ホーム / 恋愛 / 偽りの幻影 / チャプター 41 - チャプター 50

偽りの幻影 のすべてのチャプター: チャプター 41 - チャプター 50

60 チャプター

第41話 優しい手

 目を覚ますと、ベッドの脇に蒼生が座っていた。麻奈は、慌てて体を起こそうと寝返りを打つ。「起きちゃだめだよ」 蒼生はそっと麻奈の肩を押さえた。いつのまにか麻奈の体には軽いブランケットがかけられている。「あ……」 体に何か違和感がある。手をやると、薄いタオルに包まれた小さな保冷剤が脇と首に当てられていた。頭の下には氷枕がある。「寒くはない?」 蒼生がそっと麻奈の額に手を置く。確かめるように少しうなずくと、リモコンを取り上げて空調を細かく調節する。「さっきまで少し発熱してた」「……うん……」「暑かったら外せばいいから。今は少しかけておくよ」 薄いブランケットで麻奈の肩を包む。麻奈と目が合うとにこっと笑った。「……あの……私……」 麻奈は自分を覗き込む蒼生を見上げた。「……蒼生……仕事は……?」「工藤から連絡があってね」 蒼生は優しい顔を見せる。「夕方からの予定は明日以降に振り替えた」 ベッドの傍らに置いた椅子に腰をかけると、蒼生は麻奈に小さく首を振ってみせた。「今日は暑かったからね。随分歩いたみたいだけど。……無茶したな」 それから安心させるように笑いかけると、サイドテーブルにある経口補水液を手に取った。「一口だけ、飲める?」「……あ、うん……」 麻奈が起きあがろうとすると、蒼生がその肩を抱いて抱き起こした。そっと抱きかかえて自分にもたれさせる。「一口、飲めばいいよ」 口元に差し出された経口補水液を、麻奈は口へ含む。こくんと飲み下すと、それを見ていた蒼生は、うなずいて麻奈をそっと寝かせた。「よかった。飲めたね。吐き気はない?」「……うん」「じゃあ、後でまた飲もう。一度にたくさん飲まなくていいからね」 蒼生は手にした経口補水液をサイドテーブルへ戻す。「……蒼生……」 部屋には柔らかな照明が落ちていた。窓にはカーテンが引かれ、その向こうに夜の気配がある。「……今……何時……?」「11時かな」 蒼生は左手のヴァシュロンを見た。それは柔らかな照明を
last update最終更新日 : 2026-09-04
続きを読む

第42話 ぬくもり

「熱いからね、気をつけて」 湯気の立つ小鍋の蓋を開けると、飴色の餡がとろりとかかる粥が現れた。真ん中には白い鶏そぼろがこんもりと盛られている。蒼生が小皿に取り分けると、ふっと生姜の香りがした。「……ありが……とう」 伸ばした麻奈の手が震えているのを見て、蒼生は首を傾げる。「持てる?」「……うん」 麻奈はうなずいたが、蒼生はベッドの脇に座ると、麻奈の体を抱き起こした。「俺にもたれて。こぼすといけないから」 そっと麻奈を包み込む。れんげを手にすると、少し笑って麻奈を覗き込んだ。「口を開けて」「……蒼生……」 麻奈は蒼生の胸に顔を埋めた。「……どう……して……?」「……何が?」 れんげを持ったまま、蒼生は麻奈を見下ろした。「……どうして……そんなに……優しい……の……?」 麻奈の眉が切なげに寄せられ、唇はきゅっと噛みしめられる。「……どうして?」 蒼生は片手を麻奈の頭にぽんと乗せ、かがみ込んだ。「……弱っちゃったね、麻奈」 蒼生の目が柔らかな光を帯びる。「大丈夫、すぐ元気になるよ。不安にならなくていい」 肩を震わせる麻奈にそっとれんげを差し出す。「まだ食べない? もう少し後にしようか」「食べる」 麻奈は口を開けた。そうっと口の中に入れられた温かい粥は、鰹だしの深い香りと少し甘辛い餡の味がした。「……美味しい」「それならよかった」 蒼生は笑う。麻奈は蒼生を見上げた。「蒼生が作ったの?」「うん。このくらいなら作れる」 また開いた麻奈の口に、蒼生は粥を運ぶ。「少し噛んだ方がいい。すぐに飲み込まないで」「美味しい」 麻奈は口を開けた。「すごく。美味しい」「しっかり噛んで食べること」 くすりと笑った蒼生が、掬っては麻奈の口へ運ぶうちに、小鍋は空になった。「じゃあ、少し寝ようか」 蒼生が麻奈を寝かせようとしたとき、麻奈が腕を掴んだ。「おかわり」「……おか……わり……?」
last update最終更新日 : 2026-09-05
続きを読む

