All Chapters of 嫌いだった女が死んだ夜、元夫の愛が怖くなった ――もう一度、あなたを愛せるまで――: Chapter 51 - Chapter 60

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第51話 百人と、私一人

 私は冷めかけたスープをもう一口飲んだ。さっきより甘みが薄くなり、底に沈んだコーンがスプーンへいくつも乗った。病院のものとは違う。今は、味が分かる。「会社で何があったのかも、聞かせて」 景都はすぐ説明を始めず、一度だけ頷いた。 彼が話したのは、最初の会議室にいた十二人のことだった。顧客対応へ回った営業部長。結婚式で挨拶をしてくれた法務責任者。忘年会で、妊娠中の妻の写真を見せていた若い社員。 数字を並べる時より、話す速度は遅かった。名前を思い出すたびに止まり、コーヒーカップの縁へ指を置く。 顧客情報の漏洩が事実なら、契約停止だけでは済まない。関連部署まで含めれば、百人近い雇用が揺らぐ状況だったという。「朝までに外部調査の受入れと、取引先への報告手順を決めた。契約は止めずに済んだ」「仕事は、間に合ったんだね」「ああ」 そこで景都は言葉を切った。 私は紙ナプキンの端を折り、爪で筋をつけてから開いた。白い紙には折り目だけが残った。「別に、全部放り出して病院へ戻ってきてほしかったわけじゃないよ」「分かってるよ」「今は、でしょ。あの時は?」 景都は一拍置いた。「君が仕事へ行けと言った。会社は危機だった。だから、行くのが正しいと思った」 その答えは腹が立つくらい、あの頃の景都らしかった。「病院にいた私には、正しいかどうかなんて分からなかった。景都が来なかった。それしか残ってない」 景都はコーヒーカップを持ったまま動かなかった。紙のスリーブに指の跡だけがついている。「……俺が、会社を選んだと思った?」「うん。私より会社だったんだって」「そんなつもりじゃなかった」「分かってるよ」 口ではそう返したのに、声は硬かった。今そうだったと分かることと、あの夜そう感じたことは別だった。 隣の席で、幼い子どもがフォークを床へ落とした。母親が拾って店員へ渡す間にも、子どもはもう別の皿へ手を伸ばしている。私はその小さな手をぼんやり見た。 スープの底をスプーンで一度だけなぞ
last updateLast Updated : 2026-08-24
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第52話 翌朝、電話してくれれば

 景都の指が、紙カップの縁で止まった。「病院へ戻る前に?」「うん。夜中じゃなくてもいい。朝に一回くらい……『どうしてる』って、聞いてほしかった」「君は寝ていると思った」 言い終えてから、景都は続きを飲み込んだ。寝ているかどうかを確かめる電話さえしていなかったことに、自分で気づいたらしい。「起きてた。でも、私からも連絡しなかった。自分で『行って』って言ったのに、今さら戻ってきてって言えなかった」 当時の私が、電話がかかってきたからと素直に「戻ってきて」と言えたとも思えない。たぶんまた、大丈夫だから仕事へ戻って、と言った。 それでも、声を聞きたかった。 店員が隣のテーブルを片づけ、濡れた布巾が天板を往復する音がした。さっきフォークを落とした子どもはもういない。空いた席だけが残っている。「自分でも面倒だと思うよ」「してる。……今聞くと、そうだったのかと思う」「その顔、やめて。もう全部分かった、みたいな顔」 景都は少し息を吐いた。「あの時は分からなかった。今だって、電話したら君が何て言ったかは分からない」 コーヒーカップへ触れかけた指を戻す。「でも、電話しなかった」 その答えなら、受け取れた。「真帆。ごめん」 短い謝罪のあと、景都は何も足さなかった。会社の事情も、私が行っていいと言ったことも。 私はすぐには頷けなかった。謝ってほしかったはずなのに、ここで「いいよ」と言えば、五年前の夜まで一緒に片づけてしまう気がした。 窓の外をバスが通り、ガラスに反射した光が一度だけテーブルを横切った。冷めたスープの表面に薄い膜ができている。「……何て言えばいい」「それ、私に聞かないで」「分からない。ごめん、だけだと違う気もする」 景都は困ったようにカップを見た。「珍しく、何もしないんだね」「何もしないでいる。かなり難しい」 真顔で言うので、小さく笑った。重い話の途中なのに、その笑いを
last updateLast Updated : 2026-08-24
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第53話 十五分、玄関にいた

