夫がメイドを私の名前で抱いた――すべてを奪われた元・天才医療研究者は、冷徹社長に溺愛される のすべてのチャプター: チャプター 11 - チャプター 20

60 チャプター

第11話 ここは夫婦の寝室じゃない。会議室だ

「鷺宮社長。夫婦の話は終わっていません」  正臣が言った。 「ここは夫婦の寝室じゃない。会議室だ」  燎は正臣から離れた椅子を引いた。 「ここに座れ、灯里」 「命令しないで」  言い返した私を見て、白髪の女性の口元がわずかに緩んだ。 「SENOVAで検証を担当する成瀬です」  彼女は莉乃の正面へ座った。  私は燎が引いた椅子に座った。  燎もその隣に腰を下ろし、画面をつけた。  正臣の隣へ戻るつもりはない。  燎に守ってほしいわけでもない。  それでも、彼が隣に座ったことに、ほっとしてしまった。 「会議を始める」  正常値を示す緑の印が並んだ。  正臣の血も、昔の台所も、画面の光に押し戻される。 「その前に」  正臣が榊へ顎を動かした。  榊が一枚の紙をテーブルへ置く。  正臣は、私から目をそらさなかった。 「妻は、開発者として判断できる状態ではありません」  正臣の声は穏やかだった。  妻を案じる夫にしか聞こえない。  診断書。  学校で見せられたものと、同じ医師の名前だった。  私は、この医師に会ったことすらない。  それでも、白い紙に病名が書かれているだけで、会議室の空気が変わった。  隣の株主が、私から椅子を少し離した。  父の代からいる役員まで、私と目を合わせようとしない。  さっきまで開発者を見ていた目が、何をするかわからない女を見る目に変わっていた。  反論すれば、興奮していると思われる。  黙れば、やはり正常な判断ができないと思われる。  何を言えばいいのか、わからなくなった。  燎は診断書に触れなかった。  隣に座っているのに、私をかばう言葉もない。  膝の上で、両手を強く握った。  ここでも、誰にも信じてもらえないの。  正臣の口元が、わずかに緩んだ。  その顔を見た瞬間、悔しさが恐怖を上回った。 「私は、この医師の診察を受けていません」  最初の声は、少しかすれた。  私は診断書を榊へ押し戻した。 「問診も検査も受けていない。家族から聞いた話だけで、どうして私の診断名が決まるんですか」 「ご家族の安全を守るためです」  榊は答えたが、私を見なかった。 「この診断書に、私を会議から外す権限があるんですか」 「……ありません」 「では、私の話を聞いてく
last update最終更新日 : 2026-09-16
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第12話 身体も条件ですか

 燎は椅子の背にゆっくりと身を預けた。  切れ長の目が、面白いものを見つけたように細くなる。  私が答えに詰まるとは、少しも考えていない顔だった。  その余裕が、腹立たしい。 「この患者に、問題はあるか」  燎の問いに、莉乃が先に答えた。 「検査値はすべて正常です。問題ありません」 「このプロダクトは、正常値に隠れた異変を見つけるために作ったの。あなたは、その基本思想さえわかっていない」  私がぴしゃりと言い切ると、莉乃の笑顔が消えた。  正臣が、莉乃をかばうように口を挟んだ。 「灯里は、少し数字が変わっただけですぐ騒ぐ。家でも、食事の量や睡眠時間まで細かく口を出して、奏汰を息苦しくさせていました」  奏汰が夜中に腹を押さえた姿が浮かんだ。  受診する朝には痛みが消え、うまく説明できずに私の指だけを握っていた。  あの夜を知らない二人に、私が神経質だっただけだとは言わせない。  私は画面の二週間分を開いた。 「睡眠時間が短くなり、その翌日から食事量も少しずつ減っています。検査値はどれも正常範囲です。でも、この人のいつもの数値からは、ずれ始めている」  成瀬が身を乗り出した。 「異常値になる前に、医師の画面で注意を出すのですか」 「はい。ただし、診断するのは医師です。患者が診察で言いそびれた小さな変化を、医師が見落としにくくするための仕組みです」 「表示を変えただけでしょう」  莉乃が割って入った。 「大切なのは、患者様に寄り添うことで——」 「お黙りなさい。鷺宮さんから聞いたわ。この数値を提携病院から受け取ったと答えたそうね」  莉乃が口を閉じた。 「説明用の架空患者なのに、どこの病院から受け取ったの?」 「それは、分かりやすくお伝えするために」 「何を見つける仕組みかも知らずに、私に成り替わろうとしたのね」  父の会社の役員が、莉乃から椅子を離した。 「相良さん。すべて引き継いだという話では」 「引き継いだのは、説明の窓口です」 「先ほどは、ご自分が開発したとおっしゃいました」  別の投資家が静かに言った。  莉乃の顔が赤くなる。  正臣の指が机を叩いた。 「妻のことを知らない人間に、口を出されたくありません」 「妻を知っている? なら、なぜ本物を追い出して、偽物をここへ連れてきた」  燎が
last update最終更新日 : 2026-09-17
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第13話 身体も俺のものにする

