All Chapters of 復讐のアフェア:親友の夫が、私に復讐を持ちかけてきた: Chapter 161 - Chapter 170

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第161章

二人はそのまま砂の上にしゃがみ込んでいた。どちらも、先に沈黙を破る気にはなれなかった。サムの耳はまだ赤い。頬もまだ熱を帯びている。けれど、先ほどまでの震えはもう止まっていた。今は、ちゃんとネリッサを見ている。両手で顔を隠すことも、横を向いて彼女から逃げることもなく。ネリッサの手がいつ髪から離れたのか、彼女自身も分からなかった。気づけば、自分の膝の上に戻っている。「マヤが、あなたと遊園地に行くって話してたの」サムが瞬きをした。あまりにも唐突な話題だったらしい。「……何?」「遊園地。何週間か前に聞いたの」ネリッサの声は、もう冷たくなかった。仕事のときの声でもない。ただ少し疲れていて、それでもどこか柔らかい。「観覧車に乗せてくれるって、あなたが約束したって言ってた」サムの唇がわずかに開く。彼女の表情を読むように見つめた。「うん」やがて、静かに頷く。「マヤが観覧車に乗りたいって言ってて。だから、一緒に行こうって約束したんだ」少し苦笑する。「でも、まだ行けてない。仕事が多すぎて……いつも後回しになってた」ネリッサはゆっくり頷いた。視線を海へ向ける。太陽はもう低い。水面がオレンジと紫に染まり、波の向こうまでゆっくりと夕暮れに沈んでいく。「じゃあ、今週末に行かない?」サムが止まった。ネリッサは海を見たまま続ける。「三人で。きっとマヤ、喜ぶと思う」サムの目が大きく見開かれる。「……三人?」声が裏返った。「俺たち三人で?」彼女が振り向く。そこには、信じられないものを目の前にしたような顔があった。驚きと希望。それから、ほんの少しの戸惑い。まるで、ずっと欲しかったものを突然手渡された子供のようだった。――この人、ずっと待ってたんだ。もしかしたら、ずっと昔から。ネリッサは、ほんの少しだけ口元を緩めた。「本気よ」サムの顔が変わる。張りつめていたものが、一瞬ですべてほどけた。耳の赤みはさらに濃くなった。けれど今度は、恥ずかしさではない。喜びだった。抑えきれない、まっすぐな喜び。「うん」一度頷く。「そうしよう」そして、すぐに言葉が続いた。「絶対行こう。マヤ、きっと喜ぶ。俺――」何を言えばいいのか分からなくなったように、サムが言葉を詰まらせる。ネリッサの唇がまた少しだけ上がった。
last updateLast Updated : 2026-09-14
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第162章

遊園地は、人で溢れていた。明るくて、騒がしくて、どこを見ても笑い声が聞こえる。子供たちは両親の足元を駆け回り、風船や綿あめを抱えている。メリーゴーラウンドから音楽が流れ、色鮮やかな馬がゆっくりと回っていた。青白い空を背景に、観覧車も静かに回っている。ゴンドラが揺れるたび、窓から午後の光がきらめいた。そして――マヤは、朝からずっと興奮しっぱなしだった。車を降りてから、一度も落ち着いていない。小さな手はサムの手をしっかり握り、あっちへ行こう、こっちへ行こうと彼を引っ張り続けている。黒髪が風に舞う。灰色の瞳は大きく見開かれている。「パパ・サム! パパ・サム! 観覧車! 見て!」「見えてるよ、おチビちゃん」「今乗れる? お願い? ねえ、お願い!」サムが笑った。「まずチケットを買わないと。それに、ママを待たないといけない」マヤが振り返る。数歩後ろでは、ネリッサがバッグの中を探して財布を取り出そうとしていた。顔を上げると、こちらへ微笑む。「先に行ってて」「大丈夫?」「大丈夫よ。チケットを買ってて。すぐ追いつくから」マヤがサムの手を引っ張った。「行こう、パパ・サム!」サムは苦笑しながら、彼女に引かれるままチケット売り場へ向かった。ネリッサはその背中を見送る。サムが三人分のチケットを買う。マヤはその場でぴょんぴょん跳ねながら、観覧車のゴンドラを指差していた。「赤いのがいい! 赤いの、パパ・サム!」「どうかな」「絶対、赤!」「はいはい」その少し離れた場所では、観覧車を待っている二人の女性がいた。一人はカメラを持っている。もう一人はスマートフォンを眺めていた。カメラを持っていた女性が顔を上げる。サムを見る。そして、マヤを見る。友人の腕を軽くつついた。「……ねえ。見て」小声だった。「すごくない?」友人が顔を上げる。眉が上がった。「え、何あの人。すごくかっこいい」「しかも、あの子への接し方……すごく優しい」「娘かな?」「分からない。でも、指輪はしてないね」二人はそのまま様子を見ていた。サムがマヤの隣にしゃがみ込み、ずれていた髪留めを直している。表情は穏やかだった。マヤがゴンドラの色について夢中になって話している。サムは、その言葉を一つも聞き逃さないように頷いていた。まるで、この世界
last updateLast Updated : 2026-09-14
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第163章

