All Chapters of 嫌いだった女が死んだ夜、元夫の愛が怖くなった ――もう一度、あなたを愛せるまで――: Chapter 91 - Chapter 100

106 Chapters

第91話 それ、付き合ってないの?

『これ、君が嫌いなやつだろ』 甘いクリームが山ほど乗った写真に、『よく覚えてるね』と返す。『前に一口でやめた』 結婚中の話だった。 覚えていることと、今の私を知っていることは違う。だから週末、私はその店へ景都を連れていき、甘くないレモンケーキを頼んだ。 景都はレモンケーキを見て、前はケーキも嫌いだっただろうと言った。「今は、これなら食べる」 彼の知らない五年を責めるつもりはない。「今知ったじゃん」と皿を彼の方へ寄せた。 景都は一口欲しいと言った。私はフォークで端を切らず、皿ごと寄せる。「自分で取って」「そのくらい自分で取るよ」「じゃあ聞かないでよ」 景都は小さく眉を寄せ、自分のフォークで一口だけ取った。 その帰り、駅の人が少ない場所で短くキスをした。離れた直後、景都の手が腰へ触れ、身体が反射的に強張った。彼の手がすぐ離れる。「ごめん」「違う。嫌じゃない。びっくりしただけ」言い訳みたいに早口になった。景都は何も言わず、半歩だけ距離を戻した。◇ 月曜の昼、会社近くで景都と待ち合わせた。取引先へ渡すサンプルをLATTICEの担当者に預けるだけの予定だったが、時間が合ったので一緒に昼食を取ることにした。 店の前で灯と鉢合わせた。「え」 灯の目が私から景都へ動く。「深見さん、お疲れさまです」「宮坂さん」 仕事の挨拶だけなら何もおかしくない。 問題は、景都が私の手から自然に紙袋を取ったことだった。 景都は私の手から紙袋を取った。持ち手が細く、指へ食い込んでいたからだという。「軽いし、自分の商品なんだから私が持つよ」 軽さではなく、痛そうだったから、と返される。私は持ち手へ手を伸ばした。「じゃあ返して。持ってほしくなったら、私から言うよ」 景都は名残惜しそうに、素直に返した。 灯が黙る。 その沈黙が不自然すぎて、私の方が居心地悪くなる。「真帆、ちょっと待って」「何? 昼休み、短いんだけど」
last updateLast Updated : 2026-09-13
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第92話 景都の答えも、長い

 名前はない。キスはする。他の人とは会わない。昼食の店だけは決まっている。 店へ入ると、灯は三人席の奥へ座り、私を自分の隣へ呼んだ。景都は向かい側。完全に事情聴取の配置だった。「昼休み二十五分だから、今日は聞かないでおく」 灯はメニューを開きながら言う。「助かる」 灯はメニューを開いたまま、午後は逃げないよう念を押した。「仕事あるんだけど」「終わったらでいい」 取り調べは保留になっただけらしい。 景都が水を飲む。灯はその手元を一度見てから、急にメニューへ戻った。 注文したあと、三人とも仕事の話をした。新しい物流拠点、販促写真、LATTICEの監査日程。名前のない関係が目の前にあるのに、昼休みは普通に終わる。 店を出る時、灯が私の袖だけ引いた。「あとでね。三十秒じゃ終わらないから」 逃げられないらしい。社会へ戻った途端、私たちの間では通じていた曖昧さが、他人には説明できなくなった。 灯に捕まったのは、午後の打ち合わせへ戻る前だった。 エレベーターの扉が閉まると、灯が開閉ボタンから手を離して私を見る。「で、昨日のあれは何だったの」「午後の写真選び、始まるよ。三十秒じゃ終わらない」「終わらなくていいから、入口だけ教えて。付き合ってるの?」 五階に着いた。私は先に降りたが、灯も開きかけた扉を肩で抜け、当然のようについてくる。「付き合ってはいない。でも会ってるし、デートもしてる」「それを普通は付き合ってるって言うんじゃないの」「普通の話ならね。私たちは……」 続けようとして、言葉が止まった。元夫婦で、キスをして、互いにほかの人とは会わない。それでも、まだ恋人とは呼んでいない。その順番を三十秒で説明すると、私たち自身まで番組の選択札へ戻される気がした。 灯は私の顔を見てから、声を少し落とす。「深見さんも真帆も、ほかの人を探す気はないんだよね」「うん。そこは決めた」 灯は私の顔を一度眺め、モニターへ目を戻した。「じゃ
last updateLast Updated : 2026-09-13
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第93話 仕事では、水城さん

