All Chapters of 嫌いだった女が死んだ夜、元夫の愛が怖くなった ――もう一度、あなたを愛せるまで――: Chapter 61 - Chapter 70

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第61話 一度、デートしてほしい

「一回だけ、普通に会ってみる?」 『普通って何だ』 「私も知らないから、やってみるの」  それ以上は決めずに電話を切った。  机の上には、三ミリ戻した案と、裏側だけ厚くした案が並んでいる。私は後者へ付箋を貼り、手に取ってもう一度ファスナーを開けた。今度は引っかからなかった。  机の端に伏せたスマートフォンには、景都との通話履歴が残っていた。  翌日の昼、景都からメッセージが届いた。 『昨日の答えを話したい。電話できる時間はある?』  会議予定を確認し、十二時四十分と返す。十二時三十九分、スマートフォンが震えた。 「一分早い」 『出られなければ、一分待つ』 「もう出てるよ」  休憩スペースの窓際には誰もいなかった。自動販売機で買ったスープの蓋を開けると、湯気が眼鏡を曇らせる。  景都は一度息を整えた。 『一度、デートしてほしい』  取締役会で提案する時とほとんど同じ声だった。可笑しくなり、私は笑う。 「誰と?」 『俺と』  分かっていて聞いた。結婚して離婚した相手から、今になって初めてのように申し込まれたことが可笑しかった。 「結婚前にもした、って言うんでしょう。でも、全部景都が店も時間も車も決めてた。私の苦手なものを抜いたコースまで用意して」 『嫌だった?』 「嫌じゃなかった。むしろ完璧だった。……でも、景都が何を食べたかったか、私知らない」  電話の向こうが静かになる。 「今度も予約するつもり?」 『店は探してた』 「やっぱり」  眼鏡を外し、レンズの曇りを拭った。 「当日でいいよ。駅で会って、空いてるところに入ろう」 『混んでたら?』 「待つか、別の店にすればいいよ」  少し間があった。 「そこまで準備しなくていいって」  景都は何か反論しかけたが、結局「分かった」とだけ言った。  しばらくして、電話の向こうで低く笑う。 『俺には難しい』 「知ってる。じゃあ、店を決めないで来て」  待ち合わせは土曜の十三時、中央改札の外。それだけ決めた。 『帰る時間は?』 「眠くなったら帰る」 『俺は、終わる前から次も会いたいと思ってる』  真っすぐ言われ、スープの蓋を持ったまま動けなくなる。 「まだ楽しいかも分からないでしょう」 『それでも会いたい。君が嫌なら、一回で終わる』  一度だけ、と
last updateLast Updated : 2026-08-29
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第62話 店は決めないで来て

 今さら付ける名前だからこそ、急に現実味が出た。  デート前日の夜、景都から三つのリンクが届いた。  和食店、イタリアン、ホテルのラウンジ。すべて駅から近く、土曜の昼でも予約が取れ、口コミには「静か」「接客が丁寧」と並んでいる。  一つ目を開いたところで、私は電話をかけた。 「店は決めないって話、忘れた?」 『決めてない。候補を三つ送っただけだ。三十六軒から絞った』  画面に並ぶ三つの整った店名を見直し、私は額へ手を当てた。 「それ、決めてないんじゃなくて、ほとんど決めてる。しかも三十六軒からって、もっと悪いよ」  景都は本気で理由が腑に落ちていないらしい。 『土曜の昼に二人で入れて、待ち時間が短い。君が苦手な食材も少ない』 「それ、全部昔の情報でしょう。今は好きなものも変わってるかもしれない」 『食べられないものを出されたら困るだろ』 「アレルギーがあるわけじゃないんだから。一口くらい試せるよ」  短い沈黙が落ちた。 「辛いもの、今は平気かもしれないよ。自分でも、まだ苦手かどうか分からない」 『……そうだな』 「明日は待ち合わせだけ決めよう。調べるのはいいけど、店まで決めてこないで」  電話の向こうで何度か画面を叩く音がして、景都は一度、長く息を吐いた。 『分かった。リンクは消す?』 「そこまでしなくていい。私は見ないから」 『一番上は残席二だった』  予約画面まで進んでいたらしい。私が呆れると、景都は「見ただけだ」と真面目に弁解した。  景都の弁解を聞いているうちに、何の相談をしていたのか分からなくなって笑った。受話口からも、低い笑い声が返ってきた。  電話を切ったあと、私は一番上の和食店をもう一度開いた。写真は美味しそうだった。予約画面の名前欄まで進み、指を止める。  予約ボタンは押さずに画面を閉じた。明日の昼まで席が残っている保証はなかった。◇ 翌日、景都は十二時四十八分に中央改札前へ来ていた。 「十二分早い」 「一本早い電車に乗れた」 「その言い訳、前にも聞いた」  景都の手には、自分用の折り畳み傘が一本だけあった。朝、雨の可能性を知らせるメッセージは来たが、私の分を用意するとは言わなかった。 「お腹すいた?」 「ああ」 「何が食べたい?」  景都は駅ビルの案内板を見上げ、しばらく考えた。
last updateLast Updated : 2026-08-29
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第63話 夫婦だった人と、初デート