 店員が空の器を下げに来た。コーンスープのカップには、黄色い跡が薄く残っている。あの夜の紙カップは、一口も飲めないまま処分された。今日は底まで飲めたからといって、傷が薄くなるわけではない。 ただ、冷えたものを冷えたまま覚えている必要は、少しなくなった。 席を立つ前、景都が言った。「次に会うなら、離婚届を見つけた朝のことを話したい」「景都から話したいの?」「俺から話したい。……無理になったら言って」 今度は、その言い方に腹が立たなかった。 次に会ったのは、平日の夜だった。駅ビルの喫茶店は閉店前で空いており、磨かれた窓に店内の照明が映っていた。コーヒーマシンの音が遠くで鳴り、店員が入口近くの椅子を一脚ずつ整えている。 景都は水を一口飲んでから、離婚届を見つけた朝のことを話し始めた。「玄関に十五分いた」「十五分?」「たぶん。時計を見た時、君が出てからそれくらい経ってた」 ダイニングテーブルの中央へ離婚届を置き、私は最低限の荷物だけを持って家を出た。郵便物も鍵も、彼が困らないように揃えておいた。誰が見ても、終わりだと分かるようにしたつもりだった。「玄関で何をしてたの?」「靴を履いたまま、行くか戻るか考えてた。君の部屋を一度見て、また玄関へ戻った」「追おうとは思った?」「車を出した」 初めて聞く事実に、テーブルの下で膝がわずかに動いた。「どこまで来たの」「最初の信号。赤になって、そこで戻った」「あの家から、ほとんど出てないじゃない」「そうだな」 景都は言い訳をしなかった。「追えば、俺の力なら見つけられた。カードの利用履歴、車、仕事、実家。調べる方法はいくらでもあった」 その言葉に、胸の内側が冷える。「本当にやろうとした?」 景都の指が、水滴の付いたグラスを一度だけ回した。隠せば私を安心させられると分かっていても、彼は視線を逸らさなかった。「一瞬は。でも、最初の信号でやめた。そこまでやったら、君がもっと逃げる気がした」
last updateLast Updated : 2026-08-25
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第54話 追ってほしい、追われたくない

「だから矛盾してるの。追ってほしかったのに、追われたくなかった」 景都はしばらく黙ったあと、「当時聞いても、理解できなかったと思う」と言った。「私も言えなかった。言わずに分かってほしかった」 五年前の朝、私は駅のホームで水を買った。大きな別れの日なのに、覚えているのは自動販売機の白い光と、冷たいペットボトルだけだ。「その頃、景都はまだ最初の信号にいたんだね」「ああ。赤は一分半くらいだった」「そこまで覚えてるんだ」「何度も通ったから」 仕事なら九十秒は長い判断時間だったのだろう。私たちにとっては、五年経っても決着のつかない九十秒になった。「追えば、たぶん間に合った」 景都が言う。「うん。でも、追いつけていたらよかったのかは、今も分からない」 私は水のグラスへ触れた。冷たさだけは、あの朝のペットボトルに少し似ていた。「ただ、十五分も玄関にいたことは、知れてよかった」 それは追わなかった理由を許す言葉ではない。 私がいなくなった朝、景都もすぐには動けなかった。その事実だけを、今は持って帰りたかった。 翌日の夕方、景都からメッセージが届いた。『昨日の改札の話が、まだ引っかかってる』 嫌な予感がして、そのまま電話をかける。「次に私が離れた時のマニュアルにしないでよ」『するつもりじゃない。……でも考えた』「何を」 電話の向こうで、椅子が小さく軋んだ。『追ったら怒る。追わなくても怒る。どうしたらいい』 景都が仕事の質問では作らない間が、電話の向こうに残った。「私だって、どうしてほしかったのか自分でも分からないよ」『それが一番困る』「困ってて。私も困ってるから」『もういい』は、どちらからも出なかった。電話はつながったままだった。 沈黙の向こうで、景都の呼吸が聞こえた。「言える時は言う。でも、たぶんまた言えない時もあると思う」『……だろうな』「う
last updateLast Updated : 2026-08-25
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第55話 愛してなかった時期はない

