*** 東条悠臣は、その状況でも動じなかった。表情ひとつ変えず、手元の資料を静かに閉じる。 まるで――ここまでの流れが、想定の範囲内だったかのように。 やがて、最終結果が会場に告げられた。「今回の案件の落札企業は――東条グループです」 一瞬、会場が静まり返る。 次いで、東条側から小さく息を吐く音が漏れた。 対して、御子柴カンパニー側の空気は重かった。智也はモニターを見つめたまま、唇を噛みしめる。 拳が、固く握られた。 負けた。それだけなら、まだよかった。 今回の入札で使った資料についても、問題が残っている。 もし、そこに研究所から流出したデータが含まれていたのなら――。 入札で敗れたこと。 そして、自社が不正に取得された可能性のある情報を利用していたこと。 二つの問題が、同時に突きつけられている。「……くそっ」 智也は、誰にも聞こえないほど小さく呟いた。 勝てると思っていた。あの数字があれば、業界トップの東条グループにも負けないと思っていた。 なのにその切り札こそが、自分たちを追い詰める材料になった。 一方、悠臣は落札企業として静かに一礼した。 余計な言葉は口にしない。 勝ち誇ることもなかった。 ただ、必要なことを必要なタイミングで行っただけ。 切り札は、最後まで伏せておく。 そして――使うべき瞬間にだけ、使えばいい。 悠臣は、一度だけ澪へ視線を向けた。 その目が合う。 澪は小さく頷いた。 それだけで、十分だった。 *** 智也は、ふと澪を見た。 以前なら――澪は助けてくれた。何か知っていることがあれば、自分だけに最初に教えてくれた。 夫の会社が苦境に立たされていると知れば、黙って見ていることなどできなかったはずだ。 なのに今の澪は、何も言わない。 ただ、静かにその場に立っている。「澪……お前なら、何か――」 言いかけた言葉を、澪が静かに遮った。「申し訳ありませんが、私はあなたの会社の人間ではありません」 感情を乗せない声だった。 突き放すでもない。 責めるでもない。 ただ、事実を告げるのみ。 智也は、言葉を失った。 その一言で、ようやく気づく。 澪は自分を助ける側にはいない。新婚の頃のように、自分のために動いてくれる存在でもない。 澪はもう――自分とは別の場所に立ってい
最終更新日 : 2026-10-05 続きを読む