 入口の引き戸には、手書きの日替わりメニューが貼られている。店内は半分ほど埋まり、揚げ物の音と味噌汁の匂いが近かった。 「ここで平気?」  私が聞くと、景都は料理ではなく壁際を見た。 「上着を掛ける場所がないな」 「気になるの、そこなんだ」  景都は革鞄の底へ目を落とし、「鞄も床へ置きたくない」と付け足した。  店員が布の荷物籠を一つ持ってきた。景都は私の柔らかいバッグと、自分の革鞄をどう入れるか迷っている。 「重ねればいいでしょう。私のバッグは柔らかいから、下でいいよ」 「型が崩れるし、汚れる」 「床へ置くわけじゃないんだから平気」  景都は納得しきれない顔で籠を見下ろした。  結局、店員がもう一つ籠を持ってきた。大きな会議では迷わず人を動かす男が、布の籠一つで止まる姿に笑いそうになる。  私は焼き魚定食、景都は生姜焼きを選んだ。 「生姜焼き、好きだったの?」 「好きだ。結婚してた時から」  私は箸袋を折りかけ、手を止めた。家で一度も聞いたことがない。 「君が和食なら魚を食べたいと思ってた。俺もそれでいいと思って、言わなかった」 「それ、二人で決めたことじゃなくて、景都が一人で決めたんでしょう」 「そうだな」  互いに相手へ合わせたつもりで、存在しない好みを作っていた。  料理が運ばれる。景都は最初にキャベツを食べ、私は大根おろしを魚へ全部のせた。 「前から、そうしてた?」 「昔は別にしてたかも。いつからかは分からないけど、今は一緒の方が楽」  景都は大根おろしの位置を本気で覚えようとしている顔をした。 「そこまで記録しなくていいよ」 「覚えておきたい」 「大根おろしから?」と聞くと、景都は箸を止めた。 「小さい方が間違えにくい」  私は口元を緩めた。大根おろしからなら、答えられる。  店内のテレビに、LATTICE SHIELDの社名が一度だけ流れた。隣の客が画面を見たあと、景都へ目を向けかけ、また定食へ戻る。本人は気にせず、生姜焼きのたれを白いシャツの袖へ小さく飛ばした。 「ついてる」  私が指で場所を示すと、景都は紙ナプキンで拭いた。薄い跡が残る。 「落ちないね」 「帰ったら落とすよ」 「今、替えのシャツ取り寄せたりしないんだ」 「デート中だから」  その言い方に、胸の奥がくすぐったくな
last updateLast Updated : 2026-08-30
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第64話 今日は、私が払う

