All Chapters of 嫌いだった女が死んだ夜、元夫の愛が怖くなった ――もう一度、あなたを愛せるまで――: Chapter 81 - Chapter 90

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第81話 キスまでの距離

 景都の視線が一度だけ私の口元へ落ちた。  私の手がジャケットの袖を掴む。引き止めたつもりはなかったのに、景都が止まった。  景都は袖を見下ろした。「どうした。掴んでる」  まだジャケットを渡していなかっただけだと答えたが、布はもう彼の手にある。景都はその矛盾を口にせず、私の指が離れるのを待った。 「いちいち見ないで。分かってるって」  そう言っても、景都は近づかない。私が掴んでいる分だけ、玄関に残っている。 「さっき、顔が近くなった時……キスしようとした?」  景都は数秒黙った。 「したかった」  答えは短かったが、景都の喉がわずかに動き、ジャケットを持つ手へ力が入った。平然として見えた彼も、触れるのをこらえていた。 「前の私を知ってるから、言わなくても分かるんじゃないの」  答えはすぐには返ってこなかった。 「昔なら迷わなかった。……でも、今の君がどうしてほしいかは、まだ分からない」  胸が跳ね、触れられてもいない身体に熱が戻った。 「でも今やったら、また怒られる気がする」 「……嫌じゃなかったよ。でも、びっくりした」と言うと、景都の顔から少し力が抜けた。その変化に、今度は私が戸惑った。彼もずっと、怖かったのかもしれない。 「景都」 「何」  帰ってほしくない、と言えばよかったのかもしれない。でも、口にしたら今朝がこの先まで進みそうで、怖かった。 「……今日は、帰って。嬉しいのに、まだ怖くもなるから」  景都は一度だけ頷いた。 「分かった。……土曜は、会いたい」  あっさり言われると、それはそれで胸が詰まった。帰ってと言ったのは私なのに、引き止める理由を探しそうになる。玄関には、昨夜の濡れた靴の跡が薄く残っていた。  景都がドアノブへ手をかける。 「忘れ物――」  言いかけてやめた。財布も鍵も時計も、自分で確認する人だ。 「何?」 「何でもない」  今度は私が使った言葉に、景都の眉がわずかに上がった。  ドアを開ける前に時刻を確かめた。七時二分の電車には、走れば間に合うらしい。 「走るの嫌いなくせに」  景都は乾いた靴紐を結び直した。「今日は仕方ない」  結び目を作る景都の手を見ながら、私は昨夜使った歯ブラシの袋がゴミ箱に残っていることを思い出した。捨てるだけの物なのに、今片づけると追い出したみたい
last updateLast Updated : 2026-09-08
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第82話 帰ってほしくなかった

 洗った茶碗は二つ並んでいるのに、ソファには誰もいない。畳んだ毛布を抱えて押し入れまで行き、上段へ入れる前に手が止まった。来週使う予定があるわけでもない。だからこそ、今すぐ奥へしまう必要もない気がした。  結局、毛布はソファの背に掛けた。  昼前まで眠ろうと思ったが、八時には目が覚めた。洗濯機を回し、冷蔵庫の卵を数え、昨夜開けた水を飲む。することはいくらでもある。なのに玄関へ行くたび、最後に景都が立っていた位置を見てしまう。  帰ってと言ったのは私だ。  あのまま残られても困った。  それでも、帰ったあとに寂しいのは別だった。  昼過ぎ、灯から仕事のチャットが来た。来週の販促写真について、金具の反射をどこまで消すかという確認で、私は三分で返した。そのまま画面を閉じようとして、映画の広告が目に入る。前に景都が原作を読んだと言っていた作品だった。  チケットのページまで開き、一度閉じる。  今朝のことを何も話さず、次の予定だけ決めるのは逃げだろうか。逆に、何もかも整理してから会おうとする方が、景都の予定表みたいで嫌だった。◇ 夕方、買い物へ出た。塩、牛乳、卵。売り場で小袋の米を見て、粥はしばらくいいと思う。レジへ並んでいる間にスマートフォンを開いた。 『来週の土曜、映画行かない? この前、原作読んだって言ってたやつ』  送ったあと、袋詰めをしながら何度も画面を見る。既読はつかない。仕事中だと分かっているのに、牛乳を冷蔵庫へ入れる頃には取り消したくなった。  十八時十三分、返信が来る。 『行きたい。何時にする』  今朝の玄関でのことには触れていない。 『午後。まだ決めてない』 『作品は』  タイトルを送ると、少しして『見たい』と返った。  私は冷蔵庫の扉を閉めたまま、画面を見る。  帰ってと言ったのは私なのに、景都はそれを拒絶されたとは受け取っていないらしい。次の約束をなくす理由にもしていない。それだけで十分だった。 『じゃあ時間、あとで送る』  送信直後、もう一通届く。 『土曜、空いてる』  午後の上映時間を調べる。十四時台なら昼食のあと。十六時台なら終わって夕飯もあり得る。そこまで考えてブラウザを閉じた。決めていない先の時間を埋める癖は、景都だけのものではないらしい。  卵を二つ割り、フライパンへ落とす。一人分の夕食は
last updateLast Updated : 2026-09-08
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第83話 暗い映画館で

