Inicio / 恋愛 / 偽りの幻影 / Capítulo 61 - Capítulo 70

Todos los capítulos de 偽りの幻影: Capítulo 61 - Capítulo 70

111 Capítulos

第61話 間宮

「……ごめん」 沙雪の勢いに押されて、少し後ろへ体をのけぞらせた蒼生に、沙雪は微笑んだ。 「蒼生はそれほど誤解してなかったと思うけど」 「……いや、俺は……その……」 蒼生はうつむいた。 「……お前が……あのシフォンのワンピースを着てるのが……好きで……」 「私だって好きだったわ。私に似合うでしょ」 沙雪はこくんとうなずく。 「ほんと、着られる時に着といてよかった。今はもうあんなの着てられない。ダブルワークのシングルマザーは機動力が大事なんだから」 「ダブルワーク?」 蒼生が顔を上げると、沙雪は困ったように少し笑った。 「子育てしながら働くのって難しいのよ。時間の融通も必要だし、サッカーにもお金がかかるの」 軽くガッツポーズをしながら沙雪は笑った。 「昼間は倉庫で在庫管理、夜はコンビニで。大丈夫、やれるわ」 「だけど、お前、気は強くたって体は弱いんだぞ。大丈夫なのか?」 その言葉に沙雪はにっこりした。 「相変わらず過保護なんだから。私のことは気にしないの」 軽く蒼生の肩を叩いて沙雪は笑ったが、蒼生は笑うどころか、真一文字に唇を結んで、沙雪を見据えた。 「ちょっと待ってくれ。会社の福利厚生はどうなってる? 死亡退職金、団体生命保険、子供への教育費支援、いくつかあるはずだ。会社の規模や程度に応じてそれなりに出る」 沙雪の表情がこわばった。蒼生は続ける。 「それに、手厚ければ生活相談やお前の再就職支援だってあってもいい。どのくらい援助が出た? ダブルワークなんて、お前が体を壊したら子供が一人で残されるだけだ。それは避けないと」 唇を噛んでうなだれた沙雪を、蒼生はそっと覗き込んだ。 「……どうしたんだ?」 沙雪は答えなかった。ただうつむいて、目の前の床を見つめる。過去を反芻するように、その目は動か
last updateÚltima actualización : 2026-09-21
Leer más

第62話 始動

 翌日の午後、秘書室で早野は首を傾げた。蒼生から呼び出しが入っている。……奥様の件は全て報告したが……。 2日間のホテル滞在、麻奈の口座へ振り込んだ金額、その後は早野との連絡のみ残して接触をしないこと、全て。「……他に緊急事案はないが、何か起こったのか?」 早野は立ち上がると、メモ代わりの大ぶりの手帳を掴んで出て行った。 社長室へ入ると、デスクの向こうでは蒼生が書類をチェックしていた。早野を見ると、それをデスクの上の小さな書類の山へ戻し、そのまま全部を早野へ押しやった。「人を集めてくれ」 早野は黙って書類の山から一番上を掴み取った。大きく書かれた文字がある。『スピットスキャン開発経緯調査』「……スピットスキャン……?」 早野が呟くと、蒼生はデスクの上で手を組み合わせた。「K&Bダイアグノスティクスの開発した、唾液でがんを発見できる検査薬だ」「あちこちで大きなニュースになってましたね」 早野は書類を戻した。「開発経緯調査とは?」「疑義がある」 蒼生は書類を顎で指した。「徹底的に調査したい。開発経緯、開発者の認定、企業価値への影響分析」「……何を……お考えですか?」「訴訟」 蒼生は口の端を上げた。「大まかな状況はそこにまとめておいた。持ち帰って必要な人間を集めてプロジェクトチームを作ってくれ。ブリーフィングは週に一度、ここでやる」「……優先順位は?」「高度」 蒼生は伸びをする。立ち上がって肩を回すと、デスクにもたれた。「法務、財務、知財、情報分析、部署を飛び越えていいから、優秀な人間を頼む。チームはお前が仕切ってくれ」「かしこまりました」 頭を下げた早野に、蒼生は軽く手を上げた。「それで早野、秘書室長の肩書きだけじゃ法務や財務は動かしにくいだろう。社長室長の辞令を出しておいたから、後は自由にやるといい」「は?」「お前専用の部屋をこのフロアに作れ。社長室の隣を空けておいた」 唖然とする早野に蒼生はにこりとした。「プロジェクトの責任者は俺だ。こ
last updateÚltima actualización : 2026-09-22
Leer más

