Tous les chapitres de : Chapitre 31 - Chapitre 40

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第29話 黒豹の女

血に濡れた大剣は、持ち主を失っていた。石床へ深く突き立った刃の脇に、半ば白骨化した巨躯が横たわっている。鎧の隙間から覗く骨格は人間より明らかに大きく、砕けた兜の左右には角らしきものが残っていた。死んでからどれほど経つのか分からない。それなのに刃へ付着した黒い液体だけは乾いておらず、灯石の青白い光を濡れたように返している。だが、リュゼルの目を奪ったのは大剣でも死体でもなかった。その向こうに、途方もなく広い谷があった。岩壁に囲まれた空洞という言葉では足りない。天井は灯石の光が届かないほど高く、左右の壁も闇の奥へ消えている。谷底を埋め尽くしているのは土ではなく、骨だった。獣の肋骨、人間の頭蓋、角を残した魔族の骨格、翼膜だけが黒く乾いた竜種の残骸。それらが幾層にも積み重なり、白灰色の斜面となって遥か奥まで続いている。そして、その骨の海の中央で。一人の女が戦っていた。褐色の肌。顎のあたりで鋭く切り揃えられた黒髪。頭頂から生えた丸みのある黒い耳は、獣のそれだった。腰の後ろから伸びる長い尾が、身体の動きに合わせてしなやかに揺れている。獣人。女は二本の湾曲刀を握っていた。右の刃で襲いかかる骨蜘蛛の前脚を受け流し、左の刃を胴体の下へ滑り込ませる。硬い外殻が擦れ、火花が散った。刃先が奥に隠れた黒い核を正確に穿つと、巨大な蜘蛛の身体が一瞬硬直し、そのまま何百もの骨片へ崩れ落ちる。「速い……」リュゼルは思わず呟いた。実戦経験の差は見ただけで分かった。踏み込む位置。刃の角度。次の敵を見る視線。一つの動作が終わる前に、すでに身体が次へ向かっている。無駄がない。それでいて機械的でもない。足場となる骨が崩れることまで計算し、滑るなら滑る動きのまま刃を振るう。自分より遥かに強い。少なくとも今のリュゼルが、正面から一対一で勝てる相手には見えなかった。それでも。「まずいな」女の左腕から血が流れている。肩口から肘にかけて大きく裂けており、黒い革鎧が赤黒く濡れていた。動くたびに傷口が開き、血が指先を伝って湾曲刀の柄へ落ちている。骨蜘蛛はまだ十を超えていた。死者溜まりの魔力を吸って動いているのか、身体の大部分は獣や人の骨を無造作につなぎ合わせたような形をしている。一体倒しても、周囲の骨山から新たな脚が突き出してくる。「行くぞ」リュゼルが踏み出した。
last updateDernière mise à jour : 2026-08-22
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第30話 死人を食う男

イセラの視線は、リュゼルの右腕から離れなかった。黒銀色の墓碑紋は、灯石の青白い光を受けても光らない。むしろ周囲の明かりを吸い込むように沈み、皮膚の下へ食い込んでいる。骨の谷を吹き抜ける冷たい風が外套の裾を揺らし、積み上がった無数の骨が微かに擦れ合った。かさり、かさりと乾いた音が続くたび、リュゼルの頭の奥では、まだ消えきらない死者の囁きが薄く重なっていた。イセラはその音とは別の何かを聞いているように、黒豹の耳を後ろへ伏せた。「死人を連れてる」もう一度、低く言う。「一人や二人じゃない」リュゼルは腕を下ろしかけたが、イセラの視線がそれを追ったため、止めた。「連れてるって言われても」「とぼけるな」湾曲刀へ手が伸びる。抜いてはいない。それでも、いつでも抜ける位置だ。イセラは一歩だけ距離を取った。「屍喰らい」その名を聞いた瞬間、ネフィリアの表情が変わった。「何ですって?」声が冷える。イセラは彼女へ視線を移さない。「奈落で昔から言われてる怪物だ」「怪物?」リュゼルが眉を寄せる。「死体を食う。死んだ奴の力を奪う。剣士を食えば剣を使えるようになり、術師を食えば術を盗む。何百人、何千人と食って、最後には自分が誰だったかも分からなくなる」イセラの琥珀色の瞳が、墓碑紋を睨むように細まる。「身体中に黒い墓印が広がって、最後は人間の形すら失うって話だ」骨の谷の空気が、一段冷たくなった気がした。リュゼルは反射的に右腕を見る。紋様は手首から前腕へ伸びている。最初に現れた頃より、明らかに広がっていた。古代魔獣ヴァルディオスを看取った時。その力と記憶を受け継いだ時。さらに死者溜まりへ近づき、無数の声を聞くようになってから、黒銀色は以前より濃くなっている。最後には人間の形すら失う。その言葉だけが、嫌に耳に残った。「違うわ」ネフィリアが前へ出る。彼女の足元から黒紫色の影が薄く広がった。攻撃ではない。ただ、リュゼルとイセラの間へ割り込むように。「彼は奪っていない」イセラがようやくネフィリアを見る。「随分と信じてるんだな」「知っているだけよ」「何を」「彼がどうやってその力を得たのか」イセラの耳が僅かに動く。「死人本人に聞いたのか?」「そうよ」即答だった。今度はイセラが黙った。骨の谷に、遠くで骨片が崩れる音が響く
last updateDernière mise à jour : 2026-08-22
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第31話 七人分の墓