「身体も俺のものにする」  一瞬、燎に抱かれる自分が浮かんだ。あの腕に閉じ込められ、冷たい目に見下ろされる。  会議室から音が消えた。  燎だけが平然と椅子に身を預けている。長い脚を組み、私を見つめたまま、口元をわずかに上げた。 「想像したか、灯里」  私は燎をにらみ返した。 「まさか」  正臣が燎を睨みつけた。握り締めた拳が震えていた。 「その目で灯里を見るな」  燎は正臣には目も向けなかった。 「だが、身体を取引にはしない。まず、俺と仕事をしろ」  正臣が椅子を蹴った。 「僕の妻に、何を言っている」  テーブルが揺れた。莉乃が正臣の腕へすがる。 「正臣様、皆さんが見ています」 「離せ」  正臣は莉乃の手を払い、私へ来た。 「帰るぞ、灯里」 「帰りません」 「まだ分からないのか。君がここにいれば、奏汰まで傷つく」 「奏汰を脅しに使わないで」  伸びてきた手を避けた。  正臣の指が私のバッグをつかむ。 「離して」  燎が正臣の手首を外した。  力を入れた様子もないのに、正臣の身体が横へ押し戻される。 「真鍋」  扉が開き、警備員が二人入ってきた。 「久条様と相良様を外へ」 「本気か」  正臣が乱れた袖口を直した。 「久条を敵に回せば、このプロジェクトは使えない。特許はうちにある」 「特許ごときで、俺を止められると思うな」  燎は私を見た。 「妻を黙らせる夫とは話をしない」  正臣の顔が歪んだ。 「彼女は必ず戻る。僕が愛している灯里は、僕を捨てられない」 「捨てたのは、あなたでしょう」  私が言うと、正臣は動きを止めた。 「私の名前を莉乃に渡した夜に」  正臣の唇がわずかに開いた。  怒鳴られると思った。けれど彼は、傷ついたような目をした。 「僕が呼んだのは、君の名前だ」 「莉乃を抱きながらね」  声にすると、胸の奥に残っていた最後の期待まで形を失った。  同じ名前を呼べば、私を失わずに済むと思っていたのだろうか。  警備員が正臣と私の間へ立った。  莉乃は画面の自分の名前を消そうともせず、正臣の後を追った。  扉が閉まる直前まで、正臣は私だけを見ていた。  静かになると、膝から力が抜けそうになった。  それでも自分で椅子を引き、座った。 「助けを求めていない、と言
last update最終更新日 : 2026-09-18
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第14話 世間で言われているように、俺は金の亡者だと思うか