 十五分後には、私たちは金具の角度の話しかしていなかった。 十二枚のうち三枚を落とし、残った写真の文字位置を二ミリ下げる。灯が「こっちは金具が安っぽく見える」と言い、私は拡大して反射の線を確認した。「これ、照明じゃなくて傷じゃない?」「サンプル見てくる」 灯が立つ。恋愛の答えを求めていた人が、次の瞬間には倉庫へ走っていく。 昼に見た景都の顔も、キスした夜も、画面の外へ押し出される。 午後三時、灯がゼリー飲料を一本、私の机へ置いた。「昼、サンドイッチを半分残したでしょう。それを食べたとは言わないから」「そこまで見てたの」「恋愛より、倒れない方が大事」 恋愛より食事を気にされる方が、今はありがたかった。 終業前、灯が倉庫から戻ってきて、傷ではなかったと報告した。「じゃあ三番で」「了解」 画面を保存してから、私はようやくスマートフォンを開き、『灯にバレた』と送った。 景都からは一分もしないうちに返ってきた。『何て説明した』 私は入力欄に指を置いた。「付き合ってはいないけれど会っている」とだけ打つと、さっき灯へ言った時よりひどく頼りない文章に見える。全部消して、『うまく説明できなかった。たぶん、そっちも同じだと思う』と送った。 今度は、既読だけがついた。景都もまた、答えを短くできずにいるのかもしれない。 返信を待つ間に、灯が帰り支度をしながらこちらを見る。 帰り支度をしていた灯が、私のスマートフォンを顎で示した。「深見さんから返事待ち?」 何で分かるのかと返すと、さっきから画面を閉じるふりだけしていると言う。「そんな顔、ないから」 灯はエレベーターのボタンを押した。「ある。説明できない二人の顔」 灯は笑ってエレベーターへ向かった。私は画面へ戻る。景都の返事は、いつもより遅かった。画面を閉じる理由は、それでも見つからなかった。 景都から電話が来たのは、帰宅してシャワーを浴びたあとだった。『宮坂さんには、何て言われた』「私たち、面倒だって。否定しづらいけ
last updateLast Updated : 2026-09-14
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第94話 助けないで、見ていて

「恋人って言ったら、その次が勝手についてきそうで嫌。毎日連絡するとか、泊まるとか」『まだ何もしてないだろ』「だから聞いてる。景都は平気?」 短い間があった。『平気ではない。できれば、今すぐそう言いたい』 電話の向こうで、短く息を吐く音がした。『でも、言ったら君が――』「そこで止めて。今、私の返事まで考えたでしょう」 電話の向こうで景都が黙った。『……考えた』 私はタオルを外し、髪を指でほぐした。「誰かに聞かれるたび、同じ説明をするのは面倒だね」 景都は、森下には「定期的に会っている」までで止めればよかったと言う。「週一とは言ってないよね」『例外の週もあるから言ってない』 濡れたタオルを籠へ入れながら、私は笑った。「そういう正確さを足すから長くなるの」 言葉を決める話は、顔を見ずに続けるほど会議に近づいていく。「今度、会って話す?」「何を」「……分からない。だから会う」 濡れた髪が首筋へ貼りつき、指で払った。電話の向こうで、景都が短く息を吐く。「じゃあ、会うことだけ」 数秒のあと、土曜は空いているかと聞かれた。 予定表を見る前に、「空いてる」と答えていた。『何も決めてない。会えるかだけ聞きたかった』 濡れた髪をタオルで包みながら、私は小さく笑った。「じゃあ、今はそれでいいよ」 電話を切る前、景都が一度「真帆」と呼んだ。「何」『いや』 今度は私が笑う。 土曜の予定も、店もまだ決まっていない。 それでも、会うことだけは二人とも迷わなかった。 名前は決まらない。 次に会う日だけは、すぐ決まった。 土曜より先に、景都と仕事で会った。 LATTICE SHIELDがmellow noteの新しい物流拠点の危機管理支援に入り、合同会議が設定されたからだ。 会議室へ入ると、景都はすでに
last updateLast Updated : 2026-09-14
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第95話 一つだけ、力を貸して

