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第1話

――灯里?その名前を聞いた瞬間、純夏の体がこわばった。大学時代、成績で純夏に一位を奪われたことが許せず、卒業制作を台無しにし、トイレに閉じ込めて水をかけ、あろうことか無理やり服を剥ぎ取って隠し撮りまでした、あの堂田灯里(どうだ あかり)のこと?ドアノブにかけた手が、そのまま止まった。無意識に、純夏はさらに扉へとにじり寄っていた。「母さん、灯里のご両親は、僕を助けようとして亡くなったんです」克己の声は、疲れきったように低く沈んでいた。「お二人が亡くなる間際に、僕は灯里の面倒を一生見ると約束しました」「面倒を見る?あんな風に甘やかすことが、面倒を見るということなの?同級生をいじめて、純夏まで苦しめて、それどころか」朋恵の声が詰まる。「よりにもよって、人に純夏を襲わせたなんて!克己、あなたは法律を学んだ身でしょう、それがどんな罪か分からないはずがないでしょう!」純夏は息を呑んだ。耳の奥で、鈍い耳鳴りがした。「……分かっています」克己の声は、ひどく掠れていた。「でも、あのとき灯里はまだ二十歳だったんです。黙って刑務所へ送るような真似が、僕にできると思いますか。僕は土下座してまで、灯里を国外に出してくれと頼みました。純夏には、結婚して一生守り抜くことで償ったつもりです。それでも足りないと?」ぱしん、とゴルフの素振り棒が振り下ろされる音。克己の父の小野木耕造(おのぎ こうぞう)は怒りを抑えきれない様子だった。「結婚式は挙げず、婚姻関係まで偽装し、その上、自分の体にまでメスを入れるとは!あろうことか、灯里をこっそり国内に呼び戻して、一ヶ月も世話をしていたそうじゃないか。克己、これのどこが償いだと言うんだ」克己は長い沈黙のあと、灯里をかばうような声で口を開いた。「灯里は向こうでろくに食事も睡眠もとれず、半年のうちに三度も入院したんです。言葉も通じず、友達もできず、大家に追い出され、コンビニのバイト先でもいじめに遭って……父さん、彼女はもう十分すぎるほど罰を受けています。若気の至りで犯した過ちに対して、これ以上、どうしろと言うんですか。僕はただ、これ以上灯里が苦しむのを見ていられないだけです」扉の外、壁に添えていた純夏の手が、ずるずると滑り落ちていった。五年前の雨の夜。空き教室に引きずり込まれ
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第2話

二人の視線が交わる。克己の呼吸がかすかに乱れ、瞳の奥にはっきりとした動揺がよぎった。「純夏?どうしてここに」純夏はじっと見つめ返した。やがて、静かな声で口を開く。「高橋さんから、書斎でお叱りを受けていると聞いて。心配になって、戻ってきたの。私の手術のことで、またお義父様たちに何か言われたの?」克己の視線が、純夏の抱える救急箱へと落ちる。それから気を取り直すように言った。「今までも何度もこうやってやり過ごしてきたんだ。今回も同じだよ。安心してくれ。君のためなら、僕は絶対に折れない」そう言いながら、克己の目は無意識にスマホへと流れていく。取り繕うような優しさに、純夏はふと笑みをこぼした。「用事があるなら、先に行って。私は一人で帰れるから」克己は急いで去っていき、階段の向こうへ足音が消えていった。耕造と朋恵が去り、書斎に純夏だけが残されると、その顔から笑みが消えた。そして初めて、自分の足で書斎の中へと踏み込んだ。壁に掛けられた絵は克己が大事にしていたもので、以前、高橋が掃除中に額縁をうっかり動かしてしまったとき、珍しく声を荒げたことがあった。今、純夏は手を伸ばし、そっとその額縁を押しのけた。絵の裏には、小さな隠し部屋があった。隠し部屋の壁一面を埋め尽くしていたのは、すべて灯里の写真だった。十歳の誕生日、克己の服の裾を引っ張って笑う灯里。卒業式、花束を抱えて克己に飛びつく灯里。純夏は一枚一枚、表情も変えずに見ていった。