「その座り方、疲れない? ずっと背中まっすぐじゃん」 「君に触れないようにしてるだけだ。普通に座ると、肘が当たる」  スクリーンで大きな効果音が鳴ったあと、私は小声で「そこまで避けなくてもいいのに」と返した。  夫婦だった頃は、映画の途中で眠って寄りかかった肩も、暗い寝室で触れた腕も、いちいち意識しなかった。互いの体温を知っている相手が、今日は肘さえ触れないようにしている。気を遣ってくれるほど、触れずにいる腕の近さが気になった。  照明が落ちると、顔は見えにくくなった。会話もできない。だから余計に、右腕の近くにある景都の体温だけが分かる。  映画は面白かった。たぶん。  主人公が大事な告白をしている場面で、私はスクリーンではなく、肘掛けの端を見ていた。景都の小指が黒い布張りのすぐ横にある。私が腕をずらせば触れる距離だった。  一度は夫婦として同じベッドで眠り、つい先日は壁一枚を隔てて互いを意識していた。それなのに、肘掛けの端で距離を測っている自分が馬鹿らしい。  ポップコーンへ伸ばした私の手が、同時に伸びてきた景都の指に当たり、二人とも引っ込めた。 「ごめん、同時だった」 「俺も。暗いから見えなかった」  暗い中で謝り合うのがおかしくて、私は箱を景都側へ押した。 「先どうぞ」 「君が取ればいい」 「じゃあ、持ってて」  景都が箱を持つ。私はそこから一つ取った。今度は指が当たらない。それがどこか残念で、すぐに自分へ呆れた。  映画の後半、冷房が強くなった。腕を組んでいたら、景都が身体をこちらへ寄せる。  景都が小声で聞いた。「さっきから腕を組んでるけど、寒いか?」 「ちょっと。でも、上着を出したら大げさなくらい」 「少し、こっちに寄ってもいいか」  景都はそれ以上何もしなかった。ただ、風が当たる側へ自分の肩をずらした。私はその距離を戻さない。  しばらくして、肩がかすかに触れた。  上映中、景都が暗さの中で私のカップへ手を伸ばしたので、肘でそっと止めた。 「そっち、私の。炭酸」  彼は暗い中で自分のカップを探し直す。「俺はコーヒーだったな」  結婚していた時なら間違えなかったはずだと思い、すぐに、その考えが可笑しくなった。五年も離れていたのだ。  エンドロールが始まっても、景都はすぐ立たなかった。私は主人公の最後の台
last updateLast Updated : 2026-09-09
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第84話 肩を貸すほどではない