「十二ページ」「ありがとうございます」 それ以上は何も言わない。 会議後、同僚が小声で言った。「深見社長、厳しいけど早いですね。論点がずれない」「そうですね」 元夫だから知っていることを足す必要はなかった。 皆と別れ、エレベーターを待っていると、後ろから足音が近づく。「水城さん」 振り向くと、景都が資料を閉じながら歩いてきた。「深見社長も、まだお仕事ですか」「今終わった」 扉が開き、二人だけで乗る。閉まった途端、景都の視線から役員席の硬さが少し抜けた。「真帆。最大湿度のデータ、今日中に出せる?」「最初に言うこと、それなんだ」「会議で今日中って言っただろ。あとで忘れたら、それこそまずい」 私はスマートフォンを出し、共有フォルダから資料を送った。 送信すると、景都の端末にも同じ資料が届く。「確認した」 早すぎると言うと、会議で約束したからだと返される。仕事の時は本当に迷わない。 景都は閉じかけた資料を持ち直した。「迷っている時間を、人に待たせないだけだ」 送信済みの表示を閉じながら、ふと可笑しくなった。「会議中、ずっと水城さんだった。そうしてほしいって言ったのは私だけど、少しだけ寂しかった」 言ってから、自分で驚いた。景都も一拍遅れてこちらを見る。「俺も、会議が終わるまで名前を呼べないのは思ったより長かった」 エレベーターが一階へ着く。 会議では、水城さん。 扉が開く直前、景都がもう一度だけ言った。「真帆、土曜な」 一階へ着くと、ロビーには私の同僚が二人いた。 景都はすぐ「水城さん」に戻り、私は「お疲れさまでした」と頭を下げる。 会社の外へ出るまで、その距離は崩れない。 別れ際、同僚が「深見社長、仕事早いですね」と言う。 私は「そうですね」とだけ返した。 夫だった頃の癖も、今日見た厳しさも、私の中にだけ残す。 改札へ向かう直前、景都から短いメッセージが
last updateLast Updated : 2026-09-15
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第96話 次は、シンガポールで

「確認できました。ご質問の条件は高湿度時ですので、こちらの数値になります」 質問者が頷く。 そのあとも二問続いた。私は一度だけ言葉に詰まり、今度は「確認して後ほど返します」と答えた。 次の質問へ進んだ。 プレゼン終了後、部長に「途中、危なかったね」と笑われ、私も笑った。廊下へ出ると、景都から『終わった?』と届いたので、『今。さっきの数値を知っていたなら、少しくらい助けてくれてもよかったのに』と返した。 送信してから、自分でも矛盾していると思う。 間を置かない返答だった。『助けてと言われなかった。俺が答えたら、水城さんのプレゼンではなくなる』 腹が立つほど正しい。それでも、あの場で景都が代わりに答えていたら、私はもっと腹を立てただろう。『困った時は、ちゃんと頼む』『……分かった』 画面上の約束は簡単だった。実際に待つことの方が、景都には難しい。 会社を出る頃、景都がロビーにいた。「何か食べるか」「まず、お腹すいた」「何がいい」「今から決めるよ」 景都はプレゼンの成功を自分の手柄にしなかった。「助けなくてよかった」とも言わない。 エレベーターへ向かいながら、私は聞く。「プレゼン、どこまで見てた?」「同じフォルダを二度開いたあたりから。箱のラベルを見て、資料を探すのをやめたところも見てた」「助けなかったことじゃなくて、ちゃんと見てたことには礼を言う。ありがとう」 景都はすぐに受け取らず、少しだけ視線を逸らした。 ロビーを出る時、私は自分の手のひらを見た。資料を握っていた跡が薄く残っている。 景都が答えを知っていたことより、知っていて黙っていたことの方が後から効いてきた。 代わりに、駅前の店を二軒スマートフォンに出した。 私は画面を見ずに言う。「店は私が決めるからね」「分かった」 店へ向かう途中、私はサンプル箱を抱え直した。 駅へ向かう途中、景都が「次も黙ってた方がいいのか」と言った。
last updateLast Updated : 2026-09-15
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第97話 即答できること