「そのとおりだ。俺なら君の部屋に入れる」  燎は、私の警戒を面白がるように口元を上げた。 「だが、君が許さなければ入らない。研究員が泊まることもある施設だ。警備もいる」  この人を、信じていいのだろうか。 「見るだけです。泊まるかは、私が決めます」 「それでいい」  車は高い塀を抜け、白い石造りの邸宅の前で止まった。  正臣のいない車内で、私は少しだけ安心していた。  玄関では、家政を預かる年配の女性、三枝が深く頭を下げた。 「迎賓棟のお支度は整っております」 「本邸を使う」  三枝が驚いたように顔を上げた。隣の真鍋まで目を見開く。 「本邸にお客様をお泊めするのですか。これまで、一度も……」 「なら、今日が初めてだ」 「研究員用の施設ではなかったんですか」 「迎賓棟はそうだ。本邸は違う」 「では、どうして私は本邸に?」 「君を近くに置きたいからだ」 「……そんなこと、聞いていません」 「気に入らなければ迎賓棟へ移れ。父親の部屋へ帰るなら車を出す」 「あなたは、今夜どこにいるんですか」 「本邸だ」  なぜ、それを確かめて安心したのだろう。  正臣が追ってきても、燎が近くにいる。  今は、それだけが理由だと自分に言い聞かせた。 「一晩、本邸に泊まります。明日のことは、明日決めます」  燎は頷き、廊下の奥へ歩いていった。  久条の屋敷で豪華な部屋には慣れていた。それでも、案内された寝室の広さと、天井まで届く窓の向こうの夜景には、思わず足が止まった。 * * *  風呂を済ませても眠れなかった。  枕元の電話に、奏汰からの返事はない。  短いノックのあと、ドアを開けると燎が立っていた。ネクタイを外し、シャツの襟元を緩めている。 「どうしたんですか」 「君が気になって、仕事にならない。入れてくれ」  寝間着の胸元を押さえると、燎の目がその手を追い、また私の顔へ戻った。  夫ではない男を寝室へ入れるなんて、断るべきだった。  それでも今夜は、一人で奏汰からの返事を待つのがつらい。  私が許さなければ入らない。その言葉を、少しだけ信じてみたかった。 「……少しだけなら」  私が身を引くと、燎は部屋へ入った。  すぐに彼の電話が震えた。 「来年度? 患者も来年まで待てるのか。試験を省けとは言っていな
last update最終更新日 : 2026-09-19
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第15話 離婚すれば、俺を選ぶのか

 すぐには答えられなかった。 「まだ、わかりません。でも、今の言葉は嘘には聞こえませんでした」  燎は黙って、私の続きを待った。  頭に浮かんだのは、奏汰だった。 「奏汰が痛がる夜は、朝まで長いんです」  私は膝の上で両手を組んだ。 「病院へ行って、帰って、次の検査を待って。少しよくなったと思ったら、また泣いて。あの子に、大丈夫と言いながら、私もわからなくなる……」  最後は声が震えた。 「わからないと言える相手はいたか」  首を振った。  正臣には、神経質だと言われた。母親なのだからしっかりしろ、とも。 「明日、成瀬に聞け。息子のことを話す時間も取る」 「開発の話とは別ですよ」 「わかっている」  昼間、私の席を守った男が、今は息子の話を聞いている。 「どうして、そこまで」 「君が一人で泣くのが気に入らない」  瞬きをすると、涙が頬を伝った。  燎が椅子から立ち、私の前へ来た。  指先が、頬の傷を避けて涙に触れる。 「泣くつもりはなかったんです」 「見ればわかる」  指で涙を拭われる。  私は、その手に自分の手を重ねた。  燎が顔を寄せた。  目をそらせなかった。  燎の手が頬を包み、唇が重なった。  目を閉じるのが少し遅れて、すぐそばの彼の睫毛が見えた。こんなに近いのに、目をそらすのが惜しかった。  初めは、触れるだけのキスだった。  重ねた手に力を込めると、唇が深く重なった。  押し返すつもりだったのに、私は彼の腕へ手を伸ばした。  燎が顔の角度を変える。応えようとすると、腰へ腕が回った。  椅子の上で身じろぎした私を、彼は胸元へ抱き寄せた。  厚い胸板が触れ、シャツからほのかなコロンの香りがした。  唇が離れても、顔を上げられなかった。  額を彼の肩に預けた。シャツ越しの体温に、ほっとしてしまう。 「灯里」  こんな声で呼ばれると、返事に困る。  もう少しだけ、この人のそばにいたい。  そう思ったことを、見抜かれている気がした。 「こっちを見ろ」  燎が少し身をかがめた。  困っている私を待つ顔に、腹が立つほど余裕があった。見上げると、その口元が緩んだ。  燎の指が髪を耳へ払った。  またキスをされた。今度は私も目を閉じ、彼の肩に手を添えた。  頬に唇が触れる。  
last update最終更新日 : 2026-09-20
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第16話 自分が誰の妻か、わかっているよね