『明日、行く』 すぐに時刻と住所が届く。地図に表示されたのは、夫婦だった頃の家ではない。 駅から十分。私の知らない通りと、見覚えのない建物名。 離婚後、景都が一人で暮らしているマンションだった。 前の家へ戻らない話をした翌日、私は初めて、彼が一人で作った生活へ入ることになった。 景都の今の部屋へ入るのは初めてだった。 玄関は広く、靴も傘も必要な数しか置かれていない。その整い方は昔と変わらないのに、靴箱の上にある木の鍵置きだけが、前の家から切り取ってきたように浮いていた。「それ、持ってきたんだ」 私が選んだ、安い木製のトレーだ。片隅には、鍵で擦れた白い傷が残っている。「まだ使えるから」「それ、景都らしいね」「ほかに何がある」 期待した自分を見透かされた気がして、先にリビングへ入った。 壁際には、封をしていない段ボール箱が一つ置かれていた。景都が蓋を開けると、水色のマグカップ、片方だけ残った鍋つかみ、使いかけのハンドクリームが見えた。どれも、私が家を出た日に置いてきたものだった。「捨ててなかったの?」 景都は箱の中のマグへ指を触れ、「捨てる理由がなかった」と言った。「このマグ、縁が欠けてるよ」「口をつける場所じゃない。使える」 物に感情的な名前を付けないところまで変わらない。 箱の底には、茶色い封筒が三通あった。宛名は水城真帆。切手も消印もない。「これは?」 景都の手が、箱の縁で止まる。「送らなかった手紙」 一通目の日付は、離婚から一か月後だった。『駅前で、君が欲しがっていた金具のポーチを見た。買おうとして、やめた』 二通目には、『戻って』と書いて消した跡がある。三通目はほとんど白紙で、最後に一行だけ残っていた。『今日も送らない』「どうして送らなかったの」 景都は水色のマグを持ち上げたが、口はつけなかった。欠けた縁を親指で避けている。「一通で終わる自信がなかった。返事がなくても、次を送ると思った」「だから、何も
last updateLast Updated : 2026-08-26
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第56話 元の夫婦には、戻れない

 それは以前にも聞いた。景都は、私に選ばれることだけは家や会社の力で手に入らないと言った。「選ばれたあと、どうするかは考えてなかったんでしょう」「あの時は」「今は?」 景都の視線が、棚の端にある時計へ移る。結婚中に私が雑貨店で買った、家具に釣り合わない安い時計だった。「もう、前みたいに戻ればいいとは思ってないんだ」 胸の奥へ、冷たいものが落ちた。「愛してるのに?」「ああ」 答えは揺れない。だから、拒絶されたように聞こえた。 私は手紙を箱へ戻し、何も持ち帰らなかった。 玄関を出る時、鍵置きには景都の家の鍵が一つだけ置かれていた。前の家では、私の鍵が隣にあった。 愛していなかった時期はないのに、戻りたいわけではない。 その矛盾の続きを、帰宅してからも考え続けた。 翌日、仕事を終えたあとで景都を呼び出した。 駅ビルのカフェには夕方の電車の光が一定の間隔で差し込み、テーブルの上を横切っていく。「昨日、前と同じ生活には戻りたくないって言ったよね」 景都はブラックコーヒーの蓋を外した。「うん」「どういう意味」「番組に出た時は、君に選ばれたら戻れると思ってた」「どこに」 景都はカップの蓋を回す指を止めた。「……家に」「今は?」「家じゃなくて、君に会いたい」「それ、答えになってないよ」「分かってるよ」 世界の大抵のことなら先まで読む人が、私とのことだけ今日の先で止まっている。少し可笑しくて、少し腹が立った。「じゃあ、何でそこで止まるの」 窓の外を電車が通り、白い光が景都の頬を一度だけ横切った。「君がまたいなくなるのは嫌だ」「それなら、急いで戻したくならない?」「なる」 即答だった。 私は黙って続きを待った。 景都はカップの蓋をテーブルへ置く。「……だから止めてる」「変わるま
last updateLast Updated : 2026-08-26
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第57話 戻らずに、会いたい

