All Chapters of 嫌いだった女が死んだ夜、元夫の愛が怖くなった ――もう一度、あなたを愛せるまで――: Chapter 71 - Chapter 80

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第71話 小指だけ

 景都は自動販売機の前で足を止めず、また横へ並んだ。「喉、渇いてたんじゃないの?」「電車に乗ってからでいい。ここで止まると、また人に挟まれる」 水より、今の歩幅を選んだように見えた。確かめず、前を向く。改札の手前で、互いの路線が分かれる。景都が傘を鞄へしまうため立ち止まり、そこで初めて腕が離れた。濡れた袖に空調の風が当たる。「袖、冷たくなってないか」「少し。でも、上着を貸すほどじゃないからね」 景都は自分の上着を脱がなかった。私も借りたいとは言わない。 景都は路線案内を見上げた。「電車、あと四分」「見たんだ」 濡れた傘の留め具を指で直しながら、彼は言った。「今は見ていいだろ」「別に、止めてないけど」 いつものやり取りへ戻ると、肩の力が抜けた。それぞれの改札へ向かう。振り返る理由がなく、私は交通系カードをかざした。反対側の列へ入る景都の姿が、柱の向こうへ消える。ホームへ下りると、雨で濡れた人の匂いがした。向かいの線路から冷たい風が上がってくる。袖はまだ湿っている。さっきまで隣にあった腕のぬくもりが消え、そこから冷えていった。 電車へ乗り、空いた端の席へ座る。ハンカチでコートの水分を押さえると、景都に触れていた側だけ皺がついていた。トーク画面を開いても、新しいメッセージはない。さっきまで隣にいたのだから、送る用事もなかった。『さっき、遠回りしてくれてありがとう』と打ちかける。腕が触れていた時間まで礼に含めるようで、結局すべて消した。窓へ映る自分の腕は、もう誰にも触れていなかった。 次に会った夜、雨は降っていなかった。駅前の店で夕食を済ませ、改札まで歩く。道は乾いているのに、景都は前回より少し近くを歩いている。肩が触れない幅は、きちんと残していた。会計は私が自分の分を払い、景都も何も言わなかった。店を出たあと、彼は最短の大通りではなく、街路樹のある道を選ぶ。遠回りだと指摘しようとしてやめた。私も駅へ急いでいなかった。「映画、また行く?」「今度は俺が選んでいいか」 景都は、もう候補を決めている顔だった。「レビュー見ないなら」「上映時間は見る」「
last updateLast Updated : 2026-09-03
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第72話 触れたまま、言わない

「このままだと歩きにくい?」 「平気。急がなくていい」 「じゃあ、それで」  景都は前を向いたままだった。駅が近づくほど、歩く速度だけが徐々に落ちる。私の指も、景都の小指も冷たい。夫婦だった頃なら、こんな触れ方はしなかった。手をつなぐか、腕を組むか。もっと先まで知っているのに、今は小指一本だけが近い。景都の手が動くたび、握られるのか、離されるのか分からなくて、そのたびに指先へ力が入った。  駅前の段差で、私の指が一度外れかける。景都は握らず、小指だけを僅かに曲げた。ほんの少し触れているだけなのに、その指をほどくことは、腕を振りほどくより難しかった。私は自分から掛け直す。駅の入口で人が増え、景都が一度こちらを見る。私は離さなかった。彼も何も聞かず、私の小指が外れない速度まで歩幅を合わせた。  構内に入ると、外より少し暖かかった。冷えた指に感覚が戻り、景都の爪の端が当たっているのが分かる。痛いほどではない。その小さな感触を気にしながら、私は改札までの人波を見ていた。  改札の直前で、私から離した。景都の手は追わず、そのままコートのポケットへ入る。さっきまで小指だけ近かったことを、誰にも見られていないのに隠すようだった。ポケットへ入らなかった私の手だけが、行き場をなくして揺れた。別れの挨拶をしてから、もう一度彼の顔を見た。景都もまだ、こちらを見ていた。  翌日の夕方、景都から電話が来た。私は台所で米を研いでいた。水を替えるたび、昨日引っかけた小指が目に入る。 『昨日のことなんだけど』 「……昨日のことは、今言わないで」  先に言うと、電話の向こうが黙った。 「……何、その間」 『昨日、嬉しかった。それだけ言おうと思ったんだけど』 「……そういうこと、急に言わないで」  二度目の水を捨てる。白く濁った水が、指の間から流れた。 『真帆から触ってくれたの、久しぶりだったから』 「小指だけで、そんなに?」  鍋の湯気が電話を持つ頬へ当たり、私は顔を横へ向けた。 『今も、思い出してる』 「私、今お米を研いでるんだけど」 『知ってる。さっきから水の音がする』  答えが早すぎて、米の入ったボウルを置いた。電話を耳へ押し当てる。昨日はあんなに黙っていたのに、離れている今になって、顔を見るより恥ずかしい。 「……私も、嬉しかったよ」  電話の向
last updateLast Updated : 2026-09-03
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第73話 次も同じとは限らない

