All Chapters of 夫がメイドを私の名前で抱いた――すべてを奪われた元・天才医療研究者は、冷徹社長に溺愛される: Chapter 21 - Chapter 30

60 Chapters

第21話 二人を連れ出せば、誘拐で届ける

 開いた扉から、燎がまっすぐ私たちの方へ来た。  正臣が口を開くより早く、その手首をつかむ。 「離せ」  私の首を締めていた指が離れた。  喉へ一気に空気が入った。 「げほっ、げほっ」  咳き込みながら正臣の前から離れ、燎へ手を伸ばした。  指先に、燎の上着の厚い生地が触れた。  上着をつかむと、燎が私を背中へかばった。 「何をする。僕の妻だぞ」  正臣の手が、また伸びた。  燎がその腕を押し返した。正臣が机にぶつかる。 「その手を、もう一度伸ばしてみろ」  正臣が動きを止めた。  私は燎の上着をつかんだまま、何度も咳をした。指に力が入らず、何度も握り直す。  廊下に、黒いスーツの男が二人いた。  一人が戸口に立ち、もう一人は、駆け寄ってきた久条家の警備員を止めている。 「旦那様のお許しがなければ——」 「中から助けを求める声が聞こえました。下がってください」  警備員が正臣を見た。  それでも、燎の連れてきた男は道を譲らなかった。 「警察には連絡しました」  真鍋が電話を下ろした。眼鏡の片側がずれていた。  その後ろに、浅井が立っていた。顔は青ざめている。それでも唇を引き結び、まっすぐ私を見ていた。 「交代前に奥様を捜しました。閉じ込められていると聞いて、玄関に来た鷺宮さんを案内しました」  正臣が彼女を睨んだ。 「勝手なことを」 「私が頼んだの」  燎の背中から顔を出した。 「ここから出たいと、何度も言ったでしょう」  燎が私を振り返った。  目が合うと、燎の張りつめていた口元がわずかに緩んだ。私の首元から手首まで確かめ、そっと腕に手を添える。 「帰るぞ」  頷こうとして、膝が折れた。  すぐに、たくましい腕が背へ回った。硬い胸板に頬が触れる。いつものコロンと、上着越しの熱に包まれた途端、ほっとした。足の震えが、自分でもわかった。 「……奏汰も、連れていきたい」  私は彼の袖を離さなかった。  奏汰を残しては、ここを出られない。 「迎えに行くぞ」  燎が私の手を取った。大きな手のひらは熱く、握る力は強い。けれど、痛くない。  浅井が隣の部屋を示す。私は、彼と並んで戸口へ向かった。  正臣がついてこようとすると、スーツの男が間に入った。  息子の部屋の扉が開いた。  莉乃が奏汰
last updateLast Updated : 2026-09-25
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第22話 離婚する

「二人を連れ出せば、誘拐で届ける。警察が来ている今、やってみろ」  私は奏汰の靴を留めた。 「届ければいい。私も、あなたにされたことを全部話す」  立ち上がった。  正臣と目が合っても、もう足は止まらなかった。  奏汰の手を引く。  燎が反対側に立ち、私たちと正臣の間を歩いた。  今度は、私の手を止める人はいなかった。 ***  病院へ向かう車には、浅井と真鍋も乗った。  浅井は助手席から病院へ電話をかけ、奏汰と私の状態を伝えている。  奏汰は私の肩に頭を寄せていた。小さな呼吸を確かめ、冷えた手を両手で包む。 「ママ」  目は開かなかった。それでも、私の指を握り返した。 「ここにいるよ」  屋敷の門が遠ざかる。  あそこへ戻った時は、夕方には帰れると思っていた。  数時間後に正臣に首を締められ、奏汰を連れて出れば誘拐だと脅されるなんて、考えもしなかった。  喉がひりついた。  歯が鳴った。  止めようとしても、顎が震える。 「灯里」  隣から呼ばれた。  燎の手が、私の肩の手前で止まった。  私はその手を取り、自分の肩へ置いた。  腕が背へ回り、震える体を支えてくれる。 「……来てくれた」 「迎えに行くと言っただろう」 「でも、私の電話から、来なくていいと届いたでしょう」 「君が送ったとは思わなかった」 「どうして?」 「迎えに来いと言ったその日に、理由もなく言葉を変える女じゃない」 「それだけで?」 「電話にも出なかった。それで十分だ」  頷こうとすると、目の前が滲んだ。  迎えに来てと言った時の私を、覚えていてくれた。  奏汰を起こしたくなくて、唇を噛んだ。  燎が私の肩へ自分の上着をかけた。  朝、入口で正臣を遮った腕に、今は自分から寄りかかっている。  額を預けると、首元に彼の体温を感じた。 「病院に着いても、もう少し、いてください」 「いる」  迷いのない返事だった。 「正臣が、本当に誘拐だと届けたら?」 「警察は今、あの家にいる。君の首も見ている」 「それでも、正臣は奏汰の父親です」 「君は母親だ」  奏汰の髪に触れた。  もう無理だと思った。  これ以上、正臣とは続けられない。  でも、この子から父親を奪っていいのだろうか。  正臣も奏汰を愛していた
last updateLast Updated : 2026-09-25
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第23話 正臣でさえ、この人の前では言葉を選ぶ