 布団の中で目を開けると、昨夜のキスがよみがえった。  私から燎の手に触れ、キスを返した。離れたくないとまで思った。  燎が嫌で止めたのではない。  だからこそ、「離婚すれば、俺を選ぶのか」という問いには、まだ答えられなかった。  枕元の電話が震えた。  画面に正臣の名前が出ている。  出たくなかった。けれど、奏汰に何かあったのかもしれない。 「奏汰は?」 「君こそ、どこにいる。君の父親の部屋にはいないな」  やはり、父の部屋は見張られていた。  昨夜、あそこへ戻っていたら、正臣は私をどうしただろう。  息子のことを聞いているのに。  正臣が気にしているのは、私がどこで夜を過ごしたかだけだ。  昔から、そうだった。  子どものことを任せてもらっているのだと、私は思おうとしていた。 「奏汰に何かあったの?」 「あの男のところか。君が出ていくから、僕が捜す羽目になった」  追い出したのは、あなたでしょう。  寝間着の裾を握った。 「奏汰は今、誰といるの」 「家にいる。今は莉乃がついている」 「電話を代わって」 「僕は外だ。まず、君の話を——」 「奏汰に連絡するわ」  通話を終え、息子の番号を呼び出した。  長く待っても出なかった。ママに電話して、と声を残す。  朝は食べただろうか。薬は飲んだだろうか。  昨日、私の顔から目をそらした子の声を、今はただ聞きたかった。 * * *  SENOVAの上階、応接スペースのソファに座っても、奏汰から返事はなかった。  電話をもう一度確かめた時、真鍋が来た。 「久条様が、入口にお見えです。お通ししていません」  父の部屋で見つからなければ、ここへ来る。  その執拗さに、朝食が胃の中で重くなった。 「私が下へ行きます。息子のことを聞きたいので」 「ここで待っていろ」  奥の扉から出てきた燎が言った。  昨日より深い色のスーツ。目が合いそうになり、私はネクタイへ視線を落とした。 「自分で話します」  燎は私を見て、踵を返した。 「真鍋、次の面談を十分遅らせろ」  エレベーターの中で、彼は私の隣に立った。  肩が触れそうだった。昨夜は、それよりずっと近かった。 「一人で話せます」 「知っている」  なら、なぜ。  聞く前に扉が開いた。  正臣は
last update最終更新日 : 2026-09-21
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第17話 僕がつけたものは、まだ君に残ってる

「今、誰がそばにいる?」  その朝、SENOVAの入館ゲートの前で電話を耳に押し当てた。  痛いと言う時、奏汰はいつも息を短く吸う。その音が、今も聞こえた。 「莉乃さん。でも、寝てれば治るって」 「ほかの大人を呼べる?」  燎が真鍋を見た。 「車を」 「僕の車で行く」  正臣が言った。 「奏汰がいるのは僕の家だ。医師にも、僕から連絡する」  今は一分でも早く、息子のそばへ行きたい。  電話を代わった使用人に、担当の医師へ連絡してと頼む。 「私も向かっています」  燎も来ようとした。 「来ないで。奏汰の前でまで、二人に争ってほしくない」 「一人で行かせられない」 「正臣を信じるわけじゃない。でも今は、奏汰を待たせたくない」  燎が正臣を睨む。正臣は黙っていた。 「着いたら連絡しろ。帰る時は迎えに行く」 「わかった」  正臣が開けた車の扉へ、私は自分で乗り込んだ。 「ママ、来てくれる?」 「行く。今、車に乗ったところ」 「怒ってない?」  息が詰まった。  莉乃の方がいいと言った子が、私が来るかどうかを心配している。 「怒るわけないじゃない。そばに行くから」  正臣が何か言いかけた。私は息子との電話を切らなかった。 * * *  久条家に着くと、奏汰の部屋には往診の医師がいた。  正臣の横を通り過ぎ、ベッドへ急いだ。 「奏汰」  枕の上の顔がこちらを向いた。  小さな手が、布団から出てくる。 「ママ」  その手を握って、ベッドへ膝をついた。  額に触れる。髪が汗で頬に張りついていた。 「来たよ」  奏汰は私の手首までつかんだ。  学校で離された手を、今はこの子の方から握っている。 「もう少し、診させてください」  医師に場所を譲り、これまでの症状を伝えた。今朝の薬は、見ていた人に確認してもらった。 「今は、ご自宅で様子を見ましょう。痛みが強くなるなど変化があれば、すぐ連絡してください」  医師は私たちと看護師に注意点を伝え、帰った。  看護師が名乗った。 「浅井です。午後八時に交代の看護師が来るまで、私がついています」  ベッドの向こうで莉乃が水を注いだ。 「奏汰様、こちらを。私がいつもしているでしょう」  差し出したグラスを、奏汰は見なかった。  私の袖を引く。 「マ
last update最終更新日 : 2026-09-22
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第18話 今の君とは、まともに話せない

