私を心底憎んでいるはずのトップ俳優から、溺愛されるようになりました。 のすべてのチャプター: チャプター 11 - チャプター 20

79 チャプター

第11話

「はい」 張り詰めた空気が肌を刺す中、監督はゆっくりと、私の心臓を抉るような問いを投げかけてきた。 「あなたは、彼を心の底から愛していますか?」 私は、一切の迷いなく答えることができた。 頭で考えるよりも早く、胸の奥で熱く脈打つ想いが自然と声帯を震わせる。 「はい。もちろんです。私のすべてを懸けて」 力強く言い切った私の言葉に、監督はわずかに目を細め、興味深そうに口角を上げた。 「ならば、彼がそれを望まなくとも、彼を守るために自分自身のすべてを投げ打つ覚悟はありますか?」 自己犠牲。それは古典的なラブストーリーにおける美しいヒロイン像の象徴であり、残酷な逃避でもある。 私はゆっくりと伏せていた視線を上げ、静かに首を振った。 「……いいえ、できません」 私のその意外な答えに、監督は意表を突かれたようにピタリと動きを止め、怪訝そうな皺を眉間に寄せた。 自己犠牲こそが究極の愛だと信じて疑わないようなこの王道ドラマのオーディションにおいて、ヒロインの口から「すべてを投げ打つことはできない」という言葉が出るのは、明らかにセオリーから外れている。 「それはなぜですか? 自分のすべてを懸けて彼を愛していると言うのに?」 「愛しているからこそ、です。彼が本当に望んでいるのは、私が自分を犠牲にすることではなく、共に生きる未来のはずですから。私が彼のためにすべてを投げ打って彼を一人にしてしまっては……何の意味もないんです」 彼を一人で暗闇に置き去りにしたりはしない。共に傷つき、共に生きる。 自己犠牲という美しい嘘を否定し、どんなことがあっても彼と並び立つことを選ぶという強固な意志の表明だった。 「ずいぶんと耳障りのいい、都合のいい理想主義だな」 今までただ黙って審査員席から私を見据えていた悠が、冷たい声を落とした。 私は予想外の方向からの介入に、思わず瞬きをして小さく声を漏らした。 「え……?」 スタジオ内の酸素が一気に奪われたかのような息苦しさを覚える。 「そんなものはただの綺麗事だ。過酷で冷酷な現実の前では、お前のような生半可な理想だけで生きていけるほど甘くない」 冷ややかで、どこか私を挑発し、試すような低い声。 それは、住む世界が違うヒロインを容赦なく突き放そうとする御曹司としてのセリ
last update最終更新日 : 2026-09-16
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第12話

「……理想を現実に変えてみせる、か」 台本には存在しない、彼自身の口から紡ぎ出された低い声に、張り詰めたスタジオの空気がさらに一段階冷え込む。 「はい」 絞り出すような細い声ではなく、しっかりと押し出した明瞭な声だった。けれど彼は、私の無謀さを嘲笑うかのように、ふっと短く鼻で息を吐き出した。 「いい加減現実を見ろ。お前が今その足で踏み込もうとしているのは、そんな安っぽい綺麗事だけで生き残れるような甘い世界じゃない」 冷徹で容赦のない拒絶の言葉。 普通ならその覇気に呑まれ、言葉に詰まってしまうところだろう。けれど、白石愛理は、絶対にここで退きはしない。 「分かっています」 私の口からこぼれ落ちたその言葉は、強がりでも虚勢でもない、心の底からの本心だった。 「分かっていないからそんなことが言えるんだ」 彼からの痛烈な一撃を真正面から浴び、私の肩は微かに跳ねたが、それでも視線だけは絶対に外さなかった。 彼の言葉は正しい。本当の意味で彼の地獄を理解することなんて、誰にもできないのだから。だけど、だからといって彼をこの暗闇の中に置き去りにすることなんて絶対にできない。 「どんなに厳しい現実だとしても、私はあなたを一人にはしません」 彼の纏う分厚い壁の奥底に、誰にも触れさせまいと隠し持っている深い孤独と寂しさがあることを、私は知っているから。 「ずいぶんと安い覚悟だな」 彼にとって、私のこの命懸けの決意すら、世間知らずの小娘が吐くお伽話のように響いているのだろうか。 「そんなこと……っ!」 私は血の気が引いていくのを感じながらも、必死に反論しようと喉を震わせる。 けれど、その反論を彼は無慈悲に遮った。 「俺の世界がどれほど冷酷か、お前のような平凡な人間に想像できるとでも? 」 彼が口にしたのは、質疑応答での私の言葉を拾い上げつつ、見事に台本のセリフへと繋ぎ合わせた完璧なアドリブだった。 「私には、あなたの痛みの半分すら理解できないかもしれません。でも、あなたを助けられるように努力します」 私の言葉は、彼の怒りの炎にさらに油を注ぐ結果にしかならないかもしれない。それでも、偽りのない自分の本心をぶつけるしかなかった。 彼の背負う地獄のすべてを分かち合えるなどという傲慢な嘘は吐きたくない。けれ
last update最終更新日 : 2026-09-16
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第13話

