All Chapters of 捨てられた荷物持ちは、深淵の王女に唯一の王と呼ばれる: Chapter 1 - Chapter 10

24 Chapters

登場人物や世界、基本設定

世界観・基本設定大陸アステルノア七つの人間王国、魔族が暮らす夜魔領、亜人種が追いやられた荒野、そして大陸中央の《天葬奈落》から成る。すべての人間は十八歳になると、神殿で一つの《職能》を授かる。職能は神の恩寵とされ、それによって就ける仕事や身分まで決定される。戦闘職は尊ばれ、生活職や補助職は軽視される。しかし実際には、現在の鑑定法では職能の表面的な能力しか判別できない。一見無能に見える職能の中に、古代に封印された原初職能が紛れている。天葬奈落大陸中央に口を開ける巨大迷宮。確認されているだけで百階層以上あり、下層ほど空間や時間の法則が乱れている。人々には魔物が生まれる場所と認識されているが、その正体は、神々の時代に造られた巨大な墓所兼封印施設。深層には、歴史から消された種族や都市が残っている。葬送継承リュゼルが看取った相手から、その者が最も強く遺したいと願ったものを受け継ぐ能力。継承できる対象は、技術、耐性、魔法、身体能力、知識、記憶の断片など。強制的に命を奪っても発動せず、相手が最期にリュゼルを受け入れる必要がある。継承するたびに右腕へ黒銀色の墓碑紋が増える。能力を使いすぎると死者の声に意識を呑まれ、自分が誰なのか分からなくなる。その際、ネフィリアの声と血だけが彼を現実へ引き戻せる。人物プロフィールリュゼル・クレイン年齢:二十歳種族:人間職能:看取り人身長:178センチ容姿青みを帯びた灰黒色の髪を短く切った青年。勇者一行にいた頃は自分の身なりに構う余裕がなく、前髪が目元へかかっている。瞳は曇天を思わせる淡い灰青色。派手さはないが、伏し目になると長い睫毛が目立つ端整な顔立ちをしている。荷運びで鍛えられたため、細身に見えて体幹と脚力が強い。手には荷縄や調理、武具の修繕でできた傷と硬いまめがある。奈落へ落とされた後、右腕に黒銀色の紋様が現れる。能力を使うほど紋様は肩や胸元へ広がっていく。性格穏やかで忍耐強く、人の苦痛や恐怖に敏感。自分が傷つくことより、目の前で誰かが見捨てられることを嫌う。長年蔑まれてきたため自己評価が極端に低く、役に立つことでしか居場所を得られないと思い込んでいる。一方で観察力と記憶力は非常に高く、魔物の習性や仲間の癖、食料の残量まで細かく把握している。無条件の善人ではない。裏切りを忘れず、一度敵と
last updateLast Updated : 2026-07-26
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第1話 奈落へ捨てられた日

 青い燐火が、濡れた岩壁を這っていた。 その頼りない明かりの下を、五つの影が奥へ進んでいく。先頭の四人がまとう白銀の鎧も神官衣も、旅立ちの日の形を保っていた。 最後尾に伸びた影だけが、背負った荷のせいで人の形を失っていた。 《天葬奈落》第六十二階層。 リュゼル・クレインは、四人分の食料と天幕、鍋、油、縄、予備装備、回復薬を詰め込んだ背負い籠を支え、剥がれかけた靴底を引きずっていた。革紐の下では肩の皮膚が裂けている。乾いた血と新しい血が重なり、歩くたびに粗い麻布が傷口を削った。 足を止めれば置いていかれる。それだけは身体に染みついていた。「まだか、荷物持ち」 塔盾の騎士ガルディスが振り向いた。赤褐色の短髪の下で、暗緑色の目が苛立たしげに細められる。「申し訳ない。すぐに追いつく」 答えた途端、喉の奥へ鉄の味が上がった。