All Chapters of 嫌いだった女が死んだ夜、元夫の愛が怖くなった ――もう一度、あなたを愛せるまで――: Chapter 1 - Chapter 10

104 Chapters

第1話 「消えて」と送った夜

 瀬名莉子が死んだ夜、警察に見せられたのは、私が送った三文字だった。 『消えて』  送信時刻は午後八時十三分。彼女が恋愛リアリティ番組『RE:PAIR』の共同生活棟、その設備区画で発見される一時間半ほど前だった。  取調室の机には、透明な袋へ入れられた私のスマートフォンと、口をつけていない紙コップが置かれていた。刑事は調書を指で追う。職業欄には〈生活雑貨ブランドmellow note 商品企画〉と印字されていた。 「水城真帆さん。このメッセージは、あなたが送ったもので間違いありませんか」  画面の三文字は指先で隠せるほど小さい。それでも、もう消せなかった。 「はい。私が送りました」  死んでほしかったのかと聞かれれば、違うと答える。けれど、私たちの前からいなくなればいいと思ったことまで否定すれば、そのほうが嘘になる。◇ あの朝、瀬名はまだ生きていた。  共同生活にも慣れてきた頃だった。番組が借り切った家には油と照明機材の熱がこもっていた。離婚や破局を経験した男女が、一か月、仕事や自宅への出入りを挟みながら共同生活棟を拠点に過ごし、デート企画を重ねて、最終生放送で関係を選び直す。  復縁すると決めて参加したわけではない。一か月も顔を合わせれば、戻りたいのか、もう終わっているのか、そのくらいは分かると思っていた。  私の相手は、五年前に離婚した元夫、深見景都だった。企業の炎上や事故対応を請け負う危機管理会社LATTICE SHIELDの代表だ。  キッチンには三台のカメラがある。まな板だけでなく、誰が誰を見たかまで残す配置だった。 「はい、お料理のシーン頂きます。カメラ回します」  赤いランプが点く。私はパプリカを同じ幅に切った。  視界の端に、赤いスカートが入る。 「真帆さん、お手伝いしますよ」  瀬名莉子がレンズへ笑いかけながら隣へ立った。元アイドルで、途中参加の〈New Choice〉。壊れた関係へ新しい選択肢を差し込む役だ。 「ありがとうございます。でも、大丈夫です」 「糸、出てます。危ないですよ」  断ったのに、瀬名の指が背中へ回った。衣装の留め具を摘まみ、首の下に触れる。布を直すだけにしては長い。  振り払えば、その瞬間だけが使われる。若い女に苛立つ元妻。番組が欲しがる画が浮かんだ。  その一瞬の遅れを、瀬名は見
last updateLast Updated : 2026-08-03
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第2話 恋敵は流産を知っていた

 医務スタッフは傷を浅いと判断した。縫合は不要。腱にも神経にも異常なし。指先の感覚も正常。  結果を項目に分ければ、安心してよいはずだった。  それでも私が見ていたのは、景都の親指についた血だった。私の血を拭ったまま、本人は気づいていない。 「もう離して」  固定用のテープを押さえていた指が、数秒遅れてほどけた。景都は血のついたハンカチを四つに畳んだ。 「それ、もう捨てて。血もついてるし」 「洗えば落ちる」 「新しいの、いくらでもあるでしょ」 「これは、まだ使える」  新しい物なら、彼はいくらでも買える。結婚していた頃、傷んだワイシャツもネクタイも迷わず処分していた。それなのに、白い布だけはポケットへ戻した。  理由を聞けば、ハンカチ以外の答えまで期待してしまいそうで、私は黙った。  控室へ戻る廊下で、瀬名がスタッフと話していた。私を見ると、眉尻を下げる。 「真帆さん、大丈夫ですか?」  ついさっき、私の傷を抉った人とは思えない声だった。 「……誰に聞いたの、それ」  近くのスタッフが顔を上げる。瀬名はその視線を確かめてから、少し困った顔を作った。 「今、聞きます?」 「いつなら言うの」 「景都さんが、話せるようになった時じゃないですか?」  スタッフが離れる。  瀬名の笑顔が、少しだけ薄くなった。 「……秘密だったんですね」 「だから、誰に聞いたの」 「私に聞かれても」  瀬名は赤いスカートの裾を直した。  声だけが、少し低くなる。 「……そこは言えないです」  その時、廊下の向こうからスタッフが戻ってきた。  瀬名はすぐに眉尻を下げる。 「無理しないでくださいね。傷、痛そうだから」  カメラがあれば、その一言だけが残る。  瀬名はスタッフに呼ばれ、赤いスカートを揺らして去った。◇ その夜、番組公式アカウントが最終週の予告を公開した。  薄暗い廊下。壁際の景都。瀬名が彼のネクタイへ手を掛け、背伸びをする。赤い唇が頬へ触れる寸前で画面が暗転した。 『FINAL WEEK――元妻か、新しい恋か』  実際に触れたかどうかは映っていない。それでもコメント欄では、二人はすでにキスをしたことになっていた。 『元妻の前で新しい女とキスとか、えぐい』 『結局、若い女を選ぶんだ』 『水城さん、かわいそう』
last updateLast Updated : 2026-08-03
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第3話 血のついたハンカチ