 立ち上がる時、景都が私の足元にあったバッグを避けた。その肩が遠ざかるのを、つい目で追ってしまった。  映画の帰り、電車は空いていた。  二人掛けの端へ座り、景都が私の隣に座る。上映中より座席は広いのに、さっき肩が触れていたせいで、今度は隙間の方が気になった。 「眠そうだけど、大丈夫か。さっきから二回欠伸してる」 「数えないでよ。映画が長かっただけで、別に眠くは――」  言い終える前に、また欠伸が出た。  本当は、昨夜もあまり眠れていなかった。今日また景都に会うと思うと、先週の玄関ばかり思い出した。着る服を決めてからも、すぐには寝つけなかった。  電車が地下へ入り、窓が鏡みたいになる。自分の顔と、その横の景都が映った。景都はスマートフォンを見ているが、指はほとんど動いていない。 「仕事?」 「天気」  画面には、明日の雨雲が時間ごとに並んでいた。 「明日、何か予定あるの?」 「洗濯」  その一言で張っていた意識がほどけ、生活の話をするうちに目が重くなった。  次に気づいた時、頬の横に硬い布の感触があった。景都の肩だった。夫婦だった頃、車で眠った私の首が痛まないよう、黙って座席を倒したことがある。その肩の硬さも、眠った身体を支える時の腕の位置も知っていた。それでも今は、コート越しに頬を置いただけで息が浅くなった。  慌てて起きる。 「……寝てないから」  景都は窓へ映る私たちを見た。「何も言ってない。肩が触れてただけだ」 「起こしてよ」と早口になると、景都は肩を揉みもせず、「五分くらいだ。よく寝てたから」と答えた。 「重かったでしょう。肩、痺れてない?」 「痺れるほどじゃない。次の駅まではまだある」 「そんな言い方したら、本当にまた寝るよ」  景都がこちらを見る。 「眠いなら寝ればいい。降りる前には起こす」  簡単に言われ、返す言葉がなくなる。  私は窓へ顔を向けた。もう眠くないはずなのに、車内の揺れが続くと肩の力が抜ける。今度は寄らない。寄らないつもりでいた。  二駅過ぎた頃、頭がまた傾いた。景都は何も言わず、私は目を閉じたまま首が楽になる位置へ身体をずらした。 「次の駅だ」  耳のすぐ近くで声がした。  返事の代わりに、目を閉じたまま肩へ頬を残した。 「分かってるって」  景都がもう一度促すので、私は目
last updateLast Updated : 2026-09-09
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第85話 シンガポールの朝九時

 一口飲んで返した。夫婦だった頃には、同じグラスも、同じボトルも数えなかった。ホームの端で、景都が同じ飲み口へ唇をつける。つい見てしまい、私はバッグの持ち手を握り直した。  乗り換えの電車が来るまで、まだ少しあった。隣へ立ち直ると、景都の肩が近くなる。水はもういらないのに、喉の渇きだけは消えなかった。  乗り換えた電車では立った。つり革を持つ景都の腕に、私の肩が時々触れる。私は場所を変えなかった。  改札を出る直前、借りた水のことを思い出す。 「あとで一本返す」 「いらない」 「じゃあ次、私が買う」  景都は少し間を置いて、「それならいい」と言った。水一本にも、次に会う小さな理由ができる。  次に会った時も、こうして何でもない物を分けられたらいい。そう思ったことは、まだ言わなかった。  シンガポールとのオンライン商談は、日本時間の朝九時から始まった。  前回は部長が説明の半分を引き受けた。今日は私一人だ。通訳と営業担当はいるが、商品の設計意図を話すのは私だった。  机の上には、国内版と現地向けに幅を変えた試作品を三つ並べた。三ミリだけ厚くし、引き手の位置を一センチ上げた。数字だけなら小さい。でも鞄の底から指で探す時は、その差が使いやすさになる。  画面の向こうのバイヤーが、試作品を持ち上げる。  最初の質問は価格だった。次が耐水性、その次が色。準備していた順番はすぐ崩れた。 「こちらの生地は、湿度が高い環境だと少し柔らかくなります」  英語で言い、足りない部分を通訳へ渡す。質問されたら試作品を持ち替える。完璧な文章を話すより、商品のことを正確に伝える方がいい。  四十分後、現地側の担当者が一度画面から外れた。待つ数分のあいだ、会議室の空調音と、自分の爪が資料の端を擦る音だけが聞こえた。やがて担当者が戻ってきた。  通訳がこちらを見る。 「この仕様で、店舗テストをしてみたいそうです」  部長が隣で息を吐いた。  私は礼を言ってから、ようやく自分の手が冷たくなっていることに気づいた。手汗で試作品の金具に指紋がついていたので、会議が終わる前に袖で拭く。  商談後も、営業担当と納期や輸送日の相談が続いた。試作品を箱へ戻す頃になって、ようやく肩のこわばりに気づいた。時計はもう昼近くを指していた。  スマートフォンを見ると、景都から朝
last updateLast Updated : 2026-09-10
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第86話 迎えはいらない

