All Chapters of 嫌いだった女が死んだ夜、元夫の愛が怖くなった ――もう一度、あなたを愛せるまで――: Chapter 101 - Chapter 110

195 Chapters

第101話 私の知らない景都

「来た。今度は座れるかな」  電車のライトがトンネルの奥に見える。  私は一本遅らせた電車の時刻をスマートフォンへ入れ直す。  景都が私の隣へ並んだ。  ドアが開くと、空いた座席が二つ見えた。私たちは同じところを指し、顔を見合わせた。◇ 業界イベントの当日、受付で名札を受け取った。 『mellow note 商品企画 水城真帆』  その文字を見て、少し安心する。  会場には取引先、物流会社、広告代理店が集まっていた。LATTICE SHIELDも出展していて、景都は午後に短い講演をする。  開始前、以前会った担当者から声を掛けられた。 「水城さんですよね。深見社長の元奥さまの」  悪意はない。  だから余計に、胸元の名札が急に小さく見えた。 「はい。元妻です」  一度だけ認めてから、私は名札を指で押さえる。 「今はmellow noteの商品企画です。シンガポールの地域テストを担当しています」 「あ、記事で見ました。失礼しました」  相手はすぐ仕事の話へ移った。 「現地ではどのサイズが強かったですか」 「意外と大きい方です。持ち手も長めが好評でした」  そこから五分、商品仕様の話が続く。  名刺を交換した時、相手はもう景都のことを聞かなかった。  少し離れた場所にいる景都は、聞こえていたはずなのに、こちらへ来なかった。  講演後も同じだった。  私は別の会社の担当者と、湿気に強い表面加工について話す。相手がサンプルを送ると言い、私は会社の住所を書いた名刺を渡す。  景都は自分のブースに立ったままだ。  壇上でも目を引いた長身は、ブースの前に立っていてもすぐ分かる。客へ資料を示していた景都が顔を上げ、一瞬だけ目が合った。私は小さく頷き、手元の素材見本へ戻った。  イベント終了後、会場の外でようやく二人になる。 「さっき、元妻って呼ばれたところ、聞こえてた?」 「聞こえた。あの人、最後は君の説明に夢中だったな」  私は紐を外し、掌の上でカードを裏返した。 「助けはいらなかった。でも、私の仕事より元妻の方が先に出るのは嫌だった」  景都は名札を見下ろし、「格好よかったよ。ちゃんと言い直したところ」と言った。  私は外した名札を手の中で重ね、視線を逸らした。「そこまで見てたなら、今日の服も見てた?」 「見
last updateLast Updated : 2026-09-18
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第102話 全部、自分で決めない

 改札の手前でバッグを受け取ると、景都の握っていた持ち手が少し温かかった。  肩へ掛け直しながら、私は今日の話をもう少し続けたくなった。 「次のテスト結果、社外へ出せる範囲になったら見せる」 「楽しみにしてる。あの大きい方、使いやすかったから」  もう一つ話しかけようとして、駅の時計が目に入った。続きは次に会った時にしよう。そう思えることが嬉しかった。  LATTICE SHIELDのオフィスへ、今度は自分の仕事の打ち合わせで来た。  会社は移転している。結婚していた頃の受付もロゴも、ここにはない。  入館証には私の名前の下に『VISITOR』と印字されている。昔は景都の机まで勝手に入れたことを思い出し、今の方がむしろ正しいと思った。  景都の会社でも、昔とはまるで違う場所だった。  物流拠点の打ち合わせがひと区切りつき、担当者が追加の資料を取りに席を外す。  ガラスの向こうで、若い社員が景都を呼び止めた。 「深見さん、これ見てもらえますか」  景都は立ったまま画面を見る。 「まず結論を一文で。理由は二つでいい。三つ目は一つ目と重なっている」  若い社員は一度画面へ目を落とし、言い直した。景都は途中で奪わず、最後まで聞いてから一箇所だけ指す。 「この現場の数字は残して。説得力がある。修正したら俺ではなく田島に見せて。担当はそっちだから」 「分かりました」  景都に資料を取り上げられることはなく、若い社員は直すところが分かった様子で席へ戻っていく。  景都は次の社員に呼び止められた。  私が知っていた景都なら、五分で全部書き換えていた気がする。  社員が戻ると、景都はこちらに気づいた。 「休憩?」 「うん。資料待ち。景都の方は忙しそうだね」  若い社員の戻っていった席を見る。「厳しいけど、取り上げて自分で直したりはしないんだね」  景都は会議室へ入り、私の向かいへ資料を置いた。 「昔は取り上げて、俺が直してた。今は人数も増えたし、俺が全部見る方が遅い。俺が書き直して返したら、あいつは次も同じところでつまずく」 「そういう顔、私知らなかった」  景都は平然としている。  ガラスの向こうでは、さっきの社員が別の上司へ資料を見せていた。  景都は私を見る。「何だ、その顔」  からかわれたようで、少し視線を逸らした。
last updateLast Updated : 2026-09-18
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第103話 三日だけのシンガポール

