「そこまで言わなくていい。聞きたくなったら、こっちから聞く」 電車のライトがトンネルの奥に見える。 私は一本遅らせた電車の時刻をスマートフォンへ入れ直す。 景都は何も謝らない。 結論の出ない十分間が、思っていたより普通だった。 業界イベントの受付で、名札を受け取った。『mellow note 商品企画 水城真帆』 その文字を見て、少し安心する。 会場には取引先、物流会社、広告代理店が集まっていた。LATTICE SHIELDも出展していて、景都は午後に短い講演をする。 開始前、以前会った担当者から声を掛けられた。「水城さんですよね。深見社長の元奥さまの」 悪意はない。 だから余計に、胸元の名札が急に小さく見えた。「はい。元妻です」 一度だけ認めてから、私は名札を指で押さえる。「今はmellow noteの商品企画です。シンガポールの地域テストを担当しています」「あ、記事で見ました。失礼しました」 相手はすぐ仕事の話へ移った。「現地ではどのサイズが強かったですか」「意外と大きい方です。持ち手も長めが好評でした」 そこから五分、商品仕様の話が続く。 名刺を交換した時、相手はもう景都のことを聞かなかった。 少し離れた場所に景都がいる。 聞こえていたはずなのに、こちらへ来ない。 講演後も同じだった。 私は別の会社の担当者と、湿気に強い表面加工について話す。相手がサンプルを送ると言い、私は会社の住所を書いた名刺を渡す。 景都は自分のブースに立ったままだ。 壇上で話す姿は遠くからでも目立つ。けれど、私の商談へ入ってくることはなかった。 イベント終了後、会場の外でようやく二人になる。「さっき、元妻って呼ばれたところ、聞こえてた?」「ああ。君が自分で名札を出したから、俺が口を出す場面じゃないと思った」 私は紐を外し、掌の上でカードを裏返した。「助けはいらなかった。でも、私の仕事より元妻の方が先に出る
Last Updated : 2026-09-18 Read more