 通話の向こうで景都が息を吐いた。『次のことまで、まだ言ってないだろ』  少し困った声だった。私は味噌を溶きながら、昨日の小指を思い出す。昨日は触れてほしかった。今夜は、思い出すだけで頬が熱い。  景都に近づかれたら、今度は手のひらでは足りないと思うかもしれない。逆に、逃げたくなるかもしれない。考えるほど分からなくなる。 「そうだけど。……今、顔を見られなくてよかった」 『俺は見たい』 「電話だから無理でしょ」  言ってから笑う。景都も少し息を吐いた。炊飯器の内釜へ米を入れ、目盛りまで水を注ぐ。電話を肩で挟んだせいで少し多くなり、内釜を傾けて余分な水を流した。小指の先に冷たい水がかかった。  私は火を止め、炊飯器へ内釜を戻した。蓋を閉め、肩で挟んでいた電話を持ち直す。耳元で景都が鼻をすする音がした。こんな些細な音まで聞こえるほど近くにいる気がして、返しかけた言葉を飲み込んだ。 『次に会う日、土曜でいいか』 「うん」 『昨日の店でいい?』 「別のところにしよう」  私は濡れた指を布巾で拭き、空いている土曜の欄を開いた。『じゃあ探す』という声へ、「二人でね」と返す。  景都は店を探しておくと言い、通話が終わりかけたところで私の名を呼んだ。 『土曜、楽しみにしてる』 「……まだ水曜だよ」 『長いな』  炊飯器のボタンを押してから、私は小さく笑った。土曜に会ったら、どんな顔をするだろう。今みたいに話せるだろうか。頬に当てていた電話が温かく、しばらく耳から離したくなかった。  切った電話を調理台に置く。夕飯の支度はほとんど終わっていたのに、私はしばらくそこから離れられなかった。  味噌汁の鍋を奥へ寄せ、茶碗を一つ出した。土曜の夕飯は二人なのだと思うと、何も決まっていない店のことを、もう景都と話したくなっていた。  土曜、景都が試作品を返しに私の部屋へ来た。シンガポールへ送る大きめの仕様で、引き手の長さを確認してもらっていた。机に三色並べ、使った感想を聞く。  景都は青い試作品を鞄の中へ入れ、ファスナーを半分閉じた。 「青は、暗い中だと見つけにくい」  現地では黒い鞄が多いと伝えると、彼は橙を隣へ置いた。私はその手から色見本を取り戻す。 「参考にはするよ。でも、色は私が決めたい」  景都は青を机へ戻した。「聞かれたから答えただけ
last updateLast Updated : 2026-09-04
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第74話 傷を見つけても、触らない