第63話 山吹色のシューズ

 その日の夜、蒼生が自宅へ戻ると、工藤が迎えた。小包のような箱を抱えている。「おかえりなさいませ」「それは? どうした?」 蒼生が箱を指差すと、工藤は小さな笑みを浮かべて、宝物を差し出すように蒼生に箱を見せた。「以前に奥様が欲しいと言われまして。在庫が切れておりましたが、今日ようやく届きました」 工藤の開けた箱にはランニングシューズが入っていた。薄暗い玄関の灯りに、太陽を切り取ったような鮮やかな山吹色が輝いている。「……ああ……」 蒼生は立ち止まってしばらくそれを見つめていた。「……そう……か」「新しいものはお足に馴染ませるのに時間がかかるとおっしゃっておられました。お届けできたら……それに越したことはございませんから」「……うん」 蒼生が手を伸ばすと、工藤は頭を下げた。「それから……シェフがこれを」 箱の下に隠れていた封筒を見せる。「オレンジドリンクのレシピだそうです。奥様に大変気に入っていただいたから、と」「え?」「ここでお出ししたものと全く同じとは参りませんが、似たような味にはなると申しておりました」 工藤は封筒から、細かく書かれたメモを取り出す。「ここで使ったものと、手に入りやすいもの、両方記してございます。シューズと一緒にお渡しいただければ、と」「……わかった」 蒼生が受け取ると、工藤はほっとしたように笑みを深くした。「お夕食の準備ができております。どうぞ」 寝室に入ると、蒼生はベッドに座って工藤から受け取ったレシピのメモを開いてみた。「微炭酸水……レーンシュプルーデル・メディウム、塩アルペンザルツ、スペイン産キーライム、シチリア産……」……こんなもの、その辺には売っていないだろう。 じっとレシピを見る。「……甘味はアガベシロップがいいが、ハチミツでも可。小さじ0.5から1」……ハチミツか。それならスーパーにありそうだ。他のものも……選ばなければレモンやオレンジ、ライムだってあるだろう。「……麻奈」……ここに書かれているものを届けてやれればいいのに。
last updateÚltima actualización : 2026-09-23
Leer más