「偶然、ここを歩いていたわけじゃありません」ヴァンスが静かに切り出した。「レオを探しに来たんです。でも、あなたを見かけたので……直接お話ししたほうがいいと思いました」イブリンはエプロンで両手を拭いた。「何について?」「泊まる場所が必要なんです」ヴァンスは率直に答えた。「ホテルより、もう少し長く滞在できる場所が欲しい。Reef & Reclaimと仕事をしている間、この地域に残るつもりです。もっとこの町のことを知りたい」少し間を置いて続ける。「レオから、コテージに空き部屋があると聞きました。ただ……彼はあまり乗り気ではないようで」イブリンの目が細くなる。「当然でしょう」「分かっています」ヴァンスは頷いた。「彼はサムにも、ネリッサにも忠実だから」イブリンは何も言わない。「その気持ちに口を出してほしいわけじゃありません」ヴァンスは続けた。「別の場所を知っているなら教えてほしい。あるいは、どうすればレオの信頼を得られるのか、教えてもらえればと思って」イブリンはしばらく彼を見つめた。鋭い目だった。人の言葉だけでなく、その裏にあるものまで見ようとしている。「ブラックウッドさん」やがて、彼女が言った。「あなた、宿を探しているわけじゃないでしょう」ヴァンスは黙っている。イブリンの声が少し低くなる。「私の娘のためね」そして、「孫娘のためでもある」ヴァンスは視線を逸らさなかった。「……嘘はつきません」静かに答える。「はい。近くにいたいと思っています」イブリンの表情は変わらない。「でも、誰かに無理やり入り込むつもりはありません」ヴァンスは続けた。「滞在する場所が必要なんです。レオのコテージは実際に便利です。でも、あなたが無理だと言うなら、別の場所を探します」一度息を吸う。「ただ……あなたには正直に話しておきたかった」庭を風が通り抜ける。葉が揺れ、小さな野菜の苗が光の中で揺れた。イブリンは腕を組む。「マヤの目と同じね」ヴァンスの表情がわずかに変わる。「海で気づいたわ」灰色の瞳。自分と同じ色。ヴァンスは何も言わなかった。イブリンはさらに彼を見つめる。「もう一つ、聞かせて」「はい」「どうして私があなたを助けると思うの?」その問いはまっすぐだった。「助けたところで、私は自分の娘との間で難
last updateLast Updated : 2026-09-14
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第164章