 全部知っていた夫ではなく、今から知る人。  エレベーターへ向かう途中、若い社員が景都へ「お先に失礼します」と頭を下げた。  景都は時計を見た。 「今日、もう終わり?」 「はい。明日朝やります」 「分かった。帰って」  その言い方も、私には知らないものだった。  夫だった頃、景都が部下に何を言っていたか、私はほとんど知らない。  エレベーターの鏡に並んだ私たちを見ながら、私はその方が少し面白いと思った。  LATTICE SHIELDを出たあとも、会社の壁にあった写真が頭に残っていた。三年前も、去年も、景都の隣に私はいなかった。  駅まで歩きながら聞く。 「社員、国内だけで何人になったの?」 「二百八十くらい。君が知っていた頃は九十前後だった」  百九十人分、知らない名前が増えている。会社の壁に残っていた写真と同じで、数字にも私のいない五年があった。 「長かったね。景都自身は、ほかに何が変わった?」 「コーヒーを減らした。腰も一度痛めた」  景都は腰へ手を当てるでもなく、歩調を変えずに答えた。私が知らなかった出来事を何でもないことのように話す横顔を見て、少し寂しくなった。 「腰のこと、全然知らない」 「離婚したあとだ。言う理由がなかった」  責められない答えほど、時間の長さだけが残る。 「そういう小さいことが、たくさんあるんだね」  私にも、部署を一度移ったことや、髪を肩まで切ったことがある。朝はコーヒーより紅茶を飲むようになり、桃のゼリーも好きになった。どれも、夫婦だった頃ならその日のうちに知っていたような変化だ。  信号が赤になり、景都が止まる。 「会社の経営の仕方も変えようと思ってる。大きくなって、重要な承認が今も俺へ集まりすぎてる」  景都は前を見たまま言った。 「景都が決めるのが一番早いから、そうなったんでしょう」 「ああ。短期的には早い。でも、俺が一日いないだけで止まる会社になる。今は、その方が危険だ」  青になって歩き出す。 「社員に任せればいいってこと?」 「簡単に言えば」  交差点を渡る人の列の中で、景都は肩が触れないよう歩幅を調整した。 「景都、任せるの苦手そう」 「苦手だよ」  認めるのが早くて、私は笑った。何でも自分で決めることを強さにしてきた景都が、そのやり方を危険だと言うの
last updateLast Updated : 2026-09-19
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第104話 迎えに来て

