嫌いだった女が死んだ夜、元夫の愛が怖くなった ――もう一度、あなたを愛せるまで―― のすべてのチャプター: チャプター 91 - チャプター 100

195 チャプター

第91話 それ、付き合ってないの?

『これ、君が嫌いなやつだろ』  甘いクリームが山ほど乗った写真に、『よく覚えてるね』と返す。 『前に一口でやめた』  結婚中の話だった。  覚えていることと、今の私を知っていることは違う。だから週末、私はその店へ景都を連れていき、甘くないレモンケーキを頼んだ。  景都はレモンケーキを見て、前はケーキも嫌いだっただろうと言った。 「今は、これなら食べる」  彼の知らない五年を責めるつもりはない。「今知ったじゃん」と皿を彼の方へ寄せた。  景都は一口欲しいと言った。私は自分のフォークを皿の端へ置く。 「自分で取って」 「随分、端に寄せたな」 「クリームのところは私のだから」  景都は小さく眉を寄せ、自分のフォークで一口だけ取った。  その帰り、駅の人が少ない場所で短くキスをした。離れた直後、景都の手が腰へ触れ、身体が反射的に強張った。彼の手がすぐ離れる。「ごめん」「違う。嫌じゃない。びっくりしただけ」言い訳みたいに早口になった。景都は何も言わず、半歩だけ距離を戻した。◇ 月曜の昼、会社近くで景都と待ち合わせた。取引先へ渡すサンプルをLATTICEの担当者に預けるだけの予定だったが、時間が合ったので一緒に昼食を取ることにした。  店の前で灯と鉢合わせた。 「え」  灯の目が私から景都へ動く。 「深見さん、お疲れさまです」 「宮坂さん」  仕事の挨拶だけなら何もおかしくない。  問題は、景都が私の手から自然に紙袋を取ったことだった。 「持ち手、食い込んでる」と景都が私の指を見る。 「軽いし、自分の商品なんだから私が持つよ」  軽さではなく、痛そうだったから、と返される。私は持ち手へ手を伸ばした。 「じゃあ返して。持ってほしくなったら、私から言うよ」  景都は名残惜しそうに、素直に返した。  灯が黙る。その沈黙が不自然すぎて、私の方が居心地悪くなった。 「真帆、ちょっと待って」 「何? 昼休み、短いんだけど」 「その二人の空気、何?」  灯は景都ではなく私を指差した。 「仕事の受け渡しと、昼ご飯」 「答えを二つ並べれば誤魔化せると思わないで」  景都が横で口を挟みかけたので、私は先に景都へ顔を向けた。 「景都は黙っててね。灯には私から言うから」 「ああ」  灯の眉がさらに上がる。 「何、その慣れた連
last update最終更新日 : 2026-09-13
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第92話 景都の答えも、長い

 名前はない。キスはする。他の人とは会わない。昼食の店だけは決まっている。  店へ入ると、灯は三人席の奥へ座り、私を自分の隣へ呼んだ。景都は向かい側。完全に事情聴取の配置だった。 「昼休み二十五分だから、今日は聞かないでおく」  灯はメニューを開きながら言う。 「助かる」  灯はメニューを開いたまま、午後は逃げないよう念を押した。 「仕事あるんだけど」 「終わったらでいい」  取り調べは保留になっただけらしい。  景都が水を飲む。灯はその手元を一度見てから、急にメニューへ戻った。  注文したあと、三人とも仕事の話をした。新しい物流拠点、販促写真、LATTICEの監査日程。名前のない関係が目の前にあるのに、昼休みは普通に終わる。  店を出る時、灯が私の袖だけ引いた。 「あとでね。三十秒じゃ終わらないから」  逃げられないらしい。社会へ戻った途端、私たちの間では通じていた曖昧さが、他人には説明できなくなった。  灯に捕まったのは、午後の打ち合わせへ戻る前だった。  エレベーターの扉が閉まると、灯が開閉ボタンから手を離して私を見る。 「で、さっきのあれは何だったの」 「午後の写真選び、始まるよ。三十秒じゃ終わらない」 「終わらなくていいから、入口だけ教えて。付き合ってるの?」  五階に着いた。私は先に降りたが、灯も開きかけた扉を肩で抜け、当然のようについてくる。 「付き合ってはいない。でも会ってるし、デートもしてる」 「それを普通は付き合ってるって言うんじゃないの」 「普通の話ならね。私たちは……」  続けようとして、言葉が止まった。元夫婦で、キスをして、互いにほかの人とは会わない。それでも、まだ恋人とは呼んでいない。その順番を三十秒で説明すると、私たち自身まで番組の選択札へ戻される気がした。  灯は私の顔を見てから、声を少し落とす。 「深見さんも真帆も、ほかの人を探す気はないんだよね」 「うん。そこは決めた」  自席まで来ると、灯は鞄を下ろした。私の顔を一度眺め、モニターへ目を戻す。 「じゃあ、キスくらいはした顔してる」 「そこまで答える義務ある?」  彼女は肩をすくめた。「ない。今ので十分」  私は返す言葉を探したが、その間まで答えにされそうでやめた。  けれど灯は、続けて私に尋ねた。 「困ってる?」
last update最終更新日 : 2026-09-13
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第93話 仕事では、水城さん

