All Chapters of 嫌いだった女が死んだ夜、元夫の愛が怖くなった ――もう一度、あなたを愛せるまで――: Chapter 1 - Chapter 10

12 Chapters

第1話 「消えて」と送った夜

 瀬名莉子が死んだ夜、警察に見せられたのは、私が送った三文字だった。『消えて』 送信時刻は午後八時十三分。彼女が恋愛リアリティ番組『RE:PAIR』の共同生活棟、その設備区画で発見される一時間半ほど前だった。 取調室の机には、透明な袋へ入れられた私のスマートフォンと、口をつけていない紙コップが置かれていた。刑事は調書を確かめるように、一行ずつ指で追った。「水城真帆さん。生活雑貨ブランド、mellow noteの商品企画。番組では、元夫の深見景都さんと関係を選び直す立場で出演していた。間違いありませんね」 自分の名前も仕事も、印刷された文字になると他人のもののようだった。私は頷いた。「このメッセージは、水城さんが送ったもので間違いありませんか」 画面の中の三文字は、指先で隠せるほど小さい。それでも、もう消すことはできなかった。「はい。私が送りました」 瀬名に死んでほしかったのかと聞かれれば、違うと答える。けれど、私たちの前からいなくなればいいと思ったことまで否定すれば、そのほうが嘘になる。◇ 十日前、瀬名はまだ生きていた。 共同生活二十日目の朝、番組が借り切った家には、加熱した油と照明機材の熱がこもっていた。離婚や破局を経験した男女が一か月を同じ屋根の下で過ごし、最終生放送で関係を選び直す。私に用意された相手は、一年半前に離婚した元夫、深見景都だった。 二十日もいれば、カメラの位置は嫌でも覚える。キッチンには三台。正面の固定カメラ、作業台を見下ろす一台、スタッフが肩に担ぐ一台。まな板の上だけでなく、誰が誰を見たかまで残る配置だった。「はい、お料理のシーン頂きます。カメラ回します」 赤いランプが点いた。私はパプリカへ包丁を入れた。mellow noteで商品の形を決める時と同じように、幅を揃えて切る。仕事なら、三ミリの差にも理由をつけられる。人の感情だけは、そうはいかなかった。 視界の端に、赤いスカートが入った。「真帆さん、お手伝いしますよ」 瀬名莉子が、レンズへ笑いかけながら隣へ立った。元アイドルで、番組の途中から投入された〈New Choice〉。壊れた関係の間へ新しい選択肢を差し込み、誰の心が動くかを見せる役だと紹介されていた。「ありがとうございます。でも、大丈夫です」 瀬名は引かず、私の背中へ手を伸ばした。「糸、出てま
last updateLast Updated : 2026-08-03
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第2話 恋敵は流産を知っていた

 医務スタッフは傷を浅いと判断した。縫合は不要。腱にも神経にも異常なし。指先の感覚も正常。 結果を項目に分ければ、安心してよいはずだった。 それでも私が見ていたのは、景都の親指についた血だった。私の血を拭ったまま、本人は気づいていない。「もう離して」 固定用のテープを押さえていた指が、数秒遅れてほどけた。景都は何も言わず、血のついたハンカチを四つに畳んだ。「そのハンカチ、もう捨てて。血もついてるし」「洗えば落ちる」「新しいの、いくらでもあるでしょ」「これは、まだ使える」 新しい物なら、彼はいくらでも買える。結婚していた頃、傷んだワイシャツもネクタイも迷わず処分していた。それなのに、白い布だけはポケットへ戻した。 理由を聞けば、ハンカチ以外の答えまで期待してしまいそうで、私は黙った。 控室へ戻る廊下には、撮影用の照明が片づけられずに並んでいた。黒いコードをまたいだ先で、瀬名がスタッフと話している。私を見ると、眉尻を下げた。「真帆さん、大丈夫ですか?」 つい先ほど、私の傷へ指を入れた人とは思えない声だった。「……誰に聞いたの、それ」 近くのスタッフが顔を上げる。瀬名はその視線を確かめ、表情を整えた。「今、聞きます?」「いつなら言うの」「景都さんが、話せるようになった時じゃないですか?」 自分の口から答える代わりに、行き先だけを景都へ向ける。私の流産を知った経路も、景都が何を伏せているのかも、私だけが答えの外にいた。 瀬名はスタッフに呼ばれ、赤いスカートを揺らして去った。廊下の突き当たり、非常口の緑色の表示の下で一度だけ振り返ったが、距離がありすぎて表情は見えなかった。◇ その夜、番組公式アカウントが最終週の予告を公開した。 薄暗い廊下。壁際の景都。瀬名が彼のネクタイへ手を掛け、背伸びをする。赤い唇が頬へ触れる寸前で画面が暗転した。『FINAL WEEK――元妻か、新しい恋か』 再生時間は十二秒。実際に触れたかどうかは映っていない。それでもコメント欄では、二人はすでにキスをしたことになっていた。『元妻の前で新しい女とキスとか、えぐい』『結局、若い女を選ぶんだ』『水城さん、かわいそう』 かわいそう。 その四文字を見た時、浮かんだのは景都の顔ではなく、会社の机だった。mellow noteの新作ポーチ。金具の引き手
last updateLast Updated : 2026-08-03
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第3話 血のついたハンカチ

