LOGIN「嫌いだった女が死んだ夜、私はやっと元夫を選べると思った。」 恋愛リアリティ番組で再会した元夫・深見景都は、私を守るためなら記事も会社も人間関係も動かす御曹司CEO。彼は今も「君を選ぶ」と言う。けれど、流産した夜、私を病院に残して会社へ戻ったのも彼だった。 そんな中、景都しか知らないはずの流産を口にした恋敵・瀬名莉子が、生放送直前に転落死する。警察が示したのは、私が彼女へ送った『消えて』の三文字。しかも私は、瀬名の死を知った瞬間、「これで景都を選べる」と安堵してしまう。 彼女を殺したのは誰か。景都は何を隠しているのか。息もできないほど愛された元夫を、私はもう一度選べるのか――。
View More瀬名莉子が死んだ夜、警察に見せられたのは、私が送った三文字だった。
『消えて』 送信時刻は午後八時十三分。彼女が恋愛リアリティ番組『RE:PAIR』の共同生活棟、その設備区画で発見される一時間半ほど前だった。 取調室の机には、透明な袋へ入れられた私のスマートフォンと、口をつけていない紙コップが置かれていた。刑事は調書を指で追う。職業欄には〈生活雑貨ブランドmellow note 商品企画〉と印字されていた。 「水城真帆さん。このメッセージは、あなたが送ったもので間違いありませんか」 画面の三文字は指先で隠せるほど小さい。それでも、もう消せなかった。 「はい。私が送りました」 死んでほしかったのかと聞かれれば、違うと答える。けれど、私たちの前からいなくなればいいと思ったことまで否定すれば、そのほうが嘘になる。◇
あの朝、瀬名はまだ生きていた。
共同生活にも慣れてきた頃だった。番組が借り切った家には油と照明機材の熱がこもっていた。離婚や破局を経験した男女が、一か月、仕事や自宅への出入りを挟みながら共同生活棟を拠点に過ごし、デート企画を重ねて、最終生放送で関係を選び直す。 復縁すると決めて参加したわけではない。一か月も顔を合わせれば、戻りたいのか、もう終わっているのか、そのくらいは分かると思っていた。 私の相手は、五年前に離婚した元夫、深見景都だった。企業の炎上や事故対応を請け負う危機管理会社LATTICE SHIELDの代表だ。 キッチンには三台のカメラがある。まな板だけでなく、誰が誰を見たかまで残す配置だった。 「はい、お料理のシーン頂きます。カメラ回します」 赤いランプが点く。私はパプリカを同じ幅に切った。 視界の端に、赤いスカートが入る。 「真帆さん、お手伝いしますよ」 瀬名莉子がレンズへ笑いかけながら隣へ立った。元アイドルで、途中参加の〈New Choice〉。壊れた関係へ新しい選択肢を差し込む役だ。 「ありがとうございます。でも、大丈夫です」 「糸、出てます。危ないですよ」 断ったのに、瀬名の指が背中へ回った。衣装の留め具を摘まみ、首の下に触れる。布を直すだけにしては長い。 振り払えば、その瞬間だけが使われる。若い女に苛立つ元妻。番組が欲しがる画が浮かんだ。 その一瞬の遅れを、瀬名は見逃さない。 「手、震えてますね」 弾む声のままカメラへ背を向け、耳元へ唇を寄せる。 「赤ちゃんのもの、今も見られないんですか? だから、あんなに得意だったお料理も、しなくなったんでしょう?」 刃先が止まった。 五年前の病院。白い天井と消毒薬の匂い。目を覚ました時、下腹部の重さだけがなくなっていた。 話したのは景都だけだ。母にも、親友の宮坂灯にも、会社にも言っていない。 「あのこと、どうして知ってるの」 瀬名はカメラへ向けた笑顔を崩さなかった。 「あ……景都さんから、聞いてないんですね」 「答えて」 「私から話すことじゃないので」 答えはないのに、景都の名前だけが二人の間に残った。 瀬名は私の顔を一度見て、またレンズへ笑った。 振り向いた拍子に、汗ばんだ手の中で包丁の柄が滑った。人差し指へ熱い線が走り、白いまな板に血が落ちる。 「止めろ。カメラ止めろ」 低い声がキッチンを切った。 スタッフより早く景都が入り、私の手首を取る。白いハンカチで傷を押さえた。布の端には、結婚して最初の誕生日に私が選んだKの刺繍がある。 「手、上に。指を動かすな」 「これくらい、自分で――」 「今だけは任せて」 救急箱を抱えたスタッフが来ても、景都は消毒液とガーゼだけを受け取った。 