第43話 食べなきゃ

 昼食の並んだダイニングテーブルの前で、麻奈はうなだれていた。目の前にはシェフの心尽くしの回復食が並んでいる。鯛のだし茶漬け、山葵を添えた鶏胸肉の蒸し物、夏野菜の炊き合わせ、シャインマスカット。「水分をしっかりお取りにならないと」 料理を運んで来た工藤は、よく冷えた麦茶のポットを脇に置いた。「ゆっくりお食べになって、午後もまた少しお休みになってください。ご無理なさいませんように」 工藤が下がり、一人部屋に残ると、麻奈は料理に手を伸ばした。「美味しい。野菜も、お茶漬けも、このお肉も」 はふはふと野菜を頬張り、お茶漬けを少し流し込み、鶏肉を齧る。が、麻奈の手はそこで止まった。「……だめ。元気なんか出ない。いつもなら……美味しいものを食べたら、それで一旦リセットできるのに」 箸を置いたまま、麻奈はうなだれる。……あの日、蒼生があのジムへ来たのは、私に出会うため。 出汁を吸って膨らんだ茶漬けの白飯を見つめる。……他に考えられない。目的は私だった。私を……手に入れるため。 腰から背筋に冷たいものが走った。それを振り払うように麻奈はぐっと背筋を伸ばす。……目的通りに私を手に入れて……結婚して、ここへ住まわせて……。——寒くはない? 蒼生の声が聞こえる。——お粥にしようか。熱いから気をつけて。「……どうして?」 テーブルに乗せた拳を握りしめる。「私は蒼生が欲しがるものなんて何も持ってなかった。ただの会社員で、スポンサーもないアマチュアランナーで、……それだけ」 拳を握りしめたまま首を振る。「結婚式のときだって、レセプションのときだって、みんな笑ってた。どうして何にも持ってないあんな人と、って。蒼生だってそれはよくわかってたはず」 どうして? それ以上の答えはなかった。「……私でなきゃいけなかった理由が……あるの?」 唇が震えた。それを噛みしめる。拳が震える。それをしっかり握りしめる。 麻奈は、目の前のテーブルをきっと見据えた。「……蒼生は嘘をついてた。最初から出会いを仕組んでた。それから、身体の問題だとごまかして私を避
last update最終更新日 : 2026-09-05
続きを読む

第44話 訪問

数日後。そろそろ周りの住宅も灯りの消え始めた夜遅くに、早野のマンションのチャイムが鳴った。 適当な夕食を済ませ、ソファに寝転がって音楽を聴いていた早野は、だるそうに起き上がる。 「……そろそろ風呂に入ろうと思ってたんだがな」 訪問者のあてがつかず、訝しみながら早野はオートロックの画面を覗き込んだ。 画面の向こうに麻奈がいる。 「……奥様?」 ……何があった? 「早野さん、少しお話があるの」 麻奈は、片手に下げたケーキの箱を持ち上げる。 「夜分にごめんなさい。少し、お時間取れる?」 ……喧嘩でもしたのか? 早野は解錠のボタンを押した。 「どうぞ。部屋は開いてますからそのまま入ってください」 麻奈は、早野にうながされて、きれいに片付けられたリビングのソファへ座るとケーキの箱を差し出した。 「急にごめんなさい。甘いものが好きかどうかわからなかったけど……お茶菓子に、と思って」 「好きですよ」 早野はにこりと笑って、その箱を受け取ると、キッチンに立った。箱にはカットケーキが6つ入っている。 ……これを……全部? 俺に……? しばらくケーキを見つめてから、早野は麻奈に視線を送ってケーキの箱を指差した。 「今コーヒーを淹れます。ケーキ、一つ召し上がりますか?」 「うん、ありがとう」 早野がコーヒーと適当に選んだイチゴショートケーキをテーブルに置くと、麻奈はうなだれた。 「……あの……急にごめんなさい。こんなこと……早野さんにしか聞けないと思って……」 「……どうしました?」 早野はコーヒーカップを取る。カップを少し揺らして、褐色の液体から昇る香りを楽しむ。 ……コーヒー豆を買い足しておいてよかったな。まあ、俺のはそれほど高い豆じゃないが……。
last update最終更新日 : 2026-09-06
続きを読む

