Tous les chapitres de : Chapitre 181 - Chapitre 190

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第181章

部屋は静まり返っていた。マヤの問いだけが、誰も答えられないまま空中に残っている。――どうして?ネリッサの頭の中では、いくつもの考えが一度に駆け巡っていた。困惑した娘の顔。固くなったヴァンスの背中。シンクの前で黙っているサム。五歳のマヤを納得させる答えが必要だった。まだ真実ではない。今すぐ父親だと告げる必要もない。ただ、子供らしい好奇心を満たして、この場にいる全員がまだ準備できていない告白を避けなければならなかった。ネリッサはヴァンスを見る。灰色の瞳が、まっすぐ彼女を見返している。そこにあるのは、恐れ。希望。そして、必死に受け入れてほしいという願い。――今が、その機会よ。そう思った。――絶対に無駄にしないで。ネリッサはマヤへ向き直る。そして、微笑んだ。「だって、ヴァンスさんがマヤの絵を綺麗だって言ってたでしょう?」マヤが瞬きをする。「それで、ママとマヤと一緒に絵を描いてみたいんだって」そして、ヴァンスを見る。「そうよね、ヴァンス?」ヴァンスの背筋が伸びた。ポケットから手を出す。そして、ゆっくり歩いてくる。一歩。また一歩。まるで、自分の人生で一番大切な相手の前へ行くような慎重さだった。マヤの前で膝をつく。目線を合わせる。心臓が、聞こえてしまいそうなほど激しく打っていた。ヴァンスの笑顔はぎこちない。緊張しているのが分かる。それでも――本物だった。「そうだ」静かに答える。「えっと……俺、絵はかなり下手なんだ」マヤが少し首を傾げる。ヴァンスが続ける。「でも、君は俺が今まで会った中で一番上手だと思う」マヤの目が丸くなる。ヴァンスは手を組み、少しだけ身を乗り出した。「空も描きたい」「山も」「湖も」そして――「その紫色の魚も」マヤの口元が少し上がる。「でも、俺には無理そうだ」わざと困った顔をする。「だから――」彼女を見る。「先生になってくれないか?」マヤがヴァンスをじっと見つめる。「……本当に、私が教えるの?」「本当に」「絵って難しいよ」真剣な顔だ。「ママが言ってたもん。ちゃんと頑張らないと駄目って。できるようになるまで、我慢も必要なんだって」ヴァンスは頷いた。「分かった」「俺、ちゃんと頑張る」マヤは少し考えたあと、小さな手をヴァンスの肩へ置いた。
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第182章

週末がやってきた。山へ向かう道を走ること、二時間。マヤは後部座席から窓へ顔を押しつけ、流れていく木々を眺めていた。「まだ?」十分おきに同じ質問をする。「もう少し」ヴァンスは、そのたびに同じ答えを返した。その隣でネリッサが笑う。助手席から伸ばした手は、自然にヴァンスの膝へ置かれていた。やがて――木々の間から湖が見えた。青く、穏やかな水面。周囲を松の木が取り囲み、岸には草地と平らな岩が広がっている。ヴァンスが車を停める。エンジンが完全に止まるより先に、マヤが飛び出した。「わあ……!」振り返りながら、その場でくるりと回る。「すごく綺麗!」両腕を広げる。「ママ! 空がぜんぶ見えるよ!」ネリッサも車を降りる。「本当ね」三人で荷物を降ろし始める。テント。寝袋。クーラーボックス。色鉛筆やスケッチブック。そして――ヴァンスが密かに買っておいたもの。真っ赤なドラゴンの形をした凧。長い尻尾が風を受けると、まるで空を飛ぶ龍そのもののようだった。ヴァンスは草地へテントの部品を並べる。マヤはネリッサの隣に立ち、その様子を興味深そうに見ていた。「ヴァンスさん、テント作るの上手?」ネリッサが笑いを堪える。ヴァンスが彼女を見る。二人とも、同じことを思い出していた。昔のキャンプ。倒れたテント。困り果てたヴァンス。そして、それを面白がっていたネリッサ。「……前よりは上手くなった」ヴァンスが答えた。彼はすぐに作業へ取りかかる。ポールを通す。固定する。ペグを地面へ打ち込む。一つずつ、手際よく。やがてテントが立ち上がった。真っ直ぐ。しっかりと張られている。マヤが拍手した。「できた!」ネリッサがわざと感心したような顔をする。「まあまあ」ヴァンスが手の土を払う。「ちゃんと先生がいたからな」ネリッサと目が合う。その瞬間――マヤがネリッサの袖を引っ張った。「ママ」「ん?」「どうしてそんな顔で笑ってるの?」ネリッサは慌てて顔を逸らす。「何でもないわ」そしてスケッチ用品を指差す。「ほら。絵を描く準備しましょう」*松の木の陰。二人はブランケットを敷き、そこへ座った。湖がきらきらと光っている。風は暖かく、木々の間をゆっくり抜けていった。マヤは色鉛筆を虹のように並べる。ヴァンスは
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第183章

