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All Chapters of 偽りの誓い、私だけの星: Chapter 11 - Chapter 20

23 Chapters

第11話

「堂田さんの件が、ネット上で大炎上しています!」トレンドのトップに上がっていたのは、【#小野木法律事務所 堂田灯里 学校いじめ】。その下、二番目に続くのは、【#堂田灯里 人を雇って暴行】。添付された画像には、送金記録のスクリーンショット、目撃者の証言、そして粗いながらも人物が識別できる動画のサムネイルが並んでいた。どの投稿も「話題」や「急上昇」として上位に表示されている。克己は画面をスクロールし、最初の投稿を開いた。公開された証拠は、どれも具体的だった。灯里があの不良たちに送金した記録のスクリーンショットは、日時も場所も一致している。当時の加害者たちによる匿名証言の音声も、声こそ加工されているが、内容は明瞭だった。さらには一本の動画まであった。冷水を浴びせられ、震えながら床にうずくまる純夏。その傍らで響く、灯里の耳障りな笑い声。コメント欄はすでに炎上していた。【クズだ!絶対に刑務所に入れろ】【小野木家って、そんなに力があるの?こんな人を五年も庇ってたなんて】【被害者は?あの女の子は今どうしてるの?】克己は思わず、タブレットを叩きつけるように伏せた。「今すぐ広報部に連絡しろ。金がいくらかかっても構わない、トレンドから消せ。弁護士から警告状を送り、拡散した発信元アカウントを提訴する」秘書はためらいながら言った。「しかし、証拠があまりにもしっかりしていて……これはおそらく……」「消せと言っただろう!」克己は上着を掴んだ。「今から警察へ行って話をつけてくる」だが、玄関では二人のボディーガードが行く手を塞いだ。「どういうことだ」克己の顔が険しくなる。「大旦那様のご指示です。すぐに本家へお戻りくださいと」克己は苛立ちを抑えながら本家に入っていった。書斎の扉は半分開いていた。押し開けると。バン。一枚の書類が、目の前の床に叩きつけられた。耕造が机の向こうに立ち、顔面蒼白なまでに険しい表情をしていた。「お前はまた、五年前のように、金と権力でこの醜聞をもみ消すつもりか?」克己は身をかがめ、書類を拾い上げた。それは弁護士が作成した意見書だった。そこには、はっきりとこう記されている。【提出された証拠が事実である場合、犯人隠避罪、ならびに証拠隠滅罪に問われる可能性があります】「父さ
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第12話

もし純夏が前々から出ていく準備をしていたのなら、灯里はどうしてあんな騒ぎをきっかけに自傷などしたのだろう。不意に、ある信じがたい疑念が頭をよぎった。「灯里」克己は言葉を遮った。「海外での五年間、本当のところどう過ごしてたんだ?」電話の向こうが、不意に静まり返った。「全部話したじゃない」灯里の声にわずかな動揺が混じる。「言葉も通じなくて、いじめられて、バイトも大変で……」「どこに住んでたんだ」「そ、それは、普通のアパートで……」「どの地区だ」「今更そんなこと聞いてどうするの?今大事なのは……」「答えろ」声は、ひどく静かだった。「どの地区だ」長い沈黙が続いた。克己は電話を切り、秘書にかけ直した。「灯里の海外五年間の記録を、すべて洗い直してくれ。住所、カード利用履歴、SNS、通院履歴。本当のものが欲しい」二日後、報告書が書斎に届いた。克己は一ページずつ、目を通していった。一ページ目。定期的に送金していた「生活費」、毎月二百万円。ほぼ毎月、使い切られていた。明細には、ブランド品、高級レストラン、クラブでの出費が大半を占めていた。二ページ目。部下が見つけ出した裏アカウント。写っていたのは、パーティー、クルーザー、スキー旅行の数々。さまざまな顔ぶれの男女に囲まれて笑う灯里。背景には、各国の観光名所。三ページ目。いわゆる「半年で三度入院」の内訳は、二回は美容整形、一回は飲みすぎによる急性胃腸炎だった。最後の添付資料は、公認心理師による心理評価報告書だった。【本人が訴えるトラウマ症状と、面接時の行動や反応には一部乖離が認められる。症状の程度については、改めて慎重に評価する必要がある】克己は報告書を閉じ、窓の外へ視線をやった。書斎の扉がノックされ、耕造が別の書類を手に入ってきた。「当時の事故の調査記録だ」耕造の声は重かった。「最近になって、ようやく見つけた」克己はそれを受け取った。白い紙に黒々と印字された事故鑑定報告書。支柱が倒壊した原因は操作ミスであり、事故の原因は灯里の父親自身の規定違反だった。克己を助けようとして起きたわけではない、ということだ。「この小野木家は、これまで灯里を育て、学費も生活費も出してきた。もう十分すぎるほど義理は果たした」耕造は克己の肩を叩き、部屋
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第13話