そして、隅にあった一枚の写真に目が留まった。ロンドン・アイを背景に並んで立つ、克己と灯里の写真だった。右下には手書きで日付とひと言が添えられていた。【灯里の二十三歳の誕生日。ホームシックだと言っていたから】その日のことを、純夏もはっきりと覚えている――あれは、自分が急性虫垂炎の手術を受け、病室の外で四時間も克己を待っていた日だ。クリスマスイブ、克己は海外まで飛んで灯里のために盛大な花火を上げ、こう書き残していた。【灯里が、いつも健やかで幸せでありますように】その日は、純夏たちの結婚一周年の日だった。冷めていく料理を前に一人待ち続け、克己から届いたのはたった一言。【忙しい、出張中だ】灯里がコンビニでアルバイトをしている姿をこっそり撮った写真には、こう書かれていた。【灯里が
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第3話

翌朝早く、純夏は階下の物音で目を覚ました。リビングは見る影もなく様変わりしていた。大切にしていた花瓶も、自分で編んだ毛布も、部屋の隅に放り出されていた。代わりに置かれていたのは、けばけばしい色使いの現代風のオブジェやラグだった。その模様替えを指図していたのは、灯里だった。五年ぶりに見る灯里は、相変わらず流行のブランド物を身にまとい、使用人たちにあれこれ命じていた。「そう、あの絵も捨てちゃって。ダサすぎるでしょ!」使用人は純夏に気づくと、困った様子で言った。「奥様、こちらの灯里様が朝から人を連れていらして……旦那様のご了承を得ていると仰って……」「分かってる。もう下がってていいわ」灯里が振り返り、純夏を上から下まで眺め回した。そこには隠しもしない軽蔑の色があった。「あら、奥様気取り?昔、トイレで押さえつけられ、泣きついて許しを請うていたときとは、ずいぶん違うのね」純夏は何も言わず、ただ灯里を見つめていた。その視線に居心地の悪さを覚えたのか、灯里が声を荒げた。「昔みたいに黙っていれば、それで済むと思ってるの?いいわ!」灯里はわざと純夏がいつも使っているクッションを床に投げ捨て、ヒールで踏みにじった。それから暖炉の前へ歩み寄り、飾ってあった克己との写真立てを掴んで床に叩きつけ、粉々にした。純夏は、それでも黙ったままだった。ついに苛立ちを募らせた灯里は、リモコンを掴んでプロジェクターを起動させた。画面が明るくなる。映し出されたのは五年前、トイレの個室。縛られた純夏の前に、バケツを持った灯里が立っている光景だった。「純夏、一位を横取りするのが好きなんでしょ?今日はきっちり思い知らせてあげるわ!自分の身の程をわきまえなさいよ!」頭から冷水が浴びせられた。ずぶ濡れになった純夏はみっともなく崩れ落ち、何度立ち上がろうとしても、そのたびに突き飛ばされた。映像の中の、絶望しきった自分。得意げな灯里の顔。周りで無表情に、あるいは笑いながら見ている顔。気づけば、純夏は拳を強く握りしめていた。灯里は時折ドアの方をちらちらと見ながら、なおも挑発を続けた。「見なさいよ、当時の自分がどれだけ惨めだったか、しっかり見なさいって!」その望みどおり、純夏は大きく手を振り上げた。乾いた平手打ちの音と、扉が開
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第4話

「どうしたの?」純夏が静かに尋ねた。「まあ、都合が悪いなら、いいけど」「いや」克己が我に返った。「君がそんなことを言うとは、思わなかっただけだ。純夏、灯里を恨んでないのか?あんなことをされたのに……」「恨んでるわよ。でも、あれは若くて分別がなかったからでしょう。今こうして苦しんでいるのを見たら、放っておけないだけ」克己は立ち上がり、そっと純夏を抱き寄せた。顎を髪の上に乗せた。「分かってくれて、ありがとう」数分後、克己は書斎からノートパソコンを持ってきて、暗号化されたフォルダを開いた。「これが、灯里が海外にいた五年間の資料だ」純夏は一ページずつ、目を通していった。