 翌朝、血のついたハンカチは景都の手元から消えていた。 共同生活棟のダイニングには、撮影前の薄い静けさが残っている。スタッフはまだ照明を組んでおらず、窓から差す冬の光だけが長いテーブルを照らしていた。 景都はいつもの席でブラックコーヒーを飲んでいた。私の前には、牛乳を多めに入れたカフェラテが置かれている。頼んだことはない。共同生活が始まってから二十日間、朝になると必ずそこにあった。「昨日のハンカチ」 景都はタブレットから目を上げず、洗いに出したと答えた。 そこまでするのかと聞けば、返ってきたのは「使える」の一言だけだった。カップの表面には薄い膜が張り始めている。私は取っ手に触れず、向かいへ座った。「瀬名さんのこと、何か分かった?」「まだ、確かなことは言えない」「私のことなのに、私だけ待つの?」 景都はようやく画面を伏せた。答える代わりに、包帯の端から覗く指を見た。「指、まだ腫れてるだろ」「指の話に戻さないで。今聞いてるのは瀬名さんのこと」 彼の口が閉じる。傷の具合なら、見れば分かる。私が何を知りたいのかには、目を向けない。「今日は会社へ行く。サンプルの確認が残ってるから」「部長から来るなと言われただろ。今日は休め」「それを景都に決められる筋合いはないよ」「今は同じだ。行けば余計に騒ぎになる」 椅子を引く音が、静かな部屋へ大きく響いた。「同じにしないで」 景都は追ってこなかった。止める言葉もなかった。その代わり、私が玄関を出るまで、テーブルのカフェラテへ手を触れなかった。◇ 会社へ着くと、受付の電話が鳴り続けていた。企画室まで届くはずのない音なのに、誰かが受話器を置くたび、壁の向こうで硬いものが割れるように感じた。 机には、灰色のポーチの試作品が二つ並んでいる。引き手の幅が三ミリ違う。私は片方を開き、閉じ、もう一度開いた。 気づくと、同じ動作を三回していた。 後輩が電話を切り、遠慮がちにこちらを見る。「水城さん、大丈夫ですか」と聞かれ、私は午後までに修正を送ると答えた。返事になっていないことは分かっていた。 立ち上がったところで、灯が椅子を蹴るような勢いで来た。「送らなくていい。帰る」 金具の確認が残っていると言うと、灯は怒った時だけ使う丁寧な口調になった。「真帆さん。今、金具の話してません」 企画室の入口に
last updateLast Updated : 2026-08-03
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第4話 私を飛ばさないで

