LOGIN「嫌いだった女が死んだ夜、私はやっと元夫を選べると思った。」 恋愛リアリティ番組で再会した元夫・深見景都は、私を守るためなら記事も会社も人間関係も動かす御曹司CEO。彼は今も「君を選ぶ」と言う。けれど、流産した夜、私を病院に残して会社へ戻ったのも彼だった。 そんな中、景都しか知らないはずの流産を口にした恋敵・瀬名莉子が、生放送直前に転落死する。警察が示したのは、私が彼女へ送った『消えて』の三文字。しかも私は、瀬名の死を知った瞬間、「これで景都を選べる」と安堵してしまう。 彼女を殺したのは誰か。景都は何を隠しているのか。息もできないほど愛された元夫を、私はもう一度選べるのか――。
View More婚姻届を出した翌朝、目覚ましより先に鍋の音で目が覚めた。嫌な予感がして台所へ行くと、景都が粥を作っている。「結婚した翌朝に、どうして粥なの」「米が余ってた」「病人みたい」 景都は笑って火を止めた。同じ鍋から二つの茶碗へよそい、塩の瓶は私が先に取る。二回振ると、向かいでは景都が一回だけ足した。 同じ粥なのに、今日も味は違った。 粥は前より少し米粒が残っていた。景都が何度か作るうちに、私がその方を好むと覚えたらしい。聞けば得意そうに説明しそうなので、黙って食べた。 テーブルの端には、昨日役所でもらった控えが置いてある。戸籍上の名字は変わったが、鞄の名刺入れには水城真帆のカードがそのまま入っている。 景都が控えへ一度目をやった。「違和感ある?」「まだある。でも、慣れてないだけ」 それ以上、名前の話はしなかった。 食べ終える頃、瀬名のことが頭をよぎった。もしあの夜がなければ、と考えかけ、茶碗を流しへ運ぶ。水を出すと、考えもそこで途切れた。 景都が鍋を洗い、私は水切り籠へ茶碗を二つ並べた。写真は撮らず、役所の控えもテーブルへ置いたまま。洗った鍋を受け取って拭き、布巾をいつもの位置へ掛ける。 出勤の支度をする。鏡の前で髪を整え、仕事用の名刺を確認する。玄関の鍵置きには二人分の鍵が並んでいた。 玄関を出る前、私は役所の控えを鞄へ入れようとしてやめた。今日は必要ない。テーブルの端へ戻すと、景都も何も言わなかった。昨日まで大事に持ち歩いていた紙が、一晩で生活の中の一枚になっている。 景都が先に靴を履く。「今日、帰り遅い?」「分からない。新商品の会議」「終わったら連絡して」「したくなったらね」 景都は一瞬だけ困った顔をし、それから笑った。 ドアを開ける前、私の名を呼ぶ。「好きだ」 何度聞いても、うまい返し方は思いつかない。私はコートの袖を掴み、そのまま距離を詰めた。「……私も」 エレベーターが来る。景都は先に乗り込まず、開いた扉の脇へ寄った。私
婚姻届を出す前の日、景都と仕事帰りに合流した。特別な食事はせず、駅前のスーパーで牛乳と卵を買う。 景都が袋を全部持とうとしたので、一つだけ渡した。「持てるよ」「知ってる。半分」 牛乳の入った方が明らかに重かった。それでも景都はそのまま持って歩いた。 横断歩道で赤信号に止まった時、景都が明日のことをもう一度確かめた。「本当に出す?」「今さら?」 最後に聞きたかった、と言うので、私は信号の向こうを見ながら少し考えた。「出すよ。景都は嫌になった?」「逆。嬉しすぎて、まだ確認したくなる」「それなら、これで最後」 信号が青になり、歩き出す時に景都の手がこちらへ伸びかけて止まった。私からその手を取る。 指を絡めると、最初だけ強く握られた。顔を見ると景都が慌てて力を抜く。「そのままでいい」 スーパーの袋が歩くたび脚へ当たり、途中で持ち替える。そのたび、つないだ指の角度だけが変わった。 家へ着くと、景都は牛乳を冷蔵庫のいつもの場所へ入れた。私は卵を上段へ置く。「そこ、取りにくい」「私は取りやすい」 俺が取る時は、と続きかけた声を、冷蔵庫の扉を閉める音が切った。「明日から夫になる人も、自分で取って」 景都が笑う。 結婚前夜まで、冷蔵庫の使い方は合わなかった。 テーブルには、明日出す婚姻届を封筒に入れて置いてある。景都が提出時間を確認しようとスマートフォンを取る。「朝起きてから決めよう。役所は逃げないよ」 彼は少し迷ってから端末を伏せた。 夜、牛乳を飲もうとして冷蔵庫を開くと、卵はまだ私の置いた上段にあった。 景都は直していなかった。 夕食後、景都が買い物袋を畳み、私は流しでコップを洗った。明日役所へ行くというのに、話しているのはゴミの日と牛乳の残りだけだった。婚姻届の封筒はテーブルの端にあり、誰も触らない。 寝室へ入る前、景都が封筒をもう一度見た。手を伸ばしかけ、やめる。「何?」と聞くと、「明日忘れないかと思って」と言う。私は玄関の鞄