先ほど皆より先に罠を確かめ、毒針を受けている。三本の解毒薬はセルヴァンとミレアナのために残せと命じられていた。「口を動かす暇があるなら脚を動かせ。役立たずを連れているだけでも、一行の恥なのだ」「ガルディス、そんな言い方はよせ」 勇者セルヴァン・アルディオスが、青い外套を翻して振り返った。金髪に縁取られた顔には、王都の広場で民衆へ手を振る時と同じ爽やかな微笑が浮かんでいる。「リュゼルも懸命に務めている。剣も魔法も使えない彼が僕たちとここまで来られたのは、立派なことじゃないか」 褒められたはずなのに、胸の奥が冷えた。 炎術師エルディンが小さく笑った。セルヴァンの言葉はいつも、リュゼルを庇いながら、その立場が全員より低いことを確かめさせた。「セルヴァン、少しだけ待ってもらえないか。右の靴を縛り直したい」「神器は目前だ。休息なら手に入れてからにしよう」「ですが、リュゼルさんのお肩……」 聖癒術師ミレアナが振り向いた。蜂蜜色の巻き髪が白い頬へかかり、黄緑色の瞳が傷に注がれる。彼女は痛ましそうに眉を寄せ、聖杖を握る指へ力を込めた。「出血しているのが見えるわ。とてもお辛そう」「浅い傷だ。迷惑はかけない」「そんなふうに我慢なさらないで」 優しい声だった。 けれど聖杖の先に、癒やしの光は灯らない。 ミレアナは困ったように睫毛を伏せた。「私の魔力も半分を切っています。どのような守護者が神器を守っているか分からない以上、戦え
last updateLast Updated : 2026-07-26
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第2話 死ねない夜

 息を吸った瞬間、胸の奥で砕けた骨が鳴った。 リュゼルは目を見開き、喉まで込み上げた声を噛み殺した。冷えきった空気が肺へ入る。それだけのことで、内側から細い刃を差し込まれたような痛みが走った。 痛い。 その事実に、しばらく思考が追いつかなかった。 痛みを感じるのは、生きているからだ。 奈落へ落ちた。底へ叩きつけられた。全身の骨が砕ける音を、自分の耳で確かに聞いた。血が流れ、指先から温度が失われていくのを覚えている。 そのあと、黒竜へ触れた。 途方もなく長い苦痛を受け取り、金色の瞳が閉じるのを見届けた。「……生きて、いるのか」 声にすると、余計に信じられなかった。 仰向けになっていた身体を起こそうとし、脇腹へ激痛が突き抜ける。視界が白く弾け、肘をついたまま動けなくなった。浅い呼吸を繰り返し、吐き気が遠ざかるのを待つ。 左手で脇腹を探ると、服は大きく裂け、乾ききらない血で固まっていた。だが、その下にあるはずの深い傷は塞がっている。指に触れたのは、盛り上がった不揃いな皮膚と、熱を持つ硬い傷痕だった。 脚も同じだった。 左脚は膝の下で折れ、あり得ない方向へ曲がっていたはずなのに、今はつながっている。慎重に爪先を動かすと、足首まで感覚が通った。ただし骨は僅かに歪み、左右で長さが違う。立てたとしても、まともには歩けそうになかった。 治ったのではない。 壊れた器を、形だけ無理に継ぎ合わせたようだった。 右腕だけは、別の痛みを訴えている。 肘から指先まで、黒銀色の紋様が幾重にも巻きついていた。古い墓碑に刻まれた文字にも、絡み合った蔓にも見える。心臓が脈打つたび、焼けた鉄を押しつけられたような熱が肩へ向かって這い上がった。 あの黒竜から流れ込んだ炎。 翼。 記憶。 果たされなかった願い。 思い出そうとした途端、視界の端で黒いものが揺れた。 リュゼルは息を止めた。 空中に、見覚えのない文字が浮かんでいる。紙も石板もない。指で触れようとすると、文字は水面の影のように揺れ、掴む前に元の形へ戻った。 《葬送継承・竜哭王ヴァルディオス》 《継承能力・黒竜鱗》 《継承能力・夜目》 《継承能力・残火》 一字ずつ目で追ううち、黒い文字は薄くなり、闇へ溶けていった。「葬送……継承」 声に出しても、意味は分からない。 《看取り人》に、この