三日後、警察から正式に出頭を求められた。灯里は顔面蒼白のままリビングのソファに座り、精神科の診断書を手に握りしめていた。【重度のうつ病および心的外傷後ストレス障害】「だめよ」声は震えていた。「私、警察になんて行けない……壊れてしまう……」克己は窓辺に立ち、背を向けたまま言った。「その診断書、偽物だろう」灯里が勢いよく顔を上げた。「何を!?」「君が頼んだあの医者は、虚偽の診断書を作成したことで、医師免許を取り消されている」克己が振り返った。手には一枚の書類があった。「これは、大病院の精神科部長による正式な鑑定だ。君に精神疾患はない。すべての症状は詐病だ」灯里の手から、診断書が滑り落ちた。「小野木家は、証拠一式を警察に提出する。君の海外五年間の実際の生活記録も、偽造診断書に関する証言も含めて」灯里は目を見開いた。「そ、そんな……っ」そのとき、玄関のチャイムが鳴った。二人の警察官が扉の前に立ち、身分証を示した。「堂田灯里さん、捜査にご協力ください」灯里は一歩後ずさり、突然克己の腕にしがみついた。「克己!うちの両親に、私の面倒を一生見るって約束したじゃない!」克己は、しがみつく指を一本ずつほどいた。「確かに約束した」克己は言った。「だからこそ、きちんと自首させる。自分がしたことの責任は、自分で取らせる……最後まで自分のしたことと向き合わせるのが、本当に君のためだと思ってる」連れて行かれる直前、灯里は突然振り返り、金切り声で叫んだ。「克己!私を罰したって意味なんてないんだから!純夏はあなたを一生許さない!絶対に戻ってこない!」克己は、やがて秘書にそっと声をかけられるまで、その場に立ち尽くしていた。「……小野木先生、風が強いですよ」がらんとした家に戻ると、まっすぐ物置へ向かった。隅で、あのカプセルトイの機械を見つけ出した。純夏の手作りで、淡い水色に塗られ、手描きの小さな星がいくつも描かれていた。リビングへ運び、テーブルの上に置いた。機械の中には、まだたくさんのカプセルが残っていた。ダイヤルを回すと、一つ転がり出た。開けると、紙には丁寧な字でこう書かれていた。【今日は家で夕飯を食べてくれたらいいな】【一緒に映画を観に行きたい】【私の誕生日、覚えててくれたら嬉しい
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第14話