「で、今度は誰になったんだ?」 「久条灯里よ」  同じ夜、莉乃は久条家の自室から、古い知り合いへ電話をかけていた。  莉乃が答えると、電話の向こうで男が低く笑った。 「久条グループの久条か。医療業界じゃ知らない者はいない。跡取りとその妻は、世間じゃ理想の夫婦だ」 「今は、私がその妻よ」 「本物は?」 「鷺宮燎が連れていった」  電話の向こうで、がたっと何かが動いた。次の瞬間、物が床に落ち、がしゃんと砕けた。  置物でも叩き落としたのだろうか。 「……燎が、何をした」  さっきまでの笑いは消えていた。  鷺宮ではなく、燎。その名を噛む声に、憎しみがむき出しになった。  莉乃は、受話器を耳から離しかけた。  この男を怖いと思ったのは、初めてだった。 「……私を見ただけで、偽物だと言った。あなたの話を思い出した」  長い沈黙のあと、男は静かに言った。 「昔から、そういう男だ」  それ以上、燎のことは話さなかった。 「久条は止めなかったのか」  莉乃は手首を強く擦った。  灯里と同じ香水の匂いが、まだ消えない。 「正臣さまは、あの女に騙されているの」 「妻に戻ってきてほしいだけだろう」 「違う。私を愛してる」  男が黙った。  その沈黙が、笑われるより腹立たしい。 「何よ」 「相良莉乃を?」  答えられなかった。  正臣が愛しているのは灯里だ。  だから莉乃は、灯里の服を着た。髪を同じ位置でまとめ、同じ香水を使った。寝室では、灯里の名前を呼ばせた。  分かっていた。  分かっていて、選んだ。 「正臣さまが私を愛してくださるなら、私は誰でもいい」 「それで、本物が戻ったら?」  指が止まった。 「戻らない。あの女は、もう別の男を選んだ」 「なら、捨てられる前に奪え」 「何を?」 「久条が、灯里に渡すつもりだったものを全部だ」  莉乃は閉じた扉を見た。  この家の中で、正臣は一度も自分を莉乃と呼ばない。 「手伝ってくれるの?」 「ただではない」 「何が欲しいの」 「CARE-LINKの特許。それから、久条正臣の弱みだ」  今度は、莉乃が黙った。 「それを渡したら?」  電話の向こうで、男が息を吐いた。 「戻ってこい、莉乃」  本当の名前を呼ばれ、肩が震えた。  正臣は一度も
last updateLast Updated : 2026-09-26
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第24話 なら、話は簡単です