「堂島という地位と名誉がある俺の事か? それとも、俺が持っている莫大な財産でも欲しいのか」 私の中にある感情を泥で汚そうとする彼の自傷行為に、胸の奥がギリギリと締め付けられる。 違う、そんなもののためじゃない。 私は必死に首を横に振り、彼の言葉を否定しようとした。 「違います。私は…」 「わざわざ俺を選ぶ必要なんてない。ありふれた普通の幸せを与えてくれる奴なんて、他にいくらでもいる」 その言葉には、彼の優しさが滲んでいた。 私にありふれた普通の幸せを掴んでほしいという彼の願い。けれど、私の望む幸せは、そんな平穏で退屈な未来の中にはない。 「与えてくれなんて頼んでません。私は自分で幸せになります。他の誰かじゃなくて、あなたと」 家柄も、安全な未来も、世間体も何もかも関係ない。 私が欲しいのは、あなたという人間だけ。 「お前が夢見ているような白馬の王子なんて、ここにはいない。俺はただ、忌まわしい血筋を守るためだけに感情を殺して生きる空っぽの操り人形だ」 私はなりふり構わず、心の底から湧き上がる熱い感情のすべてを言葉に変えてぶつけた。 「あぁもう…!そんなのどうでもいいです!」 私は彼との距離を詰め、見上げるほどの彼に真っ向からぶつかっていく。 「あなたのことを白馬の王子様だなんて思ったことなんて一度もありませんし、あなたのことを利用しようと思ったこともありません!」 地位とか名誉とか、そんなもの心底どうでもいい。私はただ、そんなどうでもいいものを大切にしないといけない世界で生きている彼のことを、一人には出来なかった。 それぐらい、愛していた。 「あなたが空っぽだと言うなら、私がその心を埋めます。背負っているものが重くて息が詰まるなら、私が半分背負います」 そうやって、支え合いながら生きていきたい。あなたとなら、どんなことも乗り越えられるはずだから。 「俺のそばにいても、何も手に入らないんだぞ。それでも俺を選ぶのか」 彼の言葉を聞き、私は微笑んでみせた。 「地位も名誉もいりません。私はただ、あなたの傍にいたいんです」 完璧に作り上げられていた御曹司の分厚い仮面に、ピキリと明確な亀裂が入った。 「え……っ」 驚く暇さえなかった。 息が完全に止まるほど強い力でぐっと腕を引か
last update最終更新日 : 2026-09-17
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第14話