キッチンが、こんなにも狭く感じたことはなかった。ネリッサは入口に立ったまま、ドア枠に手を置いていた。視線は、まっすぐヴァンスに向いている。彼はコンロの前に立ち、木べらを手にしていた。シャツの袖は肘までまくり上げられている。まるで――ずっとここで暮らしていたかのようだった。もちろん、そんなはずはない。「ヴァンス」ネリッサの声が低くなる。「ここで何をしているの?」ヴァンスは木べらを置いた。「夕食を手伝っている」「それが答えになってないことくらい分かってるでしょう?」彼女は彼を睨む。「本当に、何をしにここへ来たの?」ヴァンスは一瞬黙った。顎が強く引き締まる。そして、静かに答えた。「これからレオのコテージの部屋を借りる」ネリッサの視線が、すぐにレオへ飛ぶ。レオはテーブルで皿を並べていた。背中を向けている。振り返りはしなかったが、肩が明らかに強張っている。やがて片手を胸元まで上げる。まるで、自分にはどうしようもなかったと言いたげな仕草。「悪い、ネリッサ」そしてサムを見る。「本当にごめん」サムは何も言わなかった。ネリッサがイブリンへ向き直る。「ママ?」母親は鍋をかき混ぜていた。何事もなかったように。「これ、どういうこと?」イブリンは手を止めない。「その話は後にしましょう」穏やかな声だった。「まずは夕食を作ることに集中しましょう」そしてサムへ顔を向ける。声が柔らかくなる。「サム、今日は夕食を食べていきなさい。あなたの好きなカレーを作ったのよ」少し笑って付け加えた。「ご家族の分も持って帰って」サムの顎はまだ強張っていた。それでも頷く。「ありがとう、ミス・イーヴィー」どうにかいつもの明るい声を作る。イブリンが笑う。「あなたがそう呼んでくれるの、昔から好きなのよ」「昔の癖ですよ」サムも少し笑う。「でも、それだけが僕の好きなところじゃないってことくらい、もちろん知ってますよ」イブリンが呆れたように首を振る。「本当に、あなたって子は」それでも、楽しそうに笑っていた。キッチンは再び、いつものリズムを取り戻していく。皿が並べられる。鍋がかき混ぜられる。マヤは今日の遊園地のことを止まることなく話している。観覧車。綿あめ。空に描いた紫色の魚。全部が、今日起きたばかりの出来
last updateLast Updated : 2026-09-14
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第165章

「お前のそばにいたい」ヴァンスは、まっすぐ言った。「……それが、いけないのか?」ネリッサは彼を見つめた。言い訳されると思っていた。仕事のためだと誤魔化すと思っていた。あるいは、何も感情を見せない、あの冷静で隙のないヴァンスに戻ると思っていた。でも――違った。ここにいるのは、五年間押し殺してきた想いを隠そうともしない男だった。ネリッサは視線を逸らした。喉が詰まる。「あなたには、私のそばにいる権利なんてない」声を絞り出す。「私たちのことは、五年前に終わったのよ」ヴァンスはゆっくり頷いた。「俺も、そう思っていた」その声は驚くほど静かだった。「だから、離れていた」一歩も近づかず、ただ彼女を見る。「お前が望んだだけの距離を与えた」その言葉に、ネリッサの指先がわずかに動く。「会いたくなっても、探さなかった」彼の声が低くなる。「今どこにいるのか、誰といるのか……何度気になっても、それを知ろうとする自分を抑えた」五年間。彼は何もせずにいたわけではなかった。ただ、彼女の選択を尊重しようとしていた。「近づかないようにした。仕事だけに集中した。お前と会っても、何もなかったように振る舞った」ヴァンスの声が少し掠れる。「本当は、何度だって手を伸ばして、お前を抱きしめたかったのに」ネリッサが目を伏せる。「それでも我慢した」そして、彼の表情が変わる。「でも――あの男と一緒にいるお前を見た」サムの顔が脳裏に浮かんでいるのだろう。「明るくて、自然で……お前の世界の中に当たり前のようにいるサミュエル・ハートを」顎が強く引き締まる。「それを見たら、もう何もなかったようにはできなかった」ヴァンスが一歩近づく。「お前は分かっているのか?」声が震えた。「俺が、どんな気持ちだったか」ネリッサの呼吸が浅くなる。「お前があいつに触れるのを見て」さらに一歩。「お前にあいつの手が触れるのを見て――」彼の瞳が揺れる。「心の奥から、全部燃えていくみたいだった」ネリッサの肩が小さく震えた。「……そんなに」ヴァンスは彼女を見つめる。「お前は、本当にあいつといて幸せなのか?」声は冷たくなっていた。けれど、その冷たさの下にあるものを、ネリッサには感じ取れた。恐怖。「ネリッサ」名前を呼ぶ。「彼を愛しているのか?」その
last updateLast Updated : 2026-09-14
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第166章