 十五分後には、私たちは金具の角度の話しかしていなかった。  十二枚のうち三枚を落とし、残った写真の文字位置を二ミリ下げる。灯が「こっちは金具が安っぽく見える」と言い、私は拡大して反射の線を確認した。 「これ、照明じゃなくて傷じゃない?」 「サンプル見てくる」  灯が立つ。恋愛の答えを求めていた人が、次の瞬間には倉庫へ走っていく。  昼に見た景都の顔も、キスした夜も、画面の外へ押し出される。  午後三時、灯がゼリー飲料を一本、私の机へ置いた。 「昼、サンドイッチを半分残したでしょう。それを食べたとは言わないから」 「そこまで見てたの」 「恋愛より、倒れない方が大事」  恋愛より食事を気にされる方が、今はありがたかった。  終業前、灯が倉庫から戻ってきて、傷ではなかったと報告した。「じゃあ三番で」 「了解」  画面を保存してから、私はようやくスマートフォンを開き、『灯にバレた』と送った。  景都からは一分もしないうちに返ってきた。 『何て説明した』  私は入力欄に指を置いた。「付き合ってはいないけれど会っている」とだけ打つと、さっき灯へ言った時よりひどく頼りない文章に見える。全部消して、『うまく説明できなかった。たぶん、そっちも同じだと思う』と送った。  今度は、既読だけがついた。景都もまた、答えを短くできずにいるのかもしれない。  帰り支度をしていた灯が、私のスマートフォンを顎で示した。 「深見さんから返事待ち?」  何で分かるのかと返すと、さっきから画面を閉じるふりだけしていると言う。 「見てないってば」  灯は上着を腕へ掛けた。「嘘。もう三回は見た」  灯は笑ってエレベーターへ向かった。私は画面へ戻る。景都の返事は、いつもより遅かった。画面を閉じる理由は、それでも見つからなかった。  景都から電話が来たのは、帰宅してシャワーを浴びたあとだった。 『宮坂さんには、何て言われた』 「私たち、面倒だって。否定しづらいけど、他人に言われると腹が立つ」  電話の向こうで、景都が短く息を吐いた。 『俺も今日、森下に説明しようとして途中で諦めた』  森下が質問する姿は想像しにくい。聞けば、会議後に「水城さんとよく会っていますね」と言われただけらしい。  景都は、元妻と定期的に会い、デートもして、ほかの人とは会わないが
last update最終更新日 : 2026-09-14
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第94話 助けないで、見ていて