通院記録、SNSの投稿履歴。新しい友人と知り合うたびに、その人物についての詳細な調査報告まで添えられていた。克己が本当に大切に思う相手には、こんなふうに、今日どんな授業を受けたか、きちんと食事を取れているかまで気にかけるのか。この五年間、純夏が日常の些細な出来事を伝えても、そのほとんどは適当に聞き流されていた。今になって、ようやく分かった。些細な話に興味がないのではなく、ただ、純夏に対してだけ、興味がなかったのだ。「どうした?」画面を見つめたまま固まる純夏に、克己が声をかけた。純夏は胸の奥にこみ上げるものを押し殺し、首を横に振った。「詳しくまとまってるのね。コピーしておくわ」整理を終えたときには、もう午後五時を過ぎていた。純夏は荷物をまとめ、病院へ向かう支度を始めた。克己が保温ポットを何気なく受け取った。「僕も一緒に行くよ」この五年間、克己が母の見舞いに付き添ったことは、数えるほどしかなかった。いつも「介護士も医師もついているから」「会社が抜けられない」と理由をつけて断っていたのに、たまに来ると、純夏の母はいつも決まって嬉しそうにしていた。案の定、病室の扉が開くと、母の後藤佐智子(ごとう さちこ)は克己の姿を見て目を輝かせた。「克己くん、来てくれたの?今日はお仕事は忙しくないの?」「どんなに忙しくても、時間を作って伺いますよ」克己は微笑みながらベッドの脇に歩み寄った。「最近の調子はいかがですか」佐智子は克己の手を握り、最近の治療の様子をあれこれと話し始めた。克己は根気強く耳を傾け、時折細かいことを尋ねていた。
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第5話

純夏は固まった。「お母さん、今、何て……」佐智子は息を整えると、なおも詰った。「私が何も見抜けないとでも思ってるの?夫の心ひとつ繋ぎ止めておけなくて、あんな女に大きな顔までさせて!昔あんな目に遭ったんだから、彼があんたを『汚れた女』扱いして、他の女に手を出したがるのも当然でしょう。めそめそ泣いたって何にもならない。あんたがすべきことは、夫のお金をしっかり握っておくことよ!」佐智子のそろばん勘定めいた説教を聞きながら、純夏はふと動きを止めた。全身から、すっと血の気が引いていくのを感じた。やがて、静かに口を開いた。「大学のとき、いじめに遭ってた頃、傷が増えていく私に、お母さんはたった一度だけ聞いたわね。誰にやられたのか、賠償金は取れそうか、って」あのとき純夏は、一位の座を手放せばもういじめられずに済むかもしれないと思ったこともあった。けれど、一位の奨学金は母の命綱で、手放すわけにはいかなかった。「でも今になって、ようやく分かった。私が痛いかどうかなんて、これっぽっちも気にしていなかった。ただ、賠償金が取れるかどうかだけが大事だったのね」佐智子の表情がこわばった。「何よ、その言い方は。私がああやって教えてやらなかったら、あんたが小野木家の奥さんになんてなれたと思ってるの?」純夏はゆっくりと立ち上がった。「そうね。小野木家の奥さん、ずいぶん立派な肩書きだこと。でも、もう二度と、あなたのために我慢するつもりはないから」そう言い終えると、純夏は扉を開け、振り返ることなく病室を後にした。悔しさに任せて何かをまくし立てる佐智子の声を、背中で振り切るように。灯里の一件で母を急変させてしまったことに、克己はいくらか良心の呵責を覚えたのかもしれない。その後の二日間、会食や付き合いをいくつか断り、時間どおりに家へ帰ってきた。自分から言い出しさえした。「約束してた月一のデートの日、ずっと守れてなくてごめん。今日は空けてある。何がしたい?」海外行きの航空券を手配していた純夏は、思わず手を止めた。それは結婚一年目に、純夏が自分で決めたルールだった。あの頃、克己はいつも忙しく、すれ違いの生活が続いていた。それでも普通の恋人同士のように過ごしたくて、純夏は小さなカプセルトイの機械を手作りし、中に願い事を書いた紙をぎっ