 昔なら、その場で出ていたかもしれない。 「決まったら教えて。……途中でも、話したくなったら」  景都がこちらを見る。 「候補者も権限も聞かないのか」 「聞きたいけど、今はいい」  少し黙ってから、景都が笑った。 「珍しいな」 「その言い方は失礼」  改札脇に立ち止まり、会社の話を続けながら、行き交う人を見送った。 「景都が全部を決めない会社って、まだ想像できない」 「俺も完成形は分からない。だから、いきなり全部は渡さない」 「仕事の景都が、分からないって普通に言うのは珍しいね」  少し嫌そうな顔をしながらも、景都は否定しなかった。  改札の向こうに電車の案内が出る。  私は時計を見て、一歩だけ後ろへ下がった。 「一本遅らせて帰る。あと五分だけ、会社の話の続きを聞きたい」  景都も改札へ入らず、柱の脇へ寄った。私は傍らの柱に肩を預け、あと五分だけ、知らない景都の話を聞いた。一本目の電車が来ても、二人とも改札の方へは動かなかった。◇ 景都の会社にCOOを置く話は、数日後もまだ決まっていなかった。  夕食の帰り、信号待ちで彼がスマートフォンを開いた。画面には組織図と承認権限表が重なっている。一定額以上の契約、人事、危機対応の初動、重要顧客への例外判断。赤い印がついた項目ほど、矢印は最後にCEOの欄へ集まっていた。 「例の権限表?」  景都は頷き、私にも読める角度へ画面を傾けた。 「契約も採用も、ここまで景都が見ていたの?」 「金額と役職による。それでも多すぎた。日常の執行はCOOへ渡して、承認も経営会議へ分ける」  青信号になっても、景都はすぐ歩き出さなかった。親指で赤い印を一つ消し、別の欄へ移す。書類の上なら簡単な操作なのに、顔にはわずかな迷いが残っていた。  自分がいなければ進まない仕組みを崩したい。それでも、自分が決めた方が早い案件を手放すのは怖いのだと、景都は画面を見たまま言った。昨日も、移動中の一時間だけで三件の承認が止まったらしい。現場は待てた。だが、毎回CEOの予定へ会社全体が合わせる仕組みは、速く見えても強くない。  その言葉は私への説明というより、長く信じてきたやり方を自分へ言い直しているように聞こえた。  候補者の条件が頭に浮かぶ。景都と衝突できる人。現場から信頼され、創業者にも遠慮しない人。名前
last updateLast Updated : 2026-09-19
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第105話 ただいまの代わり

「会議前に会社で食べる。二年前から、朝は軽食を置くようにした」  車でコーヒーだけを飲んでいた人が、今は社員と一緒に朝食を取る。会社の規模が三倍になったことより、その小さな変化の方が、五年間の長さを具体的にした。  会計を済ませ、紙袋を抱えて外へ出る。景都の手には何もない。私はさっきの組織図より、その空いた手を見ていた。 「それも知らなかった。会社の朝食」 「二年前だから。……そうか、知らないんだな」  何でもない朝食の話に、言葉が途切れた。景都は紙袋を見ていた。 「今は知りたい」  景都は歩きながらこちらを見た。街灯の下で、表情が少しだけ柔らかくなる。 「今度、来るか。朝早いけど」  行ってみたい、と答えた。紙袋からバターの匂いがする。チーズパンを潰さないように抱え直しながら、私は社員たちと朝食を取る景都の姿を思い浮かべていた。何を食べて、どんな顔で話しているのだろう。  二度目のシンガポール出張は、前回より急に決まった。三日間。地域テストの追加確認と、現地チームへの仕様説明。航空券が確定した日の夜、私は蕎麦屋で景都へ日程を伝えた。 「水曜の朝便で、金曜の夜に戻る。三日だけ」  景都は箸を置き、「空港までは」と言いかけて口を閉じた。前にも断られたことを思い出したらしい。 「送るって言おうとした?」 「また断られると思った」  不満を飲み込むように水を一口飲む。その顔を見ながら、私は蕎麦の器を少し脇へ寄せた。 「行きは大丈夫。でも帰りは一人になる。だから、今度は迎えに来て」  自分から頼んだのに、口にすると胸が落ち着かなかった。景都はスマートフォンを引き寄せた。「便名、あとで送って。遅れても待つから」 「早く来すぎないでよ」 「努力する」  守れるとは言わないところが景都らしかった。  出発前夜、確認の連絡は来なかった。私はホテル名と移動手段を会社の共有シートへ入れ、金具の傷を防ぐ薄い布をサンプルへ一つずつ巻いた。灯は隣で箱の数を読み上げ、最後にゼリーの土産だけは忘れないよう念を押す。  景都へも、約束していた便名と緊急連絡先を送った。『迎えは、出口で待ってる』と返る。私はその一行を読み、サンプル箱の最後の蓋を閉じた。  翌朝、会社の同行者とは保安検査後に合流するため、空港まで一人で向かった。配車アプリで呼んだ車の後部座
last updateLast Updated : 2026-09-20
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第106話 写真に撮られた夜