 現地で見たい。  午後、現地側から追加資料が届いた。店舗の棚幅、平均客単価、返品理由。私は三つの試作品を並べ直し、どこを見ればいいか付箋を貼る。『色』『持ち手』『湿度』。付箋を貼り終えても、まだ箱へしまう気になれなかった。売り場でこれを選ぶ人を、自分の目で見たかった。  景都へ送る文章を一度入力した。『三日、シンガポール行くかも』。まだ正式ではないので消す。知らせたいことと、決まっていることは別だった。  部長へはその日のうちに返した。 「行けます。日程、調整します」  言ってから手帳へ三日分の仮線を引いた。  その答えだけは、景都へ知らせたいと思うより先に、自分の中で決まっていた。  シンガポール出張は、二週間後に決まった。  三日間。店舗テストの確認と、現地チームとの打ち合わせ。海外出張自体が初めてというわけではない。それでも、自分の商品を理由に呼ばれるのは初めてだった。  景都へ話したのは、航空券まで確定してからだった。 「水曜の朝便で行って、金曜の夜に戻る」  夕食の蕎麦を食べながら言うと、景都は箸を置いた。 「空港までは――」  そこで止まる。  私は蕎麦をすすりながら、続きを急かさず待った。 「送るって言おうとした?」  景都は眉を寄せた。 「……言おうとした。で、やめた」 「顔に出てた」  景都は蕎麦へ目を落とし、また箸を動かした。 「朝早いだろ」 「だから?」  彼は結局、送るとは言わなかった。「……何でもない」  何でもないと言うには、たぶん空港までの所要時間と渋滞まで頭の中で計算していた。 「行きは一人で行く。空港までの移動も、自分でやりたい」 「分かった」 「帰りも一人で帰れるとは思うけど……そこは、まだ決めてない」  景都の箸が止まる。 「帰国する頃、もう一度聞かせて」 「それならいい」  少し不満そうだった。  店を出たあと、景都は便名もホテル名も聞かなかった。私が自分から共有した緊急連絡先と宿泊先だけ、スマートフォンへ保存した。  前夜の荷造りでも、景都に聞けばすぐ答えそうなことが何度かあった。電源プラグ、入国カード、空港からホテルまでの移動。結局、全部自分で調べた。結婚中、景都が使っていたのと同じ型の小さな充電器だけ、鞄の隅へ入れる。  出発当日、朝五時台の空港は思った
last updateLast Updated : 2026-09-10
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第87話 ホテルの窓から

『着いた』  ホテルの机には、現地スタッフから渡された店舗資料が置かれていた。英語と中国語が混ざった紙の端を揃え、明日の集合時間を自分のカレンダーへ入れる。景都なら移動時間まで五分刻みで入れそうだと思い、集合時刻だけにした。  その夜、会社のグループチャットへ到着報告を送り、母にも短く連絡する。景都だけ特別な報告先にしたくないのに、窓の写真は彼にしか送っていなかった。  十五分後、景都から返事が来た。 『眺めがいいな。夕飯はこれから?』 『食べた。麺が辛すぎた』 『写真は』  私は食べかけの皿を送った。『赤いな』と返ってきて、声を出して笑った。  今度は、返事を待たずに靴を脱いだ。  二日目の仕事が終わったのは、現地時間の二十一時過ぎだった。  ホテルへ戻り、靴を脱いだまま窓際の椅子へ座る。昼間に見た売り場の写真を整理しようとノートパソコンを開いたが、五分で閉じた。  景都から昼に一度、『どう』と来ている。 『売り場広い。想定よりバッグ大きい』  そう返してから、やり取りは止まっていた。  電話をかける用事はない。明日の打ち合わせなら会社の人に話せばいいし、ホテルも安全で、困っていることは何もなかった。それでも、ビデオ通話のボタンを押した。  三回鳴って、景都が出る。 『真帆? どうした』 「何もない。体調もホテルも普通。……用事はないけど、ちょっと顔を見たくなった」  言ってから、画面の自分へ目を逸らした。 『うん。俺も、顔が見たかった』 「そういう言い方、ずるい」  画面の中で、景都は開いていた郵便物を伏せた。視線がこちらへ戻る。 『疲れた顔してる。仕事、長引いた?』 「うん。今、やっと座れたところ」  画面の向こうは、景都の自宅の台所だった。白いマグと、開いた郵便物。先日訪ねた部屋でも、こんなふうに夜を過ごす景都を見るのは初めてだった。  私は今日の売り場で、色を一つ増やした方がよいと言われたことを話した。景都はすぐ写真の有無を聞いた。  仕事の相談をしたくて電話したのではないと伝えると、画面の向こうで彼の姿勢が少し変わった。 『分かった。こっちは今日、蕎麦屋に振られた』  思わず顔を上げた。臨時休業だったらしい。何を食べたのかと聞くと、景都はあとで見せると言って、少しだけ画面から目を逸らした。  売り
last updateLast Updated : 2026-09-11
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第88話 キスしたい