last updateLast Updated : 2026-07-26
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第3話 最初の看取り

 二十七歩目で、リュゼルの左脚が崩れた。 膝が岩床へぶつかり、骨の継ぎ目から鈍い痛みが突き上げる。壁へついた左手も汗で滑った。暗がりの向こうでは、骨喰いたちの爪が石を叩く音が、雨のように重なっている。 近い。 湿った呼吸と腐肉の臭いが、もう背中へ届いていた。「二十八……」 数を忘れないよう声に出し、リュゼルは立ち上がった。 右腕の墓碑紋は焼けたままだった。《黒竜鱗》を無理に使った反動で指先の感覚が薄い。胸の奥では、呼吸のたびに折れた骨が擦れ合っている。 二十九歩。 右側の岩壁に、不自然な窪みが見えた。 三十歩目を踏み出すと、窪みの奥へ縦に細い裂け目が走っていた。人一人が正面を向いて通ることはできない。肩を傾け、息を吐ききれば、辛うじて身体を滑り込ませられるほどの幅だった。「ここか」 返事はない。 リュゼルは小刀を口に咥え、裂け目へ左肩を差し入れた。岩肌が破れた服越しに傷を削る。腰骨が引っかかり、脇腹の塞がった傷が再び開いた。温かい血が肌を伝ったが、止まれば背後から喉を食い破られる。 息を殺して身を捩り、片脚ずつ暗い隙間へ引き込む。 踵が岩の向こう側へ抜けた直後、骨喰いの群れが通路へ押し寄せた。 幾つもの白い目が裂け目の外を埋め尽くす。先頭の一匹が頭を突っ込み、牙を剥いた。半透明の鼻先がリュゼルの足首まで迫り、噛み合わされた牙が空を切る。 リュゼルは咄嗟に脚を引いた。 骨喰いは肩から先を押し込もうと暴れたが、肋骨が岩に挟まり、それ以上は進めない。後ろから仲間が圧し掛かり、狭い裂け目の外で唸り声と爪音が膨れ上がった。 入ってこられない。 安堵した途端、張りつめていた力が抜けた。 リュゼルは冷たい岩へ背を預け、ずるずると座り込んだ。喉が乾き、舌が上顎へ貼りついている。息をするたび胸が痛んだが、腐臭に満ちた空気さえ貪るように吸った。「聞こえているか」 声を潜めて呼びかける。 返ってきたのは、骨喰いたちが岩を掻く音だけだった。「三十歩進んだ。ここから、どうすればいい」 沈黙。 鎖の擦れる音も、少女の呼吸も聞こえない。 あの声は、本当に存在したのだろうか。 黒竜の記憶に意識を呑まれかけた時、聞こえた少女の声。ヴァルディオスが守ろうとした銀髪の幼子を見たあとだったから、自分が都合よく作り出した幻だった可能性もある。 けれ
last updateLast Updated : 2026-07-26
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第4話 外れ職能の本当の名