骨の谷を進むほど、イセラの足取りは遅くなっていった。道に迷っているわけではない。むしろ、忘れたはずの景色が一つずつ戻ってきているようだった。白く乾いた骨の斜面を越え、岩壁が細く裂けた場所へ入るたび、彼女の黒豹の耳が小さく動く。鼻先が風を拾い、琥珀色の瞳が足元の石や壁の傷を確かめる。そのたびに立ち止まり、しばらく何も言わず、また歩き出す。リュゼルは少し後ろを歩いていた。先頭を譲ったのは、道を知っているからだけではない。ここから先は、イセラの場所だと思った。足元には、誰かがかつて通った痕跡が残っている。灰色の岩へ半ば埋もれた布片。長い年月で色は失われているが、端に赤い刺繍糸が一本だけ残っていた。イセラがしゃがむ。指先で布へ触れようとして、止まった。「知ってるのか」リュゼルが尋ねると、彼女はしばらく答えなかった。「ハルクの外套だ」低い声。「赤い糸を縫ったのは、ミアだった」誰なのか説明はしない。それでも、それが仲間の誰かであることは分かった。イセラは布を拾わなかった。ただ一度だけ指先で端を撫で、立ち上がった。少し先では、折れた矢が骨の間へ刺さっていた。鏃は錆びている。軸の木は腐り、半分ほどしか残っていない。「これは?」リュゼルが訊く。イセラは見ただけで分かったらしい。「セラド」「弓を使ってた?」「ああ」短く答え、矢の横へしゃがむ。「下手だった」「弓兵なのに?」「本人は上手いと思ってた」わずかに口元が動いた。笑みとは言えないほど小さい。それでも、これまでのイセラにはなかった表情だった。「止まってる標的には当たった。動いてる相手には、よく外した」「それは結構まずいな」「だから私が先に脚を切ってた」「なるほど」「本人は『連携だ』って言ってた」今度こそ。イセラの口元がほんの少しだけ緩んだ。すぐに消えた。その後も痕跡は続いた。石の隙間に挟まった獣人用の耳飾り。小さな牙を三本束ねた首飾り。切れた革紐。竜人が身につける爪飾り。どれも朽ちかけている。どれも。イセラには分かる。「ここを通った」彼女が呟く。「間違いない」声が少しずつ固くなっていた。リュゼルの墓碑紋は、谷へ入った時から熱を持ったままだった。耳に聞こえない声が、絶えず頭の奥へ流れている。《暗い》《帰りたい》《誰か》
last updateDernière mise à jour : 2026-08-23
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第32話 生き残った者の罪