第64話 新しい生活

 繁華街から少し離れた真っ暗な住宅街。昼間の暑さを抱えたままの風に、あちこちの庭に植えられた木々が黒々と立ち、枝を揺らしている。 その一角にある小さなアパートの二階に一つ灯りがついた。ドアが閉まり、鍵のかかる音が短く響く。「……早野さん、昇進したんだ……」 玄関を入った麻奈は、抱えて来た荷物を置くと、床に座り込んだ。 部屋には家具がほとんどない。シングルベッドと、簡単なハンガーラック、プラスチックの収納箱と食器棚代わりのカラーボックス。 買って来たペットボトルのお茶を袋から取り出すと、封を開ける。だらしなく口を開けた袋から、値引シールの貼られた弁当がのぞいている。麻奈はお茶を半分ほど飲むと、弁当を取り出した。 今日、早野から電話があった。異動になったこと、今後の連絡は黒沢という女性が引き継ぐこと、神崎の家からの預かり物を黒沢から受け取って欲しいこと、などを伝えられた。「黒沢綾香(くろさわあやか)と申します。以後よろしくお願いします」 銀縁のメガネをキラリと光らせて、黒沢は丁寧にお辞儀をした。「……あ、……神崎……麻奈です。お手数をかけてしまってすみません」 麻奈も慌てて丁寧に頭を下げる。……神崎って名乗っていいのかどうか、もうわからない。 麻奈は取り出した弁当を包むフィルムを破る。スーパーのレンジで入念に温めて来たプラスチックのフタが少し歪んでいる。値引シールの脇からはみ出た元の値段とバーコードは焼け焦げたように真っ黒になっている。……早野さん、もしかしたら左遷されたかと思って心配しちゃった。 麻奈は割り箸をぱきりと割ると、天ぷらをつまみ上げた。 蒸気にあてられたかき揚げは箸の先でぐにゃりと垂れ下がる。「……黒沢さんも仕事できるって感じだったな……」 スーパーの袋の横に置かれたランニングシューズの箱と、レシピの入ったメモをちらりと見ると、麻奈は箸の先に垂れ下がったかき揚げをぱくりと一口噛みちぎった。「……工藤さんも……シェフも……」 箸の先に残るかき揚げを見つめる。「……早野さんも……黒沢さんも……みんなちゃんと自分の場所にいて……」 麻奈はうなだれて唇
last updateÚltima actualización : 2026-09-24
Leer más

第65話 思い

……わざわざ届けてくれたんだ。私が欲しかったシューズ。ドリンクのレシピも。 角を曲がると、少し向こうに信号が見えた。……沙雪さんに会ったのかな。……あの優しい目であの人を見たのかな。 緩い坂道を駆け下る。……抱きしめたのかな。私にしてたのと同じに、あんなふうに。包み込むみたいに、ぎゅっと。 あの日を思い出す。最後に蒼生と過ごした夜。倒れた翌日、袖を掴んだ自分を抱き寄せて、朝までそのまま抱きしめていてくれた。時々そっと私の髪を撫でながら。——蒼生、大好き。……なんてバカだったんだろう。何にも知らないで。簡単に騙されて。 信号が青になった。汚れてくすんだ横断歩道を走り抜ける。……私のことなんか初めから見てなかった。 いきなり威力を増した太陽が照りつけた。眩しくて、かぶっていたキャップのつばを少しずらす。……ほんとに? ……ほんとに? 住宅街を駆け抜ける。……蒼生、ほんとに私のこと、全然見てなかったの? 私、本当にただの身代わりでしかなかったの? あんなに優しかったのに。 広い大通りへ出た。そろそろ出勤時間を迎える道路は、車が列を作り始めている。「……え?」 麻奈は立ち止まった。左右を見渡す。「……違う。これ、コースじゃない」 慌ててスマートフォンをポケットから取り出し、地図を開いて確かめる。「……どこで……間違っちゃったかな……」 覗き込んだとき、黒塗りの大きな車が脇を通り過ぎた。「……あ……」 目を上げると、車は緑色のナンバープレートを見せて走り去って行く。「……違……う」 スマートフォンを握りしめ、麻奈はその車を目で追う。大きな、黒塗りの。ぴかぴかで、白い手袋の運転手がいて。見送りに出ると、早野さんは笑顔で頭を下げて。蒼生は優しい顔で手を振ってくれた。「……本当……に……?」 スーツを着た人が急ぎ顔で駅に向かう。辺りを朝のざわめきが包み始めた。麻奈はぽつんと立ち止まり、黒いアスファルトを見つめる。「……本当に……あんなやり方しかなかったの……?」……いきなりジムに入って。初めてみたいな
last updateÚltima actualización : 2026-09-25
Leer más