克己は、あらゆる手を尽くした。航空会社、鉄道会社、ホテルグループ。自ら電話をかけ、人脈をたどり、破格の謝礼を提示した。だが三日後、返ってくる答えはどれも同じだった。該当者は見つかりません、と。「奥様の本人確認書類が最後に確認されたのは、隣県のがん専門病院で、お母様の入院手続きをされた際です」秘書が報告書を目の前に差し出した。「それ以降、公共交通機関や宿泊施設の利用記録は、一切見つかりません」克己はその報告書を見つめたまま言った。「レンタカーは?高速バスは?」「すべて調べました……」秘書の声が、だんだん小さくなっていく。克己は不意に立ち上がった。「今日の午後の会議は中止だ」車で市の西にある遊園地へ向かった。「月一のデート」で、たった一度だけ訪れたことのある場所だった。あの日、純夏はとても嬉しそうで、メリーゴーランドに乗りながら振り返って笑いかけてきた。ポニーテールが風に揺れていた。午後の遊園地は人も少なく、メリーゴーランドは空のまま回り続け、電飾の光がぐるぐると点滅していた。克己はチケットを買い、木馬にまたがった。あの日、純夏が座っていた白い馬を選んだ。音楽が鳴り出し、木馬が回り始める。あの日、尋ねてきたことを思い出す。「ねえ。子どもの頃、メリーゴーランドに乗ったことある?」ないと答えると、純夏もないと言い、「これが初めて」だと笑った。「それなら、これから毎月一回、来ようよ」彼女の目はきらきらと輝いていた。「いいよ」と彼は答えた。けれど、あれ以来、二度と訪れることはなかった。遊園地を出たあと、あの陶芸工房へ向かった。店はまだそこにあったが、店主は代替わりしていた。「何をお探しですか」新しい店主が尋ねた。「五年前、ここで一人の女性がカップを作ったはずなんですが。白いカップで、文字が彫ってあったと思います。少し不格好だったかもしれません」店主はしばらく考え込み、棚の奥から一つの紙箱を取り出した。「これのことでしょうか。ずっと引き取りに来られなかったので」克己はカップを受け取った。白い陶器に、少し歪んだ文字で【克己】と刻まれ、その横には小さなハートが描かれていた。「あの方、ずいぶん時間をかけて作られてましたよ。何度も『納得いかない』って言いながら。最後にどうにか仕上げ
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第15話

古い町並みの残る街から車で一時間ほど走ったところに、静かな湖畔の町があった。純夏が滞在していたのは、その町のはずれにある小さな旅館だった。白壁に黒瓦、中庭のある、どこか懐かしい趣の宿だ。二階の部屋の窓を開けると、目の前いっぱいに青い湖が広がり、その向こうには山々の稜線がゆるやかに連なっていた。女将は四十代くらいの、世話好きで気さくな人だった。純夏のことを「すみちゃん」と呼び、その話し方には柔らかな土地訛りが混じっていた。ここに来て一か月、すでにこのゆったりとした、温かい暮らしのリズムに馴染んでいた。朝は中庭で少しヨガをして、それから朝市へ新鮮な花を買いに行く。午後は本を読んだり、女将に絞り染めを教わったりして過ごす。夜は二階の廊下に置かれたデッキチェアに腰かけ、星が一つ、また一つと灯っていくのを眺めた。宿には他にも長期滞在の客が何人かいた。中でもひときわ目を引くのが、村重蒼(むらしげ あおい)というフリーのカメラマンだった。ここに滞在してもう半年近くになるという。初めて気づいたのは、ある朝のことだった。窓を開けると、彼が湖畔で三脚を立て、山の向こうから朝焼けが広がっていくのを待っていた。長く伸びた影の中、彫像のように微動だにせず、光が湖面をすっかり覆い尽くすまで、シャッターを切らなかった。その後、中庭で顔を合わせても、軽く会釈するだけで、多くを語らなかった。それが変わったのは、ある日の午後のことだった。中庭のブランコに座って本を読んでいると、蒼がカメラを提げて外から戻ってきた。「今日は対岸の夕日がきれいだろうな」不意に、声をかけてきた。純夏は顔を上げた。三十過ぎくらいだろうか。シンプルな黒のTシャツを着て、髪は少し乱れていたが、目だけはひどく澄んでいた。「雲の感じがちょうどいい。いい光が入りそうだ。よかったら一緒に撮りに行かないか?教えてあげるよ」純夏は本を閉じ、少し考えてから尋ねた。「何か持っていくものはありますか」「君だけ来ればいい」蒼は笑った。「あとは、上着かな。夕方の湖畔は風が強いから」二階に上がり、薄手の上着を羽織り、簡単な帆布バッグを肩にかけた。下りてくると、蒼はすでに玄関で待っていた。肩にはカメラバッグを掛けている。女将が台所から顔を出した。「あらすみちゃん、お
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第16話