「恋人って言ったら、その次が勝手についてきそうで嫌。毎日連絡するとか、泊まるとか」 『連絡くらいはしたい。けど、毎日しろとは言わないよ』 「会えない日が続いたら? 私も仕事があるし」  短い間があった。 『寂しいとは思う。今だって、もっと会いたい』  電話の向こうで、短く息を吐く音がした。 『でも、言ったら君が――』 「そこで止めて。今、私の返事まで考えたでしょう」  電話の向こうで景都が黙った。 『……考えた』  私はタオルを外し、髪を指でほぐした。 「誰かに聞かれるたび、同じ説明をするのは面倒だね」  景都は、森下には「定期的に会っている」までで止めればよかったと言う。 「週一とは言ってないよね」 『例外の週もあるから言ってない』  濡れたタオルを籠へ入れながら、私は笑った。「そういう正確さを足すから長くなるの」  言葉を決める話は、顔を見ずに続けるほど会議に近づいていく。 「今度、会って話す?」 『うん。電話じゃ顔が見えないしな』 「見られたら、それはそれで困るけど」  濡れた髪が首筋へ貼りつき、指で払った。 『じゃあ、会った時に』  数秒のあと、土曜は空いているかと聞かれた。  予定表を見る前に、「空いてる」と答えていた。 『何も決めてない。会えるかだけ聞きたかった』  私は小さく笑った。 「じゃあ、今はそれでいいよ」  電話を切る前、景都が一度「真帆」と呼んだ。 「何」 『いや』  今度は私が笑う。  土曜の行き先も、待ち合わせの時間もまだ決まっていない。関係に名前がつかなくても、会うことだけは二人とも迷わなかった。  土曜より先に、景都と仕事で会った。  LATTICE SHIELDがmellow noteの新しい物流拠点の危機管理支援に入り、合同会議が設定されたからだ。  会議室へ入ると、景都はすでに役員側の席にいた。 「お世話になっております、深見社長」 「水城さん。よろしくお願いします」  それだけで、昨日までの電話が嘘みたいに遠くなる。  私は商品企画側として、地域テスト品の保管条件を説明した。  バッグ本体は高湿度で形崩れが出ないか、金具は塩分を含む汗で変色しないか。現地の倉庫条件を前提に、試験方法を一つずつ示す。  景都は一度も私を助けなかった。 「水城さん。こ
last update最終更新日 : 2026-09-14
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第95話 一つだけ、力を貸して

「十二ページ」 「ありがとうございます」  それ以上は何も言わない。  会議後、同僚が小声で言った。 「深見社長、厳しいけど早いですね。論点がずれない」 「そうですね」  元夫だから知っていることを足す必要はなかった。  皆と別れ、エレベーターを待っていると、後ろから足音が近づく。 「水城さん」  振り向くと、景都が資料を閉じながら歩いてきた。 「深見社長も、まだお仕事ですか」 「今終わった」  扉が開き、二人だけで乗る。閉まった途端、景都の視線から役員席の硬さが少し抜けた。 「真帆。最大湿度のデータ、今日中に出せる?」 「最初に言うこと、それなんだ」 「会議で今日中って言っただろ。あとで忘れたら、それこそまずい」  私はスマートフォンを出し、共有フォルダから資料を送った。  送信すると、景都の端末にも同じ資料が届く。 「確認した」  早すぎると言うと、会議で約束したからだと返される。仕事の時は本当に迷わない。  景都は資料を鞄へしまった。「また誰かを待たせる前に、済ませておきたい」  送信済みの表示を閉じながら、ふと可笑しくなった。 「会議中、ずっと水城さんだった。そうしてほしいって言ったのは私だけど、少しだけ寂しかった」  言ってから、自分で驚いた。景都も一拍遅れてこちらを見る。 「俺も、会議が終わるまで名前を呼べないのは思ったより長かった」  エレベーターが一階へ着く。  会議では、水城さん。  扉が開く直前、景都がもう一度だけ言った。 「真帆、土曜な」  開いた扉の向こうに同僚が二人いたので、景都はすぐ私を「水城さん」と呼び直した。私も「お疲れさまでした」と頭を下げ、会社の外へ出るまで、その距離を保った。  別れ際にも、同僚は景都の仕事の早さを褒めた。私は「そうですね」とだけ返す。夫だった頃の癖も今日見た厳しさも、その一言のあとには続けなかった。  改札へ向かう直前、景都から短いメッセージが来た。 『土曜、十二時』 『今決めたの?』 『今』  仕事では水城さん。  今度は、それだけで十分だった。◇ 地域テストの社内プレゼンは、開始十分前に予定が変わった。  LATTICE SHIELD側の担当者もオンライン参加することになり、画面の参加者一覧に景都の名前が増えた。  嫌な緊張が一
last update最終更新日 : 2026-09-15
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第96話 次は、シンガポールで