第45話 あの日

「はい?」 早野はカップを置いた。肩が震える。「ありませんよ。社長は誠実な方です。奥様に隠れて遊びをなさるようなお人ではありません」 込み上げる笑いを早野は抑えられなかった。……あの社長が? あり得ない。 唇を引き結んだまま表情を変えない麻奈を見て、早野は少し体を乗り出す。「どうしました? 社長、今日はまだお戻りじゃないんですか?」 麻奈は首を振った。「わからない。多分……帰ってると思うわ」「……はい?」 早野は笑いを噛み殺した。もう少し体を乗り出す。「どうしました? 奥様がここへいらしていること、社長はご存知なんですか?」 麻奈はもう一度首を振る。「私、前の会社の同僚と食事に行くって出て来たから」……何があった? 夫婦喧嘩じゃないのか? 早野は膝上で手を組み合わせた。「奥様、何かご不安でも?」 麻奈はうつむいた。早野は黙って麻奈が話し出すのを待つ。やがて麻奈は顔を上げた。「……あのね、あの……蒼生は……いつから私を知っていたの……?」「え?」 麻奈は早野を見上げた。目が潤み、唇をきゅっと噛む。「……私……ジムで初めて蒼生に会ったの。あの駅前のビルの一階に入ってるところ」「……はあ……」 早野は首を傾げた。……社長がジム通いをしているなんて聞いてないが。 麻奈はテーブルを見つめて話し続ける。「でも、蒼生は違ったみたい。私に会いに来たんだわ、あのジムへ」「は?」 不可解な顔をする早野に、麻奈は早口で話し始めた。「私がジムにいたら蒼生が話しかけて来たの。マシンの使い方を教えてって。初めてだからって。教えてあげたら、お礼にお茶をいかがですかって。それで……お茶して……」 早野は聞いていた。カップを持つ手に力が入る。……なんだって? 麻奈は止まらなくなったように話し続けた。「……蒼生は紳士だったのよ。その日はタクシーを呼んでくれて、そのまま帰ったの。ただ連絡先を交換しただけで。それから、また蒼生から連絡が来て、食事しませんかって。私、OKして…
last update最終更新日 : 2026-09-07
続きを読む

第46話 答え

「……奥様」 早野は膝の上で組み合わせた手をしばらく見つめていたが、一つ吐息を漏らすと、目を上げた。「社長のことをお話ししましょう。奥様とのことではなく、どんな方なのかを」「蒼生の……こと?」 麻奈の目が早野の視線と絡んだ。「俺は、社長が神崎テクノロジーズに就任されてからの秘書です。それからずっと社長を見て来ました」 早野の目は麻奈から外れて、夜空を切り取る窓へ向けられる。コーヒーカップを両手で包むと、静かに話し始めた。「大学を出られて、半年ほど取締役をお務めになって、それから、です」 麻奈を見て笑みを浮かべる。「何事にも一途な方で、どんなに障壁があっても、困難であっても、諦めようとなさいません」 麻奈は首を傾げた。「……それで?」「諦めることを知らず、コツコツと努力を重ねて、必ず目的を達成なさいます。そういう方です」 麻奈は黙っていた。早野は続ける。「その一方で、ご友人などはほとんどお作りにならず、また、恋人もお作りになったことはありません」 麻奈は目を見開いて首を傾げた。「……恋人……いなかったの? 一人も?」「正式には」 早野はうなずいた。「お父上の会長からは結婚をせっつかれておいででしたが、頑なにお断りになるばかりで」「……そういえば……私……蒼生のお父さんに会ったのは結婚式の時だけ……」 少し寂しそうにうつむいた麻奈に、早野は笑ってコーヒーカップを取った。「お気になさらず。社長もそうですよ」「……え?」 顔を上げた麻奈に、早野はうなずいた。「社長はお父上から会社を譲られたのですが……それだけなんです。俺も社長がお父上にお会いになるのを見たことはありません」「……仲悪いの……?」「いろいろおありになるのでしょう」 早野は微笑んだ。「会長も、社長の結婚については、跡取りを作れ、結婚が嫌なら子供だけでも、とおっしゃっていたそうですし」 麻奈はごくりと唾を飲み込んだ。「……もしかして……私……子供を産むために……選ばれた? ……健康だから……?」
last update最終更新日 : 2026-09-08
続きを読む