「深見さん、撮影の尺が――」 「止める。医務スタッフも呼んで」 彼が顔を上げると、ディレクターは黙った。 景都の肩越しに瀬名を見る。 さっきまで耳元で笑っていた女が、今は口元を押さえていた。 「ごめんなさい。私、そんなつもりじゃ……」 スタッフにも聞こえる声だった。 「景都が、あの人に話したの?」 包帯を巻く指が止まる。 「話してないよ」 「だったら、誰が」 「分からない。確認する」 瀬名はいつの間にかキッチンから消えていた。 作業台には切りかけのパプリカと、血を吸ったガーゼが残る。三台のカメラは止まっていたが、どれもこちらを見ていた。 「誰が教えたの」 もう一度聞いた時には、景都も私を見ていた。瀬名へ向けたはずの問いに、なぜ彼が答えを探すのか。その顔から目を離せなかった。昔なら、その場で出ていたかもしれない。「決まったら教えて。……途中でも、話したくなったら」 景都がこちらを見る。「候補者も権限も聞かないのか」「聞きたいけど、今はいい」 少し黙ってから、景都が笑った。「珍しいな」「その言い方は失礼」 改札前に着く。 会社の話はまだ途中だ。「景都が全部を決めない会社って、まだ想像できない」「俺も完成形は分からない。だから、いきなり全部は渡さない」「仕事の景都が、分からないって普通に言うのは珍しいね」 少し嫌そうな顔をしながらも、景都は否定しなかった。 改札の向こうに電車の案内が出る。 私は時計を見て、一歩だけ後ろへ下がった。「一本遅らせて帰る。あと五分だけ、会社の話の続きを聞きたい」 景都も改札へ入らず、柱の脇へ寄った。 五年間を埋めるには短い。それでも、全部を聞き出さず、途中のまま持ち帰れることが、今の私たちには必要だった。 あと五分だけ、知らない景都の話を聞いた。 景都の会社にCOOを置く話は、数日後もまだ決まっていなかった。 夕食の帰り、信号待ちで彼がスマートフォンを開いた。画面には組織図と承認権限表が重なっている。一定額以上の契約、人事、危機対応の初動、重要顧客への例外判断。赤い印がついた項目ほど、矢印は最後にCEOの欄へ集まっていた。「例の権限表?」 景都は頷き、私にも読める角度へ画面を傾けた。「契約も採用も、ここまで景都が見ていたの?」「金額と役職による。それでも多すぎた。日常の執行はCOOへ渡して、承認も経営会議へ分ける」 青信号になっても、景都はすぐ歩き出さなかった。親指で赤い印を一つ消し、別の欄へ移す。書類の上なら簡単な操作なのに、顔にはわずかな迷いが残っていた。 自分がいなければ進まない仕組みを崩したい。それでも、自分が決めた方が早い案件を手放すのは怖いのだと、景都は画面を見たまま言った。昨日も、移動中の一時間だけで三件の承認が止まったらしい。現場は待てた。だが
全部知っていた夫ではなく、今から知る人。 エレベーターへ向かう途中、若い社員が景都へ「お先に失礼します」と頭を下げた。 景都は時計を見た。「今日、もう終わり?」「はい。明日朝やります」「分かった。帰って」 その言い方も、私には知らないものだった。 夫だった頃、景都が部下に何を言っていたか、私はほとんど知らない。 エレベーターの鏡に並んだ私たちを見ながら、私はその方が少し面白いと思った。 LATTICE SHIELDを出たあとも、会社の壁にあった写真が頭に残っていた。 三年前の景都。去年の景都。 その時間に私はいなかった。 駅まで歩きながら聞く。「社員、国内だけで何人になったの?」「二百八十くらい。君が知っていた頃は九十前後だった」 百九十人分、知らない名前が増えている。会社の壁に残っていた写真と同じで、数字にも私のいない五年があった。「長かったね。景都自身は、ほかに何が変わった?」「コーヒーを減らした。腰も一度痛めた」 景都は腰へ手を当てるでもなく、歩調を変えずに答えた。知らなかった時間は、痛みの大きさより、その平然とした横顔に表れていた。「腰のこと、全然知らない」「離婚したあとだ。言う理由がなかった」 責められない答えほど、時間の長さだけが残る。「そういう小さいことが、たくさんあるんだね」 私にもある。 部署を一度移ったこと。髪を肩まで切ったこと。朝はコーヒーより紅茶を飲むようになったこと。桃のゼリーを好きになったこと。 どれも、夫婦だった頃なら、その日のうちに知っていたような変化だ。 信号が赤になり、景都が止まる。「会社の経営の仕方も変えようと思ってる。大きくなって、重要な承認が今も俺へ集まりすぎてる」 景都は前を見たまま言った。「景都が決めるのが一番早いから、そうなったんでしょう」「ああ。短期的には早い。でも、俺が一日いないだけで止まる会社になる。今は、その方が危険だ」 青になって歩き出