 今は、何も来ない。◇ その日の夜、私は自分から電話した。『どうした』「一つだけ、力を貸してほしい。安全評価ができる人を探してる。五営業日以内で、海外施設の経験があって、うちの取引先と利害関係がなくて、英語の報告書まで出せる人」 電話の向こうが静かになる。景都の頭の中では、もう候補者と日程と費用が並び始めているのだろう。「でも、お願いしたいのは紹介だけ。条件の話も、誰に頼むかも、こっちで決めたい」『分かった。条件に合う人だけ出す。あとは何もしない』 言い切るまでに一拍あった。いつもならその先までやりたくなるのを、自分で止めた気配があった。 二十分後、二人分の経歴と連絡先だけが送られてきた。 余計な説明も、先方への根回しもない。 一人は元保険会社のリスクエンジニア、もう一人は物流施設専門の安全監査人。どちらも条件を満たしている。 添付された経歴書には、海外物流拠点の監査歴と対応言語だけが簡潔に並んでいた。景都のコメントは『どちらも空き確認済み』の一行だけだった。 そこだけは先に確認したらしい。 私は少し迷い、『空いてるかまで聞いたの? 紹介だけって言ったよね』と送ると、『頼めない人を出しても仕方ないと思った。日程だけ聞いた』と返ってきた。 自分に甘い気もする。それでも、見積もりも条件交渉も進めていない。昔の景都なら、「紹介だけ」という線を越えたことにすら気づかなかっただろう。◇ 翌朝、私は二人へ自分で連絡した。 一人目は日程がぎりぎりで、二人目は翌日から資料を見られるという。オンラインで三十分話し、現地の避難導線と保管スペースを優先して確認したいと言った二人目へ依頼する。 見積もりを部長へ回し、契約手続きも自社ルートで進めた。 景都の名前を出したのは最初の紹介だけだった。 夕方、景都へメッセージを送る。『一人に決めた。契約もこっちで進められた。助かった』と送る。 答えは早かった。『それだけ?』 思わず画面を見直し、『ほかに何が欲しいの』と返すと、『
last updateLast Updated : 2026-09-16
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第98話 嫌だと言える人

 最初は数日単位の出張。結果が良ければ、現地向け商品の検討範囲を広げる。 部長の説明を聞きながら、私は手帳の秋のページを開いた。 国内の発売準備と重なる週がある。戻った翌日に撮影、三日後には量産前の仕様確認。楽ではない。 それでも、日程を見て最初に浮かんだのは「無理」ではなかった。 嬉しかった。 迷うより先に、行きたいと思った。◇ その夜、景都へ話す。「候補じゃなくなった。来月の地域テスト、中心メンバーで行くことになった」 景都は箸袋を折りかけたまま、すぐには質問しなかった。「最初は何日?」「三日。部長と海外担当が一緒で、現地チームにも入ってもらう」 必要な安全確認を終えてから、景都は少し声を落とした。「行きたい?」「行きたい」 自分でも驚くほど早く答えた。仕事のことだけは、怖さより先に欲しいものが口から出る。 景都の指が止まる。「そこは迷わないんだな」「だって、行きたいから。……景都は嫌?」「やめてほしいとは思わない。ただ、これからもっと遠くへ行く仕事が増えると思うと、嫌だ」 対策も条件も続かなかった。思ったより単純な感情だけが、折りかけの箸袋の上に残った。「今回は三日だよ。その先のことは、まだ何も決まってない」「分かってる。三日でも、嫌なものは嫌だ」 景都は日程も航空券も確認しなかった。代わりに、私の前にある企画書を指す。「現地では、何を確かめたい?」「売り場でのサイズ感と、持ち手の長さ。あとは金具の色。前回と客層も照明も違うから、写真だけでは決めたくないんだ」 話し始めると止まらない。私は資料を開き、三店舗の写真を見せた。「この店は通路が狭いから、小さい方が有利だと思う。でも前回は大きい方が売れた」「理由は」「まだ分からない。だから見たい」 景都が画面を拡大する。「棚の高さ、違うな」「そこも見る」 仕事の話をしている時だけは、先の
last updateLast Updated : 2026-09-16
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第99話 元妻ではなく、水城真帆