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第6話

克己は画面に表示された名前を見つめたまま、通話終了ボタンの上で指を止めた。結局、着信を切り、スマホを傍らの椅子の上に伏せて置いた。「続けよう」そう言って、もう一度純夏の腰を抱き、カメラマンに合図した。カメラマンがレンズを調整した。「はい、では続けましょう。旦那さん、奥さんの方をご覧ください。もう少し、優しく見つめる感じで」克己は純夏を見つめ、口元に自然な笑みを浮かべていた。けれどその視線は、抑えきれずに椅子の上へと逸れていった。スマホは、途切れることなく震え続けていた。純夏の顔から、笑みが少しずつ消えていった。「一度止めましょうか」不意に、純夏が口を開いた。克己ははっと我に返り、腰に回した手に力を込めた。「純夏?」けれど純夏は、腰に添えられた手をそっと外した。「出て。もし灯里さんに、本当に大事な用があったら困るから」克己は一瞬迷ったものの、結局早足で歩み寄り、スマホを手に取った。電話に出るなり、灯里の泣き声混じりの声が飛び込んできた。「克己、ネット上に、私が恥知らずな不倫相手だっていう投稿が溢れてるの!今、パーティー会場でみんなに囲まれて……純夏さんのお友達まで、私のこと恥知らずだって罵ってて……もう怖いよ、早く助けに来て!」克己は眉をひそめ、思わず純夏を見た。純夏はすでに自分の手で、頭のベールを外していた。そして落ち着いた口調で言った。「私がやったことじゃないわ。様子を見に行く?一緒に行くけど」克己は純夏の冷静な表情を見て、また例の違和感が胸に浮かぶのを感じた。だが電話の向こうで灯里の泣き声はますます切迫し、周囲も騒然としている様子だった。頷くしかなかった。「行こう」車は一気にジュエード・ホテルへと走った。到着すると、灯里は数人の着飾った男女に取り囲まれ、顔面蒼白になっていた。一人の女性が灯里を指さしながら詰め寄っていた。「夜中に克己さんと抱き合ってる写真、みんなにばら撒かれてるのよ。私たちを馬鹿だと思ってるの?」そばにいた別の誰かも加勢した。「克己さんと純夏さんは結婚して五年、ずっと仲がよかったのに、あなたが割り込んでどういうつもり?」灯里は涙をぽろぽろこぼしながら、必死に首を横に振った。「違うんです……克己とは、ただ……」「ただ、何?」女性は
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第7話

黒服のボディーガードたちがようやく人垣を割って現場を収めた。「純夏!大丈夫?」振り返ると、そこにいたのは石月真衣(いしづき まい)だった。ここ二年ほど、あるチャリティー活動で知り合った友人で、思ったことをはっきり言う気風のいい女性だ。真衣は純夏の腕の傷を見て、顔色を変えた。「うそでしょ、こんなに深く切れてる!スタッフさん!早く救急箱を!克己のやつは目が見えないの?こんなに怪我してるのに気づかないなんて。あの女は足をちょっと捻っただけなのに、あんなに慌てて」そばにいた顔見知りの奥様も二人、憤慨した様子で寄ってきた。「本当よ!今日だって、灯里が先に純夏さんを見下すようなことを言ってきたから、私たち腹が立って言い返しただけなのに」「あの後、大型スクリーンにあんな写真や投稿が流れて、純夏さんは気が弱いから損をするんじゃないかって心配で、直接文句を言おうとしたのよ」真衣は消毒綿で丁寧に純夏の傷を拭きながら、なおも口を止めなかった。「絶対に、灯里の腹黒い性根を克己のお祖父様に突きつけてやらないと、気が済まないわ!」自分のためにこんなにも憤ってくれる彼女たちを見て、純夏の胸に温かいものがこみ上げた。五年前、克己に連れられてこうした場に初めて出席したとき、出自のことで陰口や嘲笑を浴びせられたこともあった。けれど今、こうして本気で味方をしてくれる友人がいる。込み上げる涙を押し戻し、純夏は静かに口を開いた。「今日、私のために怒ってくれてありがとう。でも、もう何もしなくていいの。