七つの墓を背にしたまま、イセラは夜明けのない空洞を見つめていた。奈落の深層には朝も夕暮れもない。時間を示すものは灯石の燃え方と身体の疲労だけで、骨の谷には相変わらず白灰色の闇が横たわっている。昨夜掘った墓の土はまだ乾いておらず、掘り返した岩粉の匂いに、古い骨と血の残滓が混じっていた。リュゼルは出発の支度を整えながら、何度かイセラの背中へ視線を向けた。彼女は動かない。七つの墓標には、それぞれ湾曲刀の先で刻まれた名がある。ハルク。セラド。ナージャ。ヴァド。ルース。ミア。そして、最も小さな墓に刻まれたリナ。文字は均一ではなく、最後の名だけ少し深かった。「行かないのか」リュゼルが声をかけると、イセラの黒い耳がわずかに動いた。「どこへ」「昨日の続きを調べる。谷の北側に食べられそうな菌床があるかもしれない。戻り道も別に一本探す」「その後は」「城へ戻る」イセラはそこで初めて振り返った。昨夜より顔色は戻っているが、左腕の包帯にはまだ薄く血が滲んでいる。琥珀色の瞳はいつも通り鋭く、それでも墓を見つける前より、ほんのわずかに疲労の色が濃かった。「私は行かない」リュゼルは驚かなかった。「分かった」あまりにも簡単に答えたためか、イセラが眉を寄せる。「止めないのか」「止めてほしいのか?」「そうは言ってない」「なら止めない」ネフィリアは少し離れた岩へ腰掛け、二人の会話を聞いていた。紫紺の瞳だけが行き来する。イセラは鼻を鳴らした。「私は群れに入るつもりはない」「うん」「誰かに守られる気もない」「分かった」「命令されるのも嫌いだ」「それは見れば分かる」「……お前、本当に腹が立つな」「何でだ」「普通はもう少し引き止める」「引き止めたら残るのか?」イセラは答えなかった。リュゼルは背嚢の紐を締め直した。彼女には行く場所がない。その言葉は昨日、墓を掘り終えた後の沈黙の中で聞いた。地上へ戻れば、昔の奴隷商やその後ろにいた組織に見つかる可能性がある。獣人の集落へ戻る道も失われている。仲間と呼んだ者たちは、今、目の前の土の下にいる。それでも。行く場所がないことと、誰かの場所へ入ることは同じではない。リュゼル自身、それを誰より知っている。「来たくなったら来ればいい」何でもないことのように言う。イセラが鼻で笑った。「場所も教えずに
last updateDernière mise à jour : 2026-08-23
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第33話 八人目の住人

 王域の紫光が闇の向こうに見えた時、リュゼルは自分でも気づかないうちに息を吐いていた。骨の谷を離れてから何度も背後を振り返り、地図へない分岐を二つ避け、途中で一度だけ魔物の気配をやり過ごした。正体の分からない八人目の骨については、その場を荒らさず位置だけを記録し、改めて調べることにした。墓碑紋はいまだ右腕の内側で鈍く疼いていたが、城へ近づくにつれて頭の内側を満たしていた死者の声は遠ざかり、代わりに聞き慣れた水音が戻ってきた。「結界は無事ね」隣を歩くネフィリアが呟いた。疲労を悟られまいとしているのか背筋は伸びていたが、歩調は城を出た時より遅い。足元を漂っていた影鳥が一羽、主の帰還を待ちかねたように旋回し、黒紫色の尾を引きながら門の内側へ飛び込んでいった。「子どもたちも問題なさそうだな」リュゼルは結界の向こうへ目を凝らした。気配が五つ固まっている。何かあれば奥の小部屋へ逃げるよう命じていたが、少なくとも今は広間近くに集まっているらしい。後ろから歩いてくるイセラは、何も言わなかった。包帯を巻き直した左腕を庇うような仕草も見せず、琥珀色の瞳で城を観察している。黒豹の耳は前を向き、長い尾は低い位置でゆっくり揺れていた。昨夜まで一人で奈落を歩き続けていた女にとって、他人の住処へ足を踏み入れるというだけで警戒する理由には十分なのだろう。三人が結界を越えた途端、空気の温度が変わった。冷えた奈落の湿気が背後へ遠ざかり、王域に満ちた穏やかな熱と清浄な水の匂いが肌を包む。ネフィリアの肩がほんの少し下がったのを、リュゼルは見なかったことにした。その直後、回廊の奥から激しい足音が聞こえた。「リュゼル!」最初に飛び出してきたのはシュカだった。その後ろから他の子どもたちも走ってくる。最年少の少女など靴を片方きちんと履けておらず、踵を踏んだまま、それでも止まる気はないらしい。「走ると転ぶぞ」言い終わる前に、シュカが腹へぶつかった。続いて左右から小さな身体が次々と外套へまとわりつき、重い背嚢を背負ったままのリュゼルは危うく後ろへ倒れそうになる。数日前なら困惑していただろうその重みを、今は反射的に両腕で支えていた。「遅い!」「ちゃんと戻るって言っただろ」「でも遅い!」「予定より少しだけだ」「いっぱい遅い!」言い争いながら、シュカの目が赤いことに気づく。眠れていなかっ
last updateDernière mise à jour : 2026-08-24
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第34話 聞いてはいけない声