「美羽さん、お疲れ様」 監督の声で我に帰った。 自分がいかに悠真に強くしがみついていたかを自覚して、慌てて彼の広い胸の中から離れ、深く頭を下げた。 「ありがとうございました……っ」 全身の血が沸騰したように熱い。 耳元には、つい数秒前まで私を縛り付けていた彼の甘く掠れた吐息の感触が、火傷のように生々しく残っていた。 完全に役に入り込みすぎて、これが自分の人生を懸けたドラマの第3次審査であることすら完全に忘れてしまっていた。 余韻に浸る間もなく、頭上からひどく冷たく、事務的な声が降ってきた。 「失礼なことを言ってすみませんでした。さっきの言葉はあくまで役としてのものなので、どうかお気になさらないでください」 「もちろんです。こちらこそ、素晴らしいお芝居で引っ張っていただき、ありがとうございました」 オーディションの相手役に対する、どこまでも模範的で隙のない返答。 私の言葉を聞いた悠真は小さく頷くと、すぐに私から視線を外し、長机の真ん中に座る監督の方へと向き直った。 「監督も、すみませんでした。こちらの独断で計画に無い動きをしてしまい、審査の進行を乱してしまったことをお詫びします」 トップ俳優としての責任感と、あくまであれは相手の力量を引き出すためのテストであったと主張する冷静な態度。 彼が纏うその見事なまでの切り替えの早さに、私は改めて彼がいる世界の高さと遠さを思い知らされる。 「いいさ、気にしないでくれ。予定調和を壊したことで、非常に面白いものが見られたからね。ただ、オーディションの公平性を守るために、この後の候補者たちにも同じようにアドリブでアプローチをしてもらう必要はあるが」 「はい。責任を持って、最後まで同じ熱量で務めさせていただきます」 監督の指示に、悠真は一切の躊躇なく頷いた。 他の候補者にも、今私にしたのと同じようにあの熱量で抱きしめ、執着の言葉を囁くのだ。その事実がどうしようもなく心をざわつかせるけれど、私はただ口を噤んでそのやり取りを聞いていることしかできない。 悠真との会話を終えた監督が、ひどく興味深そうな眼差しで私を真っ直ぐに見つめてきた。 「さて、美羽さん。君に一つ聞いてもいいかな」 「はい。何でしょうか」 私は背筋をピンと伸ばし、審査員たちからのどんな評価
last update最終更新日 : 2026-09-17
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第15話

重厚な防音扉を背中で押し閉めた瞬間、それまで全身を縛り付けていた極限の緊張の糸がプツリと音を立てて切れ、思わずその場にへたり込みそうになった。 膝の震えを必死に堪えながらゆっくりと顔を上げると、待合スペースからマネージャーが、足早にこちらへ駆け寄ってくるのが見えた。 「美羽、本当にお疲れ様」 彼の姿を目にした途端、張り詰めていた呼吸がようやく正常なリズムを取り戻していく。 「……ありがとうございます」 私が絞り出すように答えると、マネージャーは私の異常な様子にすぐ気がついたようだ。 上気して赤く染まった頬、小刻みに震える指先、そしてどこか焦点の合っていないような瞳。 「それで、手応えの方はどうだった。一ノ瀬悠真を相手に、食らいついていけたか?」 周囲の目を気にしつつも、声には熱がこもっている。 あの異常な時間を手応えというありふれた言葉で表現していいものか、今の私にはまだ頭の整理がついていなかった。正解の芝居をしたというよりは、ただ必死に彼の熱量に食らいつき、生き残るために足掻いただけのような気がしたから。 「セリフが飛んだり、動きに詰まったりはしませんでした。でも……あの中で求められていたものが何だったのか確信が持てなくて。だから、手応えと言われると正直分かりません」 私の歯切れの悪い回答に、マネージャーは微かに眉根を寄せた。手応えがないという言葉が、実力を出し切れなかった後悔からのものなのか、それとも別の要因があるのかを探ろうとするような真剣な眼差だった。 「結果はともかくとして……お前自身が納得できる芝居は、ちゃんとできたのか?」 審査員が求める完璧なヒロイン像からは外れていたかもしれない。けれど、あの空間で彼に対してぶつけた一緒に生きたいという強烈な覚悟に、嘘は一つもなかった。 「はい。今の私が持っている熱も、感情も、過去も。持てる力のすべてを、一滴も残さずぶつけてきました。後悔は一つもありません」 私の迷いのない力強い眼差しと言葉を聞いて、マネージャーはそれまで張り詰めていた肩の力をふっと抜き、深く長い安堵の息を吐き出した。 彼にとって、私がどれだけ技術的に上手くやれたかよりも、魂を燃やして役と向き合えたかどうかが最も重要だったのだろう。 「そうか。それなら十分だ。今の時点でお前がやれる最
last update最終更新日 : 2026-09-18
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第16話