 彼は立ち上がって白い救急箱を持ってくると、消毒液と絆創膏をテーブルへ置いた。それだけだった。 「……何で、何も言わないの」 「手伝っていいか、迷ってた。前みたいに、勝手に掴みたくなくて」 「うん。……そうだったね」  自分でも何を言いたいのか分からなくなり、水道へ向かう。傷を洗う間、景都は後ろから何も言わない。手首を掴まれ、先に流水へ連れていかれた記憶が戻る。痛むかと聞かれたのは、必要な処置が全部終わったあとだった。景都は救急箱を持ってきただけで、私のそばへは来なかった。私は傷を洗い終え、テーブルへ戻って消毒液を開ける。片手では小さな包装が剥がしにくい。景都も指先を見ていた。包装の端をつまみかけ、私が顔を上げると手を止める。 「それ、まだ使える?」 「消毒液は期限内だ。絆創膏は、こっちに未開封のがある」 「じゃあ、それ取って」  景都が袋を一枚出す。 「開けて」  切り口から包装を破り、私の前へ差し出した。私は受け取らず、傷のある指を伸ばす。景都の視線が、指と私の顔を往復した。 「自分では巻きにくいから……貼って」  頼んだ言葉を取り消さないうちに、景都は指先を支えた。景都の指は、雨の外から来た時より温かかった。消毒液を含ませた綿を傷へ当て、私が顔をしかめると一度だけ手を緩める。 「痛いか?」  消毒液の匂いが、最初の撮影日のキッチンを一瞬だけ連れてきた。私は顔をしかめたまま答える。 「消毒だから痛い。……少しだけ」  景都はそれ以上確かめず、綿を当てる力だけを弱め、そのまま細い絆創膏を指へ巻いた。きつくならないよう、端を貼る前に私の指を曲げさせる。 「これでいいか?」  私は二度曲げ、血が滲まないことを確かめた。 「うん」  景都はすぐ手を離した。手当てをしてほしかったくせに、終わると物足りない。もう一度触れてとは言えず、消毒液を箱へ戻す。机には、糸の飛び出した試作品が残っていた。私が鋏を取ろうとすると、景都の手も同時に伸び、途中で止まる。 「そっち、切って」  頼むと、景都は鋏を持ち、試作品から飛び出した糸だけを短く切った。身を屈めた拍子に、ジャケットの胸ポケットから白い布の端が見える。Kの刺繍。あの日、私の血で赤くなったハンカチと同じものだった。折り目の端に、薄い染みがあった。あの日のものかもしれないと思うと、傷と
last updateLast Updated : 2026-09-04
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第75話 家に、あなたの服はない

 洗面所から一枚持ってきて渡す。景都は髪ではなく、まず鞄の水滴を拭いた。 「自分より鞄を先に拭くの、そこは変わらないんだね」 「中に資料がある。試作品も濡らしたくなかったし」 「分かったから、今度は自分。シャツまで色変わってるよ」  タオルを奪い返すように取り、肩へ押しつけた。濡れたシャツが肩から胸へ貼りつき、結婚していた頃に何度も見たはずの身体の線が浮いた。視線を置く場所に困ってクローゼットを開きかけ、手が止まる。夫婦だった頃は、私の部屋にも景都の服があった。急な宿泊用ではなく、同じ家に住む人のシャツと部屋着が普通に並んでいた。今のクローゼットには、私の服しかない。大きめのTシャツなら貸せるかもしれない。彼がシャツを脱ぎ、それを着るところまで想像してしまい、扉へ掛けた指を離した。初めて見る身体ではない。そのことの方が、今は近すぎた。  タオルを肩へ掛け直してやると、景都の視線が私の背後へ動いた。 「何か探してた?」 「……何でもない。あなたに貸せる服はないって思っただけ。乾くまで、そのタオル使って」  景都はタオルで肩を押さえ、窓の外を見る。帰るとも、ここにいるとも言わない。浴室乾燥にかければ早いが、シャツまで脱がせることになる。私は椅子の背にあったジャケットをハンガーへ移し、暖房の風が当たるところへ掛けた。景都は袖をもう一度拭き、濡れた腕時計だけ外してテーブルへ置く。見慣れた時計が、自分の部屋にあると別の物に見えた。  私は試作品を箱へ戻した。さっき貼ってもらった絆創膏が、布の端へ何度か引っかかる。そのたび景都が見たが、手は出さなかった。夕食は近所の店から頼んだ。配達員が来た時には、雨音で呼出音が聞こえないほどになっていた。二人で床へ座り、低いテーブルで弁当を食べる。景都のシャツは少し乾いたが、ジャケットの肩はまだ重い。  景都は床へ座ることに慣れておらず、何度か脚を組み直した。ソファを勧めると、「君だけ床になる」と断る。 「別にいいのに」 「食べにくい」  そう言いながら、膝へ置いた弁当をきちんと水平に保っている。 「雨、全然弱くならないね。さっき一時間って言ってなかった?」 「予報が二十三時頃に変わった」  景都は更新された雨雲の画面をこちらへ向ける。 「もう、天気予報より外を見た方が早くない?」 「雨に言ってくれ」  
last updateLast Updated : 2026-09-05
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第76話 終電を逃したのは、話しすぎたから