ヴァンスは草むらに落ちた凧を拾い上げた。「……まあ、諦めるなってことだな」マヤが大きく頷く。「うん! 諦めない!」ネリッサは少し離れたキャンピングチェアへ座った。本を一冊取り出して開く。けれど、ページは一度もめくられなかった。視線はずっと二人に向いている。しかも、どこか挑戦的だ。――できるものなら、やってみて。そう言っているような目。ヴァンスはもう一度、凧を構えた。走る。放つ。今度は少しだけ浮いた。数メートル。けれど、左右に大きく揺れ――そのまま地面へ落ちた。「もう一回!」マヤが言う。ヴァンスは黙って拾う。もう一度。今度はくるりと回って、彼の足元へ落ちた。また。糸が絡まる。また。風が、最悪のタイミングで止まる。十五分。二十分。額から汗が流れる。マヤはもう飛び跳ねていない。芝生の上にしゃがみ込み、顎を両手に乗せて見ている。ヴァンスはそれに気づいた。――見られている。娘に。絶対に失敗したくない。彼は空を見上げる。――凧を飛ばすって、こんなに難しいものだったのか。昔の自分なら、もっと簡単にできると思っていた。「手伝おうか?」チェアからネリッサの声が飛ぶ。ヴァンスは即答した。「必要ない」少し間を置いて、「できる」彼は風を読む。木々の揺れを見る。頬に当たる空気を感じる。待つ。今ではない。まだ。そして――風が変わった。少し強くなる。ヴァンスが凧を持ち上げる。走る。放す。今度は――凧が風を捉えた。一度揺れる。それから、上へ。さらに高く。青い空へと舞い上がっていく。「できた!」マヤが飛び上がった。「やった! ヴァンスさん、できた!」ヴァンスが笑った。今までの緊張が、一気にほどける。彼はマヤのところへ膝をついた。糸巻きを小さな手へ渡す。そして指を添える。「しっかり持って」「うん」「風に任せるんだ」マヤが握りしめる。空高く、赤いドラゴンが踊る。ヴァンスがネリッサを見る。少しだけ誇らしげに首を傾げる。ネリッサは呆れたように首を振った。それでも笑っていた。「やるじゃない」ヴァンスが笑う。「当然だろ」「さっきまで全然できてなかったのに」「途中から上手くなった」マヤが二人の会話も聞かずに走り出す。凧が後ろから追いかける。
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第184章