 景都は本当に、粥を温めるためだけに台所へ入った。 鍋へ中身を移し、弱火にかける。私の部屋の道具なのに、どこに何があるか迷わない。結婚していた頃と同じ順番で木べらを取り、鍋の縁に沿って一度だけかき混ぜた。 テーブルへ伏せたスマートフォンが何度も震える。画面が点くたび、天井へ白い光が反射した。「出れば?」 景都は「あとで」とだけ答えた。 何をしているのか尋ねると、記事の削除依頼、取引先への説明、mellow noteへの問い合わせ窓口を動かしていると言う。項目を並べる声は、会社の会議と同じだった。 私は冷蔵庫の扉を開けたまま振り返った。冷気が足元へ流れ、床に落ちた水滴が白く曇る。「何で、うちの会社まで動かしてるの」「もう会社に被害が出てる。問い合わせも取引保留も増えてる」 机の上では、私が戻したばかりの試作品が照明を鈍く返していた。仕事の場所へまで彼の判断が入り込んでいる。「それをどう処理するかは、うちの会社が決めることだよ」 景都はすぐには頷かなかった。「分かってる。でも、俺には放っておけない」「だからって、私に何も聞かないまま進めないでよ」 景都は答えず、鍋をかき混ぜた。 LATTICE SHIELDの法務も広報も、彼が一言命じれば夜中でも動く。記事の削除、訂正文、取引先への説明。どれも優先順位をつけ、担当者を決めれば処理できるものなのだろう。 玄関では、入ってよいかと聞いた。 私の会社へ入ってよいかは、聞かなかった。「景都にとっては、全部同じなんだね」 何が、と返されたので、困っているものを見つけたら本人より先に片づけるところだと答えた。 景都は鍋の火を弱め、ようやくこちらを見た。「悪いことか?」 反発ではなく、本気の疑問が浮かんでいた。会社を守ってもらって困ると言えば嘘になる。問い合わせが減れば、取引先も社員も助かる。助かるからこそ、断る側だけがわがままに見える。 私は冷蔵庫の扉を閉めた。「悪いって言ってない」 水を取ろうとして、包帯がボトルの側面へ当たった。景都が手を伸ばしかけ、途中で止める。「ただ……私がいないところで、うちの会社に話を通さないで」 言い切った途端、包帯の下で傷が脈打った。景都は鍋の柄を握ったまま動かない。「明日、説明して。……あなたが正しかったって話じゃなくて、私に聞かなかったことを
last updateLast Updated : 2026-08-03
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第5話 俺は君を選ぶ

 景都が作った粥は、やはり薄かった。 一口食べると、米の甘みより先に湯の味がした。思わず眉を寄せる。「……ちょっと、味が薄すぎるんじゃない?」「少し足せばいい。胃に負担にならない程度に」 景都の手が、塩の瓶へ迷いなく伸びる。「……そういうところ」「何が」「私が頼む前に、もうやってる」 景都の手が、塩の瓶の手前で止まった。 二人の間に置かれた椀から、細い湯気が上がっていた。「会社のことも、そうだった」 テーブルの上で、スマートフォンがまた震えた。景都はLATTICE SHIELDの創業者兼CEOだ。私と結婚した頃より会社は何倍も大きくなり、企業の炎上や事故を専門に処理している。記事を消し、人を動かし、損失を止めることなら、私よりずっと早い。「mellow noteの取引先に連絡した?」 広報同士をつないだ、と景都は認めた。私に言う前だったのかと重ねると、被害が広がっていたからだと言う。「君の商品が、俺のせいで燃やされるのを見てろって?」 声は低かった。怒鳴ってはいない。けれど、仕事の会議で異論を止める時と同じ音だった。その声を知っている自分が、少し嫌だった。「俺は、できることをやる」「そうやって、できることを全部やろうとするのが嫌なの」 景都の眉が寄る。私は椀の中を混ぜ、形を失った米粒を見た。「できるから、全部やるところ」 言いすぎたと思ったが、取り消す気にはなれない。もう一口食べると、温かいものが胃へ落ち、吐き気が少し引いた。身体だけが、彼の世話を受け入れている。 しばらくして、景都が最終日の話へ戻った。「俺は君を選ぶ」「……同じこと、何度も言わなくていい」「昨日から、そこだけは変わってない」 告白ではなく、決定事項を読み上げるような言い方だった。「私が何を選ぶかは?」「それは、まだ分からない」「復縁って言ったら?」 そこで初めて、景都の指が止まった。正解を持たない顔になる。「……その時、話す。今決めてるのは、俺が誰を選ぶかだけだ」 瀬名ではないのかと確かめると、彼は短く否定した。キスについては言えないままなのに、そこだけは揺らがない。「こういうの、ずるい」「何がずるい?」「一番聞きたいところは言わないで、欲しい答えだけ出す」 景都が口を開きかけた時、玄関の外で床板が鳴った。 古い集合住宅では
last updateLast Updated : 2026-08-03
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第6話 復縁しろとは言わない