 雨が弱くなるのを待つうち、話は家具へ移った。景都が座っているソファは、離婚後に買ったものだ。前の家にあった革張りより小さく、肘掛けも低い。片側の脚には、組み立てた時につけた傷がある。景都は指で触れ、木目に沿って一度なぞった。 「この傷、最初からあった?」  私が組み立てる時に金具を落としたのだと話すと、景都は脚の付け根まで確認した。 「部品だけなら交換できたはずだけどな」 「そのままでいいよ。組み立て終わった時は、傷どころじゃなかったし」  背板を逆につけてやり直したこと、途中で来た灯が説明書を放り出したことまで話すと、景都が笑った。 「灯さんなら、やりそうだな」 「笑うけど、景都に見せられる出来じゃなかったよ」 「見たかった。三時間かかって出来たところ」  傷をなぞっていた指が離れた。私が一人で暮らしてきた部屋で、景都がソファに深く座り直す。その顔へ、もう少し話したくなった。  彼の部屋では、壁際へ寄せた椅子をまだそのままにしているという。水色のマグも使っている。古いソファの革だけが傷み、張り替えるか迷っているらしい。  話の途中で茶を淹れ直した。二杯目を飲む頃には、雨が止むのを待っていたのか、話の続きを待っていたのか分からなくなっていた。  私は、古いソファを買い替えないのかと聞いた。 「まだ座れるよ」  欠けたマグと同じ答えだった。家具は捨てにくい、と景都は言い、そこで言葉を切る。  私は湯気の向こうから顔を覗いた。「大きいから?」  景都はしばらく黙った。 「買った時のことまで捨てるみたいで、まだ嫌だ」  言った本人が、答えに戸惑った顔をした。私は何も足さず、湯呑みへ目を落とす。前の家のソファは景都が選び、色だけ私が決めた。店で何度も座り比べたのに、暮らし始めてから二人で並んだ時間は少ない。今夜は、私が一人で組み立てた小さなソファに景都が座っている。雨が窓を叩き、会話が止まる。景都は時計を見ず、私は茶が冷めても飲み終えなかった。  時計を見ると、零時を過ぎていた。 「終電」  景都がスマートフォンで時刻を確かめる。最寄り線の最終は、六分前に出ている。 「景都が逃すなんて」 「雨が二十三時に弱くなる予定だった」 「そのあと、ずっと家具の話してたけど」  彼は否定せず、乗換案内を閉じた。タクシーは一時間待ち。近
last updateLast Updated : 2026-09-05
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第77話 元夫を、ソファに寝かせる

 困る。困らない。どちらもすぐには選べなかった。景都は返事を待ち、予約画面を進めない。私の部屋には来客用のベッドなどない。それでも、彼が座っているソファなら、どうにか横になれそうだった。 「ソファでいいなら……泊まってもいいよ」  景都はホテルの予約画面を閉じる前に、一度こちらを見た。 「本当に、泊まっていいのか?」  夫婦だった頃なら聞かなかった質問だった。 「ソファだけ。寝室には入らないで」 「分かった。寝室には入らないよ」  景都は予約ボタンから指を離した。  景都はソファの長さを見下ろした。私は、そこへ本当に寝るつもりなのかと聞く。 「泊まっていいと言ったのは君だろ。嫌なら、今からでもホテルへ行く」  嫌ではない。ただ、彼の足が確実にはみ出す。その言い方を探していると、景都が先に口元を緩めた。 「少し曲げれば寝られるよ。そんな顔しなくていい」  景都はホテルの画面を閉じた。私は押入れの上段から薄い掛け布団を出す。来客用に買ったまま、一度しか使っていない。シーツの折り目が残り、柔軟剤の匂いもほとんどしなかった。景都が受け取ろうとする。 「待って。先にこっちを広げるから」 「そっち、持つよ」 「じゃあお願い。端、踏まないでね」  布団の端を引く向きが食い違い、二人とも一度手を離した。結局、私が片側、景都が反対側を持ってソファへ掛ける。一人で寝るには少し短い。景都が横になれば、足首が肘掛けから出る。 「これなら入る」  景都が実際に腰をずらして横幅を測り始めたので、私は布団の端を引いた。 「今、試しに寝なくていいから」  寝られなければ私が気にする、と彼は真顔で言う。ホテルのベッドまで長さを確認するのかと尋ねると、写真の比率と寸法は見るらしい。  失敗したくない、という理由まで、いかにも景都だった。  掛け布団を広げても、肘掛けまで覆うには足りなかった。景都はソファを一度押して確かめ、「寝られる」と言った。 「明日、腰が痛いって言っても知らないからね」  念を押すと、景都は短く頷いた。  洗面台の引き出しには、未開封の歯ブラシが一本あった。渡すと、景都はメーカーと硬さを確認する。来客用にまとめて買ったもので、景都のために残していたわけではない。そう言おうとして、誰も聞いていないのでやめた。 「嫌なら買ってきて」
last updateLast Updated : 2026-09-06
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第78話 壁一枚向こう