「確認できました。ご質問の条件は高湿度時ですので、こちらの数値になります」  質問者が頷く。  そのあとも二問続いた。私は一度だけ言葉に詰まり、今度は「確認して後ほど返します」と答えた。  次の質問へ進んだ。  プレゼン終了後、部長に「途中、危なかったね」と笑われ、私も笑った。廊下へ出ると、景都から『終わった?』と届いたので、『今。さっきの数値を知っていたなら、少しくらい助けてくれてもよかったのに』と返した。  送信してから、自分でも矛盾していると思う。  間を置かない返答だった。 『探している途中だっただろ。もう少し待とうと思った』  腹が立つほど正しい。それでも、あの場で景都が代わりに答えていたら、私はもっと腹を立てただろう。 『困った時は、ちゃんと頼む』 『……分かった』  画面上の約束は簡単だった。実際に待つことの方が、景都には難しい。  終業後、ロビーへ降りると、景都が来ていた。 「何か食べるか」 「うん。もうお腹ぺこぺこ」 「何がいい」 「今から決めるよ」  景都はプレゼンの話を持ち出さず、出口へ向かった。  その横を歩きながら、私は聞く。 「プレゼン、どこまで見てた?」 「同じフォルダを二度開いたあたりから。箱のラベルを見て、資料を探すのをやめたところも見てた」 「そこまで見えてたんだ。……見ててくれて、ありがとう」  景都は少しだけ視線を逸らした。  ロビーを出る時、私は自分の手のひらを見た。資料を握っていた跡が薄く残っている。  景都が答えを知っていたことより、知っていて黙っていたことの方が後から効いてきた。  景都は照れ隠しのようにスマートフォンを出し、駅前の店を二軒、私に見せた。  私は画面を見ずに言う。 「店は私が決めるからね」 「分かった」  店へ向かう途中、私はサンプル箱を抱え直した。その横で景都が「本当に困った時は呼んでくれ」と言う。 「うん。待ってほしい時も言う」  景都は少し考えてから頷いた。 「ただ、顔を見ただけじゃ分からないこともある。今日だって、口を出すか迷った」  思わず笑った。完璧にできると言われるより、その方がよかった。  シンガポール地域テストの準備が、本格的に始まった。  会場側から追加された条件は、現地で使用する仮設保管スペースの危機管理と安全評
last update最終更新日 : 2026-09-15
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第97話 即答できること

 今は、何も来ない。◇ その日の夜、私は自分から電話した。 『どうした』 「一つだけ、力を貸してほしい。安全評価ができる人を探してる。五営業日以内で、海外施設の経験があって、うちの取引先と利害関係がなくて、英語の報告書まで出せる人」  電話の向こうが静かになる。景都の頭の中では、もう候補者と日程と費用が並び始めているのだろう。 「でも、お願いしたいのは紹介だけ。条件の話も、誰に頼むかも、こっちで決めたい」 『分かった。条件に合う人だけ出す。あとは何もしない』  言い切るまでに一拍あった。いつもならその先までやりたくなるのを、自分で止めた気配があった。  二十分後、二人分の経歴と連絡先だけが送られてきた。  余計な説明も、先方への根回しもない。  一人は元保険会社のリスクエンジニア、もう一人は物流施設専門の安全監査人。どちらも条件を満たしている。  添付された経歴書には、海外物流拠点の監査歴と対応言語だけが簡潔に並んでいた。景都のコメントは『どちらも空き確認済み』の一行だけだった。  そこだけは先に確認したらしい。  私は少し迷い、『空いてるかまで聞いたの? 紹介だけって言ったよね』と送ると、『頼めない人を出しても仕方ないと思った。日程だけ聞いた』と返ってきた。  自分に甘い気もする。それでも、見積もりも条件交渉も進めていない。昔の景都なら、「紹介だけ」という線を越えたことにすら気づかなかっただろう。◇ 翌朝、私は二人へ自分で連絡した。  一人目は日程がぎりぎりで、二人目は翌日から資料を見られるという。オンラインで三十分話し、現地の避難導線と保管スペースを優先して確認したいと言った二人目へ依頼する。  見積もりを部長へ回し、契約手続きも自社ルートで進めた。  景都の名前を出したのは最初の紹介だけだった。 『一人に決めた。契約もこっちで進められた。助かった』と送る。  答えは早かった。 『それだけ?』  思わず画面を見直し、『ほかに何が欲しいの』と返すと、『夕飯。紹介料としては安い』と来た。 『じゃあ蕎麦。高い紹介料は払えない』 『それでいい』  頼んだ範囲を守った男が、報酬だけは自分から欲しがった。そのことが可笑しかった。  結局、その夜は駅前の蕎麦店で会った。 「本当に、日程を聞く以外は何もしてない?」 「
last update最終更新日 : 2026-09-16
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第98話 嫌だと言える人