 行ってほしくない気持ちまで消したふりをしないまま、私の仕事を止める言葉もない。私は画面を閉じ、搭乗案内に従って列へ並んだ。  帰国日の予定には、景都と会う時間を入れてある。それだけ確認して、スマートフォンを鞄へしまった。◇ シンガポールへ着き、ホテルのカーテンを開けると、高層ビルの間を車の灯りが流れていた。湿った夜気は窓越しでも分かるようで、日本を出た朝がすでに遠い。  街の写真へ『着いた』と添えると、景都からは『お疲れ』だけが返ってきた。  机には現地チームから追加された確認事項が三件届いている。私は一つずつ返信し、翌日の資料とサンプルを鞄へ入れ直した。集合は八時半。仕事の予定を自分のカレンダーへ入れたあと、金曜夜の空白が目に入る。  迎えを頼んだだけで、何も書かれていない時間が、いつもと違って見えた。  帰国便の到着予定を送ると、景都はすぐ了承した。私は、到着ロビーへ出てから連絡することと、早く来すぎないことを念押しする。一拍置いて返ってきたのは、待つ場所だけは先に決めてもよいか、という確認だった。  そこまでならいい、と返す。  景都にとって、早く来ないことより、待つ準備をしないことの方が難しいらしい。笑いながら目覚ましを六時半に合わせ、スマートフォンを伏せた。  明日は現地スタッフと一日歩き回る。帰国はまだ二日先だ。  それでも金曜の夜だけは、もう私たちの小さな約束になっていた。  帰国便は二十五分遅れ、入国審査も混んでいた。会社の同行者とは現地で別れ、一人で帰ってきた私は、二十二時を過ぎた到着ロビーでキャリーケースの持ち手を握り直し、待っている人たちの顔を見渡した。  景都からは、機内モードを切って送った『着いた』への『了解』のほかに連絡が来ていなかった。  迎えに来てと言ったのに、急な仕事でも入ったのだろうか。  私は一度だけスマートフォンを開く。発信ボタンへ触れる前に顔を上げると、柱の向こうに黒いジャケットが見えた。  壁際の椅子で紙のカップを持っていた景都は、私に気づくと立ち上がった。走ってくるわけでも、手を振るわけでもないのに、私は笑ってしまった。 「いた。連絡がないから、ちょっと心配した」 「もうすぐ出てくると思ってた。……待たせたみたいになったな」  近づくと、手の紙カップは空だった。近くのごみ箱には同じ
last updateLast Updated : 2026-09-20
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第107話 誰の言葉で決めるの

 景都は足を止め、すぐに店を検索し始めた。  画面には営業時間、駐車場、ラストオーダーまで並んでいる。 「営業時間だけじゃなく、駐車場とラストオーダーまで見るんだね」 「一軒目が閉まっていたら困るから、二軒だけ出したんだ」 「二軒ならいい。三軒目まで保険を増やさないでね」と言うと、景都の指が検索欄の手前で止まった。 「探してない。今は」  私は横から画面を覗き、近い方の蕎麦店を選んだ。  景都は納得しきれない顔で画面を閉じた。  車へ着くまで、私は三日間の話をほとんどしなかった。  駐車場へ向かうエスカレーターで、景都は一段下に立ち、キャリーケースを足元へ寄せた。何度もこちらを振り返る。 「さっきから振り返りすぎ。転ぶのは私じゃなくて景都の方だよ」 「さっきから目、半分閉じてる」 「蕎麦を食べたら起きるよ」  言いながら、動く手すりへ手を置く。景都が笑いをこらえた顔で前を向いた。  他愛ない会話が続く。  空港の冷房は強かったが、外へ出る自動ドアの前だけは湿った空気で、数時間前までいたシンガポールをどこか思わせた。 「土産は、灯にゼリー。会社にはお茶」 「俺には?」  残念そうな顔をするので、「一個だけある。車に着いてから渡す」と答えた。 「何」 「車まで待って。今出したら、ほかの荷物まで落としそう」  それくらいの会話で、空港から駐車場までの距離が短く感じられた。キャリーケースを引く景都の隣を歩くうち、ようやく帰ってきた実感が湧き、肩から少し力が抜けた。  駐車場の案内板が見えたところで、景都が「家へ送る前に、蕎麦でいい?」と聞く。 「うん。帰るのは、そのあと」  駐車場へ向かうエレベーターの中で、景都が「お――」と一音だけ口にし、止まった。 「今、おかえりって言おうとした?」 「長い移動だったから、お疲れって言おうと思ってた」 「……本当に? おかえり、じゃなくて?」  景都は階数表示を見たまま、「そう聞こえたなら、それでいい」と珍しく逃げた。  元夫婦には、「おかえり」が妙に重い。  同じ家へ帰っていた頃なら、毎日使った言葉だ。今は私の家と景都の家が別にある。  私も「ただいま」とは言わなかった。 「お腹すいた」 「蕎麦、もう少しだから」 「うん。温かいのにする」  景都が見つけた蕎麦店は、
last updateLast Updated : 2026-09-21
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第108話 今会っている人は