マヤは湖のほとりに立っていた。まだ眠そうな灰色の瞳が、浅瀬に立つ母親とヴァンスを見つめている。二人とも動けない。服は濡れている。髪から水滴が落ちている。そして――顔は真っ赤だった。マヤが首を傾げる。「ママ、パパ・サムとはキスしないよね」ネリッサの心臓が大きく跳ねた。「どうして?」ネリッサは慌てて岸へ戻った。水から上がり、濡れた草の上に腰を下ろす。そしてマヤを膝へ抱き上げた。ヴァンスは少し離れた浅瀬に立ったまま、何も言わず二人を見ている。待っている。ネリッサは娘の髪を撫でた。「ねえ、マヤ」「なに?」「前に、みんなにはいろんな愛し方があるって話したの、覚えてる?」マヤが眉を寄せる。「アイスクリームも好きで、ママも好きってこと?」ネリッサは思わず笑った。「そうね。ちょっと似てる」そして、慎重に続ける。「ママはパパ・サムのこと、大切に思ってる」「親友なの」「そして、マヤのパパでもある」マヤが頷く。「その愛は、温かくて安心できるものなの」マヤは少し考える。それから、ヴァンスを見る。「じゃあ、ヴァンスさんは?」ネリッサも彼を見る。「ヴァンスさんへの愛は、少し違うの」「どんなふうに?」ネリッサは少し照れながら笑った。「胸がどきどきするの」「それから……キスしたくなるの」マヤが真剣な顔で考える。「じゃあ、その愛の人としかキスしないの?」「うん」マヤがまたヴァンスを見る。そしてネリッサを見る。「ヴァンスさんも、ママをそういうふうに好きなの?」ネリッサは頷いた。「そうよ」マヤはしばらく二人を見ていた。波が岸へ寄せてくる。やがて、小さく頷いた。「……分かった」それだけ言うと、ネリッサの膝から降りる。そして、テントのほうへ歩いていった。ネリッサは、ようやく息を吐いた。ヴァンスも湖から上がってくる。二人は並んで座った。何も言わない。ただ、テントの中へ消えていくマヤの小さな背中を見ている。*太陽が少しずつ沈んでいく。空がオレンジからピンクへ変わる。ヴァンスは焚き火を起こした。薪を並べる。火を調整する。炭を組む。グリルを設置する。何度も手を入れ、熱を確かめる。マヤはブランケットの上で膝を抱えながら、その様子を見ていた。「マヤ」ヴァンスが尋ねる。「何が一番食べ
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第185章

テントのファスナーが、耳障りな音を立てて閉まった。ヴァンスとネリッサは焚き火のそばに座ったまま、身動きひとつできずにいた。二人の間に落ちた沈黙は、どんな言葉よりも重かった。テントの中から、マヤの泣き声が聞こえてくる。布越しにくぐもっていても、その声がどれほど深く傷ついているのかは、はっきりと伝わってきた。ネリッサの手は、まだヴァンスの手の中にあった。彼の脈が、指先から伝わってくる。速くて、切羽詰まっていた。ネリッサはそっと指を握り返した。それから、手を離した。彼の腕を一度、二度と撫でる。言葉にする代わりの約束だった。——私が何とかする。ネリッサは立ち上がった。ヴァンスが顔を上げる。灰色の瞳は濡れていた。「ネリッサ——」「私が話すわ」そう言って、彼女はテントへ向かった。焚き火の熱で、キャンバス地はほんのりと温かい。ネリッサは入口の前に膝をついた。「マヤ」できるだけ優しい声で呼ぶ。「ママよ。ねえ、入ってもいい?」返事はなかった。ただ、泣き声だけが続いている。「マヤ、お願い」しばらくすると、ファスナーが少しだけ動いた。ほんのわずかだった。マヤが中から開けたのだ。それ以上は開けず、奥へ這って戻ったらしい。ネリッサはそっと入口を開け、テントの中へ這い込んだ。中は暗かった。マヤは一番奥の隅で膝を抱え、顔を腕に埋めている。小さな肩が、しゃくり上げるたびに震えていた。ネリッサはその隣に腰を下ろした。何も言わない。ただ、そばにいる。しばらくしてから、ゆっくりと手を伸ばし、マヤの身体を自分の膝へ引き寄せた。最初、マヤは抵抗した。身体を強張らせ、怒ったように押し返そうとする。けれど、その力は長く続かなかった。次の瞬間には、ネリッサの胸に崩れ落ちるように身を預け、小さな拳で母親の服をぎゅっと掴んだ。「嫌い……」マヤが泣きながら言った。「私、あの人嫌い。ヴァンスさんなんて大嫌い……」ネリッサは娘の髪をゆっくり撫でた。「本当は、嫌いじゃないわ」「嫌い!」「マヤは怒ってるの」ネリッサは静かに言った。「怒っているのと、嫌いなのは違うのよ」「違わない!」マヤはさらに激しく泣き出した。ネリッサは何も言わず、その小さな身体を抱きしめる。テントの布が風ではためく。外では、焚き火がぱちぱちと音を立てていた。
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第186章