「分かった」 そのまま何も奪わない。 会場では私の言葉を取らず、帰り道でも荷物を取らない。 必要な時には、たぶん頼めばいい。「次のテスト結果、社外へ出せる範囲になったら見せる」「見せられるところだけでいい。無理に全部見せなくていい」 その返しが、今日は少し嬉しかった。 LATTICE SHIELDのオフィスへ行くのは、結婚していた頃以来だった。 会社は移転していて、受付もロゴも知らない。 入館証には私の名前の下に『VISITOR』と印字されている。昔は景都の机まで勝手に入れたことを思い出し、今の方がむしろ正しいと思った。 景都の会社なのに、初めて来た場所みたいだった。 物流拠点の打ち合わせが終わり、担当者が資料を取りに席を外す。 ガラスの向こうで、若い社員が景都を呼び止めた。「深見さん、これ見てもらえますか」 景都は立ったまま画面を見る。「まず結論を一文で。理由は二つでいい。三つ目は一つ目と重なっている」 若い社員は一度画面へ目を落とし、言い直した。景都は途中で奪わず、最後まで聞いてから一箇所だけ指す。「この現場の数字は残して。説得力がある。修正したら俺ではなく田島に見せて。担当はそっちだから」「分かりました」 自分で直さない。 若い社員も萎縮しているというより、直すところが分かった様子で席へ戻っていく。 景都は次の社員に呼ばれても、先ほどの資料を取り上げなかった。 私が知っていた景都なら、五分で全部書き換えていた気がする。 社員が戻ると、景都はこちらに気づいた。「打ち合わせ、終わった?」「今。何を見てた」「景都が若い社員に説明してるところ。厳しいけど、資料を取り上げて自分で直さなかった」 景都は会議室へ入り、私の向かいへ資料を置いた。「昔は取り上げて、俺が直してた。今は人数も増えたし、俺が全部見る方が遅い。俺が書き直して返したら、あいつは次も同じところでつまずく」「そういう顔、私知らなかった」 景都は平然
「そこまで言わなくていい。聞きたくなったら、こっちから聞く」 電車のライトがトンネルの奥に見える。 私は一本遅らせた電車の時刻をスマートフォンへ入れ直す。 景都は何も謝らない。 結論の出ない十分間が、思っていたより普通だった。 業界イベントの受付で、名札を受け取った。『mellow note 商品企画 水城真帆』 その文字を見て、少し安心する。 会場には取引先、物流会社、広告代理店が集まっていた。LATTICE SHIELDも出展していて、景都は午後に短い講演をする。 開始前、以前会った担当者から声を掛けられた。「水城さんですよね。深見社長の元奥さまの」 悪意はない。 だから余計に、胸元の名札が急に小さく見えた。「はい。元妻です」 一度だけ認めてから、私は名札を指で押さえる。「今はmellow noteの商品企画です。シンガポールの地域テストを担当しています」「あ、記事で見ました。失礼しました」 相手はすぐ仕事の話へ移った。「現地ではどのサイズが強かったですか」「意外と大きい方です。持ち手も長めが好評でした」 そこから五分、商品仕様の話が続く。 名刺を交換した時、相手はもう景都のことを聞かなかった。 少し離れた場所に景都がいる。 聞こえていたはずなのに、こちらへ来ない。 講演後も同じだった。 私は別の会社の担当者と、湿気に強い表面加工について話す。相手がサンプルを送ると言い、私は会社の住所を書いた名刺を渡す。 景都は自分のブースに立ったままだ。 壇上で話す姿は遠くからでも目立つ。けれど、私の商談へ入ってくることはなかった。 イベント終了後、会場の外でようやく二人になる。「さっき、元妻って呼ばれたところ、聞こえてた?」「ああ。君が自分で名札を出したから、俺が口を出す場面じゃないと思った」 私は紐を外し、掌の上でカードを裏返した。「助けはいらなかった。でも、私の仕事より元妻の方が先に出る