死者溜まりへ向かう三度目の探索は、これまでとは比べものにならないほど静かに進んでいた。静かというのは、奈落に音がないという意味ではない。天井の亀裂から落ちる水滴が石床を穿ち、遠い横穴では何か硬い甲殻を持つ魔物が岩肌を擦り、三人の靴底が細かな骨片を踏むたびに乾いた音を残している。それでも無駄な戦闘が起きないだけで、移動に使う体力も神経の消耗もまるで違った。先頭を歩くイセラは、ときおり足を止めて黒豹の耳をわずかに動かし、鼻先で冷たい空気を探るように息を吸う。彼女が右手を上げればリュゼルとネフィリアも黙って止まり、その数十呼吸後には、彼らが進もうとしていた通路の先を巨大な魔物が通過していくということが二度続いた。「さっきのは何だった?」魔物の足音が完全に遠ざかってから、リュゼルが声を落として尋ねた。イセラはしゃがみ込み、石床に残った灰色の粉を指先で擦ると、匂いを嗅ぐこともなくすぐに立ち上がった。「岩甲蜥蜴。三匹。成体が二、若いのが一だ」「俺には一匹しか分からなかった」「音だけ拾ってるからだ。右の壁に風が当たって戻ってきてた。獣臭も三つに分かれてるし、地面の揺れも重さが違う」リュゼルは自分でも耳を澄ませてみたが、すでに魔物は遠く、地下水が流れる低い音しか拾えない。《微音察知》を得てから自分の索敵能力は格段に上がったと思っていたが、幼い頃から追われる側として生き、斥候として鍛え続けてきたイセラには及ばない。彼女は危険な音がしてから判断するのではなく、風の淀みや匂い、石の振動から相手が視界へ入る前に進路そのものを変えてしまう。「少し悔しいな」「張り合うところか?」「今まで自分で全部見てたから」「だから一人で何度も死にかける」後ろからネフィリアの冷たい声が飛んできた。リュゼルが振り返ると、彼女は黒紫色の長衣の裾を片手で持ち上げ、散らばる骨を踏まないよう足場を選んでいる。王域から離れているため城内ほど自在に魔力を振るえるわけではないが、その周囲には薄い影がまとわりつき、何かが急接近すればすぐ形を変えられるよう保たれていた。「今日は一人じゃないだろ」「だから少しは安心しているのよ」あまりに自然に返され、リュゼルは一瞬だけ言葉を失った。ネフィリアは気にした様子もなく先へ進み、イセラがその横顔を見てから、何か言いたそうにリュゼルへ視線を寄越す。「何だよ」
last updateDernière mise à jour : 2026-08-25
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第35話 声を盗むもの

《惜しい》という声が途絶えたあとも、三人はしばらく縦穴の前から動かなかった。岩壁の亀裂には冷たい空気が吸い込まれ、灯石の光が届かない先で、底の見えない空洞だけが口を開けている。ネフィリアは床へ片膝をつき、黒紫色の影を幾筋にも分けて周辺の亀裂へ潜り込ませていたが、何かに触れた様子はない。イセラも黒豹の耳を立てたまま目を閉じ、鼻先をわずかに持ち上げて空気を探っていた。リュゼルだけには死者溜まりの声がまだ遠い潮騒のように聞こえているものの、ミレアナや孤児院の人々を真似ていた気配は完全に消えていた。その消え方があまりにも不自然で、彼は右腕を押さえながら、暗闇のどこかにこちらを観察する意識が残っているような居心地の悪さを拭えなかった。「何か分かる?」ネフィリアが影を戻しながら問うと、イセラは返事をせずに壁際へ歩いた。石へ鼻を近づけるのではなく、指先で表面を撫で、そこについた灰色の粉を親指と擦り合わせる。何度か場所を変えた末に、黒豹の耳が僅かに前を向いた。「生き物の匂いじゃない。汗も獣脂もないし、腐肉の臭いもほとんどない。でも血はある」リュゼルも近づいてみたが、自分には湿った岩と古い骨の臭いしか分からなかった。「どんな血だ?」「新しくはない。でも、完全に古くもない。何度も同じ場所へ血を塗って、そのたび乾かしたみたいな臭いだ。それと、紙が腐った時に近い匂いがする」「紙?」「たぶんな」イセラは壁沿いに歩き出した。途中で何度か分岐を確かめたが迷いはなく、風の流れと匂いの濃さだけで一本の細い通路を選んでいく。ネフィリアは少し後ろを歩きながら周囲へ影を這わせ、リュゼルは地面や壁へ罠がないか目を配った。さきほど自分が偽の声に誘導されたことを思い返すたび、胸の奥には冷たいものが残る。単に姿を隠して獲物を待つ魔物ではない。こちらの記憶へ触れ、感情を読み、最も抗いにくい言葉を選んでいるのだとすれば、追う側である三人のほうがすでに相手の領域へ入り込んでいる可能性もあった。通路の奥へ進むにつれて、イセラの言った紙の臭いはリュゼルにも分かるほど濃くなった。やがて左右の岩壁へ、黒ずんだ紙片のようなものが何百枚も貼りついている場所へ出る。文字が残ったものもあれば、湿気で溶けて繊維だけになったものもあり、その大半には赤黒い染みが滲んでいた。指先ほどの小さな手形、人間の掌ほどの跡、獣の爪
last updateDernière mise à jour : 2026-08-25
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第35話 声を盗むもの