マヤは振り返らなかった。庭を抜け、家庭菜園の脇を通り、そのまま道路へ向かって走っていく。ネリッサが車を降りるより先に、ヴァンスが飛び出した。「マヤ!」けれど、彼はそれ以上呼ばなかった。ただ、走る。ネリッサもすぐ後を追った。マヤの小さな脚が必死に地面を蹴る。長い髪が背中で跳ね、風に煽られて後ろへ流れていく。転ばない。速度も落とさない。ヴァンスの胸が激しく上下した。それでも彼は、娘の名前を叫び続けることはしなかった。今のマヤに必要なのは、追い立てることではないと分かっていた。やがてマヤは角を曲がった。その先にあるのは、サムが両親と暮らしている家々の並ぶ一角だった。ヴァンスには、彼女がどこへ向かっているのか分かっていた。胸の奥がきつく締めつけられる。それでも、足を止めなかった。マヤはサムの家の前まで辿り着くと、玄関のベルを鳴らした。一度。二度。三度。それでも誰も出てこないと分かると、小さな拳で扉を叩いた。「パパ・サム!」涙で震える声が響く。「パパ・サム!」扉が開いた。立っていたのはサムだった。まだ仕事着のままで、シャワーを浴びたばかりなのか、髪が少し濡れている。その後ろから母親が顔を出し、さらに父親と妹のアンナも現れた。四人の視線が、玄関先で泣きじゃくる小さな少女に集まる。次の瞬間、マヤがサムへ駆け寄った。そして、その膝に両腕を回した。「私は……パパにしてほしいの、パパ・サムだけに……」しゃくり上げながら、必死に言う。「私はパパ・サムだけがいい……」サムは息を呑んだ。それから顔を上げた。そこにはネリッサとヴァンスが立っていた。サムの表情は、ひどく複雑だった。悲しみもあった。娘を守りたいという思いもあった。そして、自分にはもうどうにもできないことを受け入れようとする諦めも。サムはゆっくりと膝をついた。「マヤ」穏やかな声だった。「パパが誰なのかは関係ないよ」マヤの髪にそっと触れる。「俺はこれからもずっと、君のパパ・サムだ」マヤの涙に濡れた顔を見つめる。「君はずっと俺の娘だよ。何も変わらない」マヤが顔を上げた。涙が頬を伝っている。「……本当?」「うん」サムは迷わず頷いた。「約束する」マヤはもう一度、彼にしがみついた。「パパ・サムと離れたくない……」「離れないよ
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第187章

校庭は、迎えに来た親たちで賑わっていた。母親たちは幼い子供を抱きかかえ、父親たちはスマートフォンを眺めている。子供たちは大人の脚の間をすり抜けながら走り回り、笑い声や叫び声、時には泣き声までが入り混じっていた。午後の日差しは暖かかった。そんな中、ヴァンスは一人で学校へやって来た。今日は自分がマヤを迎えに行くと、ネリッサに伝えていた。彼女はほんの一瞬だけためらった。けれど、最後には頷いた。「きっと驚くわ」そう言っていた。ヴァンスは校門近くの路肩に車を停めた。流れるようなフォルムの、艶のある高級車だった。駐車しただけで、周囲からいくつもの視線が向けられる。スマートフォンに夢中だった父親たちでさえ、思わず顔を上げて車を眺めた。その視線には隠しきれない羨望が混じっている。まるで、自分があの車から降りてくる側の人間だとでも言いたげに、何気ない顔を装いながら車を目で追っていた。やがて、運転席のドアが開く。ヴァンスが降りてきた。ジャケットの裾を軽く整える。ダークカラーのスーツ。仕立ての良さが一目で分かるほど、身体に完璧に合っている。ネクタイはしていない。髪はきちんと整えられ、一本一本まで隙がない。鋭い顎のライン。そして、灰色の瞳はサングラスの奥に隠されている。どう見ても、子供を迎えに来た父親には見えなかった。重要な商談に現れた敏腕経営者か、完璧なビジネススタイルを紹介する雑誌から、そのまま抜け出してきた男のようだった。ヴァンスは何事もなかったように校門へ向かった。入口の近くにいた母親が顔を上げる。話していた言葉が途中で止まった。隣にいた友人も、その女性の視線を追う。二人ともヴァンスを見つめた。一人が口元を手で隠しながら、何かを囁く。少し離れたところでは、若い教師が許可証の束を落とした。「あ……」慌てて拾い集めながらも、何度もヴァンスのほうを盗み見る。別の母親は、そばにいた子供の手を反射的につないだ。怖かったわけではない。ただ、あまりにも目を引く男がすぐそばを通っていけば、誰だって無意識に目で追ってしまう。ヴァンスが通り過ぎると、彼女は隣の女性へ小声で尋ねた。「……あの人、誰?」「さあ。でも……どこかで見たような気がする」そんな周囲の反応に、ヴァンスは気づいていなかった。彼が探しているのは、一人だけだっ
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第188章