 景都は答えを急がなかった。 電車の光がもう一度テーブルを横切る間、彼は私から目を逸らさなかった。「君は欲しい。でも、あの家には戻りたくない」 景都が最後まで言ったのは、次に会った夜だった。 駅前の蕎麦屋。木のカウンターには湯気が上がり、厨房から出汁の匂いが流れてくる。景都の器には、葱がほとんど入っていなかった。「それ、私を拒んでる?」「違う」「愛してるけど戻りたくないって、同じに聞こえるよ」 景都は箸を置いた。「戻ったら、たぶん俺は――」「何」「……同じになる気がする」「何が」 景都は葱の少ない器を見たまま黙った。「分からない」「本当に?」「ああ」 グラスへ手を伸ばす。氷が小さく鳴った。「じゃあ、いつなら戻れるの」「いつなら戻れるかも、まだ分からない」「景都、今日それしか言わないね」「嘘を言うよりはましだと思ってる」「それはそうだけど」 箸袋を折り、開きかけた端をまた押さえた。「……戻りたくないって言われると、私だけ要らないみたいに聞こえる」 景都が顔を上げる。「それは違う」「うん。頭では分かってるよ」 それ以上は言えなかった。 景都も説明を重ねず、箸を取り直した。 しばらくして、私は彼の器を見た。「前は、葱、全部入れてたよね」「今は少ない方が好きなんだ」「いつ変わったの?」「三年くらい前。胃が重くなることが増えた」 五年離れていたのだから、知らなくて当然だ。それでも、夫だった人の好みが変わったというだけで、自分の知らない時間を見せられた気がした。「私、ブラックコーヒーを飲むようになったんだよ」「この前知った」「昔の私なら、苦くて飲めなかったのにね」「今の君は飲む」 店の窓に、向かい合う二人が薄く映っている。葱の量も、コーヒーの味も
last updateLast Updated : 2026-08-27
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第58話 好きなまま、失敗した

「ああ。たぶん、そこから話した方がいい」 愛が足りなかったから離婚したと思えれば、もっと簡単だった。 景都は私を愛していなかった。仕事を選び、私の気持ちを見なかった。だから終わった。そう決めてしまえば、私は傷つけられただけの人でいられる。「私も、好きだった」 信号待ちの歩道で、今度は私から言った。 景都の足が、わずかに止まる。「聞こえた?」「ああ。ただ、もう一度聞きたかった」「確認しないで。恥ずかしいから」 青信号になり、人の流れが動き出す。景都は私の半歩外側を歩いた。昔からの癖で車道側へ立っている。「好きだったのに、家へ帰りたくない日があった」「俺もあった」 思わず横を見る。「景都も?」「君が怒ってるのは分かる。でも、何を間違えたかは分からない」 景都は信号の向こうを見た。「帰ったら、また何か言って、もっと怒らせる気がした」「初めて聞いた」「言わなかったから」 夫婦だったのに、互いの帰りたくなかった夜を知らない。「私は、家へ帰りたくないのは、愛されてないからだと思ってた」「俺は、足りないならもっとやればいいと思ってた」 信号待ちの人が横を抜け、濡れた傘の先から水が落ちた。「帰りたくないのに、二人とも黙ってたんだね」「たぶん。それだけでもない」 景都はそれ以上、原因を数えなかった。 交差点の先で、自転車が勢いよく曲がってきた。景都が私の前へ手を出しかけ、途中で止める。私は一歩内側へ寄った。「今のは、止めてもよかったのに」「前に、一人で例外を決めるなって怒られたから」 自転車の尾灯が遠ざかり、歩道へ静けさが戻った。景都はまだ私の側へ半歩寄ったままだ。「自転車が来た時は、普通に言ってよ」「それは言っていいのか」 私は呆れて息を吐いた。「今はいい。次はその時に聞いて」 二人とも笑った。失敗の話をしているのに、笑えるところが増えている。「好きじゃなかったわけじゃ、ない
last updateLast Updated : 2026-08-27
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第59話 何もなくても、会ってみる?

