「来た。今度は座れるかな」 電車のライトがトンネルの奥に見える。 私は一本遅らせた電車の時刻をスマートフォンへ入れ直す。 景都が私の隣へ並んだ。 ドアが開くと、空いた座席が二つ見えた。私たちは同じところを指し、顔を見合わせた。◇ 業界イベントの当日、受付で名札を受け取った。 『mellow note 商品企画 水城真帆』 その文字を見て、少し安心する。 会場には取引先、物流会社、広告代理店が集まっていた。LATTICE SHIELDも出展していて、景都は午後に短い講演をする。 開始前、以前会った担当者から声を掛けられた。 「水城さんですよね。深見社長の元奥さまの」 悪意はない。 だから余計に、胸元の名札が急に小さく見えた。 「はい。元妻です」 一度だけ認めてから、私は名札を指で押さえる。 「今はmellow noteの商品企画です。シンガポールの地域テストを担当しています」 「あ、記事で見ました。失礼しました」 相手はすぐ仕事の話へ移った。 「現地ではどのサイズが強かったですか」 「意外と大きい方です。持ち手も長めが好評でした」 そこから五分、商品仕様の話が続く。 名刺を交換した時、相手はもう景都のことを聞かなかった。 少し離れた場所にいる景都は、聞こえていたはずなのに、こちらへ来なかった。 講演後も同じだった。 私は別の会社の担当者と、湿気に強い表面加工について話す。相手がサンプルを送ると言い、私は会社の住所を書いた名刺を渡す。 景都は自分のブースに立ったままだ。 壇上でも目を引いた長身は、ブースの前に立っていてもすぐ分かる。客へ資料を示していた景都が顔を上げ、一瞬だけ目が合った。私は小さく頷き、手元の素材見本へ戻った。 イベント終了後、会場の外でようやく二人になる。 「さっき、元妻って呼ばれたところ、聞こえてた?」 「聞こえた。あの人、最後は君の説明に夢中だったな」 私は紐を外し、掌の上でカードを裏返した。 「助けはいらなかった。でも、私の仕事より元妻の方が先に出るのは嫌だった」 景都は名札を見下ろし、「格好よかったよ。ちゃんと言い直したところ」と言った。 私は外した名札を手の中で重ね、視線を逸らした。「そこまで見てたなら、今日の服も見てた?」 「見
Last Updated : 2026-09-18 Read more