「明日は六時半には出る。いったん家へ戻って着替えたい」 「日曜なのに、そんなに早く?」 「このシャツのまま一日過ごすのは、ちょっと落ち着かない」  この部屋に彼の服はない。さっきクローゼットを開けなかったのは、貸せる服がなかったからだけじゃない。景都の服が一枚もないことを、見たくなかったのかもしれない。スマートフォンの充電を確認し、景都はソファへ腰を下ろす。私も寝室へ行けばいいのに、テレビの消えた画面をしばらく見ていた。  寝室へ向かう前、照明をどうするかだけ聞いた。景都は私が寝てから消すつもりらしい。 「自分のタイミングで消して」 「そうする」  寝室の扉へ手をかけた。閉めれば、元夫が壁一枚向こうで眠る。結婚していた頃は同じベッドに入っても、景都がいつ眠ったか知らない夜が多かった。今はソファの布が擦れるだけで気になる。扉を半分閉じたところで、振り返った。  景都は掛け布団を膝へ載せたまま、こちらを見ていた。私がまだ何か言いたいことに、気づいている顔だった。 「景都」 「どうした」  呼んだ時には、続きがあると思っていた。泊まってくれてよかった。明日の朝、黙っていなくならないで。どれも口にすると、今夜へ意味を足しすぎる。 「……何でもない。呼んだだけ」  景都は問い直さなかった。 「明日、何時くらいに起きる?」 「七時くらい。たぶん」  景都が座り直し、ソファの布がかすかに鳴った。 「なら、起こさないように出る」 「出る時は声かけて。鍵、閉めるから」 「分かった」  実務の話だけを終え、私は扉を閉めた。ベッドへ入っても眠れなかった。エアコンの音に混じって、ソファの布が一度鳴る。景都が寝返りを打っただけだと思う。時計を見ると、まだ零時四十分だった。スマートフォンを開く。普段なら、帰宅した頃に『着いた』と来る時間だ。同じ部屋にいるのに、画面は静かだった。最後のやり取りは、昼に送った店の地図で終わっている。数時間後、その人が自分のソファで眠ることになるとは思わなかった。 『起きてる?』  入力して消す。壁の向こうへ送るには馬鹿らしく、声をかけるには近すぎる。目を閉じると、景都が腕時計を外した手を思い出す。小指を引っかけた夜より、何も触れていない今の方が身体を意識していた。景都の手の重さも、眠る時に背中へ回った腕の温度も、身体はま
last updateLast Updated : 2026-09-06
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第79話 同じ部屋の朝