桟橋から戻ってきてようやく、蒼がただのカメラマンではないことを知った。その朝、純夏が中庭で洗濯物を干していると、蒼が二階から下りてきた。いつもよりずっと大きな撮影用バッグを背負っている。「遠出ですか?」何気なく尋ねると、「山の方へ」と彼はショルダーストラップを整えながら答えた。「あるNPOの活動に同行して撮影するんだ。三、四日ほどかかると思う」純夏は手に持ったシャツのしわを伸ばしながら訊いた。「NPOの活動って?」「うん。支援の届きにくい子どもたちと、過疎地域の伝統工芸の継承を支援する活動なんだ」ちらりとこちらを見た。「興味があるなら、一緒に来てもいいよ。ちょうど助手が足りなくて」純夏は少し間を置いてから言った。「私に、お手伝いできることがあるでしょうか」蒼は笑いながら言った。「たくさんあるよ、子どもたちの図書室を整理したり、職人さんの手順を記録したり。それか……君の視点で、どの瞬間を残すべきか教えてくれるだけでいい」車は山道を三時間揺られ、ようやく山あいにひっそりと佇む小さな村へたどり着いた。村はとても小さく、入り口では何人かの老人が竹細工を編みながら日向ぼっこをしていた。子どもたちは車を見つけると、物珍しそうに集まってくる。「蒼さーん!」お団子頭の女の子が駆け寄ってきた。「また来てくれたんだ!」蒼はしゃがみ込み、バッグから飴を取り出した。「結衣、大きくなったな。おばあちゃんの脚は良くなったか?」「うん、すごく良くなったよ。前にもらった軟膏、よく効いたって」その後の数日、蒼と共に七軒の家を訪ね歩いて、村民たちの生活を自分の目で見た。十歳の少年の陸は、毎朝長い山道を歩いて学校へ通っていた。家に帰れば畑仕事を手伝い、夕食の支度をし、体の不自由な祖父の身の回りの世話もしている。蒼は、陸が古い台所で薪に火をつける横顔をカメラに収めた。火加減を確かめる真剣な横顔を、揺れる炎が赤く照らしていた。七十歳になるという老婆は、機織り機の前に座ると一日中動かなかった。その手で織り上げられる昔ながらの模様のひとつひとつには、名前がついていた。山の向こうの雲、夜明け前の空の色。夜、彼らは村の集会所に泊まり、囲炉裏端で写真を整理した。「これ、いいですね」純夏は、陸が宿題をしている一枚の写真を指さ
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第17話

村から戻って二週間後、純夏はある決断をした。宿の小さな中庭でほうじ茶を淹れ、蒼と女将を呼び集めた。「やってみたいことがあるんです」石のテーブルに手書きの企画書を広げた。表紙には、こう記されていた。【里山刺繍再生プロジェクト】。蒼はページをめくりながら、目をどんどん輝かせていった。「伝統刺繍を、事業化しようってこと?」純夏は流れ図を指しながら説明した。「協同組合のような形です。私たちがデザインの支援と品質管理、それから販路を提供して、おばあさんたちは家で刺繍をして、出来高で報酬を受け取る。手仕事の温かみを守りながら、安定した収入も得られるようにしたいんです」女将が身を乗り出して覗き込んだ。「すみちゃん、これいいわね!村には刺繍のできる女性がたくさんいるのに、売り先がなくて困ってたのよ」「最初の投資は、私が出します」純夏が言った。「この町で法人を設立して、まずは小さく始めます」蒼が顔を上げた。その目に、強い光が宿った。「俺に、何ができる?」純夏は微笑んだ。「あなたのカメラ、そして人脈も。刺繍を作っている人たちや、その土地のことを、ちゃんと映像に残したいんです。誰が、どんな思いで作っているのか――そこまで伝わってこそ、この刺繍の良さが分かると思うから」翌日、工房を立ち上げるための手続きに向かった。三日目には、古い町並みのはずれにある古民家の一階を借りた。四日目には、蒼が壁塗りを手伝い、女将が刺繍のできる村の女性たちを何人か連れてきてくれた。最初の一か月で、彼らは七つの村を回り、二十三人の刺繍職人を見つけ出した。作品を分類して撮影し、記録として整理していった。真衣に紹介されたECプラットフォームに連絡を取り、最初の取引をまとめた。企業向けのノベルティとして、刺繍入りの茶小物セットを一括受注したのだ。「純夏、本当によくやったわね」ビデオ通話の向こうで、真衣が工房の写真を見ながら言った。「これが、あなた本来の姿よ」「そういえば」真衣が少し間を置いてから続けた。「知らせておきたいことがあるの。灯里の件、判決が出たわ。七年よ。小野木家は……今回、口を出さなかったみたい」刺繍糸を整理していた手を、一瞬止めた。「それと」声がわずかに柔らかくなる。「克己のやつ、あなたを探して探して、どうにかなりそ
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第18話