 海外のホテルから東京の台所へ食生活の文句を言っている。その状況がおかしくて、私は声を出して笑った。  景都が「明日、何時から?」と聞いた。八時半からだと答えると、「もう少しで切ろうか?」と返ってきた。向こうにも、まだ仕事が残っているらしい。 「じゃあ、切るね」 『嫌だ』  思いがけない一言に、指が終了ボタンの上で止まった。 「え?」  一拍遅れて、景都が視線を逸らした。 『……今切られるのが嫌だ。仕事は残ってるけど、それは後でやる』  私は追及しなかった。聞き間違いにしてあげるほど優しくもないので、笑みを残したまま何も言わない。 「景都」と呼ぶと、画面の向こうで顔が上がる。 「帰ったら、会いたい」  今度は景都が黙った。 『俺も』  窓の外へ目をやると、隣のビルのオフィスはまだ明るい。東京の景都も、たぶん同じような時間を過ごしている。  今は、画面の向こうに景都の台所があり、冷蔵庫の中のヨーグルトまで見える。  明日も同じ時間に、と言いかけてやめた。毎日と決めると、急に窮屈な気がした。 「また、話したくなったらかける。景都も」  画面の向こうで、彼は一拍だけ考えてから頷いた。 『分かった』  その返事を聞いてから、私はようやくノートパソコンを閉じたままでいいと思えた。  帰国した翌日、景都と夕食を食べた。  出張の話は半分くらいしかしていない。売り場の広さ、辛すぎた麺、ホテルの冷房。仕事の報告ならいくらでもあるのに、会ってしまうとどうでもいい話ばかりした。  店を出ると、まだ二十一時前だった。  景都は駅の方向を示した。私は知っている、と答えながら反対へ歩く。 「逆だ」 「少し歩きたい」  それだけで、景都は理由を聞かず進行方向を変えた。  川沿いの遊歩道を並んで歩く。何度か手が当たりそうになったが、どちらも繋がない。  出張前の玄関を思い出す。顔が近づき、景都が止まり、私が袖を掴んだ朝。 「そろそろ駅へ戻る?」と景都が聞く。 「……まだ帰りたくない。もう少し歩きたい」  口に出すと、靴底の音だけが急に大きく聞こえた。  景都が足を止める。振り向いた時、彼の視線は一度私の唇へ落ち、すぐ目へ戻った。右手の指がわずかに曲がる。触れないようにしているだけで、欲望まで消えているわけではないと、その手の方が先に
last updateLast Updated : 2026-09-11
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第89話 やっぱりなし