 翌朝、共同生活棟のダイニングには、パンの焼ける匂いだけがあった。  撮影前の時間は短い。スタッフもまだ少なく、固定カメラの赤いランプは消えている。窓際の席で、景都は冷めかけたコーヒーを前にしていた。私が来ても、すぐには口を開かなかった。  私はトーストの端をちぎった。焼き目の薄いところだけが、指の間で細かく崩れる。 「昨日のこと」  景都が先に切り出し、また「俺は君を選ぶ」と言った。三度目だと返すと、彼は「変わってない」と答えた。  結論を出した後の景都は、何度でも同じ言葉を置く。相手がどう受け取ったかではなく、内容が変わっていないことを示すために。 「それで、選んだあとどうするの」  彼はコーヒーカップへ手を伸ばし、触れずに戻した。テーブルには、薄い輪染みが一つ残っている。 「復縁しろとは言わない」  予想していなかった言葉だった。  私が顔を上げると、景都は一度だけ窓の外を見た。庭の樹木へ冬の光が当たり、枝の影がガラスに細く落ちている。 「俺は君が欲しい」  トーストをちぎっていた指が止まった。  会社では、何百人の前でも言葉に詰まらない人だ。けれど、その一言だけは口にするまでに時間がかかった。 「ただ、君が何を選ぶかまで、俺が決めるつもりはない」 「それ、格好いいことを言ってるつもり? 私が迷っても待つって?」 「違う。今の俺に分かってることを言っただけだ」  それ以上は足さなかった。  昔の景都なら、私が迷う前に選択肢を並べた。住む場所、仕事の調整、必要な手続き。答えへ続く階段を先に作り、転ばないよう手すりまで付けた。その親切さの中で、自分が何を選びたかったのか分からなくなったことがある。  昨日だって、私の会社の広報まで先に動かした。 「欲しいって言われても、困る」  景都は「そうか」と答え、それきり黙った。  そこで終わるのかと聞くと、彼は逆に、何を言えばいいのか分からないと言った。 「俺も、どうすればいいのか分からない」  その返事だけが、妙に部屋へ残った。結婚していた間、景都が〈知らない〉と言うのを何度聞いただろう。思い出せない。  スタッフが撮影開始を知らせに来た。廊下の向こうで照明が点き、薄かった朝の光が白く塗り替えられる。  景都は立ち上がり、私の手元を見た。送迎を申し出かけたが、私が断る
last updateLast Updated : 2026-08-03
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第7話 愛されない方が幸せ

 瀬名が私を呼び止めたのは、夕方の撮影が終わったあとだった。  スタッフ用の照明が落とされ、リビングには常設カメラの小さな待機灯だけが残っている。窓の外は暗く、ガラスにはソファと、立っている私たちの姿が二重に映っていた。 「真帆さん。ちょっとだけ」  瀬名はソファへ座らず、窓際のテーブルにスマートフォンを伏せた。カメラの死角を探すように、半歩だけ位置を変える。 「景都さん、本気ですね。真帆さんのこと」  その言葉を、彼女の口から聞きたくなかった。番組だからそう見えるだけだと返すと、瀬名は薄く笑った。 「そういうことにしたいんですね」  カーテンの隙間から外灯の光が入り、頬を細く照らしていた。撮影中の笑顔より、今の顔のほうが幼く見える。 「何が言いたいの」  瀬名は窓のほうを向いたまま言った。 「あの人に愛されない方が、幸せですよ」  室内の冷房が切れ、急に静かになった。遠くで食器を片づける音がする。  理由を尋ねると、彼女は「真帆さんのことになると、止まらないから」と答えた。  消えていく記事。私の会社へ先回りした連絡。夜中に運ばれてきた粥。瀬名は、そのどこまでを見ていたのだろう。 「あなた、景都の何を知ってるの」 「全部知ってるわけじゃないです。見てれば分かることくらい」 「だったら、私が幸せかどうかまで勝手に決めないで」  その時、瀬名の指が伏せたスマートフォンの角を強く押した。ケースには小さな傷がいくつもある。 「でも真帆さんも、ずるいですよね」  声から、カメラ向けの甘さが抜けていた。  何がずるいのかと聞くと、瀬名はすぐには答えなかった。窓に映った顔だけが、私ではなく自分を見ている。 「何も言わないのに、周りが勝手に心配する。守られるのが嫌だって言いながら、誰かが来る場所にはちゃんといる」 「私は、景都に来てほしいなんて頼んでない」 「分かってますよ。頼まなくても来るから、余計に腹が立つんです」 「だったら、私に怒らないで。来たのは景都でしょう」  瀬名の指が、伏せたスマートフォンの角で止まった。窓に映った横顔から、笑みだけが消えた。 「私だったら、欲しいなら言います」 「欲しいものって……景都のこと?」  瀬名は常設カメラへ一度だけ視線を送り、肩をすくめた。 「番組的には、そうですよね」  ま
last updateLast Updated : 2026-08-03
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第8話 キスに見える予告