「何で戻すの」 「今日は俺が誘ったから、払いたかった」 「それは店でも聞いた。でも、私は自分の分を払いたい」  駅前のベンチへ座る。休日の人波が目の前を流れ、買い物袋が何度も視界を横切った。  景都は、それでも収入の多い方が払えば負担が減る、と続けた。 「景都には、その方が自然なんだろうけど」  レシートの端を指で弾く。 「景都が出したいのは分かる。でも、私も払わせてほしい」 「俺が誘った」 「誘ってくれたのは嬉しいよ。でも、今日は自分の分を払いたいの」  景都は何か言いかけ、送金履歴へ目を落とした。私がもう一度送ると、彼の親指が受取ボタンの上で止まる。数秒して、画面が受取済みに変わった。  景都は送金額を見て、一円単位まで正確だと言った。 「半分にするだけでしょう。褒めなくていいよ」  景都は何か言いかけて、受取済みの画面を閉じた。私はレシートを財布へ戻す。  二人で笑った。夫婦だった頃の家計口座には、どちらが何を食べたかなど残らなかった。送金履歴に並ぶ千九百三十円は他人行儀で、その距離が今はちょうどよかった。  ベンチを立っても、次の予定はない。 「このあと、何かしたいことある?」  私が聞くと、景都は本屋、映画館、商店街の方へ順に目を向けた。 「歩きたい。たまには、何も決めずに歩いてもいいだろ」  覚えたばかりの知識を使うような言い方に、私は笑った。 「ずいぶん早く覚えたね」 「さっき教わったからな」  景都は真顔だった。  商店街へ向かうと、景都は私の隣で歩く速度を少し落とした。  そのうち、私までつられてゆっくり歩いていた。そんなに合わせなくてもいいと言うと、景都はこちらを見た。 「離れると話しにくいから」  その理由だけは、合理性より先に胸へ届いた。  私は返事をせず、そのまま隣を歩いた。  通りの先に、白い看板のパン屋が見えた。色は変わっていたが、店の形には見覚えがある。 「まだあったんだ」  結婚していた頃、土曜になると二人で立ち寄った店だった。  景都も気づき、足を止める。 「入る?」 「うん。パンは私が払う」 「食事代は半分受け取ったし、俺も自分の分は買う」  景都の返事に、今度は私も逆らわなかった。 「好きなの選んでよ。私も勝手に取るから」  景都は棚を見直した。私は先に
last updateLast Updated : 2026-08-30
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第65話 今は、塩パン

「くるみパンなら、右の奥」  景都が迷わず言う。 「覚えてたの?」 「毎回二つ買ってたから」  右奥の籠には、小さなくるみパンが並んでいる。夫婦だった頃、私はそれを二つトレーへ載せ、一つを景都へ渡していた。 「景都も好きだったでしょう」 「嫌いじゃないよ。でも、俺はクリームパンの方が好きだったんだ」 「え?」  中央の棚を指す。丸いパンの表面に、粉砂糖が薄くかかっている。 「結婚してた時から?」 「ああ。君が二つ買って、一つくれるだろ。それをもらうのが当たり前になってた」 「でも、景都も普通に食べてたでしょう」 「もらったものを、嫌いでもないのに断る理由がなかった」  何年も続いた習慣の始まりは、それだけだったらしい。 「夫婦なのに、知らなかったね」 「今、知った」  景都はクリームパンを一つ取った。私はくるみパンへ手を伸ばしかけ、隣の塩パンをトレーへ載せる。 「くるみじゃないのか」 「今は塩パンの方が好き」  景都は私の顔を見て、少し間を置いた。 「……いつから、塩パン?」 「離婚して、一人でパン屋へ行くようになってからかな。甘いものより、塩気のあるものを選ぶことが増えた」  景都は私の塩パンを見下ろし、何かを確かめるように頷いた。 「この店にも一人で来たのか?」 「ここは久しぶり。全部の店を確認するつもり?」  景都はトレーを持ち直し、「聞ける範囲で」と答えた。  それ以上は聞かれなかった。私はトレーのパンを見下ろす。聞かれすぎるのは嫌だったはずなのに、止まられると少し落ち着かない。  会計を別々に済ませ、公園のベンチへ移る。紙袋を開けると、まだ温かい。  景都が私の塩パンへ目を向けた。 「それ、一口ほしい」 「自分のクリームパンがあるでしょう」 「おいしそうに食べるから」  そんな顔をしていただろうか。私は紙袋へ目を落とし、端を少しちぎって渡した。景都はその小さな欠片を眺める。 「本当に一口だな」 「文句を言うなら返して」 「言ってないよ」  食べてから、彼は短く「うまい」と言った。口元についているパン屑には気づいていない。 「じゃあ、そっちも一口」  クリームパンを渡され、私は同じくらいの量をちぎる。 「小さい」 「同じでしょう」 「俺がもらったのより小さい」 「じゃあ、もう
last updateLast Updated : 2026-08-31
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第66話 知らない景都を、知っていく