私、克己と別れることにしたから」「え!?」三人は揃って驚愕の表情を浮かべた。「別れるって?この五年、彼が仕事で忙しいときは、あなたが生活を支えてきたし、社交が苦手な彼に代わって、いろいろ気を配ってきたじゃない……あなたの尽くしぶりは、他人の私たちから見たって羨ましいくらいなのに、どうして急に」純夏が説明しようと口を開きかけたとき、割り込むように声が響いた。「この人たちよ!克己、私のことを一番ひどく言ってたの、この人たちなの!」灯里が克己の腕に絡みつくようにして歩み寄り、目を赤くしながら訴えた。克己は努めて穏やかな口調で、場を収めようとした。「純夏、今夜のことは、何か行き違いがあったんじゃないか。灯里は時々、言葉がきつい
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第8話

あの日以来、克己はすべての会食や付き合いを断っていた。自分の手で純夏の傷の手当てをし、「痛いの痛いの飛んでいけー」と優しく声をかけた。初めて台所に立ってスープを煮込み、あまり上出来とは言えない一杯を差し出しては、緊張した様子で「おいしいか」と尋ねてきた。夜中、悪夢にうなされて目を覚ました純夏の背中を、何度も何度もさすりながら「怖くない、大丈夫だから」と繰り返した。純夏はそれをすべて受け入れ、静かに礼を言った。週末、克己は高台にある展望レストランの眺めのいい席を予約し、二人だけのデートを計画した。灯里が電話で甘えた声を出し、一緒に行きたいとねだってきたとき、純夏はちょうどクローゼットでスーツケースの荷物を整理していた。克己が言葉を濁している間に、純夏は自分から口を開いた。「いいわよ、一緒に行きましょう」食事の席では、灯里が克己のすぐ隣に座り、話すたびに体を傾け、今にも胸に寄りかからんばかりだった。純夏はステーキを切り分けながら、向かいの二人に目もくれなかった。克己が片膝をついて灯里の足首に薬を塗っているのを見かけても、純夏はそのまま素通りした。「純夏!」克己がふいに立ち上がり、追いかけてきて手首を掴んだ。「何か聞きたいことはないのか?たとえば、僕と灯里の距離が近すぎるんじゃないかとか」純夏は振り返り、克己を見た。その視線は、軟膏のついた指先へ静かに落ちた。「どうして聞かなきゃいけないの?あなたにとっては、かわいい妹分なんでしょう?」克己は言葉を失った。「それとも」純夏はわずかに首を傾げた。「本当は、妹分ってだけじゃないの?」克己は息を詰まらせ、しばらく答えられずにいた。そこへ、灯里が裸足のまま歩み寄ってきて、棘のある口調で言った。「純夏さん、どうしてそこまで克己にこだわるの?克己はあなたのことなんて、もう何とも思ってないのに。まだ分からないの?」純夏は一歩前に出て、灯里に詰め寄った。「それなら、どうして彼は私と結婚したのかしら」声を低く落とし、続けた。「私に補償するため?」灯里の顔が瞬時に青ざめ、唇を震わせながら後ずさった。「でも残念ながら、罪を犯した人が受けるべきものは罰よ。償いなんか何の意味もないわ」純夏は身を翻して階段を上がっていった。あとには、重苦し
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第9話

引きずられるようにして病院へ連れ込まれ、純夏の手首が握り潰されそうなほど痛んだ。VIP病室では、灯里が手首に分厚い包帯を巻いた姿で待っていた。二人が入ってくるのを見るなり、涙をあふれさせた。「克己」その声はか細かった。「私はただ、純夏さんとちゃんと話したかっただけなのに……どうして、私を死に追いやろうとするの?」「あなたに会ってなんかいないわ」純夏は静かに言った。「今日の午後は銀行で手続きをしていたもの。防犯カメラの映像もあるし、窓口の人も証言してくれるわ」灯里はさらに激しく震え出した。「あんた……今でも嘘をつくのね!先生!先生!」主治医が慌てて入ってきて、カルテに目を通した。「堂田灯里は確かに強いショックを受けた末の衝動的な行動と見られます」「聞いた?」