「行きたい」と即答したことを、帰宅してから何度か思い返した。 景都とのことなら、いつも時間がかかる。 会いたいのか。帰ってほしいのか。恋人と呼びたいのか。 仕事だけは違った。 現地で商品を見たい。自分が作ったものが別の国でどう使われるか知りたい。 答えはすぐ出る。◇ 翌日の夜、景都から電話が来た。『今、少し話せる? 昨日のシンガポールのこと』 私は机の上のチェックリストから顔を上げた。現地スタッフへ聞く質問は十六個まで増え、返品理由の欄だけ黄色くしてある。仕事の準備は、考えるほど具体的になる。景都とのことは逆だった。『君が行きたいなら行けばいい。止めるつもりはない』「それは昨日も聞いたよ。まだ何か残ってる?」 電話が静かになる。景都は仕事なら迷っている時間まで先に切るのに、私へ言う言葉だけは遅い。『三日会えないことだけじゃない。こういう仕事が増えて、君がもっと遠くへ行くようになるのが嫌だ』 昨日より、はっきりしていた。 私はチェックリストを見る。店舗ごとの陳列幅、スタッフへの質問、返品理由。項目が増えるほど楽しみになる。「たぶん、増えると思う。私も増やしたい」『それを聞いて、やっぱり嫌だと思った』 解決策は続かなかった。『嫌だ』だけが、通話の向こうに残った。「それ、昨日言えばよかったのに」『言ったら、君が仕事を選んだことを気にすると思った』「たぶん気にする。でも、そこまで先に考えなくていい」 私は「ごめん」と言いかけて、飲み込んだ。「それでも私は行くよ」『ああ。それでも嫌だ』 今度はすぐ返ってきた。 電話は切れなかった。行きたい私と、嫌だと言う景都が、そのまま同じ通話の中にいた。 電話の向こうで、駐車場の機械音が聞こえる。景都はたぶん車へ乗るところだ。 重くなりすぎた空気を逃がすように、「帰ったら何を食べたい?」と聞いた。『まだ出発もしてないだろ』「帰ってきた時の話。蕎麦以外で」『蕎麦が
last updateLast Updated : 2026-09-17
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第100話 知らない顔を見つける

 命令ではない。予定を変えろとも言われていない。 だからこそ、仕事中に思い出す。 夜、駅前で待っていると、景都は到着してすぐスマートフォンを見せた。「店は二つ見つけた。どっちか、気になる方ある?」 画面の下に、来月の私の出張週が見えた。景都の指がカレンダーへ一度触れ、すぐ閉じる。「今、シンガポールに行ける予定を探してた?」 景都はカレンダーを閉じた。見ていたのは会議の日程だけで、航空券は取っていない。「会いたいなら、来てもいいのに」 彼はすぐには答えず、閉じた画面へ指を置いた。「会いたい。でも、仕事で行く君を追いかけるのは違うと思った」 正しいことを言われた、というより、行きたいまま止まっているように聞こえた。「昨日、嫌だって言われたの、少し嬉しかった」 景都がこちらを見る。「俺は嬉しくない。できれば行ってほしくない」「うん。でも私は行く」「ああ。行くなら、行ってきて」 それで話は終わった。私は画面に並んだ二軒を見比べた。 夕食は候補の二軒ではなく、途中で見つけた定食屋に入る。「今日はここがいい」 途中で見つけた定食屋を指すと、景都は予約画面を探すように入口を見た。「予約してないけど、席は半分空いてる。定食屋まで予定どおりにしなくていいでしょう」「混む時間だから確認しただけだよ」 少し納得しない顔のまま、それでも私の後ろから店へ入った。 景都は生姜焼き、私は焼き鯖。 出張の話は一度もしなかった。 代わりに、新しい社員の研修が予定より長引いた話と、mellow noteの撮影でモデルの靴が一足足りなかった話をする。 嫌だと言ったからといって、毎回そこへ戻らなくてもいい。 食後、景都が会計票を取る。「今日は俺が払う。嫌だと言って空気を重くした分」「それを慰謝料みたいに精算しないで。次も言えなくなるでしょう」「じゃあ、普通に払いたいから払う」 珍しく景都の口元が緩んだ。 会計のあと、景都が
last updateLast Updated : 2026-09-17
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