 何となく景都の今の生活を聞き始めると、返ってくる答えは想像以上に会社へ偏っていた。昼は週に三、四回、蕎麦。早く食べられることが理由の半分で、残り半分は本当に好きだから。休日も予定がなければ仕事をし、読む本を聞けば、しばらく考えた末に「資料」と答えた。 「それ、本じゃなくて仕事でしょう」 「文字を読んでる」 「そういう分類の話じゃないよ。会社以外で、好きな場所とかないの?」  景都は公園の並木を見ながら本気で考え、ようやく「空港」と言った。  出張のための場所では、と指摘すると、搭乗前だけはできることが限られ、何もしなくていい時間があるのだという。 「でも、ラウンジで仕事してるでしょう」 「たまに」 「『ほとんど』の間違いじゃない?」  否定しない。結婚していた頃も忙しい人だとは知っていた。けれど私は、景都が休みの日に何をしたいか、ほとんど聞かなかった。彼が私の予定を先に入れ、それで満足していると思っていた。 「俺ばかり答えてる」 「じゃあ聞けばいいよ」  景都が最初に尋ねたのは、塩パン以外で今好きな食べ物だった。 「最近は桃のゼリー」 「どうして?」  景都の質問は、雑談より調査に近い。私は歩道に落ちていた小枝をまたいだ。 「味の話に理由が必要?」 「選ぶ理由が分かれば、ほかの好みも――」 「予測しないでよ。次に一緒に食べた時、そこで知ればいいでしょう」  〈次〉という言葉が自然に出た。景都はそこを捕まえて日時を決めず、ただ頷いた。  今度は仕事の話になった。mellow noteで、アジア向けの商品テストの候補が出ている。シンガポール側のバイヤーから関心が寄せられ、企画担当が短期で現地へ行く可能性もある。 「行きたいのか?」  景都の仕事や家の予定は、すぐには浮かばなかった。現地の棚や使われ方を、自分の目で見てみたい。 「まだ決まってないけど、行きたいかも」 「そうか」  それだけだった。条件も滞在日数も、治安も移動手段も口にしない。 「本当は調べたいでしょう」 「かなり。でも、君が行きたいか決まってないうちに資料を作ったら怒るだろ」 「私の仕事だから、調べるのは私。必要なら私から聞くよ」  景都は口を開きかけたが、代わりに紙袋に残っていたクリームパンを半分に割って差し出した。 「交換の続き」 「塩パ
last updateLast Updated : 2026-08-31
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第67話 恋人候補に、反対票

 会議室の中央には、改良したポーチの試作品が並んでいる。引き手の裏へ薄い布を重ね、見た目の軽さを残したまま、手袋でも指が掛かるようにした。  景都は私の正面ではなく、導入企業側の席に座っていた。名札には『深見景都 代表取締役』とだけあり、私たちの私的な関係を示すものは何もない。 「水城さん、説明をお願いします」  進行役に促され、仕様変更、ユーザーテスト、耐久試験の結果を順に説明する。  匿名端末で最終評価が入力される。私の案には賛成票が多かったが、赤い反対票も二つ付いた。  コメント欄の一つを見た瞬間、誰が書いたか分かった。 『操作性は改善。ただし耐久試験が内勤用途へ偏っている。全社員配布ではなく、利用環境別の導入判断が必要』  進行役が補足を求めると、景都は試作品を片手で開いた。 「見た目と操作性は前回より良くなっています。内勤中心の部署なら賛成です。ただ、屋外作業を含む全社導入には、試験条件が足りません」  私は景都へ尋ねた。「対象部署を限定すれば、賛成票へ変わりますか?」 「変えます。全社員配布のままなら反対です」  仕事として正しい。だから腹が立つ。  会議が終わると、同僚の灯がサンプル箱を閉じながら私を見る。 「深見さんに怒るの?」と小声で聞かれた。追加試験は必要だから怒らない、と答える。  灯は私の手元を見た。「じゃあ、その箱に当たらないであげて」  箱は最初からこうだったと返したが、さっきまでは平らだったらしい。私は潰れた角から指を離した。  私はそれ以上言わず、景都へメッセージを送った。 『反対票を入れた人、夕飯に付き合って』  すぐに既読がつく。 『反対理由なら資料にまとめて送る』 『夕飯で聞く』  少し間があり、了承の返事が届いた。  エレベーターで二人きりになると、景都は仕事用の表情を少しだけ解いた。 「本気で腹を立ててるのか?」 「少し。正しい反対だったから、余計に」  階数表示の数字が一つずつ減っていく。さっきまで反対意見を述べていた景都が、今は私の機嫌をうかがっている。 「恋愛と仕事を分けたいと言ったのは君だろ」 「分かってる。でも、恋人候補に反対票を入れられるとは思わなかった」  口にしてから、〈恋人候補〉という言葉だけが狭い箱の中に残った。  景都がこちらを見る。 「候補?
last updateLast Updated : 2026-09-01
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第68話 デートの続き

