カニは岩の割れ目へ逃げ込んでいった。「怖がらせたんじゃない?」ネリッサが笑う。「違うよ」サムは真顔だった。「恥ずかしくなって逃げたんだ。さっき、俺がお前を見てるところをあいつに見られたから」ネリッサは呆れたように首を振った。それでも、笑みは消えなかった。二人の間に落ちた沈黙は、さっきまでとは違う。重くない。気まずくもない。どこか、ほっとするような静けさだった。ネリッサはサムを見る。額に、まだ一本の髪が落ちている。彼女の手が上がった。考えるより先に、指先が動いた。髪を払ってあげようとする。――どうして、こんなことをしているの?そう思った。でも、本当は分かっていた。サムといると、安心できる。自分を隠さなくていい。壁を作らなくてもいい。何も演じなくてもいい。そして、あの穏やかな笑顔を見ると、自然と手を伸ばしたくなる。指先が、髪に触れる直前で止まった。宙に浮いた手を見つめる。「……ごめんなさい」ネリッサが小さく言った。「今のは、その……」サムは彼女の手を見ていた。けれど、動かない。「謝らなくていい」静かな声だった。穏やかで、揺れていない。ネリッサの指が震えた。ゆっくり引こうとする。その手首を、サムが掴んだ。強くない。引き寄せるわけでもない。ただ、逃げてしまわないようにするだけ。サムはしばらく彼女の手を見つめた。そして、ゆっくりと持ち上げる。ネリッサの掌を、自分の頬へ当てた。温かい肌。わずかに伸びた髭の感触。ネリッサが息を呑む。サムの目が、まっすぐ彼女を見つめる。「こうやって触ってほしいって……俺がどれだけ思ってたか、知ってる?」ネリッサの喉が動く。「考えたからでもなくて」彼の指が、彼女の手首からゆっくり離れる。「止まることもなくて」声が少し掠れる。「ただ、お前が触りたいと思って触れてくれることを」ネリッサは答えられなかった。「ネリッサ」名前を呼ばれる。彼女は息を止めた。「俺は、二十歳のときからお前を愛してる」「サム……」「分かってる」声は穏やかだった。「お前にとって俺は、レオの友達で」少し笑う。「マヤのパパ・サムで」「サンゴ礁のことばっかり考えてる男だろ?」ネリッサは何も言わない。「でも、俺だって一人の男なんだ」その言葉に、彼女の目が揺
Last Updated : 2026-09-15 Read more