Mag-log in小野木純夏(おのぎ すみか)が病院の前を行ったり来たりするのも、これで七度目だった。ようやく心を決め、採卵手術を受けることにした。 ところが、受付で提出した書類を確認していた看護師が、不思議そうに首をかしげた。 「あの、小野木さん。念のため確認させていただきたいのですが……本当に婚姻届は提出されていますか?」 純夏は面食らいながらも答えた。 「もちろんです。主人とは結婚して五年になりますけど」 「こちらの書類を見る限り、ご主人との婚姻関係が確認できないんです。まれに、相手が婚姻届を出したと言いながら、実際には提出していなかったというケースもありますので……一度、戸籍を確認されたほうがいいかもしれません」 遠回しな忠告に、純夏は思わず笑いそうになった。 世の中には、そんな無責任な男もいるのだろう。けれど彼女の夫・小野木克己(おのぎ かつみ)に限って、それはない。 結婚して五年、小野木家の年長者からは子どものことで幾度となく圧力をかけられてきた。純夏はかつてのトラウマのせいで、なかなか子宝に恵まれずにいた。 そのたび克己が間に立って庇い、本家から折檻を受けたことも十度は下らない。一族の年長者たちと言い争ったことさえあった。 「妻の健康を犠牲にしてまで、子どもを望むつもりはありません」 克己の献身を思うたび、胸が痛んだ。これ以上傷ついてほしくない一心で、純夏は内緒で採卵手術を受けに来たのだ。 何かの手違いだろうと思った純夏は、深く考えず、別の病院でも診てもらおうとした。 そのとき、スマホが鳴った。家政婦の高橋からだった。 「奥様、大変です、すぐお戻りください!旦那様が書斎で正座させられて、大旦那様がゴルフの素振り棒を振るって!今回はただ事じゃないようです!」 ――きっとまた、私のせいだ。 胸が締めつけられるのを感じながら、純夏は病院を飛び出した。 本家に駆けつけると、書斎の扉は固く閉ざされていた。それでも、中から漏れる押し殺した言い争いの声までは遮れない。 扉に手をかけようとしたそのとき、怒気を孕んだ克己の母・小野木朋恵(おのぎ ともえ)の声が響いた。 「克己、灯里のことはもう吹っ切ったと言っていたわよね。だったら、書斎の隠し部屋の壁一面を埋め尽くしている彼女の写真は、いったい何なの!?」
view more克己は、市立病院の病室に二日間横たわっていた。背中の傷は十七針縫われ、麻酔が切れると、痛みが細かな針のように全身を突き刺した。けれどほとんど声を立てず、ただ横向きに寝たまま、山々に切り取られた窓の外の空を見つめていた。蒼が何度か見舞いに来た。最初の日は、純夏を宿まで送ったあと、そのまま病院へ引き返してきた。清潔な着替えと洗面用具を手に提げていた。それをベッド脇のテーブルに置き、点滴の残量にちらりと目をやると、ナースコールを押して看護師に点滴の交換を頼んだ。「三日は経過観察が必要だと医者が言っていた」蒼の声は淡々としていた。「山の中は医療環境が限られているから、傷口が化膿すると厄介だ」克己は蒼を見ずに尋ねた。「彼女は、大丈夫か」「ショックは受けたが、怪我はしていない……今は宿で休んでいる」その後、毎日一度、病室を訪れるようになった。ときには、宿の女将が煮込んだスープを保温容器に入れて持ってくることもあった。ただ十分ほど座って、点滴の進み具合を見て、「何か必要なものは」と一言尋ねるだけのこともあった。二人の間に交わされる言葉は、ほとんどなかった。その沈黙には、どこか微妙な、互いに了解し合っているような気配が漂っていた。二日目の午後、看護師がガーゼを外し、薬を交換しに来た。肩甲骨の下にある傷。蒼の視線が数秒間留まり、それから逸らされ、水を注ぎに立ち上がった。「無理に来なくていい」克己が不意に言った。