「奏汰は渡しません」  朝の病室で、私は燎の手を離し、ベッドから立った。  義母は私を見た。  結婚式の朝も、この人は同じ黒真珠をつけ、同じ目で私を見ていた。 「正臣を支えるのが、あなたの役目です」  そう言われ、私は頷いた。  あの頃は、それが愛することだと思っていた。  義母の眉も、口元も動かなかった。 「あなたの許可を求めたのではありません」 「奏汰の母親は私です」 「その母親が、夫ではない男と手をつないでいたようですが」  義母の視線が、燎へ移った。  燎が立ち上がる。 「眠っている子供の前でする話か」 「鷺宮さん。灯里も奏汰も久条家の人間です。部外者は黙っていなさい」  私は燎の腕に触れた。 「私が話します」  燎は何も言わなかった。  ただ、私の隣に立ったまま、一歩下がった。  義母は、燎が空けた場所へ進み出た。  深紅の袖が、私のすぐ前で止まる。  義母は私の目を見たまま、顎をほんの少し上げた。  怒っても、笑ってもいない。  その瞳は、光を返さない。  見つめていると、こちらの考えだけが吸い込まれていく、底のない黒い闇だった。  久条家では、この人が廊下へ出るだけで、使用人たちは壁際へ寄った。  話し声も、食器の触れ合う音も消えた。  誰かを怒鳴るところなど、一度も見たことがないのに。 「八年間、あなたは正臣に逆らわなかった」  責める声ではなかった。  私の答えまで、もう決まっている声だった。  背筋が伸びた。  顎が下がり、両手が体の前で重なった。  また、口答えをしない従順な嫁に戻りそうになる。  義母のまぶたが、わずかに下がった。  もう従ったものとして、私の返事を待っている。  はい、と声が喉まで上がった。  この人に逆らう私の方が間違っている。八年間、そう思わされてきた。  手のひらをベッド柵に押しつけた。  冷たい金属の向こうで、奏汰が眠っている。  ここは久条家ではない。  この子も、私も、この人の持ち物ではない。 「言いました。誰も聞かなかっただけです」  正臣にも、この人にも。  義母は、わずかに首を傾けた。 「今は違うと?」 「もう従いません」  その黒い闇の奥で、何かが濡れたように光った。  口角が、ゆっくり持ち上がる。  私が逆
last updateLast Updated : 2026-09-26
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第25話 正臣が五歳の時、可愛がっていた犬が死にました

 朝の病室で、奏汰は私の指を握ったまま眠っていた。  義母は、その寝顔を見ながら言った。 「正臣を社長の座から下ろす」  義母は、天気の話でもするように言った。  八年間、久条家の中心にいた一人息子を、たった一言で切り捨てた。  なんて人だろう。  正臣も怖い。  でもこの人の怖さは、正臣とは別のところだ。  正臣は、次に何をするかわからないのが怖い。  義母は、選ぶ答えそのものが怖い。  一人息子を切ると決めて、少しも迷わない。  そして、この人は、一度決めたことを必ず実行してきた。八年間、私はそれを見ている。  私は何も言えなかった。 「灯里」  その手を、燎が握った。  冷えきった指先へ、彼の熱が移ってくる。  燎は義母を見たまま、私の手を離さなかった。  ようやく、声が出た。 「それで、会社はどうするんですか」 「心配はいりません」  義母は私を見た。 「戻るのは、あなたです」 「……何を言っているんですか? 正臣の妻には戻りません」  私の首に指の痕が残っているのを見たばかりなのに、この人はまた正臣の隣に座れと言うのか。 「妻に戻れとは言っていません」  義母の声は少しも揺れない。 「正臣の代わりに、あなたが久条家を継ぎなさい」  久条家には、仕事も名前も、息子まで奪われた。  それなのに、今度は私がこの家を継ぐのが当然だとでも思っているのだろうか。  なんて身勝手なのだろう。 「いい加減にしてください」  怒りで、声が震えた。 「私は、正臣が失敗した時に埋める穴じゃありません! 莉乃を私の代わりに置いて、今度は私を正臣の代わりに置くんですか」  義母は、一度だけ目を瞬かせた。  本当に、私がなぜ怒っているのかわからないらしい。 「あなたとあの使用人の女を一緒にしないでください」 「同じにしたのは、あなたでしょう」 「正臣が五歳の時、可愛がっていた犬が死にました」  突然、何の話をしているのかわからなかった。 「翌朝、よく似た犬を連れてきて、同じ名前で呼ばせたら、おとなしくなった」  死んだ犬の代わりに、よく似た犬を与えた。  同じ名前で呼ばせて、正臣がおとなしくなったから、それでよかったと、この人は思っているの? 「人は、取り替えられません」 「ええ。だから今
last updateLast Updated : 2026-09-27
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第26話 すごくきれいだ。誰にも見せたくない

