、香織が宥里を見るなり目を赤くしたため、宥里が香織をいじめるのではないかと心配し、慌てて助け舟を出した。「僕……僕が香織さんに会いたかったんだ。だから叔母ちゃんが香織さんに電話したの。ママ、香織さんをいじめないで」実のところ今日、彼はそれほど香織に会いたいと思っていたわけではなかった。どうせ、体調が良くなって家に帰ればまた香織に会えるのだから。電話をかけたのは彩葉自身の判断で、香織を呼び寄せたのも彩葉だった。けれど彼は、香織が母にいじめられる姿を見たくなかった。だからどうしても香織の味方をしたかったのだ。「陽太くん……」香織は目を潤ませ、感激したように、再び陽太のふっくらとした小さな手を握った。彩葉はまるで雛を守る親鳥のように、陽太と香織の前に立ちはだかった。その様子は、まるで宥里が本当に香織をいじめでもするかのようだった。この光景を目にして、心が何も動かないはずがなかった。宥里はトレイを持つ手にぐっと力を込めると、部屋の中へと歩み入った。「陽太、ご飯できたわよ。冷めないうちに食べて」先ほどまで香織がいじめられるのではと心配していた陽太だったが、母の作った食事ができたと聞いた途端、そんなことはすべて忘れ去ってしまった。「うん、食べる!」彼は本当にお腹が空いていた。今朝、学校に着いた頃から体調が悪くなり、昼にはほとんど何も食べられなかった。午後にな
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