蒼はコップをベッド脇のテーブルに置きながら、変わらぬ落ち着いた声で答えた。「お前のために来ているわけじゃない」克己の口元が、わずかに歪んだ。――そうだ。純夏のためだ。蒼は明らかに、自分よりもずっと、純夏を大切に思い、丁寧に寄り添う術を知っている。三日目の午後、病室の扉が静かに開いた。純夏が入り口に立っていた。手には果物の籠を提げている。「調子は良くなりました?蒼が、あなたが私に会いたがってるって言ってたから」「灯里は十五年の判決を受けた」克己は言った。「それは知ってます。他に、何か言いたいことが?」純夏はベッドの脇の椅子に腰を下ろした。「純夏、あの日、僕が飛び出したのは、深く考えてのことじゃなかった。感謝してほしいわけでも、何かを取り戻したいわけでも……そういうことじゃな
克己はそのメッセージを受け取ったとき、悪質ないたずらだろうと思った。だが、純夏の身の安全を賭ける気には、どうしてもなれなかった。ほとんど反射的に、フォーラムでの純夏の講演で語られていた次の計画を思い出した。「私たちは、より辺鄙な村へと足を延ばし、失われつつある草木染めの技法を探していきます」心臓が一気に沈み込み、克己は車の鍵を掴んでオフィスを飛び出した。先頭の車の助手席に座り、スマホの画面に映る、絶えず更新される位置情報を見つめていた。伝手を頼って純夏の衛星電話の位置情報を割り出したのだ。信号は、目的の村の付近を移動している。「克己さん、前方で崩落が起きています。迂回すると、あと二時間はかかりますね」運転手がナビを見ながら言った。「そのまま行け」克己は、前方に広がる真っ暗なカーブを見つめたまま言った。「気をつけて進めばいい」言い終えた瞬間、車が激しく揺れた。右前輪が落石に乗り上げ、ハンドルが一瞬で制御を失った。運転手は必死に立て直したが、車体は崖の縁を十数メートルこすりながら滑り、ようやく止まった。克己の額が窓に打ちつけられ、血がにじんだ。「克己さん!大丈夫ですか!」「進め」同じ頃、目的の山村。純夏と蒼は、村で唯一の穀物干し場で、何人かのおばあさんたちと染め上がったばかりの布を確認していた。「この青は本藍で染めたものです。虫を寄せつけないし、何十年着ても傷まないんですよ」蒼はしゃがみ込んで写真を撮り、純夏は真剣にメモを取っていた。そのとき、村の裏山から鈍い音が響いた。最初はごく小さく、遠雷のようだった。だが、すぐに音は大きくなっていった。轟音とともに、木々が折れる鋭い音が混じり始めた。「まずい!」蒼が勢いよく立ち上がった。「土砂崩れだ!」一帯は瞬く間に大混乱に陥った。純夏は人波に押されるように前へと押し流された。足元は、でこぼこの土道だった。振り返ると、蒼が転んだ子どもを引き起こそうとしているのが見えた。「純夏!振り返るな!」蒼が叫んだ。再び轟音が響き、さらに大きな岩塊が斜面を転がり落ち、二人がいる方向へまっすぐ迫ってきた。純夏は足を取られ、体のバランスを崩して前に倒れ込んだ。とっさに、横から一つの人影が飛び込んできて、純夏を勢いよく地面に押し倒した。岩塊はそ
深夜、郊外の安アパートの一室。灯里はタブレットの画面をじっと見つめていた。保釈は認められたものの、裁判所からは厳しい条件を付けられていた。指定された住居を無断で離れないこと。事件の関係者には、一切接触しないこと。行動を縛られても、ネットを見ることまでは禁じられていない。だから灯里は今日も、画面の向こうから、ひそかに彼らの動向を追い続けていた。画面には、盗撮された写真の数々が並んでいた。山奥の工房での純夏の横顔。あの写真家と湖のほとりを並んで歩く後ろ姿。都内のフォーラムで自信に満ちた輝きを放つ姿。灯里は歯を食いしばりながら冷笑した。爪がタブレットのケースに食い込みそうになった。最近、克己が公の場に現れたときの写真をめくった。