 三つの鳴き声は、洞窟の最奥で重なっていた。 リュゼルは小刀の切っ先で岩床を確かめながら、狭い穴を進んだ。天井は低く、立って歩くことはできない。片膝をつくたび、歪んだ骨が軋み、月角兎から引き受けた痛みまで後脚へ蘇った。 右脚に刻まれた新しい墓碑紋が、淡い熱を帯びている。 湿った苔の匂い。 子どもたちを隠した岩陰。 母親が遺した記憶を辿るほど、自分のものではない焦りが胸を締めつけた。「もう少しだけ待ってくれ」 鳴き声へ呼びかける。 言葉が通じるはずはない。それでも、声を聞かせずにはいられなかった。 穴の先で岩壁が僅かに広がった。青白い燐光を放つ苔に照らされ、枯れ草と抜け毛を集めた巣が浮かび上がる。 その中央で、三匹の幼体が身を寄せ合っていた。 どれもリュゼルの掌に収まるほど小さい。瞼はまだ完全に開かず、額の角も白い突起にしか見えない。薄い灰色の毛は湿り、肋骨の形が分かるほど痩せていた。 母親の姿を求めるように、互いの腹へ鼻先を押しつけている。 リュゼルが近づくと、三匹は一斉に顔を上げた。「きゅっ、きゅう……!」 小さな威嚇だった。 逃げる力もないくせに、短い脚を踏ん張り、巣の奥へ身体を押し込もうとする。一匹は兄弟を庇うように前へ出たが、足がもつれて枯れ草の上へ転がった。 リュゼルはその場へ伏せ、目線を低くした。「怖がらせて悪い。連れていくつもりはない」 左手を差し出すと、前にいた幼体が甲へ噛みつこうとした。だが歯はまだ生え揃っておらず、傷をつける力もない。柔らかな口が血の乾いた指へ触れた途端、その動きが止まった。 幼体の鼻が、小さく震える。 右脚の墓碑紋から、微かな光が流れた。 母親の匂い。 月角兎が生涯まとっていた苔と土と乳の匂いが、継承された力の奥に残っている。 一匹がリュゼルの指へ頬を擦りつけた。 もう一匹が、恐る恐る手首へ前脚を乗せる。最後の一匹も兄弟の背を越え、袖口へ鼻先を潜り込ませた。「俺は、母親じゃない」 掠れた声で告げても、幼体たちは離れなかった。 足元へ集まり、母親を探すように墓碑紋のある右脚へ身体を寄せてくる。その温かさに、胸の内側が痛んだ。 母親はもう戻らない。 その事実を知っているのは、リュゼルだけだった。 幼体の一匹が、右脚を乳房と間違えたのか、破れたズボンへ口を押しつけた。吸う
last updateLast Updated : 2026-07-26
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第5話 鎖につながれた少女

 右脚が、銀灰色の光を引いた。 次の瞬間、リュゼルの身体は墓守蜈蚣の顎先から消えていた。 左右へ開いた牙が何もない岩床へ突き刺さる。耳を塞ぎたくなる破砕音が洞窟を揺らし、砕けた石が背中を叩いた。 気づいた時には、十歩近く先へ進んでいる。 自分で走った感覚がなかった。 景色だけが後方へ弾け飛び、身体が無理やり別の場所へ移されたようだった。背中の革袋が遅れて肩へ食い込み、中から月角兎の幼体たちが甲高く鳴く。「大丈夫だ。離さない」 振り返る間もなく、右脚に激痛が走った。 膝から下の筋肉が、内側で一斉に裂けたように熱い。歪んでつながった骨へ急激な力がかかり、腿の付け根まで痙攣している。 月角兎の小さく軽い身体なら、敵から逃れるために何度でも使えた速度。 だが、人間であるリュゼルの骨格も筋肉も、その速さに耐えられない。 右脚の墓碑紋から、母兎の恐怖が流れ込む。 背後から迫る牙。 子どもたちの匂い。 戻らなければならないという焦り。 感情の波に意識を呑まれそうになり、リュゼルは右の腿へ小刀の柄を押しつけた。「俺は、月角兎じゃない」 痛みを確かめるように呟く。「この脚は俺のものだ。走る方向も、俺が決める」 墓碑紋の熱が僅かに弱まった。 その背後で、墓守蜈蚣が頭を持ち上げる。 骨の鎧に覆われた長い胴が洞窟へ雪崩れ込み、無数の節足が壁と床を同時に掻いた。細い岩柱が次々と折れ、その腹の下から骨喰いたちが溢れ出す。「左へ!」 少女の声が鋭く響いた。 リュゼルは考えるより先に左へ踏み込んだ。 狭い割れ目へ身体を滑らせた直後、墓守蜈蚣の尾が元いた場所を薙ぎ払う。黒い棘が岩壁を抉り、砕けた破片が頬を裂いた。