「それは、デートの続き?」 「店に着いてから決めよう」  今度は、決めないことを私の方が楽しんでいた。  夕飯は、私が見つけた駅前の小さな中華店にした。予約はしておらず、景都が入口の空席表示だけを確かめた。  餃子が届くまで、話題は評価会の続きだった。私は屋外条件の追加試験をすると伝えたが、全社導入を最初から外すのは厳しすぎると反論した。景都は、事故が一件でも起きれば導入企業が責任を負う、と譲らない。 「続きは明日メールでいい。せっかく会ったのに、仕事の話だけで帰りたくない」  景都の箸が止まった。 「そのために呼ばれたと思ってた」 「半分はね。もう半分は、デートの続きにしたかった」  会議で何十人を相手にしても迷わない景都が、取りかけた餃子を皿へ戻し、私を見たまま言葉を失った。 「冷めるよ」  箸を持ち直しながら、景都が小さく笑った。「夫婦の時も、こうして来ればよかったな」 「帰るついでの夕飯じゃなくてね」  景都は水を一口飲み、座り直した。 「今日は、急いで帰らなくていいんだな」 「終電はあるけど」 「そこまでは分かってる」  真面目な顔に、笑ってしまった。  麻婆豆腐は予想より辛く、私は一口目で水へ手を伸ばした。景都は平気な顔をしている。辛いものが得意なのかと聞くと、結婚していた頃からだという。私が辛い店を選ばなかったから、言う必要がなかったらしい。  生姜焼きやクリームパンだけではない。今の好みどころか、結婚中の好みさえ、互いに知らないものが残っている。 「復縁するかどうかばっかり考えるの、ちょっと疲れた」  景都はすぐに答えず、麻婆豆腐をもう一口食べた。彼には、それほど辛くないらしい。 「今の景都、知らないこと多いし」 「昔の俺もだろ」 「それも」 「景都が知ってるの、塩パンとブラックコーヒーくらいでしょう」  景都は、桃のゼリー、文房具屋、魚へ大根おろしを全部のせることまで挙げた。海外の仕事へ行きたいかもしれないことも。 「……覚えすぎ。ちょっと怖い」 「忘れた方がいいのか?」 「そうじゃなくて」  水滴のついたグラスを回し、言葉を探した。 「全部知ってるみたいな顔は、しないで」 「分かった。たぶん難しいけど」  景都は何か付け加えようとして、やめた。私もそれ以上言わず、グラスを口へ運んだ
last updateLast Updated : 2026-09-01
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第69話 真ん中に入って