 翌朝、血のついたハンカチは景都の手元から消えていた。  撮影前のダイニングには、冬の光が長いテーブルへ差している。景都はいつもの席でブラックコーヒーを飲んでいた。私の前には、牛乳を多めに入れたカフェラテが置かれている。  頼んだことはない。共同生活が始まってから、朝になると必ずそこにあった。 「昨日のハンカチ」 「洗いに出したよ」 「そこまでする?」 「使える」  聞きたいのは布のことではない。 「瀬名さんのこと、何か分かった?」 「まだ確かなことは言えないんだ」 「私のことなのに、私だけ待つの?」  景都はようやくタブレットを伏せ、包帯の端から覗く指を見た。 「まだ腫れてる」 「今、指の話してないよ」  彼の口が閉じる。  傷なら見れば分かる。私が何を知りたいかには目を向けない。 「今日は会社へ行く。サンプルの確認が残ってるから」 「来るなと言われただろ。休め」 「景都が決めることじゃないよ」 「行けば余計に騒ぎになる」  椅子を引く音が、静かな部屋へ響いた。 「同じにしないで」  私はバッグを持った。  テーブルの上でスマートフォンが震える。  昨夜のグループチャットに、また瀬名の名前があった。 『真帆さん、朝ごはん食べられました?』  その下に笑顔のスタンプ。  景都にも見える位置だった。 「優しいね」  自分でも嫌な声が出た。  景都は画面を見ただけで、何も言わなかった。◇ 会社へ着くと、受付の電話が鳴り続けていた。  机には、引き手の幅が三ミリ違うポーチの試作品が二つ並んでいる。片方を開き、閉じ、もう一度開いた。気づくと同じ動作を三回していた。  金具は正常に動く。問題があるのは商品ではない。  机の端でスマートフォンが震えた。番組公式アカウントが短い動画を上げている。 『撮影中にアクシデント――「無理しないでくださいね」真帆を気遣う莉子』  映っていたのは、眉尻を下げて「無理しないでくださいね」と言う瀬名だけだった。耳元で流産を口にした声は入っていない。コメント欄の上には、『莉子ちゃん優しすぎる』が浮かんでいた。  画面を伏せ、三ミリの修正線へ戻った。  灯が椅子を蹴るような勢いで来た。 「送らなくていい。帰る」 「金具の確認だけ――」 「真帆さん。今、金具の話してませ
last updateLast Updated : 2026-08-03
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第4話 私を飛ばさないで