ヴァンスの手が、ネリッサの腕を強く握った。瞳は濡れていた。それでも、涙を零さないように堪えている。まだ。「俺が……あの女のことで、お前を見捨てると思うのか?」声は震えていた。「そんなわけない」一度、息を吸う。「俺はお前のために戦った。あの子のためにも戦った」その言葉が、少しずつ苦しさを帯びていく。「たとえ、当時の状況じゃほとんど不可能だったとしても」彼の喉が詰まった。「どれだけ痛くても、傷ついても……それでも、俺は戦った」ネリッサはゆっくり首を振った。「分かってる」その声も震えていた。「だから、残れなかったの」ヴァンスの目が揺れる。「あなたのためじゃない。私のためでもない。マヤのためでもない」ネリッサは苦しそうに息を吐いた。「残ったら、全部を壊してしまうと思ったの」風が二人の間を通り抜ける。「私は、あなたの重荷になりたくなかった」彼女は視線を落とす。「いつ爆発するか分からない爆弾みたいになりたくなかった」声が小さくなる。「あなたは、もうその頃から結婚のことも、ご両親のことも、仕事のことも抱えていたでしょう」ネリッサは唇を噛む。「そこへ私まで残ったら……あなたが必死で支えていたものを、私が全部潰してしまうと思ったの」ヴァンスの表情が崩れた。「だから、逃げたのか?」声が掠れる。「そして俺には、何も知らせなかった」涙が一粒、頬を伝った。「マヤのことも」呼吸が乱れる。「俺の娘のことも……五年間、何も言わなかった」とうとう、堪えていたものが切れた。嗚咽が漏れる。「お前は……」言葉が途切れる。喉を鳴らし、どうにか続けようとする。「少しくらい……俺を信じてくれてもよかっただろ」それ以上は言えなかった。ヴァンスは顔を逸らし、暗くなり始めた空を見上げる。涙を止めようとする。けれど、止まらない。ネリッサもまた顔を背けた。頬には涙が流れている。二人は並んで立っていた。どちらも相手を見ない。それでも、ヴァンスの指はまだ彼女の腕を離せなかった。しばらくして、彼がゆっくり息を吐く。「……分かった」静かな声だった。「分かったよ」ヴァンスが彼女を見る。目は赤くなっている。それでも、そこにはもう先ほどの怒りはなかった。「でも、全部過去のことだ」少し間を置く。「俺は離婚した」ネ
last updateLast Updated : 2026-09-15
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第167章

ネリッサは裏口からキッチンへ戻ってきた。目は赤い。唇は固く結ばれている。イブリンもレオも見ない。そのまま真っ直ぐ自分の部屋へ向かい、ドアを閉めた。バタン――。その音よりも、残された沈黙のほうが大きかった。イブリンが食器を拭いていた手を止める。視線は、娘が消えていった廊下に向いている。レオはテーブルのそばで皿の束を抱えたまま、凍りついていた。二人は顔を見合わせた。何も言わない。やがて、イブリンが寝室へ向かった。ドアの前で、一度だけ軽くノックする。「ネリッサ」返事はない。イブリンは静かにドアを開けた。ベッドの端に、ネリッサが座っていた。その隣には、まだ畳まれていない洗濯物の入った籠。ネリッサの手は機械的に動いていた。畳む。押さえる。重ねる。畳む。押さえる。重ねる。顔は涙で濡れている。それでも、彼女は顔を上げない。イブリンは隣に腰を下ろした。何も言わなかった。ただ、娘の手を見つめている。畳む。押さえる。重ねる。しばらくして、イブリンが静かに口を開いた。「あなたは、本当にずっと頑張ってきたのね」ネリッサの手が止まった。肩が震え始める。そして――嗚咽が漏れた。抑えようとしても抑えきれない。喉の奥から、引き裂かれるような泣き声が溢れ出した。イブリンはすぐに娘を抱き寄せる。髪を撫でる。ネリッサがまだ小さかった頃。転んで膝を擦りむいたとき。初めて失恋して泣いたとき。あの頃は、それが世界で一番辛いことだった。「分かってるわ」イブリンが囁く。「全部、分かってる」ネリッサは母の肩に顔を埋めて泣いた。失った五年間のために。ようやく口にした真実のために。そして――庭でヴァンスに聞かれた言葉のために。――どれだけ壊れてたんだ。あの声が、まだ胸の中に残っている。*寝室の外。レオは壁に背中を預けたまま立っていた。妹の泣き声が聞こえる。ゆっくり息を吐く。廊下へ視線を落とす。壁に一枚の写真が掛かっていた。砂浜で撮ったもの。マヤ。サム。そしてレオ。三人で砂のお城を作っている。マヤは両手を上げて笑っている。サムはその隣。いつもの穏やかな笑顔。レオは写真の中のサムを見つめた。それから、閉ざされた寝室のドアへ視線を移す。何も言わなかった。*翌朝。海は穏や
last updateLast Updated : 2026-09-15
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第168章