 改札を抜け、ホームへ向かう階段で一度振り返る。彼はまだ同じ場所に立っていた。 電車へ乗ってから、私はトーク画面を開いた。『次は、何も話すことがなくても会ってみる?』 送信して三十秒も経たないうちに、景都から返った。『会いたい』 返信を見たまま、電車が一駅進むまで画面を閉じられなかった。 次の金曜、会社を出ると、通りの向こうに景都がいた。紺のコートに仕事用の鞄。近くのホテルで会議があったらしい。「もう終わったの?」「ああ。君は今から帰るのか?」 改札の電光表示を見ながら、「そのつもり」と答えた。 景都も帰ると言った。それなら、駅へ向かって別れればいい。けれど二人とも、歩道の端で動かなかった。 車の流れが信号で止まり、また動き出す。その間に交わしたのは、天気の話くらいだった。「話すこと、なくなったね」 私が言うと、景都は少し考えてから頷いた。「事故の資料もない。前のことも、一度は話した」「それで会う理由までなくなるの、変じゃない?」 口にしてから、景都の顔を見る。「変だと思う?」「今聞かないで。……お茶くらいなら飲む?」「飲む」 近くのカフェへ入り、窓際ではなく奥の小さなテーブルを選んだ。景都はコーヒーを頼み、私は水だけにした。 最初の十分は、ミルクを泡立てる音や、食器を下げる音ばかり聞いていた。学生たちが笑っている。ここでは瀬名のことも、離婚した日のことも誰も知らない。そんな場所で、私たちは何を話せばいいのか分からなかった。 沈黙に耐えきれず、私は仕事用のバッグを開いた。「これ、見る?」 取り出したのは、淡い灰色のポーチの試作品だった。引き手の幅を三ミリ細くした新仕様と、旧仕様を一つずつテーブルへ置く。 景都の目つきが変わった。私ではなく、縫い目とファスナーへ視線が落ちる。仕事の時の顔だった。「違いはここか?」「分かる?」「今見た。三ミリくらい」「当てたみたいに言わないでよ」 景
last updateLast Updated : 2026-08-28
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第60話 それは、デート?

 言い終えてから、目を逸らす。 景都はすぐに意味を決めなかった。「用事がなくても、会っていいと思う」「それ、先に言ってよ」「今、分かった」 店を出る時、私は旧仕様だけをバッグへ戻した。新しい方は景都へ渡す。「返すの、急がなくていいから」 景都は一度こちらを見て、試作品をコートの内側へしまった。 景都は、三ミリを本気で譲らなかった。 翌週、社内のユーザーテストへ協力を頼むと、新仕様の評価シートで操作性だけが低かった。コメント欄には、癖のない文字でこう書かれている。『引き手が細く、片手で拾いにくい。冬季や手袋使用時の再評価が必要』 名前を見なくても分かった。 昼休みに電話をかける。「厳しすぎない? 見た目は新しい方がいいって言ったでしょう」『見た目の欄は高く付けた。操作性は使いにくかったから低い』「総合的に考えてよ」『項目を分けたのは水城さんの会社だろ』 正しい。正しいから腹が立つ。「恋愛と仕事は分けたいって言ったけど、一票くらい手加減してくれてもいいじゃない」 言ってしまってから、自分でも理不尽だと思った。 景都は少し黙り、それから低い声で返した。『手加減された方が嫌だと思ってた』「嫌だよ。でも、景都に低く付けられるのも嫌なの」『それは、かなり難しい注文だな』「分かってる。今、私も分かった」 電話の向こうで、彼がわずかに笑った。 午後、私は薄手の手袋をして試作品を十回開け閉めした。八回目で指が滑る。悔しくて、もう十回試す。結果は変わらなかった。 三ミリを元へ戻せば簡単だが、見た目の軽さは失いたくない。引き手の裏へ薄い布を一枚重ね、指の掛かる縁だけを厚くした。「三ミリ、戻さないんですか」 後輩の灯が聞く。「戻さない。使いにくいところだけ直す」 新しい試作を自分で十回、灯にも十回試してもらう。今度は滑らなかった。 景都へ写真を送る。『次はこれ。見た目は変えずに裏だけ厚くした』
last updateLast Updated : 2026-08-28
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