 景都は本当に、粥を温めるためだけに台所へ入った。  私の部屋の道具なのに迷わず木べらを取り、鍋を弱火へかける。テーブルへ伏せたスマートフォンが何度も震えた。 「出れば?」 「あとでいい」  何をしているのか尋ねると、記事の削除依頼、取引先への説明、mellow noteへの問い合わせ窓口を動かしていると言う。声は会社の会議と同じだった。 「何で、うちの会社まで動かしてるの」 「もう被害が出てる。問い合わせも取引保留も増えてる」  机の試作品が照明を鈍く返した。仕事の場所へまで、彼の判断が入り込んでいる。 「どうするかは、うちの会社が決めることだよ」 「分かってる。でも、放っておけないんだ」 「私に聞かないまま?」  景都は鍋をかき混ぜた。  シャツの袖は肘まで折られていた。木べらを返すたび、袖口から覗く腕の筋がわずかに動き、銀色の腕時計が湯気の向こうで光る。  結婚していた頃、熱を出した夜にも、私は同じ角度からその手を見ていた。  木べらが鍋底を擦る音が、返事の代わりに続く。  玄関では、入っていいかと聞いた。私の会社へ入っていいかは、聞かなかった。 「会社のこと、もう止められないの?」  景都は木べらを止めた。 「今動いてる分は、すぐには止められない」 「そう」  実際、問い合わせが減れば会社は助かる。だから余計に、うまく怒れなかった。  水を取ろうとして、包帯がボトルへ当たる。  景都が手を伸ばしかけ、止めた。 「ただ……知らないところで、うちの会社にまで行かないで」  包帯の下で傷が脈打った。 「明日、何をしたか見せて」  景都は何か言おうとして、鍋へ目を戻した。  スマートフォンがまた震える。景都は画面を見ず、火を止めた。 「……粥、冷める」  返事ではなかった。  それ以上話す体力がなく、椅子へ座った。白い湯気が狭い台所に広がる。  結婚していた頃、熱を出すたび景都は同じ粥を作った。水も薬も、次の診察も、私が考える前に整った。  何が怖いのかを聞かれた記憶だけがない。  景都は椀を置き、包帯に気づいてレンゲの柄を右へ向けた。そういう細部には迷わない。  レンゲの向き一つなら、私が困る前に分かる。その手際を嫌い切れないことが、一番厄介だった。 「景都」  離婚してから、公の場ではずっと
last updateLast Updated : 2026-08-03
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第5話 俺は君を選ぶ

 景都が作った粥は、やはり薄かった。  一口食べると、米の甘みより先に湯の味がした。 「……ちょっと、味が薄すぎるんじゃない?」 「少し足せばいい。胃に負担にならない程度に」  景都の手が、塩の瓶へ迷いなく伸びる。 「……そういうところ」 「何が」 「私が頼む前に、もうやってる」  手が、瓶の手前で止まった。  二人の間の椀から、細い湯気が上がっている。  景都は塩の瓶を見たまま、手を引いた。  しばらくして、私は自分で少しだけ振った。 「……これくらいでいい」  景都は椀を見たが、もう手は出さなかった。  湯気が少し薄くなった頃、景都が口を開いた。 「俺は君を選ぶ」 「……同じこと、何度も言わなくていい」 「昨日から、そこだけは変わってないよ」  告白というより、決定事項を読み上げるような言い方だった。 「私が何を選ぶかは?」 「それは、まだ分からない」 「復縁って言ったら?」  そこで初めて、景都の指が止まった。 「……その時、話す。今決めてるのは、俺が誰を選ぶかだけだ」  瀬名ではないのかと確かめると、彼は短く否定した。  一番聞きたいキスについては言えないままなのに、そこだけは揺らがない。  玄関を出る前に、景都は空いた容器を見た。 「残り、食べられそうか」 「お腹がすいたらね」  それだけで帰っていく背中を、扉を閉めるまで見送った。◇ 翌日の撮影で、瀬名は何も知らない顔をして私の隣へ立った。 「昨日、真帆さんの家に行ったんですってね、景都さん」  撮影用のグラスを磨いていた手が止まる。  瀬名はカメラの赤いランプを確かめてから、笑った。 「さっき本人に聞きました。私との撮影のあと、何してたんですかって」 「それで?」 「真帆さんのところへ行ったって。それに、選ぶのは真帆さんだって」  私はグラスを置いた。昨夜の言葉を、私にだけ聞かせたのではなかった。そのことが嬉しいのに、瀬名の前では顔に出したくなかった。 「自分から聞いたんだ」  瀬名の指が止まった。  近くでケーブルをまとめていたスタッフが、一度だけこちらを見る。 「デートの相手がそのあとどこへ行くかくらい、気になるでしょう」  瀬名はすぐに笑い直した。 「気にしてるんですか? 景都さんが私とキスしたか」 「瀬名さ
last updateLast Updated : 2026-08-03
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第6話 復縁しろとは言わない