「そのまま進んで。三つ目の分かれ道を右」「見えているのか?」「質問はあとです。走りなさい」 冷静な声だった。 けれど息が僅かに浅い。遠く離れた場所から声を届けることにも、何らかの力を消耗しているようだった。 リュゼルは小刀を杖代わりに走った。 最初の分かれ道を越える。 二つ目。 三つ目を右へ曲がった途端、通路が急な下り坂になった。「段差があります。七歩先」 右目の《夜目》を凝らす。 黒い岩床が途中で途切れ、その先が一段低くなっていた。少女に告げられなければ、速度を殺せないまま足を取られていただろう。 背後から墓守蜈
last updateLast Updated : 2026-07-26
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第6話 王女は跪かない

 幾重もの牙が、頭上の闇を塞いだ。 避ける時間はない。 リュゼルは小刀を捨て、右腕を掲げた。 意識の奥に沈む石板へ触れる。 竜哭王ヴァルディオス。 その名を呼んだ途端、焼けた右腕の墓碑紋から黒金の炎が噴き上がった。 身体のすべてを渡してはならない。 黒い城を守った巨大な骨格も、空を覆った翼も必要ない。欲しいのは、迫る牙を一度だけ防ぐための硬さ。「右腕だけだ」 自分へ言い聞かせるように叫ぶ。「ここから先へは、入ってくるな!」 指先から肘、肩の寸前まで、黒い鱗が次々と皮膚を覆った。 墓守蜈蚣の牙が腕へ激突する。 発現した《黒竜鱗》と白い牙の間から火花が散った。衝撃が肩を抜け、胸の奥まで突き抜ける。継ぎ合わせられた骨が悲鳴を上げ、リュゼルの両脚が石床へ沈んだ。「ぐ、ぅ……っ!」 墓守蜈蚣の重みが右腕へ圧し掛かる。 肘が折れそうに曲がった。 それでも鱗は砕けない。 ヴァルディオスの怒りが、右腕から流れ込んできた。敵を焼き尽くせと黒い炎が心臓を叩く。竜へ変われ。翼を広げろ。爪で引き裂けと、死者の記憶が全身を求める。「俺は……俺のままで、使う」 リュゼルは奥歯を噛み締めた。 炎も翼も呼ばない。 右腕を覆う鱗だけを意識し、それ以外の記憶へ境を引く。 黒い鱗の広がりが肩で止まった。 墓守蜈蚣の牙が横へ滑る。 リュゼルは押し潰される寸前に身を捻り、巨体の下から転がり出た。牙が床を抉り、黒い石片が雨のように降る。「あなた……」 祭壇から、少女の掠れた声が届いた。 紫紺の瞳が僅かに見開かれている。「一度言われただけで、力の範囲を抑えたの?」「できるとは、思わなかった」「それで実行する人間がどこにいるのよ」「ここにいたらしい」 言葉を返しながら、右腕を振る。 骨は折れていない。だが肩の関節がずれ、腕全体が痺れていた。黒竜鱗を留めているだけでも墓碑紋が焼け、体温を奪われていく。 長くは保たない。 墓守蜈蚣が頭を持ち上げた。 牙の先には、鱗で削られた浅い傷が一本ついている。致命傷には程遠い。むしろ痛みで怒らせただけだった。 巨体が身震いし、何十本もの節足が一斉に床を叩いた。 リュゼルは落とした小刀を拾い、墓守蜈蚣の横を駆け抜けた。 右脚へ《瞬脚》を一瞬だけ通す。 銀灰色の光が弾け、毒液が背後へ落ちた。 すれ違
last updateLast Updated : 2026-07-27
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第7話 血の契約