――――帰り道のあいだ、ヴァンスはマヤがずっと浮かない顔をしていることに気づいていた。いつもなら膝の上に広げているスケッチブックを、今日は胸の前でぎゅっと抱きしめている。ヴァンスはその様子をバックミラー越しに何度か見た。そして、そのまま家へ帰るのをやめた。車を海へ向かう道へと走らせる。しばらくして、マヤが顔を上げた。「また凧を飛ばすの?」少しだけ明るくなった声だった。「そうだ」ヴァンスが答える。マヤの顔に、ぱっと笑顔が広がった。海岸には誰もいなかった。風は強く、砂浜を走る風が髪を揺らしている。ヴァンスは車のトランクを開け、赤い龍の形をした凧を取り出した。ジャケットの袖が引っ張られるほど腕を上げる。そして、タイミングを見て凧を放った。凧は一気に空へ舞い上がった。――と思った次の瞬間。ふらりと揺れ、勢いよく砂浜へ向かって落ちていく。「……」ヴァンスはすぐに走り出した。糸を引きながら、革靴を砂に取られる。凧は彼の後ろをずるずると引きずられていった。マヤが声を上げて笑う。ヴァンスは振り返らなかった。もう一度挑戦する。今度こそ凧は高く上がった。くるくると空を回り――そのまま海岸近くの低い木の枝に、見事に引っかかった。ヴァンスは立ち止まった。凧を見る。それから、マヤを見る。マヤもヴァンスを見ている。「私が取ってくる」「えっ?」返事を待たず、ヴァンスは木へ向かった。登る姿は、とても優雅とは言えなかった。足を滑らせる。「っ……」肘を木の幹に擦りつけた。低く呻きながら、さらに上へ登る。スーツのジャケットが枝に引っかかった。「……」ヴァンスは無言で引っ張った。ようやく抜けたと思った頃には、完璧に整えていたはずの髪が一本、額へ落ちていた。マヤが大笑いする。「熊さんみたい!」ヴァンスは枝に手をかけたまま、下を見た。「私も今、自分が熊みたいな気がしてる」マヤはまた笑った。ヴァンスはさらに上へ手を伸ばした。もう一段。そして、ようやく絡まった凧へ手が届く。糸をほどき、凧を引き寄せる。「取れた!」マヤが歓声を上げた。ヴァンスは凧を高く掲げた。その瞬間、強い風が吹いた。凧が一気に引っ張られる。「……!」ヴァンスの身体がよろめいた。次の瞬間、彼は砂の上にどさりと尻もちをついた。
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第189章