「今回の結果が良ければ、地域向け企画が続くかもしれない」  景都は写真から顔を上げる。 「正式に決まったら、行きたい?」  私は海老天の衣を箸で割った。 「今の時点では、行きたい。まだ正式じゃないから、即答していいのか少し迷ったけど」 「嫌だよ。でも、まだ決まってもいないのに止めろとは言えない」  低い声に、前と同じ欲望が残っていた。 「景都らしくない」 「今、褒めた?」 「どうだろ。自分で考えて」  景都は少しだけ笑った。出張を止める言葉は続かなかった。  会計で私が先に伝票を取ると、景都は財布を出したまま止まった。 「今日は私が払う。迎えに来てもらったから」 「迎えを頼まれた上に、夕飯まで出してもらうなら俺だけ得をする」  景都の財布は開いたまま、黒いカードの縁だけが見えていた。 「じゃあ、景都が次に出張した時は私が迎えに行く。その時は景都が払って」 「香港の時か。俺は夜遅くなるぞ」 「今くらいはいいでしょう」  店を出ると、日付が変わりかけていた。  蕎麦店の駐車場は静かで、足音が車の間に響いた。  車へ乗る前、景都が「家まで送る」と言う。 「お願い。途中で寝ちゃうかもしれない」 「いいよ。着いたら起こす」  自分で帰れる日でも、眠くなったから送ってほしいと頼める。  景都が助手席のドアを開ける。 「迎え、頼んでよかった」 「ああ」  車の助手席に乗ると、景都がエアコンを一段下げた。 「これくらいでいいか。冷房、弱めたけど」 「うん。ホテル、寒かったから助かる」 「そう言ってたな」  シートベルトを締めると、ナビには私の住所が入っていた。夫婦だった頃の家ではない。景都は何も言わず、そこを目的地にした。  おかえりも、ただいまも言わない。  代わりに、次に離れるかもしれない仕事の話をしながら、車は静かに駐車場を出た。  今夜は、それくらいで十分だった。  私は助手席で目を閉じた。  翌朝、灯からの着信で起きた。 「真帆、起きてる? まだネットは開かないで聞いて」 「今起きたところ。そう言われると、余計に見たくなるんだけど」  枕元のスマートフォンには通知が十件以上並んでいる。 「昨日、空港で深見さんに迎えに来てもらって、そのあと蕎麦を食べたよね」 「何で店まで知ってるの」 「写真
last updateLast Updated : 2026-09-21
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第109話 選ばれた方が、怖い