 同じ朝、奏汰の病室で、義母はまだ私の返事を待っていた。 「では、もう一つ確認します」  義母はバッグから、小さな銀色のケースを出した。  曜日ごとに分かれた蓋の下に、一週間分の錠剤がすべて残っている。  ケースが私の前へ置かれた。 「正臣は、いつからこれを飲んでいないのですか」 「これは?」  義母はケースの蓋に指を置いた。 「レヴィナールです」  第二世代の抗精神病薬だ。  妄想や強い興奮を抑える。急にやめれば、不眠や焦燥が出て、症状が悪化することがある。 「正臣は、いつから飲んでいたんですか」 「結婚する前からです」  ケースには、七日分の薬が残っている。  私は八年間、一度も見たことがなかった。  結婚式の夜、正臣は私の額に口づけて言った。 「これからは、何でも灯里に話す」  あの言葉を、私は八年間信じていた。  夜中に目を覚ますと、正臣がベッドにいないことがあった。  書斎に明かりがついていると、働きすぎだと心配して、温かい飲み物を運んだ。  正臣はいつも笑って、私を寝室へ戻した。  あの時も、薬を飲まずに眠れなかったの? 「どうして、私に隠していたんですか」 「正臣が、あなたには知らせる必要がないと言いました」 「それで黙っていたんですか」 「妻なら、夫の変化に気づくと思っていました」 「八年も隠しておいて、私の責任にするんですか!」  声が病室に響いた。 「声を抑えなさい」 「都合が悪くなると、いつもそうやって黙らせるのね」  眠っている奏汰が身じろぎした。  私は声を落とした。それでも、義母から目はそらさなかった。 「正臣に口止めされて従ったのは、お義母さまでしょう。私に責任を押しつけないで」  義母が、初めて鼻白んだ。  燎が義母を見た。 「この女は、お前が都合よく黙らせられる小物じゃない」  この女、は余計だ。  口を挟まないでと思ったのに、危うく笑うところだった。  義母は彼を見たが、表情は変わらなかった。 「処方医は誰ですか。正臣は、いつから飲んでいないんですか」 「今は必要ありません」 「必要です。急にやめていい薬ではありません」  義母は銀色のケースを閉じ、バッグへ戻した。 「知りたければ、正臣本人に聞きなさい」  それ以上は答えず、病室を出
last updateLast Updated : 2026-09-27
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第27話 今度は失わないといいな、燎

 燎が顔を離しても、私はすぐに顔を上げられなかった。  もうキスまでしたのに、嫉妬だと分かる一言だけで、キスよりも感じてしまう。  まだ離婚もしていない。  それなのに、女として見られたことが嬉しかった。  顔を上げると、燎はまだ私を見ていた。  燎の手が、私のむき出しの肩へ伸びかける。けれど、触れる前に止まり、ゆっくり下りた。 「そのまま、俺の隣に立て」 「私は、あなたのものじゃありません」 「知っている」  答えは早かった。  それでも、私から目をそらさない。 「この家にいるのも、一時的です」 「それも知っている」 「それなら、どうして私を連れていくんですか」  燎の顎に、わずかに力が入った。 「正臣の隣へ戻る君を見たくない」 「戻りません」 「知っている。それでも見たくない」  いつもなら人を試すように笑う男が、今は少しも笑っていなかった。 「嫉妬ですか」 「そうだ」  燎の黒い瞳に、強い光があった。  私を正臣から奪って、二度と返さない。  もう、そう決めている。  この人は、誰に反対されてもやる。できるまで止まらない。  この人は、善人ではない。  私を助けたいだけなら、こんな目はしない。  自分が欲しいから、奪うのだ。  勝手な人。  それなのに、私も燎に奪われたいと思った。  燎が腕を差し出した。  長い指が、私を急かすように一度だけ動く。  私は自分で選んだドレスの裾を整え、その腕に手を置いた。  触れた瞬間、燎の腕に力が入った。  口元だけが、満足そうに緩んだ。 「行きましょう」 「ああ」  歩き出した燎の横顔には、もういつもの余裕が戻っていた。  けれど、私が腕を離さないか確かめるように、一度だけ手元へ目を落とした。 * * *  同じ夜、都心の高級ホテルで、久条グループの創立記念パーティーが開かれた。  グループ各社の役員と株主、取引先、医療業界の経営者、報道関係者まで、招待客は三百人近い。  久条家が今も揺らいでいないと見せるための夜だった。  宴会場へ続くホールに入ると、周囲の視線が燎へ集まった。  何人もの経営者が近づこうとして、隣にいる私を見て足を緩める。  白髪交じりの男が、最初に声をかけた。 「鷺宮社長。こちらは、久条社長の奥様ですね」
last updateLast Updated : 2026-09-28
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第28話 僕を困らせないで