 呪いは、右手から心臓へ食い込んだ。 リュゼルの身体が大きく跳ねる。 息を吐くこともできないまま、祭壇へ肩から倒れ込んだ。黒い石へ頬を打ちつけても、その痛みはほとんど感じなかった。 もっと深い場所が、内側から食い荒らされている。「リュゼル!」 初めて、ネフィリアが彼の名を呼んだ。 けれど返事ができない。 黒鎖から流れ込んだ霧が、皮膚の下へ入り込んでいた。無数の小さな虫が血管を這い、肉を食い破りながら胸へ集まるような痛み。右腕の血管が黒く浮かび、指先から肩へ向かって異様に膨れ上がっていく。 黒銀色の墓碑紋が、呼吸するように明滅した。 一つの名が熱を放つ。 竜哭王ヴァルディオス。 途端に、リュゼルの視界から地下神殿が消えた。 炎に包まれた黒い城。 切り落とされる翼。 幼い銀髪の少女が、閉ざされる門の向こうへ連れ去られていく。 今度こそ守れ。 今度こそ鎖を断て。 ヴァルディオスの怒りと後悔が、黒金の炎となって全身を駆け巡った。 右腕だけへ留めていた《黒竜鱗》が、勝手に肩を越える。胸を覆い、首筋へ達し、頬の皮膚を黒く染めた。背中では、存在しない翼の骨が再び形を得ようと蠢いている。「違う……俺は……」 喉から漏れた声は、獣の唸りに近かった。 ヴァルディオスの願いを拒むつもりはない。 だが、これは自分の怒りではない。 分かっているのに、境目が見つからなかった。 ネフィリアの胸元に浮かぶ王家の紋章が、黒い霧を引き寄せている。彼女の苦痛を見た瞬間、竜の記憶がさらに激しく暴れた。 助けなければ。 守らなければ。 そのためなら、この人間の身体など壊れても構わない。 死者の思いが、リュゼル自身の命を燃料にしようとしていた。「こちらを見なさい!」 ネフィリアの声が飛ぶ。 鎖が激しく鳴った。 彼女は祭壇へ縫い止められた身体を無理に前へ寄せていた。首と腰の枷が食い込み、黒いドレスの胸元へ新しい血が滲んでいる。それでも身を伸ばし、両手を拘束する鎖の限界まで腕を差し出した。 白い指が、リュゼルの右腕を掴む。 黒竜鱗へ触れた掌から煙が上がった。「離せ……火傷する」「すでにしています」「なら、なおさら――」「黙りなさい」 命令と同時に、指へ力が込められた。 ネフィリアの手も震えている。左腕には黒い霧が回り、爪の色まで紫黒
last updateLast Updated : 2026-07-27
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第8話 初めて倒した魔物

 祭壇に落ちた枷は、まだ微かな熱を帯びていた。 ネフィリアの右手首には、黒紫色の痣が幾重にも巻きついている。長く鎖に締められていた皮膚は赤く裂け、自由になった指も思うようには動かない。それでも彼女は右手を胸元まで持ち上げ、開いては握ることを繰り返していた。 その背後では、残る六本の黒鎖が天井の闇へ伸びている。 首。腰。両足首。そして翼の付け根。 半透明の翼は力なく畳まれ、鎖が食い込むたび、薄い膜の内側を紫の光が走った。「あと六本か」 リュゼルが呟くと、ネフィリアはすぐに首を横へ振った。「触れてはなりません」 声音の硬さに、彼は黒鎖へ伸ばしかけた手を止めた。「一本でも減らしたほうが、あんたは楽になるだろう」「この封印は、その程度の親切で造られてはいないわ」 ネフィリアの視線が、灰となった墓守蜈蚣の跡へ向く。神殿の床には、魔物を縫い止めた柱の残骸と、幾筋もの深い爪痕が残っていた。「鎖には、それぞれ守り手が結びつけられています。一本が砕ければ一体が目覚める。先ほどの魔物も、私の右手を封じる鎖が弱ったことで呼び寄せられたのでしょう」「六本を一度に壊したら」「六体すべてが目覚める」 ネフィリアは淡々と答えたが、自由になった右手がドレスの裾を強く掴んだ。「今の私たちでは、一体でも確実に勝てるとは言えません。急げば、鎖ではなく命のほうが先に尽きます」 その命には、リュゼル自身のものも含まれている。 