《惜しい》という声が途絶えたあとも、三人はしばらく縦穴の前から動かなかった。岩壁の亀裂には冷たい空気が吸い込まれ、灯石の光が届かない先で、底の見えない空洞だけが口を開けている。ネフィリアは床へ片膝をつき、黒紫色の影を幾筋にも分けて周辺の亀裂へ潜り込ませていたが、何かに触れた様子はない。イセラも黒豹の耳を立てたまま目を閉じ、鼻先をわずかに持ち上げて空気を探っていた。リュゼルだけには死者溜まりの声がまだ遠い潮騒のように聞こえているものの、ミレアナや孤児院の人々を真似ていた気配は完全に消えていた。その消え方があまりにも不自然で、彼は右腕を押さえながら、暗闇のどこかにこちらを観察する意識が残っているような居心地の悪さを拭えなかった。「何か分かる?」ネフィリアが影を戻しながら問うと、イセラは返事をせずに壁際へ歩いた。石へ鼻を近づけるのではなく、指先で表面を撫で、そこについた灰色の粉を親指と擦り合わせる。何度か場所を変えた末に、黒豹の耳が僅かに前を向いた。「生き物の匂いじゃない。汗も獣脂もないし、腐肉の臭いもほとんどない。でも血はある」リュゼルも近づいてみたが、自分には湿った岩と古い骨の臭いしか分からなかった。「どんな血だ?」「新しくはない。でも、完全に古くもない。何度も同じ場所へ血を塗って、そのたび乾かしたみたいな臭いだ。それと、紙が腐った時に近い匂いがする」「紙?」「たぶんな」イセラは壁沿いに歩き出した。途中で何度か分岐を確かめたが迷いはなく、風の流れと匂いの濃さだけで一本の細い通路を選んでいく。ネフィリアは少し後ろを歩きながら周囲へ影を這わせ、リュゼルは地面や壁へ罠がないか目を配った。さきほど自分が偽の声に誘導されたことを思い返すたび、胸の奥には冷たいものが残る。単に姿を隠して獲物を待つ魔物ではない。こちらの記憶へ触れ、感情を読み、最も抗いにくい言葉を選んでいるのだとすれば、追う側である三人のほうがすでに相手の領域へ入り込んでいる可能性もあった。通路の奥へ進むにつれて、イセラの言った紙の臭いはリュゼルにも分かるほど濃くなった。やがて左右の岩壁へ、黒ずんだ紙片のようなものが何百枚も貼りついている場所へ出る。文字が残ったものもあれば、湿気で溶けて繊維だけになったものもあり、その大半には赤黒い染みが滲んでいた。指先ほどの小さな手形、人間の掌ほどの跡、獣の爪
last updateDernière mise à jour : 2026-08-26
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第36話 名前を呼び続ける