 翌朝のダイニングには、パンの焼ける匂いだけがあった。固定カメラの赤いランプはまだ消えている。  窓際で、景都は冷めかけたコーヒーを前にしていた。私はトーストの端をちぎる。  焼き目の薄いところだけが、指の間で細かく崩れた。 「昨日のこと」  また「俺は君を選ぶ」と言われ、三度目だと返した。 「変わってない」 「それで、選んだあとどうするの」  景都はカップへ手を伸ばし、触れずに戻した。 「……復縁しろとは言わない」  彼はカップではなく、テーブルに残った輪染みを見ていた。  予想していなかった。 「だが、俺は君が欲しい」  声は低く、告白というより、隠していた事実をようやく机へ置いたように聞こえた。  トーストをちぎる指が止まる。会社では言葉に詰まらない人が、その一言だけは目を逸らして言った。 「でも、君がどうするかは……」  そこで口を閉じる。 「待つってこと?」 「分からない。そういう言い方で合っているかも」  景都が〈分からない〉と言うのを、結婚していた頃はほとんど聞かなかった。 「欲しいって言われても困る」 「そうか」  それきり黙るので、そこで終わるのかと聞いた。 「何を言えばいい」 「私に聞かないでよ」  景都は目を伏せたまま、返事を探すように親指でカップの縁を一度なぞった。  トーストの屑が指先に残った。  廊下の向こうで一度、足音が止まった。すぐに遠ざかり、代わりにスタッフが撮影開始を知らせに来た。  廊下の向こうで照明が点き、薄かった朝の光が白く塗り替えられる。二人だけの時間が、そこで切れた。景都は立ち上がり、包帯の端から見える赤みへ目を落とす。 「医務スタッフに見せて」 「あなたじゃなくて、医務スタッフにね」  何か言いかけ、景都は頷いた。 「それでいい」  彼が出たあと、冷えたトーストを口へ入れた。〈欲しい〉という言葉だけが飲み込めずに残った。  送迎も復縁も押しつけなかった。そのせいで、〈欲しい〉という一言だけが余計に重くなった。◇ 撮影が始まると、瀬名は朝より濃い赤のリップを塗り、私の隣へ立った。 「真帆さん、眠そうですね」 「一応、寝ました」 「景都さん、昨夜また来てたんでしょう?」  正面のレンズを見る。 「それ、番組で使うんですか?」  瀬名は、使いや
last updateLast Updated : 2026-08-03
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第7話 愛されない方が幸せ

 瀬名が私を呼び止めたのは、夕方の撮影が終わったあとだった。  スタッフ用の照明が落とされ、リビングには常設カメラの小さな待機灯だけが残っている。窓の外は暗く、ガラスにはソファと、立っている私たちの姿が二重に映っていた。 「真帆さん。ちょっとだけ」  瀬名はソファへ座らず、窓際のテーブルにスマートフォンを伏せた。カメラの死角を探すように、半歩だけ位置を変える。 「景都さん、本気ですね。真帆さんのこと」  その言葉を、彼女の口から聞きたくなかった。番組だからそう見えるだけだと返すと、瀬名は薄く笑った。 「そういうことにしたいんですね」  カーテンの隙間から外灯の光が入り、頬を細く照らしていた。撮影中の笑顔より、今の顔のほうが幼く見える。 「何が言いたいの」  瀬名は窓のほうを向いたまま言った。 「あの人に愛されない方が、幸せですよ」  室内の冷房が切れ、急に静かになった。遠くで食器を片づける音がする。  理由を尋ねると、彼女は「真帆さんのことになると、止まらないから」と答えた。  消えていく記事。私の会社へ先回りした連絡。夜中に運ばれてきた粥。瀬名は、そのどこまでを見ていたのだろう。 「あなた、景都の何を知ってるの」 「全部知ってるわけじゃないです。見てれば分かることくらい」 「……それ、あなたに言われたくない」  その時、瀬名の指が伏せたスマートフォンの角を強く押した。ケースには小さな傷がいくつもある。 「でも真帆さんも、ずるいですよね」  声から、カメラ向けの甘さが抜けていた。  何がずるいのかと聞くと、瀬名はすぐには答えなかった。窓に映った顔だけが、私ではなく自分を見ている。 「頼んでないって顔してるのに、誰かが来ても追い返さない」  瀬名はスマートフォンの角を爪で押した。 「……そういうの、ずるい」 「私は、景都に来てほしいなんて頼んでない」 「知ってます。頼まなくても来るから、腹が立つんです」 「だったら、私に怒らないで。来たのは景都でしょう」  瀬名の指が、伏せたスマートフォンの角で止まった。窓に映った横顔から、笑みだけが消えた。 「私だったら、欲しいなら言います」 「欲しいものって……景都のこと?」  瀬名は常設カメラへ一度だけ視線を送り、肩をすくめた。 「番組的には、そうですよね」  また
last updateLast Updated : 2026-08-03
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第8話 キスに見える予告