 扉を開けて、ソファでは狭いからこちらへ来るかと聞くこともできる。想像しただけで、また喉が渇いた。一時半を過ぎ、リビングの明かりが消える。扉の下から入っていた細い光もなくなった。それから何分経ったのか分からない。ベッドを抜け出す。扉を開けると、部屋は暗かった。窓の外の街灯だけで、ソファの形が見える。景都は横向きになり、短い布団から足を出していた。  起こさないよう台所へ向かう。 「水、飲みに来た?」  暗闇から声がした。 「起きてたの?」 「今、扉の音で起きた。何かいるか?」  景都が身体を起こしかける。 「寝てて。自分で取る」 「分かった」  景都はすぐまた横になった。冷蔵庫から水を出すと、棚に夕食の残りのご飯が一膳分あった。明日の朝に食べようと思い、そのまま扉を閉める。グラスへ注いだ水を、立ったまま半分飲む。ソファからは景都の呼吸が聞こえない。眠っているのか確かめたくなり、暗さに目を慣らした。 「朝、出る時……」  言いかけると、景都が目を開けた。 「鍵を閉める時に、起こすよ」 「うん。鍵だけじゃなくて……おはようくらい、言いたいし」  暗くて、景都の顔はよく見えなかった。けれど「そうだな」と返るまで、少し間があった。  水を飲み終え、空のグラスを流しへ置いた。ソファの前を通る時、布団から出ていた足首が目に入る。 「寒くない?」 「平気。君こそ、もう寝た方がいい」  今度は素直に頷けた。寝室へ戻る足音を、さっきほど忍ばせなかった。  米の匂いで目が覚めた。枕元の時計は六時十二分。外では雨が細く残り、部屋の中から鍋の蓋が鳴る音がした。台所へ行くと、景都が昨夜のご飯を小鍋で煮ていた。シャツには皺があり、袖を二度折っている。 「断りなく台所使ったの?」  景都は木べらを止めた。昨夜のご飯が一膳分残っていたので、起こす前に作れると思ったらしい。 「私が朝に食べようと思って残したの」  鍋の蓋から落ちた雫が、火の上で小さく鳴った。「……それなら、先に聞けばよかった」  鍋の中では、米粒がほとんど崩れている。食べなくても味が分かった。 「でも、どうしてまた粥なの。病人じゃないんだけど」  景都は、二時に水を飲みに来たことまで覚えていた。ほとんど寝ていないだろうと言われ、私は鍋を覗く。 「寝不足なのは、景都もでしょう」
last updateLast Updated : 2026-09-07
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第80話 薄い粥に、塩を足す

 景都は一口食べ、塩の瓶を見たが、そのままもう一口すくった。  私はもう一度、今度はさっきより多めに振った。景都は自分の茶碗を引き寄せる。 「景都は足さないの?」 「……やっぱり、俺も少し」  景都は塩の瓶を取り、私より少なめに二回振った。瓶をテーブルの真ん中へ戻し、もう一口食べた。私もまた粥を食べる。同じ鍋からよそった粥なのに、途中から味が違った。  私は自分の茶碗を傾けて底の米をすくった。景都は私の塩加減を見ても口を出さず、自分の方だけをもう一度味見した。  景都の茶碗には、まだ半分ほど残っている。 「本当にそれでいいの?」  彼は一口食べ、「別でいいだろ」と言った。昔は塩を足さなかったはずだと尋ねると、一人の時に試したらしい。 「今さら?」 「離婚してから」  短い答えの向こうに、私のいない台所で塩の瓶を手に取る景都が浮かんだ。塩パンもブラックコーヒーもそうだった。知っていたはずの人に、私の知らない味が増えている。  景都の茶碗が先に空く。鍋を洗おうと、彼が腰を浮かせた。 「まだいいよ。せめて食べ終わるまで、座ってて」  私が言うと、景都は腰を浮かせるのをやめた。  六時半まで、もう数分しかない。電車は動いているし、昨夜濡れたジャケットも乾いている。それでも景都は時計を見直さなかった。私は最後の一口を急がずに食べる。  食べ終えると、景都が二つの茶碗を重ねた。私も立とうとすると、流しの前から振り返る。 「座ってて。作った鍋くらい、洗って帰る」 「じゃあ、お願い」  二つの茶碗が水切り籠へ並ぶ。私は彼の背中を見ながら、昨夜より少し皺の増えたシャツの裾を直してやりたくなった。 「次に作るなら、米粒をもう少し残して。煮すぎないで」  景都が水を止める。 「次も作っていいのか」  言い直すこともできた。今日の粥の話だけだと言うことも。 「次は、粥じゃないのがいい。食べたいもの、先に聞いて」  景都が玄関で靴を履いたのは、六時四十八分だった。六時半に出ると言っていた人が、十八分遅れている。私が粥を食べ終わるまで待ち、茶碗を洗い、昨夜借りたタオルまで畳んだからだ。 「電車、間に合うの? もう六時半過ぎてるけど」  景都は腕時計を留めながら、一本遅らせたと答えた。 「急がせちゃったね」 「俺が残りたかったんだ。一本く
last updateLast Updated : 2026-09-07
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