第66話 願い

 マッチ箱のような、同じ顔をした建物の並ぶ住宅街。その向こうに午前中の陽を受けて鮮やかに揺れる樹々を乗せた小さな山が見える。汗ばむ体を撫でる風にはほんの少し、秋の気配が感じられる。微かな潮の香りが鼻をくすぐる。 同じようでいて、よく見ると少しずつ違う住宅の一つ。蒼生は足を止めた。横にあるガレージの古びたシャッターが半分開かれ、大人用と子供用の自転車が見える。本来なら車の入るスペースには、棚や段ボールなどがきちんと並べられている。 蒼生は目の前の小さな階段を見上げた。誘うように玄関へと伸びるその先に、よくある形の小さな家とブラウンのドアが見える。階段と道路を隔てる門扉のチャイムを鳴らすと、すぐに玄関のドアが開いた。「蒼生、いらっしゃい、どうぞ」 沙雪が笑いかける。「仕事休ませちゃってごめん」 蒼生は門扉を開けると階段を昇る。乾いたコンクリートがザク、と音を立てた。「いいのよ。ゆっくり話すんなら、あの子が学校へ行ってる間しかないもの」 沙雪は蒼生を待ってから、家の奥へ入った。「まだ暑いわね。麦茶でも飲む?」「いいよ、気にしないで」 狭い玄関で蒼生は靴を脱ぐ。少し汚れたサッカーボールと新しいチームバッグが置いてある。「どうぞ」 麦茶を乗せた盆を持った沙雪に案内され、手前の和室へ入ると、小さな仏壇が置いてあった。蒼生はまずその前に座って手を合わせる。 少し長く手を合わせた後、蒼生は沙雪に向き直った。仏壇に背を向けないよう、座卓の端に移動して胡座をかく。「沙雪、頼みがあって来たんだ」 蒼生は持って来た黒革の洒落たブリーフケースからファイルを取り出した。それを沙雪の前に置く。沙雪はそれを手に取った。黙ってファイルを開く。 少し厚いそのファイルの1ページ目には『概要』とあった。次に『目次』が続く。沙雪は概要に目を通した。口元に寂しげな笑みが浮かぶ。「ありがとう、蒼生。怒ってくれたのね」 それだけ言って、沙雪はファイルを閉じ、麦茶に手を伸ばした。「でもね、私、もうこのことは考えないことにしたの」「沙雪、もう少し読んでみてくれ」 蒼生は閉じられたファイルをもう一
last updateÚltima actualización : 2026-09-26
Leer más

第67話 決意

 東の空にあった太陽が真上に昇った。沙雪は、蒼生が一つ一つ丹念に説明したファイルの最後のページを指でなぞった。「……だいたいのことは……わかった」 涙がいくつも転がり落ちる。「ありがとう。こんなにきちんと調べてくれて」 そのまま顔を覆うと、沙雪はテーブルに突っ伏した。「……こんなに……」 蒼生は黙って沙雪を見ていた。和室に沙雪のすすり泣く声だけが響く。急に蝉の鳴き声が大きくなった。沙雪はしばらくそのままでいたが、やがて体を起こして間宮の写真に笑いかけた。「あなたのしたこと、蒼生がこんなにきちんと調べてくれたのよ。あなたの軌跡がここにあるのよ。本当に……本当にすごい人ね、あなた」 テーブルの上に涙が落ちて水滴を作った。「……笑っていて……欲しいんだ」 蒼生は間宮の写真に目をやる。「これがうまくいけば、間宮はきっと笑ってお前たちの傍にいられる。これからもずっとお前たちを支えてやれる。そうだろ? あいつが何よりも大事だったのはきっとお前たちなんだから」 沙雪はうなだれた。細い肩が震え、荒れた白い手を握りしめる。涙が頬から滴り落ちた。「……あの人は……ね。最後の時に……笑ったのよ。お前なら心配ないなって。安心かなって」 肩の震えが大きくなった。「……だから……私は任せてって言ったの。頑張るから心配しないでって。あの人は……うなずいたの。少し……悲しそうだった。本当は、私たちを残して逝くことがとても心残りだったのよ。……心配してた」 蒼生は黙ってポケットからハンカチを出した。それを沙雪に差し出す。 沙雪はハンカチを受け取ると、涙を拭いて顔を上げた。「……安心してくれるわよね。あの人が笑ってくれるなら……ここで一緒に笑っていられるなら……私……」 沙雪は唇を噛んだ。きっと蒼生に視線を向ける。そして静かにうなずいた。「私、戦うわ。蒼生、手伝ってくれる?」「うん」 蒼生もうなずく。沙雪を見、間宮の写真に目をやるともう一度うなずく。それから再び沙雪に視線を戻した。「支えるよ、必ず。いつでも頼ってくれ」「……勝つわよ」 沙雪は笑った。
last updateÚltima actualización : 2026-09-26
Leer más