記者会見の場に立つその男は、目の下に明らかな隈があり、スーツはどこかだらしなく、ネクタイさえ緩んでいた。灯里は不意に、けたたましく笑い出した。誰もいないアパートに、その声が狂気じみた響きとなってこだまする。スマホが震え、弁護士からのメッセージが届いた。【堂田さん、最終公判は来週火曜に決まりました。検察の求刑は七年です。執行猶予を勝ち取れる見込みは、正直厳しいと思われます】その一文を見つめたまま、灯里の目の奥に残っていた最後の光が失われた。「純夏……あんたのせいよ、全部、あんたのせい!」三日後、暗号化された通信アプリを通じて、ある仲介人と連絡を取った。【二百万、前金は百万。ターゲットはあの地方にいる。詳しい場所と行動予定は送るから。事故に見せかけてほしいの】電話を切ったあと、克己に匿名のメッセージを送った。【純夏が今どこにいるか、知りたい?もうすぐ、彼女の身に何か起こるわよ。あなたのせいでね】同じ頃、純夏と蒼は、次の調査に向けた準備を進めていた。今回向かうのは、これまでよりずっと辺鄙な村。険しい渓谷の奥深くにあり、車で六時間かかる場所だった。「この村の刺繍、すごく独特なスタイルなの」純夏は地図を広げ、目印を指さした。「一番伝統的な草木染めを使っていて、色が何十年も褪せないんですって」蒼はカメラ機材を点検しながら言った。「道の状態が良くないから、雨季には地滑りが起きやすい。雨が降る前に山に入らないと」「物資は揃った?」純夏が尋ねた。「うん。薬、食料、それから
純夏という名を口の中で何度も噛み締めてきた。数え切れない眠れない夜に。がらんとした家の中で。開くこともできないままのカプセルを見つめる夕暮れに。今、実際に声に出してみると、その響きはあまりにも軽く、休憩スペースのざわめきにほとんど掻き消されそうだった。純夏は声のする方を振り返った。顔に浮かんでいたかすかな笑みが、わずかに引き締まる。もう克己にとって見知らぬものとなった、落ち着き払った表情に戻る。隣にいた蒼に静かに言った。「少し待ってて」蒼は頷き、それまで肩の後ろに軽く添えていた手を離した。穏やかな眼差しで克己を一瞥すると、数歩下がった。「あちらで待ってるよ」それから、純夏はようやく克己に向き直り、小さく会釈した。「小野木さん、お久しぶりです」その呼び方に、克己の心臓が強く縮んだ。「……立派だったよ」ようやく口を開いた。声はどこか掠れていた。「講演、素晴らしかった。おめでとう」「ありがとうございます」純夏の笑みは礼儀正しく、それでいて距離のあるものだった。まるで、フォーラムで初めて会った相手に向けるのと同じように。克己の胸を、何かがきつく締め上げた。「純夏……」苦しげに口を開いた。「僕たちが、もう一度やり直せる可能性は……本当に、少しもないのか」純夏は、静かに克己を見つめた。遠い昔、雨の夜、教室から抱きかかえて連れ出してくれた、あの温かな腕を思い出す。「僕と結婚してくれないか」と言ったときの、瞳に宿っていた光を思い出す。そして、書斎の扉の外で聞いた、あの言葉も。「純夏は僕を愛しています。僕さえ黙っていれば、純夏が知ることは永遠にない」かつては棘のように胸に刺さっていたそれらの記憶も、今ではもう、うっすらとした痕跡でしかなかった。「私たちの結婚が、最初から偽りだったでしょう」克己の顔から、血の気が引いた。「あの日、家を出たとき、私の中のあなたへの感情はすべて終わったんです」一瞬言葉を切り、克己の向こうに立って待つ蒼へと視線を向けた。瞳がわずかに和らぐ。「もうご覧になった通り、私は今、とても充実した生活を送っています。打ち込める仕事があって、大切に思える人がいる。とても満たされていて、穏やかです」「過去のことは、もう終わったことにしましょう」純夏は身を翻し、待ってい
Rebyu