「開けて」  午後五時を過ぎた久条家の私室で、取っ手を握ったまま言った。  正臣は、扉の方を見もしなかった。  西日が横顔を照らしていた。通った鼻筋と、目元に落ちる濃い影。端正な顔に、ほっとしたような笑みが浮かぶ。 「やっと二人になれた」  私はバッグへ手を入れた。  電話の画面を点ける。燎の名前を探すより先に、上から手が重なった。 「誰にかける」 「返して」  電話を引くと、手首を押さえられた。  スマートフォンを握る指を一本ずつ剥がされ、端末を抜き取られた。 「迎えは断っておく」 「勝手に触らないで!」  取り戻そうとした手を、正臣がつかんだ。  正臣は私の電話を見下ろし、画面へ指を滑らせた。 「何をしているの」 「奏汰が心配だから、今夜は泊まる。迎えはいらない」  打ち込んだ文を読み上げ、そのまま送る。 「勝手に送らないで」 「これで、誰も邪魔をしない」  電話は彼のポケットに消えた。 「灯里」  昔、二人きりの時に聞いた声だった。  正臣の腕が背中へ回った。逃げるより先に、胸へ抱き込まれる。  見慣れた襟元から、香水が匂った。八年間、何度も抱かれた腕だった。その腕が今は、出口へ向く私の体を動けなくしている。 「やめて。離して!」  正臣は腕を緩めなかった。  片手で髪を撫で、宥めるように顔を寄せてくる。 「やっと戻ってきた」  唇が触れる寸前に、顔をそむけた。  口づけが頬の端に当たる。 「誰か! 開けて! 離して!」  両手で胸を突き返した。  正臣の体が離れる。けれど、長い指がすぐに顎へ触れた。こちらを向かせようとする手を、もう一度払い落とす。 「そんなに怖がらなくていい」 「だったら、そこをどいて」  廊下へ出る扉を指した。  正臣は私の指先を見ただけで、また顔へ目を戻した。 「今の君は、おかしくなっている。あの男に何を言われたか知らないけど、まともに考えられていない」 「私の電話を奪って、嫌がる私を抱いて、それでも自分はまともだと言うの?」  正臣の目から笑みが消えた。 「夫が妻を抱くのは、おかしくない」 「私は嫌だと言った!」  自分の声が壁にぶつかって返ってきた。  正臣は一度だけ扉を見た。外にいる人間が聞いたとわかっても、焦りもしない。 「君は疲れてるん
last update最終更新日 : 2026-09-23
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第19話 君だよ。僕の女神だ