「里山刺繍」の最初の商品が完売すると、純夏は刺繍職人たちに初めての報酬を渡した。おばあさんたちは、思っていたよりずっと多い金額を数えながら、目を赤くしていた。十五歳の結衣――最初に走って出迎えてくれたあの少女は、稼いだお金でおばあちゃんに新しいマフラーを買い、残りは高校進学にかかる費用のために貯金しているという。蒼はプロジェクトの記録をめくりながら言った。「三か月で、二十三世帯に新たな収入源ができた。それに、五人の子どもが進学や通学にかかる費用を心配せずに済むようになった」純夏は報告書の数字を見つめながら、これまで感じたことのない充実感が胸に広がるのを感じた。どんな贅沢品よりも確かで、重みのある満足感だった。それからの日々、二人はほとんど離れることなく過ごした。蒼はプロジェクトが少しずつ形になっていく様子をカメラに収めていった。新学期、真新しい通学用品を手に学校へ向かう子どもたちの後ろ姿。初めて開かれた作り手たちの打ち合わせで、女性たちが笑顔で意見を交わす様子。純夏は運営に専念した。販路の開拓、生産工程の改善、若い職人たちへの新しいデザインの指導。夜は、二人でよく工房に残って作業をした。蒼が写真を編集し、純夏が注文を整理する。疲れたら、お茶を淹れて中庭に座り、星を眺めた。……「前は考えたこともなかったわ」ある夜、純夏がふと呟いた。「私に、こんなことができるなんて」蒼は温かいお茶を差し出しながら言った。「君にはただ力を発揮できる場所がなかっただけだよ」純夏は湯呑みを両手で包み込んだ。立ち上る湯気が目をぼんやりと霞ませた。さらに一か月後、最初の大口の企業案件を獲得した。契約を終えたその夜、二人は湖のほとりへ足を運んだ。遠くの漁船の明かりが、暗い湖面に星のように映っていた。二人は桟橋沿いをゆっくりと歩いた。どちらも、何も言わなかった。湖に張り出した展望台まで来たところで、蒼が足を止めた。純夏を見つめた。その瞳には、いつもの優しさに加えて、もっと深い何かが宿っていた。「純夏。君の過去の傷が癒えるまでに、時間が必要なのは分かってる。急ぎはしない。待てるよ。一年でも、二年でも、どれだけでも。ただ、伝えておきたかったんだ。俺は……君のことが好きだ」純夏はすぐには答えなかった。数分の
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第19話