第68話 二つの世界

 ある日の夕方、麻奈がBGM代わりにつけていたテレビから、小さなニュースが流れた。事件や政治、国際ニュースの後にほんの少し流れた小さな報せ。「唾液によるがん検査薬『スピットスキャン』の開発を巡り、元研究員の遺族が開発元のK&Bダイアグノスティクスを提訴しました」 麻奈は焼いた鶏の胸肉をぱくりと頬張った。小さなテーブルには、適当に作った料理がいくつか並ぶ。調理法が大切なのではない。栄養素が大切なのだ。「……週5日。9時から6時まで。大丈夫、生活できそう」 採用の通知を前に、時給を計算する。勤務時間が決まっていて、日曜日が休みの仕事。大きなマラソン大会は、たいてい日曜日に開催されるから。幾つか探して、今日、採用通知が一つ届いた。「……初めはパートだけど、頑張れば正社員にもなれるって。オーケー、やるわ」 大ぶりの茶碗に入った白飯を片手に持ち、野菜の煮物を引き寄せる。 食べながら明日のロードワークコースを組み立てる。もうこの辺りの街並みはすっかり頭に入った。そして今日、マラソン大会の抽選に申し込んだ。「あのシューズで4時間を切る。頑張る」 麻奈は自分にうなずいた。「頑張れ、私」 テレビのニュースはスポーツコーナーに移っていた。 麻奈が食事をしながらニュースを見た数日前。蒼生の社長室には『SS案件』のメンバーが集まっていた。「提訴と同時にメディアを使います」 情報分析メンバーが言う。「広く話題を集めれば、世論の後押しを得られます。裁判には有利かと」「いや、やめよう」 蒼生はメンバーを見渡した。「話題が大きくなりすぎると制御を失う。中には原告に対して理不尽なやっかみや嫌がらせをする人間も出るんじゃないか?」 資料を持ったまま、自分をまっすぐに見るメンバーに蒼生は微笑んだ。「報道は小さくていい。世間にはたいしたニュースじゃなくても投資家には大ニュースだ。投資先が提訴されたなんて知ったら慌てて動く」 蒼生は首を巡らせた。「財務」 財務のメンバーが視線を蒼生に向ける。「提訴後から株価の動向をよく見てくれ。下がったら市場の適正価格で買
last updateÚltima actualización : 2026-09-27
Leer más