 二度目はさっきより長かった。景都の呼吸も整っていなかった。離れた唇を追わないよう、顎に力が入っている。その顔を見て、彼が何を止めているのか分かった。私の身体も、同じ続きを知っていた。  夫婦だった頃にも、数えきれないほどキスをしたのに、離れた瞬間、初めてみたいに息の仕方が分からなくなった。  息を整えようと目を伏せた時、白い病室の天井がふと浮かんだ。  嬉しいのに、別の記憶が混ざる。  景都は私の肩へ手を伸ばしかけ、途中で止めて名前を呼んだ。 「大丈夫。……たぶん、嬉しい方が大きい」  景都が私の顔を覗き込んだ。問いかけられる前に、私はその袖を掴む。 「今は、大丈夫。もう少し、このままでいたい」  景都は何も尋ねず、私が袖を掴んだままでいられるよう、腕を下ろした。  離れた唇がまだ熱かった。私はその熱まで怖がらずにいられた。 「水、買おう」 「喉乾いた?」 「ちょっと」  自動販売機で、景都は水を二本買った。一つを渡され、私はキャップを開ける。一口飲むと、ようやく息が落ち着いた。景都も半分ほど飲み、目が合うと照れたようにボトルへ視線を落とした。  橋の手前で、私は出張の話へ戻る。 「楽しかった」 「そうか」  景都の声に何か混じった気がしたが、聞かなかった。  もう一度唇を見てしまい、私は景都の袖を引いた。彼も歩き出す。川沿いの街灯が次々と近づいてくるのを、なるべくゆっくり歩きながら見ていた。  駅へ向かう途中、乗換案内をめぐって笑った。キスをした直後なのに、話しているのは互いの終電だった。その普通さに助けられる。  ホームへ下りる前に振り返ると、景都はまだそこにいた。互いに手は振らない。階段を下りても、掴んだ袖の感触だけが指に残っていた。  キスをしたからといって、翌朝から何かが分かりやすく変わるわけではなかった。  景都から来たメッセージは、『昨日、帰れた?』だった。 『帰れた』 『そうか』  ハートも、恋人らしい言葉もない。私も付けなかった。  次に会ったのは三日後だった。駅近くの定食屋で、景都は焼き魚、私は生姜焼きを頼む。普通に食べ、仕事の話をして、会計を割るかどうかでひと揉めした。  店を出てから、私はこの前のキスをどう受け取ったのか尋ねた。  景都は信号の赤を見たまま言った。「嬉しかった。帰ってか
last updateLast Updated : 2026-09-12
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第90話 名前のない二人

「俺は付き合いたい。君と会って帰るたび、また次もって思ってる」  迷いのない返事だった。それでも、私に同じ答えを求める言葉は続かなかった。  嫌ではない。むしろ嬉しい。けれど『恋人』と口にすると、次は泊まるのか、身体を重ねたら復縁なのか、家族や会社へ何と言うのかまで一気に浮かんだ。昔の夫婦へ戻る道を、また順番どおり歩かされるようで怖かった。 「嫌なわけじゃないんだよ」  景都は黙って、私を見ていた。 「今だって、会えて嬉しいし」  信号の電子音が鳴り始める。人が動く。私たちは一拍遅れて歩き出した。 「でも、景都が誰かとデートしたり、誰かを探したりするのは嫌」  景都がこちらを見る。 「俺も嫌だ」 「じゃあ、ほかの人とは会わない?」 「俺は最初から会うつもりない」 「私も」  景都は間を置いた。 「でも、恋人って呼びたい」 「今は待って」  景都が息を吐く。 「……待つ。でも、嬉しくはない」  駅ビルへ入り、食品売り場の前を通る。景都がコーヒー豆を見て立ち止まり、私は先に数歩進んだ。 「それ買うの?」 「切れそう」  景都は棚から一袋取り、裏面を確かめる。 「前と同じ?」 「変えた」 「何に?」  景都が選んだのは、知らない銘柄だった。  恋人という名前は決められないのに、こういう知らないことなら今日一つ増やせる。  レジを出たあと、私は自分から景都の手の甲に指を一度触れた。  握らない。  景都も握らない。  袋の焙煎日は昨日だった。古い豆は嫌だという。 「前は深煎りだったよね」 「最近は朝に飲むから、軽めの方がいい」  私は知らなかった。景都も私の塩パンを知らなかった。五年分を埋めるには、たぶんこういう小さいことの方が多い。  駅へ向かう途中、景都のスマートフォンへ着信が入った。仕事の電話だった。私は二、三歩先を歩く。景都は二分ほどで切り、追いついた。 「待たせた」 「ううん。コーヒー、今度飲ませて」  景都は紙袋を持ち直し、私を見る。 「淹れるよ。君の分も」 「じゃあ、楽しみにしてる」  口に出すと、景都が少し笑った。私も、恋人という言葉を今すぐ選べないことばかり考えずに済んだ。  信号待ちで並ぶと、手の甲がまた触れた。今度はどちらも動かさない。  信号が青になるまで、手の甲は触
last updateLast Updated : 2026-09-12
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