二人の胸を結ぶ紫黒色の線は、今は皮膚の下へ沈んで見えない。それでもネフィリアが息を吸うたび、冷たい鼓動がリュゼルの胸の奥へ微かに伝わった。「分かった。今は壊さない」「ずいぶん素直ね」「無茶をしたら、あんたまで傷つくんだろう。俺一人の身体じゃなくなった」 ネフィリアの指が止まった。 何かを言いかけた唇は、結局、細く結ばれただけだった。 石の擦れる音が祭壇の下から聞こえた。 リュゼルが振り返ると、瓦礫の隙間から白い耳が一対、恐る恐る覗いている。次いでもう一対、その後ろから一回り小さな耳が現れた。 三匹の月角兎の幼体だった。「無事だったか」 リュゼルが腰を落とすと、三匹は一斉に駆け寄ってきた。足元へ鼻先を押しつけ、母親の匂いを探すように外套の裾を嗅いでいる。一匹が前脚を彼の靴へかけ、細い声で鳴いた。 抱き上げようとした右手は、黒竜の
last updateLast Updated : 2026-07-27
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第9話 勇者一行の帰還

 王都の鐘が、凱旋を告げていた。 白亜の城壁に沿って並ぶ塔から、澄んだ音が幾重にも降り注ぐ。大通りには王国旗と聖印旗が翻り、窓という窓から花弁が撒かれていた。 その中心を、四頭の白馬が進んでいる。 先頭に立つセルヴァンは、陽光を弾く金髪を風へなびかせ、沿道の民衆へ手を振っていた。白銀の鎧には奈落でついた傷が残っている。磨き直す時間さえ惜しんで帰還した勇者の証だと、誰もが好意的に受け取った。「勇者セルヴァン!」「魔王を討ち滅ぼしてください!」「聖女ミレアナ様もご無事だ!」 歓声が石造りの街を震わせる。 ミレアナは蜂蜜色の巻き髪を揺らし、胸元で両手を組んだ。民衆へ向けた微笑みはいつもと変わらず柔らかい。けれど、花弁が頬へ触れるたび、肩が小さく強張っていた。 ガルディスは塔盾を背負い、得意げに胸を張っている。顔に残る乾いた血も拭おうとせず、歓声へ応えるように太い腕を掲げた。 一行の最後を進むエルディナだけが、俯いたまま手綱を握っていた。 灰色の外套は裾を裂かれ、片方の手袋も失われている。時折、何かを確かめるように背後を振り返るが、そこには花に埋もれた大通りしかない。 五頭目の馬は用意されていなかった。 誰も、そのことを尋ねなかった。 聖印勇者の帰還。 天葬奈落の深層から神器を持ち帰った偉業。 王都へ先に届いた早馬は、それだけを告げていた。 大神殿の正門へ到着すると、白い法衣をまとった神官たちが左右へ分かれた。その中央には、金糸の祭服を纏う大神官が立っている。 セルヴァンは馬から降り、従者が捧げ持つ細長い箱へ手を伸ばした。「大神官猊下。神託に示された祭壇より、神器を持ち帰りました」 声には疲労を滲ませながらも、民衆の耳へ届く強さがある。 箱の蓋が開かれた。 黒い剣が、昼の光へ晒される。 歓声が僅かに揺らいだ。 刃は光を返さない。鍔も柄も、煤で塗り潰したように黒い。古びた様子はないのに、近くで見た者ほど理由のない寒気を覚え、無意識に一歩退いた。 大神官の眉間へ、ほんの一瞬だけ深い皺が刻まれた。 だが、すぐに両腕を掲げる。「神意を担う者たちが、生還を果たした。今宵、勇者一行の偉業を称え、王城にて祝福の宴を執り行う!」 再び大歓声が湧き上がった。 セルヴァンは微笑みを崩さなかった。 ただ、箱の中へ戻された黒い剣からは、
last updateLast Updated : 2026-07-27
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