ネリッサは裏口からキッチンへ戻ってきた。目は赤い。唇は固く結ばれている。イブリンもレオも見ない。そのまま真っ直ぐ自分の部屋へ向かい、ドアを閉めた。バタン――。その音よりも、残された沈黙のほうが大きかった。イブリンが食器を拭いていた手を止める。視線は、娘が消えていった廊下に向いている。レオはテーブルのそばで皿の束を抱えたまま、凍りついていた。二人は顔を見合わせた。何も言わない。やがて、イブリンが寝室へ向かった。ドアの前で、一度だけ軽くノックする。「ネリッサ」返事はない。イブリンは静かにドアを開けた。ベッドの端に、ネリッサが座っていた。その隣には、まだ畳まれていない洗濯物の入った籠。ネリッサの手は機械的に動いていた。畳む。押さえる。重ねる。畳む。押さえる。重ねる。顔は涙で濡れている。それでも、彼女は顔を上げない。イブリンは隣に腰を下ろした。何も言わなかった。ただ、娘の手を見つめている。畳む。押さえる。重ねる。しばらくして、イブリンが静かに口を開いた。「あなたは、本当にずっと頑張ってきたのね」ネリッサの手が止まった。肩が震え始める。そして――嗚咽が漏れた。抑えようとしても抑えきれない。喉の奥から、引き裂かれるような泣き声が溢れ出した。イブリンはすぐに娘を抱き寄せる。髪を撫でる。ネリッサがまだ小さかった頃。転んで膝を擦りむいたとき。初めて失恋して泣いたとき。あの頃は、それが世界で一番辛いことだった。「分かってるわ」イブリンが囁く。「全部、分かってる」ネリッサは母の肩に顔を埋めて泣いた。失った五年間のために。ようやく口にした真実のために。そして――庭でヴァンスに聞かれた言葉のために。――どれだけ壊れてたんだ。あの声が、まだ胸の中に残っている。*寝室の外。レオは壁に背中を預けたまま立っていた。妹の泣き声が聞こえる。ゆっくり息を吐く。廊下へ視線を落とす。壁に一枚の写真が掛かっていた。砂浜で撮ったもの。マヤ。サム。そしてレオ。三人で砂のお城を作っている。マヤは両手を上げて笑っている。サムはその隣。いつもの穏やかな笑顔。レオは写真の中のサムを見つめた。それから、閉ざされた寝室のドアへ視線を移す。何も言わなかった。*翌朝。海は穏や
last updateLast Updated : 2026-09-15
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第169章