 最初は数日単位の出張。結果が良ければ、現地向け商品の検討範囲を広げる。  部長の説明を聞きながら、私は手帳の秋のページを開いた。  国内の発売準備と重なる週がある。戻った翌日に撮影、三日後には量産前の仕様確認。楽ではない。  それでも、日程を見て最初に浮かんだのは「無理」ではなかった。嬉しくて、迷うより先に行きたいと思った。◇ その夜、景都へ話す。 「候補じゃなくなった。来月の地域テスト、中心メンバーで行くことになった」  景都は箸袋を折りかけたまま、すぐには質問しなかった。 「最初は何日?」 「三日。部長と海外担当が一緒で、現地チームにも入ってもらう」  滞在日数と同行者を聞いてから、景都は少し声を落とした。 「行きたい?」 「行きたい」  自分でも驚くほど早く答えた。仕事のことだけは、怖さより先に欲しいものが口から出る。  景都の指が止まる。 「そこは迷わないんだな」 「だって、行きたいから。……景都は嫌?」 「やめてほしいとは思わない。ただ、これからもっと遠くへ行く仕事が増えると思うと、嫌だ」  対策も条件も続かず、景都は折りかけの箸袋を手にしたままだった。 「今回は三日だよ。その先のことは、まだ何も決まってない」 「分かってる。三日でも、嫌なものは嫌だ」  景都は日程も航空券も確認しなかった。代わりに、私の前にある企画書を指す。 「現地では、何を確かめたい?」 「売り場でのサイズ感と、持ち手の長さ。あとは金具の色。前回と客層も照明も違うから、写真だけでは決めたくないんだ」  話し始めると止まらない。私は資料を開き、三店舗の写真を見せた。 「この店は通路が狭いから、小さい方が有利だと思う。でも前回は大きい方が売れた」 「理由は」 「まだ分からない。だから見たい」  景都が画面を拡大する。 「棚の高さ、違うな」 「そこも見る」  仕事の話をしている時だけは、先の距離を考えなくて済んだ。  景都は私の話を聞いていた。  食事を終えて駅へ向かう途中、私はもう一度だけ言った。 「それでも、行きたい」 「知ってる。嫌だけど、止めるつもりはない」  景都はキャリーケースの大きさを尋ねかけ、口を閉じた。代わりに、自分も来月、香港へ二日出ると話す。 「初耳。私の三日を気にする前に、自分の予定も教えてよ
last update最終更新日 : 2026-09-16
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第99話 元妻ではなく