 番組は、瀬名と景都を二人きりにした。 「デート企画です」  朝の打ち合わせで、柊プロデューサーが進行表を置いた。ホテルのラウンジ、夜景、細いグラス。見せたい画は、もう紙の上にできている。  景都は場所と時間を確かめたあと、私の予定を尋ねた。 「水城さんは別企画です」 「深見さん。ここは必要な流れです」  柊の声は穏やかだったが、進行表には確定の文字が入っていた。  景都がこちらを見る前に、私は資料を閉じた。 「行けばいいじゃない。番組の企画なんでしょう」 「君は、それでいいのか」 「午後は会社に戻るから」  答えにはなっていなかった。  廊下には番号の振られた機材ケースが積まれている。人の感情も、番組では使う順番まで決められていた。◇ 午後、会社でポーチのサンプルを見ていると、灯から動画が届いた。 『見ない方がいいかも』  ホテルの窓際で瀬名が笑い、景都のネクタイへ手を伸ばす。景都は触れられる前に、自分で結び目を直した。  次のカットでは二人の肩が近い。暗い照明と角度だけで、親密な時間に見える。  画面を伏せ、三ミリ違う引き手を並べた。後輩にどちらがよいか聞かれ、灰色を指すつもりで青を示す。 「ごめん。こっち、灰色」 「水城さんが間違えるの、珍しいですね」 「寝不足。続けて」  剥がした付箋に細い繊維が残った。仕事へ戻るたび、動画の中の赤い唇が視界の端へ戻ってきた。◇ 夜、共同生活棟へ戻ると、景都が玄関で待っていた。足元には飲みかけの水がある。 「話せるか?」  別のことを聞くつもりだった。 「瀬名さんとのデート、楽しかった?」 「撮影だ」 「知ってる。でも、分かってても……」  その先を言う前に、廊下の奥から足音がした。  瀬名がホテルの服のまま現れた。片手のヒールが、歩くたび膝へ当たる。 「おかえりなさい。景都さん、撮影が終わってからずっと待ってましたよ」 「瀬名さん、もういい。上に行ってくれ」 「はいはい。お邪魔しました」  瀬名は私たちを見比べ、階段へ向かった。ヒールの踵が手すりに当たり、硬い音を残す。  景都は追わなかった。ドアが閉まっても、視線は私から動かない。 「……行かなくていいの?」 「どこへ」 「瀬名さんのところ」 「なぜ?」  本当に分からない顔だった。 「デ
last updateLast Updated : 2026-08-03
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第9話 俺以外は嫌だ