 番組は、瀬名と景都を二人きりにした。 「デート企画です」  朝の打ち合わせで、柊プロデューサーは進行表を机へ置いた。紙の中央にホテルのラウンジ写真が印刷されている。窓際の二人席、夜景、細いグラス。視聴者が見たいものを最初から配置したような画だった。  最終週へ向け、New Choiceとの関係を一度整理して見せたいのだと柊は説明した。〈見せたい〉という言葉だけが残る。誰に、とは言うまでもない。  景都は資料を読み、場所と撮影時間を確かめたあと、私の予定を尋ねた。 「水城さんは別企画です」  私がいる前で、景都は露骨に眉を寄せる。 「深見さん。番組として、ここは必要な流れです」  柊の声は穏やかだったが、机の進行表はすでに確定版だった。  景都が私を見る。何か言う前に、私は資料を閉じた。 「行けばいいじゃない。番組の企画なんでしょう」 「君は、それでいいのか」 「私は会社に戻る。午後から外せない仕事があるから」  椅子を引き、部屋を出た。廊下には撮影機材のケースが積まれ、どの蓋にも番号が振られている。使い終えた物が決められた場所へ戻るための印だった。人の感情だけが、その管理の外にあるような顔をして、実際には一番細かく順番を決められている。◇ 午後、会社でポーチのサンプルを見ていると、灯から動画が届いた。 『見ない方がいいかも』  そう書かれた通知を、見ずに消せるほど私は器用ではない。  ホテルの窓際で、瀬名が笑っていた。景都のネクタイへ手を伸ばし、「曲がってますよ」と言う。景都は触れられる前に、自分で結び目を直した。  次のカットでは二人が隣に座っている。瀬名の肩が近い。照明の暗さとカメラの角度だけで、親密な時間に見えた。コメント欄は、映像にない続きまで先に作っていた。  私は画面を伏せ、三ミリ違う引き手を二つ並べた。右は指を掛けやすい。左は見た目が細く、商品の線を壊さない。  後輩にどちらがよいか尋ねられ、灰色を指すつもりで青を示した。 「ごめん、指したのはこっち。灰色の方」 「水城さんが間違えるの、珍しいですね」 「ちょっと寝不足なだけ。続けて」  貼り間違えた付箋を剥がすと、粘着面に細い繊維が残った。仕事へ戻ろうとするたび、画面の中の二人が視界の端へ入り込む。◇ 夜、共同生活棟へ戻ると、景都が玄関にいた。
last updateLast Updated : 2026-08-03
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第9話 俺以外は嫌だ