新しい家が決まった。最初に気に入った窓の大きな古い部屋ではなく、その近くで見つけた少し小さな部屋。駅から六分、台所は二人で立っても肩がぶつからない。 引っ越し初日の朝は、段ボールだらけだった。カップの箱が見つからず、紙コップでコーヒーを飲む。「結婚する家の最初が紙コップ」と私が言うと、景都は「割れないからいい」と平然としている。 ソファもまだ届かず、二人で床へ座った。休む間もなく荷ほどきへ戻る。 景都が炊飯器を持って台所へ行ったが、コンセントと冷蔵庫の扉の間で何度も場所が変わる。私も手伝い、結局、最初に置いた位置から十センチずらしたところで落ち着いた。 最初に届いた大きな荷物は、私の仕事机だった。景都の机より先なのが少しうれしい。窓際へ置いて椅子へ座ると、眩しくないかと聞かれた。「使ってみないと分かんない」と返した。 洗面所の棚には、景都の整髪料と私の化粧水が並ぶ。化粧水が少し傾いていたが、彼は触れない。私が自分で中央へ寄せると、鏡越しに目が合い、二人とも笑った。 午後、古い木製の鍵置きが箱から出てきた。前の家から景都が持ってきたものだ。傷も、鍵で擦れた白い跡も残っている。 使うかと聞かれ、しばらく手に取ってから玄関へ運んだ。今度は、二人の鍵を並べる。 ソファも届いた。景都が寸法通りの位置へ置こうとするのを止め、窓が見える方へ少し斜めにする。二人で座り、あと数センチだけ動かした。そこで決まった。 夜は段ボールの間で、コンビニの惣菜を紙皿へ移して食べた。「新居最初の夕飯だな」と言われ、記念日にしないでよ、と笑う。 段ボールを開くたび、二人の過去が混ざって出てきた。私の古い文房具、景都の仕事資料、前の家の鍵置き。残すか捨てるかは、思い出の有無より、今も使うかどうかで一つずつ決めた。 寝る前、玄関へ行くと鍵が二つ並んでいる。自分の鍵を一度持ち上げ、また戻した。明日の朝、ここから仕事へ行く。景都も別の時間に出て、どちらかが先に帰る。 翌朝、景都が先に起きて湯を沸かしていた。私は寝ぼけたまま、ようやく見つけたカップを二つ出す。 昨日の紙コップを記念に取っておいたかと聞かれ、「何の記念?」と返すと、景都が笑った。
婚姻届をもらってきたのは景都だった。「役所の前を通ったから」 嘘ではなさそうだが、偶然でもない顔をしている。 テーブルへ広げる。氏名、住所、本籍、証人欄。大きな決断なのに、紙の上では罫線と小さな文字ばかりだった。「今日は書くの?」「見せるだけ」 以前の私の言葉を真似している。 名字の欄を見つめる。仕事では水城真帆を使い続けると決めている。戸籍上は、まだ答えがない。景都は自分が変える案も本気で考えていた。「会社、大変でしょう」「手続きはできる」「だから、今は決めない」 二人で用紙を眺める。 しばらくして、自分の名前の欄へ指を置いた。「仕事は水城で続けたい。戸籍は……深見でも、今なら嫌じゃない」 景都が顔を上げる。 口にしてみると、少しだけ喉が乾いた。 瀬名との番組で使った選択札を思い出す。復縁、別離、New Choice。あの札にも管理番号があった。目の前の紙にも番号はあるけれど、カメラへ掲げる必要はない。 書き損じれば、もう一枚もらえばいい。 その夜は何も書かなかった。婚姻届をテーブルに置いたまま夕食を食べ、テレビをつけ、洗濯物を畳む。 景都が用紙をファイルへしまおうとしたので、「まだそこに置いて」と言う。「汚れるよ」「汚れたら、新しいのもらう」 少し嫌そうな顔をした。 翌朝も紙はテーブルの端にあった。コーヒーを置く時だけ二人とも慎重になる。 証人は灯へ頼んだ。電話の向こうで数秒黙ったあと、「やっと?」と言われる。「何年かかったと思ってるの」 説明するのが面倒で、私も笑った。 証人欄はまだ白い。ほかにも決まっていないところがある。それでも朝食の皿は片づき、景都は仕事へ出た。 夕食はスーパーで買った総菜だった。婚姻届のすぐ脇へパックを置くのが落ち着かず、紙だけ少し端へずらす。景都はソースをこぼさないよう妙に慎重だった。「そこまで大事にしなくても」 用紙の角には、朝から何度か触った