第47話 報告

 翌日、朝8時に早野は黒塗りの高級車の後部座席に座ったまま、蒼生を迎えた。「おはようございます」「……ああ」 蒼生が乗り込むと、早野はその日のスケジュールと優先事項をいつものように読み上げる。ただ、予定は10時からとなっていた。「10時?」 蒼生は早野の顔を見る。「……その前に何か予定でも?」「はい。1時間ほどブリーフィングを予定しております」 蒼生にうなずいてから、早野は運転手に声をかけた。「渋滞は解消したようだから、速めのルートを選んでください」「はい、かしこまりました」 黒塗りの車は、速度を上げて車列へ滑り込んだ。 秘書室へ入ると、早野は部下たちに10時までは誰も社長室へ入れないように指示をし、コーヒーを淹れると立ち上がった。「電話も取り次ぎはしないでくれ。頼んだぞ」 そう言い残すと、社長室のドアをノックした。 蒼生は社長室に立っていた。はめ殺しのガラス窓から階下を見下ろす。 昨夜、麻奈は遅くに帰って来た。友人たちとの会食だから、酒でも飲んで来るのだろうと思っていたが、そんな気配はなかった。ただ、少し憔悴した様子で、ベッドに入ると、自分のシャツの袖を掴んで胸に顔を埋めたまま、じっと動かなかった。「……倒れてから何日も経つのに。まだ……回復していないんだろうか」 時々震える麻奈の体を抱き寄せ、一晩抱きしめていた。 眠れない様子だったのが気にかかる。……麻奈。「……何か……あったのか……?」 蒼生は両方の手のひらを目の前に広げる。昨夜麻奈を抱きしめていた手。あの体の震えをまだ覚えている。 ノックの音が聞こえ、早野がコーヒーを持って入って来ると、蒼生はデスクへ戻った。「ブリーフィングは、お前と二人?」 何か問いたげに片方の眉を上げた蒼生に早野は頭を下げた。片手に鞄を抱えている。「はい、至急お伝えしなければならないことがありまして」 蒼生のデスクにコーヒーを置くと、早野は鞄からファイルを取り出した。そこから写真を引っ張り出すと、蒼生のデスクに置く。 蒼生は動かなかった。ただ、目
last update最終更新日 : 2026-09-09
続きを読む

第48話 学生時代

——愛情は深い方です。きっと。 麻奈はルームランナーの上を走っていた。サンルームには夏の陽が降り注ぎ、室温は空調で快適に保たれている。 昨日は、一晩中蒼生に縋りついていた。この数日、散々迷った末に、とうとう早野を訪ねた。結果、聞かされたのは蒼生は一途で不器用だということ。 ……知ってる。きっと、それは間違いない。 走りながら呼吸を整える。 ……だけど、どうして私をターゲットにして出会いを仕組んだのか、という答えにはならない。 ここ数日、蒼生はずっと麻奈を気遣っていた。夜はただ麻奈を抱きしめ、優しくその髪を撫でるだけで。 麻奈がただぬくもり欲しさに蒼生を求めた時も、無理をさせないようにそっと包み込み、壊れ物を扱うように溶けるほど優しいキスをして、静かに抱いた。 蒼生の体温に包まれたとき、このまま眠ってしまいたいと思った。何も感じないまま、優しさに埋もれて、考えないことにして。忘れてしまえたら、と。 「……でも……できない」 ルームランナーの速度を上げる。ピッ、ピッ、と電子音が響き、モーターとベルトの回る音が少し大きくなる。 規則正しい足音が響く。はっ、はっ、とリズミカルな呼吸がそれに重なる。 ……できない。信じたいから。嫌いになりたくないから。このままうやむやにして、なかったことなんかにできない。蒼生のこと、もう一度、心から大好きって言いたい。 速度を緩め、クールダウンに入ったとき、工藤が顔を覗かせた。 「奥様、今夜の夕食のメニューをご確認くださいませ」 「あ、ちょっと待って、いま降りるから」 ルームランナーのスイッチを切ると、麻奈は工藤の渡すメモに目を落とす。 「……うん、ありがとう。バッチリよ」 「かしこまりました」 サンルームを出ようとする工藤の背中を見たとき、昨夜の早野の言葉を思い出した。 ——何かあるとするなら、学生時代でしょうね。
last update最終更新日 : 2026-09-10
続きを読む