 景都は、言ったあとで取り消さなかった。 玄関の照明は白く、顔色も皺も隠してくれない。私はコートを着たまま彼と向き合っていた。外から持ち込んだ冷気が足元へ溜まり、閉めたばかりの扉が小さく軋む。「それ、かなり勝手だよ。瀬名さんとデートしておいて」 景都は、あれは仕事だと短く返した。仕事なら何をしてもよいのかと聞くと、「してない」と言いかけ、そこで口を閉じる。 キス。 その二文字を、私は自分から出したくなかった。口にした途端、予告映像を信じ、嫉妬していることまで認める気がした。「今は言えない」 また同じ場所へ戻った。「じゃあ私も、何を選ぶか言わない」「それは君が決めることだ。俺が言わせる話じゃない」 言葉だけなら正しい。けれど景都の眉間には深い皺が寄っている。 その顔をやめてと言うと、彼は嫌だから仕方がないと答えた。昔は、その速さを頼もしいと思った。停電した夜には懐中電灯の場所を知っていたし、旅行先で私が熱を出せば病院と帰りの便を同時に手配した。 けれど、私のことまで同じ速度で決められると、息をする場所がなくなった。「私が別の人を選んだら、止める?」 今度は、わずかに間があった。玄関脇の時計が一秒ずつ進む。「……止めたい。でも、止める権利はない」「権利があるかどうかを聞いてるんじゃない。景都がどうするかを聞いてるの」 景都は困った顔をした。仕事の話なら制度も責任もすぐ言葉にできるのに、感情へ入ると急に語彙が減る。 どうするつもりなのかと尋ねると、彼は「嫌だと言う」と答えた。それ以上に何ができるのか、本当に分からないらしい。 私は靴を脱ぎかけ、片方だけ踵を浮かせたまま笑った。「会社なら、条件を変える?」「必要なら変える」 景都は冗談を聞いた顔をしなかった。指先で資料の角を揃え、質問をそのまま検討事項へ置き換えている。「予算を増やして、競合を潰す?」「相手と状況による」 その即答に、私は笑い損ねた。「怖いんだけど」 景都はようやく資料から顔を上げた。「恋愛ではやらない」 景都の口元がわずかに緩んだ。私も笑いそうになったが、先に別の記憶が戻った。「分かってなかったこと、あるでしょ」 笑みが消える。彼は反論しなかった。 玄関の棚には、共同生活の参加者全員の鍵が並んでいる。私の鍵と景都の鍵は、離婚したあとも隣に掛けられ
last updateLast Updated : 2026-08-04
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第10話 消えた記事、残った記事

「おやすみ」で会話を切ったあとも、廊下の窓には玄関に残る景都が映っていた。 私が角を曲がるまで、彼は追ってこなかった。 翌朝、リビングのテレビには検索結果の画面が映っていた。 昨日まで上位に並んでいた記事のいくつかが消え、リンクを開いても〈ページが見つかりません〉と表示される。別の媒体には訂正文が出ていた。 瀬名はソファの端に座り、砂糖を二袋入れたコーヒーをかき混ぜていた。「速いですね。景都さん」 スプーンの先で画面を示す。私と景都の結婚を〈金目当ての成り上がり婚〉と書いたまとめサイトは、見出しごと消えていた。「LATTICEの法務、夜中に動いたみたいですよ。私の事務所にも連絡が来たので」 瀬名はカップを持ち上げた。底に溶け残った砂糖が、白い筋になっている。「真帆さんのためなら、何人敵に回しても平気なんですね」 会社のためかもしれないと返したが、彼女は、私の商品が燃やされるのを止めていたと続けた。 スマートフォンを開くと、灯から未読が来ていた。『深見さん側から取引先リストについて確認された。勝手に渡してない。あとで話す』 胸の奥が熱くなる。これ以上はしないでと言う前から、もう別の場所へ手が伸びていた。 瀬名の事務所にも連絡が入ったのは、番組関連の記事をまとめて処理したかららしい。ただし、彼女を〈略奪女〉と呼ぶ記事は消されていなかった。テレビ画面の端に残った見出しには、アイドル時代の写真が使われている。「自分の記事だけ残ってるの、嫌じゃないの?」「平気なわけないですよ。見れば腹も立ちます」 返事は早かった。瀬名はカップの縁についた砂糖を指で拭い、その指をティッシュで包む。「でも、嫌だからやめるって言える仕事ばっかりじゃないし」「だからって、わざわざ私を煽る必要ある?」 景都は煽っても動かないが、私は動くからだと、瀬名は悪びれずに言った。「やっぱり、性格悪いね」「今さらですか。自覚はあります」 怒るかと思ったが、彼女はむしろ少しだけ肩の力を抜いた。 玄関が開いた。 景都が入ってくる。昨夜と同じスーツではない。いったん会社へ戻り、またここへ来たのだろう。目の下に薄い影があった。「真帆」「ちょうどよかった。会社に何したの」 景都は靴を脱ぐ前に立ち止まり、広報同士をつないだこと、誤情報で取引判断が変わらないよう説明を入
last updateLast Updated : 2026-08-04
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