結婚式の朝。空は淡い青に澄み渡り、雲ひとつなかった。ネリッサは幼い頃から使っていた寝室の鏡の前に立っていた。その後ろでは母のイヴリンが、ドレスの裾を整えている。純白ではなかった。柔らかなクリーム色。飾り気のない、流れるようなデザイン。ネリッサがこのドレスを選んだのは、朝日の差し込む海辺を思い出させてくれたからだった。イヴリンの手は落ち着いている。けれど、その声は少し震えていた。「きれいよ」鏡越しに母の顔を見たネリッサが、ふっと笑う。「ママ、泣いてる?」「泣いてないわ」イヴリンは目元を拭った。「ただ……やっと、って思ったのよ」ネリッサは振り返り、母の手を取る。そして、そっと握り返した。そのとき、ドアが勢いよく開いた。「ママ! 準備できたよ!」マヤだった。花嫁の付き添い用に用意されたドレスは、すでに少し皺になっている。髪も半分しか留められていなかった。ネリッサは思わず笑った。「髪はまだ準備できてないでしょう?」「おばあちゃんがやってくれるもん!」マヤはベッドへよじ登ると、イヴリンの前に頭を差し出した。「早く、おばあちゃん。お花をまかなきゃいけないんだから!」イヴリンが笑う。「はいはい。じっとしてなさい」そう言って、マヤの髪にピンを留め始めた。式は海辺で行われた。砂の上には椅子が何列にも並べられ、その先には海を望むシンプルな木製のアーチが立っている。白い布と貝殻が飾られ、波の音がまるで式のために用意された音楽のように響いていた。アーチの前には、レオが立っていた。ヴァンスのベストマンを務めることになったのだ。最初はかなり抵抗していた。「ベストマンなら、ダニエルでいいだろ?」そう言ったレオに、ヴァンスは平然と答えた。「もう君は、私の兄弟だから」その一言で、レオはそれ以上何も言わなくなった。最前列では、サムがマヤのスケッチブックを膝に乗せていた。預かっていてほしいと、マヤに頼まれたのだ。その隣には、サムの母親、父親、妹のアンナ。その後ろにはダニエルとプリヤ。近所の人々が何人か。そして、イヴリンが親しくしている友人たち。反対側の最前列には、一つだけ空席があった。椅子には小さな白い花が飾られている。ヴァンスの母親、リリーのための席だった。彼女も来たがっていた。けれど、今はまだ来られ
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第190章

披露宴はホイットモア家で開かれた。長いテーブルには料理が所狭しと並んでいる。イヴリン自慢のローストフィッシュ。サムの母親が焼いたパン。アンナのフルーツタルト。笑い声が部屋いっぱいに響き、グラスが何度も交わされる。ヴァンスはテーブルの上座に座り、その隣にはネリッサがいる。テーブルの下では、彼の手がそっと彼女の膝に置かれていた。ネリッサの手も、その上に重なる。向かいでは、まだ皺の残った花嫁介添えのドレスを着たマヤが、サムとレオの間に座っていた。マヤはアンナに、花びらをまくのを忘れたことを真剣な顔で説明している。「私、ちゃんと歩いてたんだけど……忘れちゃったの」小さな眉が寄る。「でも、ヴァンスさんが、籠の中に残ってても綺麗だって言ってくれた」アンナが笑った。「ヴァンスさんって、優しいのね」「うん。でも、絵を描くのは下手だよ」マヤは胸を張った。「だから、私が教えてるの」サムが笑いながら、マヤの髪をくしゃりと撫でる。「ずいぶん厳しい先生だな」「厳しくないよ。私は優しい先生」レオが鼻で笑った。「空の色だけで三回も描き直させてたくせに」「だって灰色だったんだもん」マヤは当然のように答えた。「空は青でしょ」テーブルに笑い声が広がる。やがてイヴリンが立ち上がり、グラスを掲げた。「乾杯しましょう」皆が彼女を見る。「娘と、その夫に。二人の愛が海のように果てしなく、そして岸辺のように穏やかでありますように」全員がグラスを掲げた。「乾杯!」ヴァンスはネリッサのこめかみにそっと口づける。彼女は微笑みながら、彼の肩へ寄り添った。食事が終わる頃には、マヤの目が重くなっていた。サムの腕に寄りかかりながら、眠気と懸命に戦っている。それを見たイヴリンが立ち上がった。「さあ、この子はもう限界ね」そしてマヤを抱き上げる。「今夜はおばあちゃんと寝ましょう」マヤがうとうとしながら尋ねた。「どうして? いつもママと寝るのに」「今夜は特別よ」イヴリンは階段へ向かいながら笑う。「今夜はママとヴァンスさんが二人で過ごす夜なの。だからマヤは、おばあちゃんの部屋で特別なお泊まり会ね」マヤは少し考えた。「ウサギさんも連れていっていい?」「もちろん」「じゃあ、いいよ」階段の途中で、マヤが振り返った。「おやすみ、ヴァンスさん
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