景都の視線が一度だけ私の口元へ落ちた。 私の手がジャケットの袖を掴む。引き止めたつもりはなかったのに、景都が止まった。 景都は袖を見下ろした。「どうした。掴んでる」 まだジャケットを渡していなかっただけだと答えたが、布はもう彼の手にある。景都はその矛盾を口にせず、私の指が離れるのを待った。 「いちいち見ないで。分かってるって」 言いながらも、景都は近づかない。私が掴んでいる分だけ、玄関に残っている。 「さっき、顔が近くなった時……キスしようとした?」 景都は数秒黙った。 「したかった」 答えは短かった。景都の喉がわずかに動き、ジャケットを持つ手へ力が入る。平然として見えたのは、欲しくないからではなかった。 「前の私を知ってるから、言わなくても分かるんじゃないの」 答えはすぐには返ってこなかった。 「知ってる。だから余計に分からない。昔の君なら、たぶん今、キスしてた」 胸が跳ねた。言われた場所から順に、身体が熱を思い出す。 「でも今やったら、また怒られる気がする」 「……嫌じゃなかったよ。でも、びっくりした」言うと、景都の顔から少し力が抜けた。その変化に、今度は私が戸惑った。彼もずっと、怖かったのかもしれない。 「景都」 「何」 帰ってほしくない、と言えばよかったのかもしれない。でも、口にしたら今朝がこの先まで進みそうで、怖かった。 「……今日は、帰って。さっきのこと、まだうまく嬉しいだけにできないから」 景都は一度だけ頷いた。 「分かった。……土曜は、会いたい」 あっさり言われると、それはそれで胸が詰まった。帰ってと言ったのは私なのに、引き止める理由を探しそうになる。玄関には、昨夜の濡れた靴の跡が薄く残っていた。 景都がドアノブへ手をかける。 「忘れ物――」 言いかけてやめた。財布も鍵も時計も、自分で確認する人だ。 「何?」 「何でもない」 今度は私が使った言葉に、景都の眉がわずかに上がった。 ドアを開ける前に時刻を確かめた。七時二分の電車には、走れば間に合うらしい。 「走るの嫌いなくせに」 景都は乾いた靴紐を結び直した。「今日は仕方ない」 景都が靴を履く間、私は昨夜使った歯ブラシの袋がゴミ箱に残っていることを思い出した。捨てるだけの物なのに、今片づけると追い出したみ
Last Updated : 2026-09-08 Read more