私の話を聞き終えたマネージャーは、小さく息を吐き出し感嘆の声を漏らした。 「……なるほどな。台本という安全網を奪われた上に、アドリブの応酬か。それに一歩も引かずに食らいついたってのは、本当に大したもんだな」 マネージャーの手放しの褒め言葉を受けても、私の心はまだふんわりと宙に浮いているような、不思議な感覚に包まれていた。 あれを女優としての演技と呼んでいいのか、私には判断がつかなかった。 窓の外を流れる見慣れた街の景色をぼんやりと見つめながら、ぽつりとこぼす。 「そうでしょうか……。ただ必死だっただけで、女優としてあれが正解だったのかは、自分でもよく分かりません」 私の迷いを力ずくで吹き飛ばすように、マネージャーはニヤリと不敵に笑ってハンドルを軽く叩いた。 「何言ってるんだ。あの一ノ瀬悠真のペースを崩して、お前はあいつの心を明確に動かしたんだぞ」 彼の頼もしい言葉に、私は少しだけ頬を熱く染め、膝の上で自身の両手をきゅっと握りしめた。 「……それは、そうかもしれませんが」 悠真のあれは、果たして本当にアドリブだったのだろうか。それとも、私に向けた。 マネージャーは赤信号で車を停めると、ハンドルに腕を預けた。 「それにしても、あいつはやっぱり底知れない怪物だな」 あれほど精神をすり減らす濃密な芝居を、一切手抜きすることなく15回も連続で繰り返す。それは並の役者なら途中で精神が崩壊しかねないほどの過酷な作業のはずで。 彼がいかに自分の命を削り、作品に臨んでいるかが痛いほどに伝わってくる。 「本当に……。あの身を焦がすような異常な熱量を同じように連続でぶつけるなんて、想像しただけで気が遠くなりますね」 青信号に変わると同時に、マネージャーは力強くアクセルを踏み込んだ。 私は自分が足を踏み入れようとしている世界の途方もない広さと深さを改めて思い知らされていた。 「……私、上手くやれるのかな」 ぽつりと漏れ出た弱気な声。 オーディションを乗り切った達成感よりも、もしこのまま受かってしまったら、あの底知れない怪物と対等に渡り合わなければならないというプレッシャーが重くのしかかってきた。 「馬鹿言え。今でも充分上手くやってるだろ」 その慰めは嬉しかったけれど、私の不安を完全に拭い去るには足りなか
last update最終更新日 : 2026-09-18
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第17話

都内から車で一時間ほど走った閑静な高級住宅街。その一角にそびえ立つ、本物の豪邸が今回の舞台だった。 一歩足を踏み入れると、天井に輝く豪奢なシャンデリアや、アンティークの調度品が放つ圧倒的な存在感に息を呑む。 いつもの無機質なオーディションホールとは違う、ドラマの世界そのものがそこには広がっていた。 「それでは、第4次審査を始めます」 助監督の声が、大理石の床に響き渡る。 私は深く息を吸い込み、冷たくなった指先をぎゅっと握りしめてから、はっきりと通る声で返事をした。 「はい。よろしくお願いします」 今回の第4次審査まで勝ち残ったのは、私を含めてたったの5人。 そして、次の最終審査に進めるのはわずか2人だけだ。 ここまで来れば、技術だけではなく、ヒロインとしての絶対的な何かを持っている者しか生き残れない。 公平性を保つため、他の候補者たちは完全に別の控え室に隔離され、この広大なリビングセットには私と審査員、そして悠真しかいなかった。 「今回は実際の撮影現場となるこのセットで動いてもらう。台本を読んだから知っていると思うが、婚約者候補の存在ですれ違ってしまった二人が、誤解を解いて仲直りをする中盤の重要なシーンだ。ではさっそく早速始めよう」 モニターの前に陣取った監督が、鋭い眼差しで私を見据えて言う。 「─────アクション!」 自分とは住む世界が違う彼と、彼に相応しい完璧な婚約者候補。その二人の姿を目の当たりにして絶望し、彼との決別を選ぶヒロインの悲痛な感情を胸に呼び起こす。 「待て。俺の話はまだ終わっていないだろ」 背を向けて足早に立ち去ろうとする私に向かって、有無を言わせぬ絶対的な声で呼び止める。 私はゆっくりと彼の方へと振り返った。 「あんなものを見せられて、私は何を聞けばいいんですか。彼女のことが好きだから、君とはもう終わりだと?」 脳裏に焼き付いているのは、彼と、完璧で美しい女性とが唇を重ねていた残酷な光景。 「愛理、俺は─────」 「あなたはあの人のことが好きなんですよね。だったら、これ以上私を引き留めないでください」 私の問いかけには、嫉妬とも絶望ともつかないドロドロとした感情が混じっていた。 私との間には数メートルほどの物理的な距離が横たわっていた。それはまるで
last update最終更新日 : 2026-09-19
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第18話