灯里が興奮した様子で、小さなナイフを手首の上にかざした。「克己、私が目の前で死なないと、信じてくれないの?」克己の視線は、落ち着き払った純夏の顔と、取り乱した灯里の様子の間を、何度も往復した。やがて、掠れた声で尋ねた。「灯里、どうすれば、気が済むんだ」灯里は、一言ずつ噛みしめるように言った。「小野木家って、そういうところには厳しいんでしょう?間違ったことをしたなら、それなりのけじめはつけないとね」灯里は純夏を見て、冷たく言い放った。「棒で二十回。それを受けきったら、純夏が本当に反省してるって、私も信じてあげる」純夏はふと、小さく笑い声を漏らした。克己を見つめ、静かに尋ねる。「あなたも、私が悪いと思ってるの?」克己は視線をそらし、指先を白くなるほど握りしめた。「純夏、形だけのことだ。灯里は今、精神的に不安定なんだ。これ以上、騒ぎを起こすわけにはいかない。君はいつも分かってくれる人だろう。今回だけ、受け入れてくれないか」純夏は、無理やり隣の病室のベッドにうつ伏せにさせられた。二十回。背中に容赦なく棒が振り下ろされる間、純夏は枕の端を強く噛みしめ、最後まで声一つ上げなかった。終わると、克己は純夏の膝裏に腕を差し入れ、そのまま抱き上げて元の病室へ戻った。傷に触れないよう慎重にベッドへ寝かせる。「先生を呼んでくる」純夏は返事をせず、ただ枕に顔を埋めた。「君がつらい思いをしているのは分かってる」克己は髪に触れ
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第10話

同じ頃、病室にいた克己は、ようやく灯里を寝かしつけたところだった。正体不明の胸騒ぎが、克己の心臓を締めつけた。思わず窓の外に目をやると、一機の飛行機が空を横切り、やがて見えなくなった。眠り込んでいる灯里から視線を外し、ふと純夏のことを思い出した。――まだ、痛むだろうか。その考えが浮かんだ瞬間、胸に湧いていたあの得体の知れない不安が、また頭をもたげた。そろそろ、機嫌をとるべきだ。克己はそっとドアを閉め、車で市内中心部のデパートへ向かった。先月、純夏と買い物に行ったとき、アクセサリー売り場の前で何度もパールのネックレスを見ていたことを覚えている。あのとき「高すぎるから」と言われ、克己もそれ以上勧めなかった。今、クレジットカードでそれを買い、さらに純夏がよく着ているブランドの新作コートも選んだ。最後に花屋へ立ち寄り、瑞々しい白バラの花束を包んでもらった。以前、この清らかな白が一番好きだと言っていた。車中、秘書に電話をかけた。「南の湖の旅行の計画、もっと細かく詰めてくれ。ホテルは一番良い湖側の部屋を。予定は詰め込みすぎないように、妻は静かな場所が好きだから」秘書はそれを了承し、電話を切った。助手席に置いた贈り物を見ながら、克己の胸の中にあった不安も、少しずつ和らいでいった。きっと喜んでくれる。彼女はいつだって、少し機嫌を取れば、すぐに許してくれる人だから。紙袋をたくさん抱えて病室のドアを開けた瞬間、克己の顔に浮かんでいた優しい笑みが、そのまま固まった。病室は、もぬけの殻だった。ベッドはきれいに整えられ、昨夜飲み残していたコップの水すら、跡形もなく消えていた。克己はドアの前で立ち尽くした。「小野木純夏さんをお探しですか?」ナースステーションの若い看護師が顔を上げた。「今朝早くに、ご自分で手続きを済ませて、退院されましたよ」「退院した……?どこへ行ったんですか」「それは私どもには分かりかねます。退院後の行き先までは、こちらでは把握しておりませんので」若い看護師はそう言って、また記録に目を落とした。克己は手にしていた荷物を下ろし、スマホを取り出して発信した。電話口から返ってきたのは、冷たいアナウンスだった。「おかけになった番号は、現在使われておりません……」その場に立ち尽くし、
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