第49話 夜の底で

拾い上げてみると、細かなリストだった。企業名があいうえお順、アルファベット順に並び、年月日が書き込まれている。工藤が覗き込んだ。 「ああ、それは旦那様の同期の方々が起業なさった会社です。開業祝いや周年祝いをお送りするために作ったものです」 麻奈はリストを見つめた。青木エッジ、上田フロンティア、木村ネクサス。ところどころ打ち消し線が引かれた名前もある。廃業したのだろう。 「……そう」 ふと、アルファベットに目が止まる。 ——Bar NAKATA。 「バー……なかた……?」 「ああ、それも旦那様の同期の方です」 工藤はにこにことうなずいた。 「珍しい方で、早々に会社を退職なさってバーを開かれたんです。今年も周年のお祝いの花をお送りしましたよ」 「……そうなの……」 麻奈は手の中のリストを見つめる。一般の企業に自分が行っても、なかなか話はできないだろう。 だが、酒場なら。突然訪ねていっても問題はない。 「ありがとう。工藤さん、後は私が片付けるわ。お手間をかけちゃったわね」 「どういたしまして。そろそろお昼ですから、お片付けになったらダイニングへいらしてください」 工藤が出て行くと、麻奈は急いでバーの住所をメモに書き留めた。 日が暮れた。歓楽街の喧騒が響く。ネオンと車のヘッドライト、路傍の店が道路に落とす光が交錯する。雑居ビルの立ち並ぶ飲み屋街を、サラリーマンたちが楽しげに歩く。 「友だちと映画を見て来るから。夕飯はいらないし、帰りも遅くなるかも」 そう言って、麻奈は神崎の家を後にした。今は、昼に書き留めたメモを見ながら、歓楽街を歩いている。 虚飾と欲望と。その場限りの愉悦と嘘。だが、そこに安らぎを求める人も後を絶たない。夜に開く街。 こういう街にほとんど縁のなかった麻奈は、まっすぐ歩くこともできない。すれ違う酔客、ホストクラブの客引き、互いに
last update最終更新日 : 2026-09-11
続きを読む

第50話 NAKATA

「え……?」 入り口で立ち尽くした麻奈を、マスターは首を突き出してまじまじと見つめた。「……あ、申し訳ないです。人違いでした」 少し頭をかくと、すぐにカウンターの前で手を広げる。「いらっしゃいませ、どうぞ」 カウンターのハイチェアに座り、マスターの渡すおしぼりを受け取る。「何を飲まれます?」「……あ、あの、一杯だけ。水割りを」 マスターはすぐにグラスを取り出し、人懐っこい笑顔を向けた。「ウイスキー? 山崎でいいですか?」「……はい」 手際よく作られた水割りが目の前に置かれ、麻奈はそれに手を伸ばす。「お一人? それとも待ち合わせですか?」「いえ、あの、私、神崎麻奈と言います。神崎蒼生の妻です。あなたは……中田さんですか?」 マスター——中田——は、はたと麻奈に目を合わせた。「……あ、そうか、蒼生の」 笑顔が浮かぶ。「はい、俺が中田ですよ。旦那さんには周年のたびにお気遣い頂いて。お礼を言ってたと伝えてください」 そう言うと、少し姿勢を崩してカウンターにもたれた。「そうか。蒼生、結婚したんだなあ。あいつ、女の子たちが群がってるのに見向きもしなくて。麻奈さん、あなたが射止めたんですね」「……あの、中田さんは学生時代、蒼生と仲がよかったんですか?」 麻奈はグラスをカウンターに置いた。「俺?」 中田はおどけた表情を作る。「いえ、あいつは友だちなんてほとんどいませんでしたよ。友だちも、彼女も、なし」 言いながら笑みをこぼす。「まあ、経営学科の中では俺は仲がいい方だったかな。っていうか、俺があんまり物怖じしないタチだから」「……え?」「蒼生は近寄り難い感じで。だって御曹司で成績優秀、しかも生真面目で、いつも難しい顔をしてる」「……蒼生が?」 麻奈は首を傾げた。そんな人かしら……?「そう。ま、俺たちにも少しコンプレックスはありましたけどね」 中田は笑った。「でも話してみると、そんなに悪い奴じゃない。むしろいい奴。奥さんはよく知ってると思うけど」
last update最終更新日 : 2026-09-12
続きを読む
前へ
123456
コードをスキャンしてアプリで読む
DMCA.com Protection Status