普通なら素に戻って悲鳴を上げたり、スタッフの方を振り返って指示を仰いだりしてしまうだろう。けれど私は視線を一ミリも逸らさなかった。 カットがかかるまで演じ切らなければならないから。 「隼人さ…」 私は反射的に駆け寄りそうになる足を止め、『彼に裏切られたと誤解し、怒っている愛理』として、行くべきか行かざるべきか、激しく葛藤する表情を意図的に作ってみせた。 「……っ、痛ッ……」 飛び散ったガラスの破片が当たったのか、それとも避けた拍子にどこかを打ったのか。 彼は不意に顔をしかめ、手首のあたりを押さえてその場にうずくまった。 大好きな彼が目の前で怪我をして苦しんでいるその光景は、心の底に被さっていた嫉妬や怒りの分厚いベールを吹き飛ばすのに十分すぎた。 「大丈夫ですか!? 怪我は……っ」 散乱するガラスの破片など一切気にせず、うずくまる彼のそばに勢いよく膝をついた。痛みにうつむく彼の顔をどうにか覗き込もうと、とっさに片手を床につき、ぐっと上体を斜めに乗り出す。 彼の身を案じるあまり、先ほどまで拒絶していたことなど完全に頭から抜け落ちていた。 顔を上げた彼は、なぜか微かに笑みを浮かべていた。そして、痛がっていたはずの手で私の腕を掴み、決して逃がさないように引き寄せる。 「ほらな。本当に俺のことが嫌いになったのなら、こんな怪我なんか気にせずそのまま見捨てていけばいいだろう」 至近距離で見つめ合う彼の瞳には、怪我の痛みなど微塵もなく、ただ私への強い執着と、誤解を解き伏せるための熱だけが宿っている。 私は激しく動揺し、捕まれた腕を慌てて振り払おうと必死に抵抗しながら、震える声で言い訳を口にした。 「っ……違います! 私はただ、目の前で怪我をした人を放っておけなかっただけで。別に、あなたのことが心配だったわけじゃ……!」 必死に取り繕って強がる私の言葉を、彼は鼻で笑って一蹴した。彼の手は私の腕をがっちりとホールドしたまま、決して逃がそうとはしない。 「嘘をつけ」 そう言うと、彼は深い溜息を吐いた。 その瞬間、私は彼がこの極限の状況下で、台本通りのレールへと芝居を戻そうとしているのだと理解した。 「咄嗟に迫られたとはいえ、あんな真似をさせてしまった俺が悪かった。信じられないかもしれないが、あの後すぐにあいつ
last update最終更新日 : 2026-09-19
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第19話