 景都は、言ったあとで取り消さなかった。  玄関の照明は白く、顔色も皺も隠してくれない。私はコートを着たまま彼と向き合っていた。外から持ち込んだ冷気が足元に溜まり、閉めたばかりの扉が小さく軋む。 「それ、かなり勝手だよ。瀬名さんとデートしておいて」  景都は、あれは仕事だと短く返した。仕事なら何をしてもよいのかと聞くと、「してない」と言いかけ、そこで口を閉じる。  キス。  その二文字を、私はもう一度、自分から出したくなかった。口にした途端、予告映像を信じ、嫉妬していることまで認める気がした。 「今は言えない」  また同じ場所へ戻った。 「じゃあ私も、誰を選ぶかはまだ言わないよ」 「言わなくていい。俺は俺のことを言っただけだ」  言葉だけなら正しい。けれど景都の眉間には深い皺が寄っている。  その顔をやめてと言うと、彼は嫌だから仕方がないと答えた。昔は、その速さを頼もしいと思った。停電した夜には懐中電灯の場所を知っていたし、旅行先で私が熱を出せば病院と帰りの便を同時に手配した。  けれど、私のことまで同じ速度で決められると、息をする場所がなくなった。 「私が別の人を選んだら、止める?」  今度は、わずかに間があった。玄関脇の時計が一秒ずつ進む。 「……止めたい。でも、止める権利はない」 「権利があるかどうかを聞いてるんじゃない。景都がどうするかを聞いてるの」  景都は困った顔をした。仕事の話なら制度も責任もすぐ言葉にできるのに、感情へ入ると急に語彙が減る。  どうするつもりなのかと尋ねると、彼は「嫌だと言う」と答えた。それ以上に何ができるのか、本当に分からないらしい。  私は靴を脱ぎかけ、片方だけ踵を浮かせたまま笑った。 「会社なら、条件を変える?」 「必要なら変える」  景都は冗談を聞いた顔をしなかった。玄関の扉へ置いていた手を下ろし、本気で考え込んでいる。 「予算を増やして、競合を潰す?」 「相手と状況による」  その即答に、私は笑い損ねた。「怖いんだけど」  景都はようやく私の顔を見た。「恋愛でそれをやったら、君が一番嫌がるだろ」  景都の口元がわずかに緩んだ。私も笑いそうになったが、先に別の記憶が戻った。 「分かってなかったこと、あるでしょ」  笑みが消える。彼は反論しなかった。  玄関の棚には、共
last updateLast Updated : 2026-08-04
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第10話 消えた記事、残った記事

「おやすみ」で会話を切ったあとも、廊下の窓には玄関に残る景都が映っていた。  私が角を曲がるまで、彼は追ってこなかった。  翌朝、リビングのテレビには検索結果の画面が映っていた。  昨日まで上位に並んでいた記事のいくつかが消え、リンクを開いても〈ページが見つかりません〉と表示される。別の媒体には訂正文が出ていた。  瀬名はソファの端に座り、砂糖を二袋入れたコーヒーをかき混ぜていた。 「速いですね。景都さん」  スプーンの先で画面を示す。私と景都の結婚を〈金目当ての成り上がり婚〉と書いたまとめサイトは、見出しごと消えていた。 「LATTICEの法務、夜中に動いたみたいですよ。私の事務所にも連絡が来たので」  瀬名はカップを持ち上げた。底に溶け残った砂糖が、白い筋になっている。 「真帆さんのためなら、何人敵に回しても平気なんですね」  会社のためかもしれないと返したが、彼女は、私の商品が燃やされるのを止めていたと続けた。  スマートフォンを開くと、灯から未読が来ていた。 『深見さん側から取引先リストについて確認された。勝手に渡してない。あとで話す』  胸の奥が熱くなる。これ以上はしないでと言う前から、もう別の場所へ手が伸びていた。  瀬名の事務所にも連絡が入ったのは、番組関連の記事をまとめて処理したかららしい。ただし、彼女を〈略奪女〉と呼ぶ記事は消されていなかった。テレビ画面の端に残った見出しには、アイドル時代の写真が使われている。 「自分の記事だけ残ってるの、嫌じゃないの?」 「平気なわけないですよ。見れば腹も立ちます」  瀬名は迷わず答えた。カップの縁についた砂糖を指で拭い、その指をティッシュで包む。 「でも、嫌だからやめるって言える仕事ばっかりじゃないし」 「だからって、わざわざ私を煽る必要ある?」  景都は煽っても動かないが、私は動くからだと、瀬名は悪びれずに言った。 「やっぱり、性格悪いね」 「今さらですか。自覚はあります」  怒るかと思ったが、彼女はむしろ少しだけ肩の力を抜いた。  玄関が開いた。  景都が入ってくる。昨夜と同じスーツではない。いったん会社へ戻り、またここへ来たのだろう。目の下に薄い影があった。 「真帆」 「ちょうどよかった。会社に何したの」  景都は靴を脱ぐ前に立ち止まり、広報同士をつ
last updateLast Updated : 2026-08-04
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