「一回だけ、普通に会ってみる?」 『普通って何だ』 「私も知らないから、やってみるの」 それ以上は決めずに電話を切った。 机の上には、三ミリ戻した案と、裏側だけ厚くした案が並んでいる。私は後者へ付箋を貼り、手に取ってもう一度ファスナーを開けた。今度は引っかからなかった。 机の端に伏せたスマートフォンには、景都との通話履歴が残っていた。 翌日の昼、景都からメッセージが届いた。 『昨日の答えを話したい。電話できる時間はある?』 会議予定を確認し、十二時四十分と返す。十二時三十九分、スマートフォンが震えた。 「一分早い」 『出られなければ、一分待つ』 「もう出てるよ」 休憩スペースの窓際には誰もいなかった。自動販売機で買ったスープの蓋を開けると、湯気が眼鏡を曇らせる。 景都は一度息を整えた。 『一度、デートしてほしい』 取締役会で提案する時とほとんど同じ声だった。可笑しくなり、私は笑う。 「誰と?」 『俺と』 分かっていて聞いた。結婚して離婚した相手から、今になって初めてのように申し込まれたことが可笑しかった。 「結婚前にもした、って言うんでしょう。でも、全部景都が店も時間も車も決めてた。私の苦手なものを抜いたコースまで用意して」 『嫌だった?』 「嫌じゃなかった。むしろ完璧だった。……でも、景都が何を食べたかったか、私知らない」 電話の向こうが静かになる。 「今度も予約するつもり?」 『店は探してた』 「やっぱり」 眼鏡を外し、レンズの曇りを拭った。 「当日でいいよ。駅で会って、空いてるところに入ろう」 『混んでたら?』 「待つか、別の店にすればいいよ」 少し間があった。 「そこまで準備しなくていいって」 景都は何か反論しかけたが、結局「分かった」とだけ言った。 しばらくして、電話の向こうで低く笑う。 『俺には難しい』 「知ってる。じゃあ、店を決めないで来て」 待ち合わせは土曜の十三時、中央改札の外。それだけ決めた。 『帰る時間は?』 「眠くなったら帰る」 『俺は、終わる前から次も会いたいと思ってる』 真っすぐ言われ、スープの蓋を持ったまま動けなくなる。 「まだ楽しいかも分からないでしょう」 『それでも会いたい。君が嫌なら、一回で終わる』 一度だけ、と
Last Updated : 2026-08-29 Read more