「デートっていうか、迎えに来てもらって、ご飯食べただけ」 「説明はあと。今、会社にも問い合わせ来てるから」◇ 出社すると、灯と部長が小会議室にいた。  会社から私生活へコメントしない。商品アカウントでも触れない。そこまではすぐ決まった。  灯は会社としての方針を確認したあと、「真帆個人として何か言うかは、まだ決めてない?」と聞いた。 「うん。会社が勝手に答えないでくれるなら、まず仕事への影響を見たい」 「了解。本人確認なしでは、一文字も出さない」  午前中、取引先から届いたのは記事よりサンプルの修正依頼の方が多かった。三ミリ上げた内ポケットについて、現地ではもう一段浅い方が使いやすいという。私は図面へ赤を入れ、記事のことを考えない時間を作った。  昼前、景都から電話が来る。 『記事は見た。mellow noteへの影響は出てる?』 「問い合わせはあるけど、仕事は止まってない。商品より記事が上に出るのは嫌」 『LATTICEにも確認が来てる。俺個人なら何も出したくない。ただ、会社としては今から広報と話す』  次に法務へ回す、と続くと思っていたので、個人と会社を分けて答えたことに少し肩の力が抜けた。 「LATTICEが何を出すかまで私が決める気はない。でも、私の名前を書くなら、その前に見せて」 『分かった。会社の文案でも、俺たちのことは勝手に書かせない』  電話の向こうで、紙を置く音がした。  通話を切り、もう一度記事を開くと、写真の中の私は笑っていた。  灯が横から画面を覗き、「この角度だと深見さん、ずっと真帆見てるみたい」と言う。 「見てないよ。駐車券探してたから」 「記事には書けないね、それ」  私もそう思う。撮られる直前、景都は駐車券を落としていた。蕎麦店で笑ったのも、私が海老天の衣を落としたからだ。画面には、その前後が写っていない。  誰かが見出しを付けることは止められない。  なら、私が何を言うかくらいは、自分で決めたかった。  午後、会社の会議室には三つの案が並んだ。完全に無視する。会社として「社員の私生活には回答しない」とだけ出す。私個人が、必要な範囲で答える。  灯はホワイトボードへ三つ書き、ペンを置いた。 「私は広報として一番上が楽。でも真帆が今後もイベント出るなら、ずっと聞かれる可能性はある」
last updateLast Updated : 2026-09-22
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第110話 否定文案

 夕方、翌週の業界展示会について取引先とオンラインで打ち合わせをする。画面共有された告知画像には、私の名前が商品企画担当として載っている。その文字を見て、やっと考えがまとまった。  会社からは私生活に答えない。ただ、私自身へ向けられた質問まで、誰かの文章で返したくはなかった。  会議の最後に灯へそう伝えると、念のため確認された。 「仕事の質問から私生活に流れたら、私が止める。それでも答える?」 「答えたくない質問なら答えない」 「深見さんに確認してから、もなし?」 「私の答えだから」  口にすると、急に怖くなった。景都の意見は聞いた。それでも、最後にマイクの前へ立つのは私だ。 「会社はノーコメントでいい。私への質問には、私が答える」 「言う内容までは作らない?」 「質問までは分からないから。用意した文章を読むのは嫌」  灯は笑って、ホワイトボードの三番目だけ残した。◇ 翌週、展示会場の搬入口から外へ出ると、記者が一人待っていた。大きな取材陣ではない。スマートフォンと小さなレコーダーを持った女性だった。 「水城さん、少しよろしいですか」  会社名と媒体名を名乗ったあと、商品の話を二つ聞かれる。最後に、声の調子が変わった。 「深見景都さんと復縁されたという報道があります。現在のお二人の関係について、答えられる範囲で教えていただけますか」  灯が横で足を止めた。止める準備はしているが、私の代わりに口を開く気はない。答えなくてもよかった。  記者の後ろを、出展企業のスタッフが台車を押して通る。段ボールの角が床の継ぎ目で跳ね、紙袋が一つ落ちた。誰かが拾い、また仕事へ戻っていく。  私だけが特別な場面に立っているわけではない。展示会の一日は続いている。そう思うと、呼吸がいくらか楽になった。  私は名札を一度見てから、灯へ目を向けた。止める様子がないのを確かめ、記者へ顔を戻す。 「復縁ではありません」  最初の一言は、思っていたより簡単に出た。  記者の手元で、小さなレコーダーの赤いランプが点いている。 「では、交際はされていないということでしょうか」  そこが難しい。キスはした。他の誰かと会うつもりもない。土曜には景都と会い、出張から帰れば迎えに来てほしいと思う。それでも「恋人です」と言えば、二人でまだ決めていない呼び方を、ここ
last updateLast Updated : 2026-09-22
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