第69話 蒼生の夜

 すっかり静まり返った夜の高級住宅街に黒塗りの車が停まった。洒落た外観の大きな住宅の前で、運転手が車を降りると後部座席のドアを開ける。「ありがとう、おやすみ」 蒼生が車を降りると、運転手は深々と頭を下げてから車に乗り込んだ。 門の前で立ったままそれを見送ると、蒼生は玄関をくぐった。左腕に巻き付いたヴァシュロンをちらりと見る。11時。 家の中には誰もいない。玄関の照明が薄く点けられ、ダイニングルームの照明が仄かな白熱灯の光を落としているだけ。「……ただいま」 誰もいないことはわかっているが、なんとなく声を落とす。この家は、夜の9時を過ぎると使用人たちはみんな自宅へ引き上げてしまう。帰らないと蒼生がうるさいからだ。 ダイニングテーブルの上には、その日の夕食が置かれていた。蒼生が重役会議で食べるような、弁当の形をしている。 蓋を開けると、黒ゴマのかかった白飯と山葵を添えた和牛の霜降り、野菜の揚げ浸し、ほうれん草の白和えやカットしたフルーツなどが現れた。 蒼生はテーブルにつくと、箸を取って牛肉をつまみ上げた。「……タンパク質だな」 くすっと笑う。山葵を乗せ、醤油に少し浸す。山葵に醤油が触れないように。山葵の旨さが飛んでしまうから。 口に入れると、山葵の清冽な風味が鼻に抜けた。喉を潤そうと、置いてあったグラスに水を注ぐ。 カタン。 外した弁当の蓋がダイニングテーブルにぶつかって音を立てた。広いダイニングルームに残響音が響く。どこか遠くで犬の吠える声が聞こえた。「……誰か帰って来たのかな」 水を一口飲むと、窓の向こうを見る。窓に引かれたカーテンの向こうは、ただ真っ暗な影が感じられるだけだ。——蒼生。 当たり前だったはずの静けさが妙に重い。……この家に麻奈がいたのはどのくらいの間だったか。それほど長くはなかったはずだ。「……時間……じゃないよな」 蒼生は食べ終わった弁当に蓋をすると、グラスや箸と一緒にキッチンへ運んだ。ダスターを洗い、しっかりと絞るとダイニングルームへ戻ってテーブルを拭く。「……ごちそうさま」 またなんとなく言葉を落とすと、ダスターをキッチン
last updateÚltima actualización : 2026-09-28
Leer más

第70話 新しい仕事

 麻奈のロードワークコースから少し外れた住宅街。小さな二階建ての事務所があった。社員数は7名。ちょっとした住宅リフォームや、プレハブ建設などを請け負っている。 鉄骨の剥き出した外階段を登ると、剥き出しのアルミに曇りガラスを嵌め込んだドアがある。屋根も壁もトタンのような鋼板で作られ、雑にベージュのペンキが塗られている。「夏は暑くて冬は寒そう……」 初出勤の日、麻奈は建物の前に立ち、屋根を見上げながら呟いた。肩にかけたカバンを持ち直し、とんとん、と階段を駆け上がる。「おはようございまーす」 アルミのドアを開け、中へ入るとスリッパに足を入れてパタパタと事務所へ向かう。「おはよう、神崎さん。今日からよろしくね」 社長が笑顔を見せた。事務所にいた数人の社員たちを見て、麻奈を手で示す。「今日からパートで来てもらう神崎麻奈さん。いろいろ教えてあげて」 麻奈はぺこりと頭を下げた。「神崎麻奈です。どうかよろしくお願いします」「こちらこそよろしく」 40代くらいの、人の良さそうなメガネの男性がにこりとした。「僕は営業の富田。見積書や契約書なんかをよろしく」「はい!」 麻奈はにこにこと返事をする。「僕も営業の宮原。よろしくね」 20代くらいの青年がにこやかに頭を下げる。社長はその向こうにいる50代くらいの女性を指差した。「経理の進藤さん。神崎さん、まずは進藤さんにいろいろ教えてもらって」「進藤です。よろしくね」 進藤は楽しげに笑った。「いいわねえ。ぱっと花が咲いたみたい。宮原くん、会社に来るの、楽しみになったんじゃない?」 少し顔を赤らめた宮原を見て、社長が首を振った。「あのね、神崎さんはもう既婚者なの。おかしなことを言わないの」 麻奈はおずおずと左手の指輪を隠した。「……あ……はい……。あの……」 慌ててもう一度頭を下げる。「どうかよろしくお願いします!」「あなた、覚えが早いわねえ……」 その日一日進藤の机の横に椅子を並べて、麻奈は仕事の手順を覚えた。仕事自体はそれほど複雑なものでもな
last updateÚltima actualización : 2026-09-29
Leer más
ANTERIOR
1
...
56789
...
12
ESCANEA EL CÓDIGO PARA LEER EN LA APP
DMCA.com Protection Status