「行きたい」と即答したことを、帰宅してから何度か思い返した。景都とのことなら、会いたいのか、帰ってほしいのか、恋人と呼びたいのか、いつも時間がかかる。現地で商品を見て、自分が作ったものが別の国でどう使われるか知りたい。その答えだけはすぐ出た。◇ 翌日の夜、景都から電話が来た。 『今、少し話せる? 昨日のシンガポールのこと』  私は机の上のチェックリストから顔を上げた。現地スタッフへ聞く質問は十六個まで増え、返品理由の欄だけ黄色くしてある。仕事の準備は、考えるほど具体的になる。景都とのことは逆だった。 『君が行きたいなら行けばいい。止めるつもりはない』 「それは昨日も聞いたよ。まだ何か残ってる?」  電話が静かになる。景都は仕事なら迷っている時間まで先に切るのに、私へ言う言葉だけは遅い。 『三日会えないことだけじゃない。こういう仕事が増えて、君がもっと遠くへ行くようになるのが嫌だ』  昨日より、はっきりしていた。  私はチェックリストを見る。店舗ごとの陳列幅、スタッフへの質問、返品理由。項目が増えるほど楽しみになる。 「たぶん、増えると思う。私も増やしたい」 『それを聞いて、やっぱり嫌だと思った』  解決策は続かなかった。『嫌だ』だけが、通話の向こうに残った。 「昨日より、はっきり言うね」 『言ったら、君が仕事を選んだことを気にすると思った』 「たぶん気にする。でも、そこまで先に考えなくていい」  私は「ごめん」と言いかけて、飲み込んだ。 「それでも私は行くよ」 『ああ。それでも嫌だ』  今度はすぐ返ってきた。  電話は切れなかった。行きたい私と、嫌だと言う景都が、そのまま同じ通話の中にいた。  電話の向こうで、駐車場の機械音が聞こえる。景都はたぶん車へ乗るところだ。  重くなりすぎた空気を逃がすように、「帰ったら何を食べたい?」と聞いた。 『まだ出発もしてないだろ』 「帰ってきた時の話。蕎麦以外で」 『蕎麦がいい』 「またそれ。店は帰ってから決めよう」  少し笑ってから、「じゃあ、帰ってきたら会おう」と続ける。 『会う。到着時間が決まったら教えて』 「迎えは?」 『帰る頃に、もう一度聞く』 「うん」  通話を切ると、画面には作りかけのチェックリストが残っていた。『現地スタッフに、実際に持ってもらう』と
last update最終更新日 : 2026-09-17
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第100話 知らない顔を見つける

 命令ではなく、予定を変えろとも言われていない。だからこそ、仕事中にもふと思い出す。  夜、駅前で待っていると、景都は到着してすぐスマートフォンを見せた。 「店は二つ見つけた。どっちか、気になる方ある?」  画面の下に、来月の私の出張週が見えた。景都の指がカレンダーへ一度触れ、すぐ閉じる。 「今、シンガポールに行ける予定を探してた?」  景都は閉じた画面へ目を落とした。会議の日程を見ていたが、航空券は取っていないという。 「会いたいなら、来てもいいのに」  彼はすぐには答えず、閉じた画面へ指を置いた。 「会いたい。でも、仕事で行く君を追いかけるのは違うと思った」  行きたいのを我慢しているように聞こえた。 「昨日、嫌だって言われたの、少し嬉しかった」  景都がこちらを見る。 「俺は嬉しくない。できれば行ってほしくない」 「うん。でも私は行く」 「ああ。行くなら、行ってきて」  それで話は終わった。景都が店の画面を開き直し、私は二軒を見比べた。  候補の店へ向かう途中、小さな定食屋が目に留まった。 「今日はここがいい」  私が指すと、景都は入口のガラス越しに店内を覗いた。 「予約してないけど、席は半分空いてる。定食屋まで予定どおりにしなくていいでしょう」 「混む時間だから確認しただけだよ」  少し納得しない顔のまま、それでも私の後ろから店へ入った。  景都は生姜焼き、私は焼き鯖を頼んだ。出張の話はせず、新しい社員の研修が予定より長引いた話と、mellow noteの撮影でモデルの靴が一足足りなかった話をした。  嫌だと言ったからといって、毎回そこへ戻らなくてもいい。  食後、景都が会計票を取る。 「今日は俺が払ってもいいか。……さっきは嫌なことを言ったし」 「お金で帳消しにしないでよ。次から嫌だって言えなくなるじゃない」 「……ただ、今日は俺が払いたいんだ」  珍しく景都の口元が緩んだ。  会計のあと、景都が「明日、何時から?」と聞く。  明日の開始は九時だと答えると、景都は寝ろと言った。自分は七時から会議らしい。 「なら、景都の方が先に寝て」  景都は腕時計へ目を落とし、苦笑した。  そういう普通のやり取りが戻ってくる。  駅のホームで、混んだ電車を一本見送った。「次でいい?」と聞かれて、私は頷いた
last update最終更新日 : 2026-09-17
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