監督の「お疲れ様でした」という声に送られ、私は逃げるようにしてスタジオの扉を抜けた。 冷たい空調の効いた薄暗い廊下を少し歩き、壁際にポツンと置かれていたレザー張りの小さなソファー椅子を見つけると、張り詰めていた糸がプツリと切れたように、その場に力なくへたり込む。 「ふぅ…」 私は深く息を吐き出し、天井を仰いだ。 計算し尽くした演技をするつもりだったのに。 私はまたしても完全に役そのものに飲み込まれ、自分自身の生々しい感情を彼にぶつかってしまったのだ。 「上手くいかないな……」 役者としての未熟さに自己嫌悪を抱きながら目を閉じていると、不意に廊下にコツコツと硬い足音が近づいてくるのが聞こえた。 「おい」 驚いて目を開けると、そこには悠真が立っていた。 次の候補者の審査がすぐに控えているはずなのに、なぜわざわざ私を追いかけてきたのだろう。 彼が周囲にスタッフがいないことを確認するように視線を巡らせた後、私の座るソファーの真ん前まで無言で歩み寄ってくる。 「悠……?」 彼の険しい表情と、私の手元をじっと見つめる視線の意味が分からず、困惑して首を傾げる。 彼はポケットから無造作に何かを取り出し、私の膝の上へと軽く放り投げた。コロンと鈍い音を立てて転がったのは、テーピング用の白い包帯のロールと、小さな消毒液のボトルだった。 「え?なにこれ」 彼は呆れたような、けれどどこか焦燥感を滲ませたような声で、私の不注意を指摘した。 「怪我したんだろ」 その言葉に、自分の手のひらへと視線を落とした。 「え、あ…」 額縁が落ちて彼に駆け寄ったあの瞬間、無意識にガラスの破片が散乱する大理石の床に手をついてしまっていた。 アドレナリンが分泌されきっていたせいか今まで全く気がつかなかったけど、よく見ると手のひらの端が浅く切れ、ツツッと赤い血が滲み出ている。 「自分の怪我にも気付かないとはな」 すっかり忘れていた痛みが、傷口を視覚で認識した途端にジンジンと蘇ってきて、私は思わず顔をしかめた。 「でもどうして私が怪我してるって?」 なぜ私が怪我をしていることに気づいて、審査の合間を縫ってまでわざわざ追いかけてきてくれたのか。 悠は私の質問に答えなかった。 「使え。傷でも残ったら、色々と面倒だか
last update最終更新日 : 2026-09-20
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第20話

「でも……あれは監督が用意したテストだったんでしょ?確かにドッキリにしては危険な演出だとは思ったけど、あれぐらいのアクシデントの方が審査しやすいでしょ」 私が当然のことのように反論すると、悠真はギリッと奥歯を噛み締めるように顎の筋肉を強張らせた。 「お前が手をついたあれは、本物のガラスだったんだよ」 ガラスの額縁が落ちたのだから、破片がガラスなのは当然のことだ。むしろ、ガラスだからこそ手が切れてしまったわけで、彼がなぜそんな当たり前の事実を深刻そうな顔をして口にするのか、私には全く理解できなかったのだ。 「うん。知ってるよ? だからこうして手が切れちゃったし……」 私が自分の巻いた包帯を指差しながら答えると、悠真はひどく苛立ったように髪を掻き毟る。 「どうして分かんないんだよ」 さらに声を潜めて事実を突きつけてきた。 「本来、ああいう芝居の演出で使うのは飴ガラスなんだ」 「え?」 私の疑問符の浮かんだ顔を見て、悠真は周囲の大人たちに聞こえないよう、言葉に重みを乗せて説明を続ける。 「オーディションの最中に、候補者の女優に大怪我でも負わせたら制作側が責任を取らないといけない。だから、あの額縁には本物に見せかけた安全な飴ガラスがはめ込まれているはずだった」 その言葉を聞き、私は背筋にぞくりと冷たいものが走るのを感じた。監督たちは安全なガラス飴のつもりで額縁を落とした。 それなのに、そのガラス飴はただのガラスだった。 「なら、どうして本物のガラスが……」 実際に私の足元に散らばり、私の肌を切ったのは、紛れもない本物の鋭利なガラスだった。つまり、誰かが意図的に本物のガラスにすり替えたということになる。 ただの嫌がらせや悪ふざけの範疇を超えた、明確な悪意と害意がそこには存在していた。 「考えられる可能性は────」 私の問いかけに対し、悠真は整った眉間にはっきりと深い皺を刻み、低く押し殺したような声で何かを言いかけた、まさにその時だった。 スタジオの扉が少しだけ開き、そこから顔を覗かせた助監督の張りのある声が、薄暗い廊下に響き渡った。 「一ノ瀬さん。スタンバイお願いします」 緊張感で張り詰めていた二人の世界を強制的に現実へと引き戻す、事務的な業務連絡。 その呼びかけに、悠真は即座に振り返り
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