付き合い始めてから、蒼は相変わらず、純夏との大切な瞬間の数々をレンズに収め続けた。ファインダーの中の笑顔は、日に日に、伸びやかで明るくなっていった。純夏は変わらずプロジェクトに没頭していたが、疲れきった深夜に宿の中庭へ戻ると、いつも、一つの明かりと、淹れたてのお茶が待っていてくれた。夜遅くまでプロジェクトについて話し合っているとき、蒼の肩にもたれて、ほんの少し眠ることもあった。プロジェクトは周囲の協力を得てますます順調に進み、一年後、そのプロジェクトを引っ提げて地方創生フォーラムの会場に立つことになった。「緊張してる?」蒼がドアの脇に寄りかかり、水筒を手にして言った。「少しだけ。でも、それより信じられない気持ちの方が大きいわ」一年前は、あの華やかな鳥籠の中で身を縮め、大きな声で話すことすら慎重にならざるを得なかった。それが今、千人規模の会場で、自分のプロジェクトを語ろうとしている。蒼が近づき、耳元に垂れたおくれ毛をそっと整えた。「君ならできるよ」純夏は深く息を吸い、頷いてみせた。スポットライトが灯ると、ヒールを鳴らして壇上へと歩み出た。会場は人で埋め尽くされていた。各国からの招待客、投資家、メディア。演台の前に立ち止まり、マイクの位置を調整した。「皆さん、こんにちは。後藤純夏(ごとう すみか)と申します。『里山刺繍』プロジェクトの発起人です」大型スクリーンに、蒼が撮影したドキュメンタリー映像の一部が流れ始めた。山のふもとの村、針仕事で硬くなった刺繍職人たちの手、工房の外からこっそり顔を覗かせる子どもたちの笑顔。純夏は、ゼロから一を作り上げた過程を語った。最初の商品をどうデザインしたか、どうやって販路を切り開いたか。演説が十五分ほど経ったところで、ある写真に切り替えた。結衣。あの十五歳の少女が、新しい制服姿で校門の前に立っている写真だった。自分が刺繍した最初の作品を手に、歯を見せて満面の笑みを浮かべている。「この女の子は、以前は中学を出たらすぐに働きに出るつもりでした。今は、大学に進んでデザインを学び、いずれこの村に戻って、故郷の刺繍をもっと遠くへ届けたいと話しています。これこそが、ビジネスや地方創生が目指すものなのだと、私は思います。より多くの人に、夢を見る機会を与えること」
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第20話

純夏という名を口の中で何度も噛み締めてきた。数え切れない眠れない夜に。がらんとした家の中で。開くこともできないままのカプセルを見つめる夕暮れに。今、実際に声に出してみると、その響きはあまりにも軽く、休憩スペースのざわめきにほとんど掻き消されそうだった。純夏は声のする方を振り返った。顔に浮かんでいたかすかな笑みが、わずかに引き締まる。もう克己にとって見知らぬものとなった、落ち着き払った表情に戻る。隣にいた蒼に静かに言った。「少し待ってて」蒼は頷き、それまで肩の後ろに軽く添えていた手を離した。穏やかな眼差しで克己を一瞥すると、数歩下がった。「あちらで待ってるよ」それから、純夏はようやく克己に向き直り、小さく会釈した。「小野木さん、お久しぶりです」その呼び方に、克己の心臓が強く縮んだ。「……立派だったよ」ようやく口を開いた。声はどこか掠れていた。「講演、素晴らしかった。おめでとう」「ありがとうございます」純夏の笑みは礼儀正しく、それでいて距離のあるものだった。まるで、フォーラムで初めて会った相手に向けるのと同じように。克己の胸を、何かがきつく締め上げた。「純夏……」苦しげに口を開いた。「僕たちが、もう一度やり直せる可能性は……本当に、少しもないのか」純夏は、静かに克己を見つめた。遠い昔、雨の夜、教室から抱きかかえて連れ出してくれた、あの温かな腕を思い出す。「僕と結婚してくれないか」と言ったときの、瞳に宿っていた光を思い出す。そして、書斎の扉の外で聞いた、あの言葉も。「純夏は僕を愛しています。僕さえ黙っていれば、純夏が知ることは永遠にない」かつては棘のように胸に刺さっていたそれらの記憶も、今ではもう、うっすらとした痕跡でしかなかった。「私たちの結婚が、最初から偽りだったでしょう」克己の顔から、血の気が引いた。「あの日、家を出たとき、私の中のあなたへの感情はすべて終わったんです」一瞬言葉を切り、克己の向こうに立って待つ蒼へと視線を向けた。瞳がわずかに和らぐ。「もうご覧になった通り、私は今、とても充実した生活を送っています。打ち込める仕事があって、大切に思える人がいる。とても満たされていて、穏やかです」「過去のことは、もう終わったことにしましょう」純夏は身を翻し、待ってい
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