リュゼルが城へ運び戻された時、王域の結界は静かに開いた。ネフィリアの影に支えられた身体は外傷らしい外傷もなく、呼吸も脈も途切れてはいなかったが、まぶたは固く閉じられ、どれほど名を呼んでも反応しなかった。イセラが先に門をくぐって子どもたちを下がらせ、その間にネフィリアはリュゼルを抱えるようにして西側の寝室へ運ぶ。普段なら大人一人を持ち上げるだけでも消耗するはずの彼女が、脚の震えを隠すことすらせず歩き続けたため、途中でイセラが無言のままリュゼルの肩を引き受けた。二人で寝台へ横たえた頃には、ネフィリアの額にも薄く汗が滲んでいた。「死んでない?」扉の外から、シュカの声がした。姿は見えない。入ってくるなと言われたことを守っているらしく、子どもたちは回廊の角に固まっている。「死んでいないわ」ネフィリアは寝台脇でリュゼルの手首へ触れた。脈はある。少し速いが、乱れてはいない。声盗みに傷つけられた箇所も、骨の谷で受けた打撲も致命傷ではなく、墓殻の反動による筋肉の炎症を除けば身体そのものに深刻な異常は見当たらなかった。それでも彼は眠っているのではない。眠る者なら光へ僅かに瞼を動かし、呼吸の深さも時間とともに変化するが、今のリュゼルにはそれがなかった。「じゃあ、どうして起きないの」今度は幼い少女の声だった。ネフィリアはすぐには答えなかった。紫紺の瞳が、リュゼルの右腕へ落ちる。黒銀色の墓碑紋は手首から肩近くまで伸び、以前より枝分かれした線を増やしていた。そこへ触れると、皮膚の下から脈とは別の細かな震えが伝わってくる。死者の魔力そのものではない。もっと曖昧で、それでいて数えきれないほど多くの気配が、薄い膜一枚を隔てて彼の内側に残っている。「声が残ってる」イセラが低く言った。黒豹の耳が寝台へ向いたまま動かない。「私には聞こえない。でも、匂いが違う。リュゼルの匂いの中に、知らない奴らが何人も混じってる」「何人?」「数えられない」ネフィリアは答えず、指先を墓碑紋から外した。その時、リュゼルの眉がほんの僅かに寄った。苦しむような変化だったが、目は開かない。彼の意識は、城にはなかった。最初に見えたのは、土間へ座り込む女の手だった。褐色の肌に短い獣毛があり、指の間には乾いた穀物が挟まっている。自分には子どもが二人いる。上の子は熱を出し、下の子は腹を空かせて泣いている。そう
last updateDernière mise à jour : 2026-08-26
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第37話 死なない少年

死者溜まりへ向かう経路は、これまでより大きく北へ逸れていた。骨が壁面を覆い始める手前で古い水路跡へ入り、そこから地下へ潜らず、死者溜まりを円状に取り巻く外縁部だけを調べる。地図の上では遠回りにしか見えない道だったが、ネフィリアは朝から一歩も譲らなかった。三日前まで意識を失い、今も知らない死者の声を時折聞いている人間を、再び何百何千という残滓の集まる場所へ連れていくつもりはないと断言され、リュゼルも今回は強く反論できなかった。自分でも、寝台から起き上がった瞬間に見知らぬ男の《娘に会いたい》という声を聞いた時の感覚が消えていない。死者に近づけば何が起こるのか分からない以上、食料や安全な経路を探す目的さえ果たせるなら、深部へ固執する理由はなかった。「本当は一人で深部へ行くつもりだったでしょう」歩き始めてしばらくした頃、ネフィリアが何でもないことのように言った。リュゼルは背嚢の紐を肩へ引き上げながら横を見る。彼女の紫紺の瞳は前方を向いているが、問いというより確信に近い声音だった。「思っただけだ」「思った時点で駄目よ」「行ってない」「私たちに黙って抜け出す前に見張っていただけでしょう」前を歩いていたイセラの黒豹の耳がこちらへ向く。「こいつ、夜中に起きて地図見てたぞ」「イセラ」「何だ」「告げ口するな」「お前が三日寝たせいで城の見張りまで増えたんだ。今度勝手に倒れたら縄で寝台に縛る」「それはネフィリアが本当にやりそうだから冗談に聞こえない」「いい案ね」「採用するな」そんなやり取りをしていても、三人の歩調は乱れなかった。イセラが先頭で風と匂いを読み、リュゼルは岩肌に残る罠や足場の変化を確かめ、最後尾のネフィリアが薄く広げた影で背後を警戒する。死者溜まりの外縁とはいえ、奈落の深層であることに変わりはない。壁には古い掻き傷があり、時折、何か大型の魔物が這った跡も見つかる。それでも骨そのものは少なく、リュゼルの墓碑紋も微かな熱を持つ程度で、頭の中へ飛び込んでくる声はほとんどなかった。一時間ほど進んだところで、イセラが急に足を止めた。「何かいる?」ネフィリアが声を落とす。イセラは答えず、細い通路の中央へしゃがんだ。灯石を持つリュゼルも近づく。黒灰色の石床には薄い砂が積もり、その表面にいくつもの足跡が残っていた。四足獣ではない。踵と指の形がある、人型
last updateDernière mise à jour : 2026-08-27
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