 景都が次の土曜を空けられるか尋ねた。午後なら、と答え、今度は店を彼に任せることにする。 「予約していいか?」 「一軒だけなら。私に条件を聞かずに選んで」  景都はすでに店を検索しかけていた指を止めた。「外したら?」 「文句は言うよ」 「理不尽だな」  私はスマートフォンをしまった。「デートだから」  景都も笑った。  スマートフォンの天気予報では、土曜の午後に雨の印がついている。景都は画面を見て、傘の話をしかけたが、何も言わず閉じた。 「じゃあ次、土曜」 「ああ」  次に会う理由は、もう事故でも過去の確認でもない。  土曜の夕方、店を出る頃には雨が降っていた。景都の傘へ入って歩き始め、私は彼の肩を見上げた。 「そっち、かなり濡れてる」  景都は自分の右肩を見た。コートの色が、そこだけ一段濃い。 「駅に着くまで五分だ。これくらいなら乾く」 「乾くかどうかじゃなくて、私の方へ寄せすぎなんだって」  傘は二人で入るには少し小さい。けれど、私の頭上へ寄せすぎなければ、どちらか一人だけが濡れることもなかった。景都の手から柄を取り、中央へ押し戻す。 「真ん中に入って」 「君の左が出る」  景都は傘の縁と私の袖を見比べた。 「右へ寄るから」 「歩きにくい」 「だったら、あなたも寄って」  私が半歩近づくと、肩が触れた。道の向こうにコンビニがあり、入口の傘立てに透明な傘が並んでいた。景都の視線が値札へ向く。 「買わないでね」 「まだ何も言ってないよ」  視線だけが、コンビニの傘立てに残っている。 「二本にしようと思ったでしょ」 「この傘だと両方濡れる」 「駅まで五分だから、このままでいい」  景都はコンビニの明かりを通り過ぎた。二本あれば歩きやすい。それでも私は、今すぐ離れるための五百円を払いたくなかった。薄いコート越しなのに、肩から腕の輪郭を身体が先に思い出す。夫婦だった頃は、同じ傘へ入れば景都が外側を歩いた。もっと近い距離も、その先も知っている。それなのに今は、コート越しに肩が触れるだけで落ち着かなかった。どこまで近づいていいのか、私にも分からない。 「……思ったより近いね」 「傘が小さいからだ。嫌なら少し離れる」  離れると言いながら、景都は肩を動かさない。 「離れたら、またあなたが濡れるでしょう」  
last updateLast Updated : 2026-09-02
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第70話 肩が触れたまま

 景都は駅までの距離を言いかけた顔をしたが、黙った。柄を握る指へ雨の冷たさが移ってくる。景都の手はすぐ横にあったが、持ち方を直そうとはしない。風で傘が傾いた時だけ、骨の端を下から支え、私の手には触れず戻した。雨脚が強まり、傘の縁から水が続けて落ちる。私の左袖にも、景都の右袖にも濃い点が増えた。きれいに半分ではない。彼の方がまだ多く濡れている。それでも、傘はさっきより二人の真ん中に寄っていた。  駅の屋根が見えてくる。着けば離れられると分かっているのに、急いで雨を抜けたいとは思わなかった。信号が点滅し、景都が歩幅を速める。私も合わせた。肩は触れたまま、青が消える前に渡り切った。屋根の下へ着く直前、庇から大きな雫が落ちてきた。傘を傾けると、私の肩が彼の胸元に触れた。ポケットから出た景都の手が私の腰の手前で止まり、代わりに傘の骨を支えた。夫婦だった頃なら、転ばせないために腰を抱く程度、互いに意識もしなかった。すぐ元の位置へ戻ったのに、さっきより近く感じた。 「今のは仕方ないから」 「何も言ってないよ」  屋根の下で傘を閉じると、二人の間に一人分の空気が戻った。濡れた傘をまとめる景都の指から水が落ち、私の靴先へ一滴跳ねる。「ごめん」「それくらい平気」。触れていた肩の方は、平気かどうか聞かれなかった。そのまま聞かれないことに、ほっとした。  傘を閉じても、さっきまで景都の声があった場所だけ、まだ近かった。  傘をまとめている間にも、改札へ向かう人の波が横を抜ける。映画の終了時刻と重なったのか、構内は普段より混んでいた。 「鞄、前に抱えた方がいい。後ろから押されてる」  景都が人の流れを見ながら言う。 「今やろうとしてた。言われると、できてなかったみたいになるんだけど」  私はバッグを抱え直し、彼の横へ並んだ。狭い通路で肩を避けるたび、景都の腕へぶつかる。濡れた袖同士が触れ、離れ、また触れた。人混みのせいにできる距離だった。前を歩く人の傘が、私のバッグへ当たりそうになる。景都が外側へ移り、自分の鞄で受けた。守られたと腹を立てるほどのことではない。礼を言うほどでもなく、私はバッグを胸の前へ持ち直した。  景都は先へ出ようとしない。私の前を空けることも、背中へ手を添えることもしなかった。ただ同じ速度で歩き、誰かが間へ入ろうとすると、半歩だけ近づく。腕が触れたま
last updateLast Updated : 2026-09-02
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