「じゃあ、もうふりをするのをやめよう」ヴァンスが静かに言った。ネリッサは、重なった二人の手を見つめた。ヴァンスの手はまだ少し震えている。彼女の手は、もう震えていなかった。「これから、どうするつもり?」ネリッサが尋ねる。「マヤのことを知ったあとで」ヴァンスはしばらく黙っていた。それから、ゆっくり口を開く。「マヤに俺を知ってほしい」声は静かだった。「俺も、あの子のことを知りたい」一度息をつく。「信頼してもらえる人間になりたい」そして――「本当の父親になりたい」ネリッサの胸がわずかに詰まる。ヴァンスが彼女を見る。そこには何の計算もなかった。むき出しの願い。不安。そして、許してほしいというような希望。「……いい?」その問いに、ネリッサはすぐには答えなかった。昔の自分なら。きっと断っていた。何か理由を作って。危険だからと言って。そして、また逃げていた。でも――もう疲れた。逃げ続けることに。「……いいわ」ヴァンスの目が揺れる。「やってみて」ネリッサは静かに続けた。「もう、マヤもあなたのことを知る時期なのかもしれない」けれど、その手を少しだけ握る。「ただ……」ヴァンスの指がかすかに震えた。その震えが、彼がまだここにいることを教えてくれる。ちゃんと息をしていること。温もりが、彼女の掌へ伝わってくる。「ゆっくりにして」ネリッサが言った。「マヤはまだ子供だから。何もかも分かるわけじゃない」ヴァンスは頷く。「嘘も」「秘密も」「その全部を理解できる年齢じゃない」ネリッサの声が柔らかくなる。「今のあの子が知っているのは、パパ・サムがいることと――」ほんの少しだけ苦笑する。「同じ目をしたヴァンスさんがいること。それだけよ」ヴァンスはゆっくり頷いた。「急がない」「ちゃんと待つ」ネリッサは、ほんの少しだけ笑った。「あなた、よくそう言うわね」「学ぶことが多いからな」その答えに、彼女の目元がわずかに緩む。「……そうね」しばらく、二人は何も言わなかった。手はまだ重なっている。部屋の中へ、少しずつ夕暮れの影が入り込んでくる。やがてネリッサが立ち上がった。ベッド脇のトレイを手に取る。「休んで」「ネリッサ」呼び止められて、彼女が振り返る。ヴァンスは彼女を見つめていた。
last updateLast Updated : 2026-09-15
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第170章

朝の光が、コンテナオフィスの周囲を淡い金色に染めていた。サムはすでに桟橋にいた。ボートへ機材を積み込んでいる。動きはいつも通り手際がよく、無駄がない。けれど、どこか静かだった。ほとんど眠れていないのだろう。目の下には、はっきりと疲労の影が残っている。レオがランプを下りてくる。手にはタブレット。「悪いけど、今日は一緒に行けない」サムが顔を上げる。「リサイクルの取引先が会議を今朝に変更してきた。俺が出ないといけない」「分かった」サムは短く答えた。「一人で行ける」「知ってる」レオが頷く。そして、ちょうど桟橋の端に姿を見せたネリッサへ視線を向ける。彼女はトラベルマグを片手に持っていた。「新しいポイントのマッピング、手を貸してもらったほうがいいだろ」それからネリッサを見る。「頼めるか?」ネリッサはサムを見る。けれど、サムは彼女と目を合わせようとしない。ネリッサの胸が少し痛んだ。「もちろん」静かに答える。「二人のほうがいいでしょう。それに、私も最初から勉強したい」ようやくサムが顔を上げる。警戒するような表情。「本当に?」「ええ」短く、はっきり答える。サムは少しだけ迷ったあと、頷いた。「じゃあ、行こう」二人はボートへ乗り込んだ。レオがロープを解き、岸から押し出す。エンジンが一度咳き込む。やがて安定した音を立て始める。ボートが沖へ進み、海岸線が少しずつ遠ざかっていく。ネリッサは船首に座った。風が髪を顔へ運んでくる。サムは操舵を担当し、まっすぐ前を見ていた。二人の間に会話はなかった。ネリッサは横目で彼を見る。舵を握る手。固く結ばれた顎。そして、あの事故以来、一度もまともに彼女を見ようとしないこと。――傷ついてる。そう思う。――私が傷つけた。「GPSだと、新しい養殖ポイントは岬を越えた先だ」サムが前を見たまま言った。ネリッサが頷く。「深さは?」「十五メートルくらい。砂地だ」少しだけ間を置く。「サンゴのフラグメントを育てるには、ちょうどいいと思う」ネリッサは彼を見た。風がライトブラウンの髪を額へ押しつけている。袖は肘までまくり上げられている。日に焼けた腕。海の仕事をしてきた人間の、無駄のない身体つき。――この人は、ここにいるのが自然なんだ。ずっとそうだった。
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