「聞くことなんてない」  七時半を過ぎた久条家の私室で、正臣の後ろから入ってきた使用人が、二人分の夕食をテーブルに並べた。  こんな部屋で、向かい合って食事をするつもりなのだ。 「奏汰は?」 「眠っている。看護師もついているよ」 「顔を見せて」 「僕たちの話が先だ」  使用人が部屋を出る。外から鍵のかかる音がした。  正臣は椅子を引いた。 「座って」 「嫌よ」  正臣の口元から笑みが消えた。 「昨夜、あの男と何をした」 「あなたに答えることじゃない」 「君は僕の妻だ」 「莉乃を抱いた夜にも、そう思い出した?」  テーブルの端をつかんだ指に力が入る。 「あれは違う」 「何が?」 「僕が抱いたのは、灯里だ」  莉乃を私の名前で呼んでいたことは知っている。それでも、本人の口から聞くとぞっとした。  正臣は言い訳をしている顔ではなかった。本当に、私を抱いたつもりでいる。  この人は、いつからこんなふうになってしまったのだろう。 「私と莉乃の区別もつかないの?」 「君が僕を拒むからだよ」  正臣は静かに言った。自分が責められる側だとは、思ってもいない声だった。 「僕の言うことを聞いて、僕だけを見ていた頃の君が必要だった」 「それは私じゃない」 「君だよ。僕の女神だ」  背中が冷えた。  昨夜、燎は私が奏汰のことを話すのを、黙って聞いていた。笑わず、遮らず、私が何を選ぶかを待った。  その時間まで、正臣の都合のいい物語に入れさせたくない。 「私は、あなたのために作った灯里じゃない」  廊下から女の声がした。 「奥様。浅井です。交代の看護師が来ました。奏汰君の様子をお伝えしたいのですが」  八時だ。  扉へ走った。正臣が腕をつかむより早く、扉を叩く。 「浅井さん、開けて! 私はここから出たい!!」  外で息をのむ気配がした。 「鍵をお願いします。奥様が出るとおっしゃっています」 「旦那様の許可がなければ」  使用人の低い声が返る。 「何を言っているの! 本人が出たいと言っているんです」  鍵が回った。  扉がわずかに開いた瞬間、その隙間へ体を滑り込ませた。 「灯里!」  振り返らずに廊下を走る。浅井さんが私を追ってくる。  玄関ホールへ出たとき、ガラス越しに車のライトが見えた。  黒
last update最終更新日 : 2026-09-24
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第20話 君が本物じゃないなら、もういらないよね

 八時を過ぎた久条家の私室で、私は枕元へ身を寄せた。  正臣はベッドの向こうから私を睨んでいる。  偽物。今度は、私が正臣を騙したことにされている。 「何を言っているの」 「灯里なら、僕を困らせない」  正臣が一歩近づく。  私はベッドの反対側へ降りた。正臣と私の間に、ベッドを挟む。 「近づかないで」 「灯里は、僕にそんな言い方をしない」  正臣が右へ動く。私も左へ動いた。  扉まで三歩。けれど、外から鍵がかかっている。 「君は誰?」  甘いほど静かな声だった。 「灯里よ」 「嘘だ」  正臣は私の顔を確かめるように見た。 「灯里は、僕が帰ると玄関まで来た。ネクタイを外すと、いつも笑った」 「八年前の話をしているの?」 「昨日まで、そうだった」  昨日までここにいた女は、私ではない。 「それは莉乃よ」 「違う。あの子が灯里だ」  正臣の中では、従う女だけが私になれる。  なら、今ここにいる私は、何をされるかわからない。 「君は、名前まで盗んだのか」  背中が冷たくなった。 「灯里は私の名前よ。あなたが誰に渡しても、私のものよ」  正臣がベッドを回り込む。  私はテーブルへ走った。皿をつかみ、胸の前に構える。 「来ないで」 「僕の灯里を、どこへやった?」  正臣は皿を見ても止まらない。 「あなたが見ていたのは、私じゃない。言うことを聞く人形よ」 「違う」 「だから莉乃でもよかったの」 「違う!」  正臣の手が伸びる。  私は皿を振り上げた。 「あの男が、君をおかしくした」 「燎のせいじゃない。あなたを拒んでいるのは、私よ」  正臣の目が細くなった。  正臣の手が皿を払った。  床で陶器が割れる。 「奥様!」  扉の向こうで、浅井さんの声がした。 「今の音は何ですか。鍵を開けてください」 「旦那様の許可がなければ」  さっきの使用人だ。  正臣が私の肩をつかむ。割れた皿を踏まないように逃げたが、壁際へ追い詰められた。 「君が本物じゃないなら」  頬に触れた指が、首へ滑る。 「もう、いらないよね」  殺される。  そう思った瞬間、恐怖で声が出なくなった。  正臣の指が喉に食い込む。背中が壁へ押しつけられた。 「本人の声が聞こえただろう。開けろ」  扉の向こうから
last update最終更新日 : 2026-09-24
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