「柊吾」 燎の声から、さっきまでの熱が消えていた。 男は、莉乃の腰へ手を添えたまま笑った。「久しぶりだな」「知っている人?」 私が聞くと、燎は男から目を離さずに答えた。「昔、SENOVAを一緒に作った男だ」「それだけか」 柊吾と呼ばれた男は楽しそうだった。 燎の腕だけが、私の手の下で固い。「今はそれで十分だ」 燎が短く切った。 莉乃は私と同じ紺のドレスを着て、柊吾の隣に立っている。 髪のまとめ方も、耳飾りも同じだった。 三日前、私が選んだばかりの姿だ。 偶然ではない。 本当に気持ちが悪い。 私の真似をして、私の居場所に立っている。それを隠そうともしない。「正臣さま」 莉乃が会場の奥へ呼びかけた。 こちらへ歩いていた正臣が、初めて莉乃に気づく。 柊吾の手が莉乃の腰にあるのを見て、目元が冷えた。「どうして、その男といる」「私を連れてきてくださったんです」 莉乃は正臣へ笑いかけた。 けれど正臣は、もう私を見ていた。 驚きが消え、その目に昔と同じ甘い光が戻る。「灯里。やっと戻ってきた」「戻ってきたんじゃない」 正臣の笑みが止まった。「久条家には戻らないと伝えるために来たの」「まだ怒っているんだね」 優しい声だった。 以前なら、その声で名前を呼ばれるだけで、何もかも許したくなった。 今は、私の言葉を聞かないための優しさにしか聞こえない。 正臣の視線が、私の腰へ落ちた。 燎の手が添えられている場所だった。「妻から手を離せ」 正臣が燎の手首へ手を伸ばす。 私はその手を払い落とした。「触らないで」 近くにいた招待客が息を呑んだ。 正臣が、自分の手を見た。 私に拒まれるとは思っていなかった顔だった。 正臣はゆっくり顔を上げた。 口元には笑みが残っている。けれど、目だけが冷えていた。「灯里。みんなが見ている」 低く甘い声だった。結婚したばかりの頃、慣れない宴席で私の背に手を添え、「困ったら僕を見て」と囁いた声と同じだった。 あの頃は、あの手に守られていると思っていた。 正臣の指が、私の頬へ伸びる。 頬に触れられる前に、私は顔をそむけた。 正臣の指が宙で止まる。笑みが少しだけ深くなった。「僕を困らせないで」 声は穏やかなままだった。 帰れば、また扉を閉められる。首に、あの指の感触
last updateLast Updated : 2026-09-29
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第29話 君は、どうしたい

「本日付で、久条正臣を代表取締役から解任します」  一瞬、誰も声を出さなかった。  次の瞬間、会場がわっと爆発した。  椅子を引く音。  誰かが落としたグラスの割れる音。  役員たちが一斉に立ち上がり、報道陣が壇上へ押し寄せる。 「解任とは、取締役会で決まったのですか」 「後任は誰です」  質問が飛び交い、カメラの光が何度も正臣の顔を照らした。  正臣は動かなかった。  口元にはまだ微笑みが残っているのに、こめかみが強く引きつっていた。 「母さん、何を言っている」  正臣の声から、初めて余裕が消えた。  義母は息子を見なかった。 「必要な票は、すでに集めました」 「そんなものは無効だ」  正臣が壇上へ一歩近づいた。 「僕を下ろして、誰を置くつもりです」 「後任には、久条灯里さんを推薦します」 「灯里を会社に立たせるな」  正臣の声が鋭くなった。 「灯里は僕の妻だ。久条家にいればいい」 「その灯里さんから会社と研究を取り上げたのは、あなたでしょう」 「違う。僕が大きくしてやった」 「そして、才能のないまがい物に渡そうとした」  莉乃の顔が、大きく歪んだ。  正臣が、柊吾の隣にいる莉乃を指した。 「なんでわからないんだ! 莉乃も灯里だ!」  会場のざわめきが、一瞬で消えた。  正臣のそばにいた役員が、一歩下がる。  報道陣も質問を止め、互いの顔を見た。  誰一人、正臣の言葉にうなずかなかった。  おかしいのは、私ではない。  今度は、三百人がそれを見ていた。  同じ紺色のドレスを着た莉乃へ、何台ものカメラが向く。  莉乃はすぐに表情を整え、私と同じ角度で顎を上げた。  義母が初めて正臣を見た。 「目の前に灯里さんがいるでしょう」 「どちらも灯里だ」  義母の口元が、わずかに歪んだ。 「だから、あなたを下ろすのです」  会場が、もう一度大きくどよめいた。  三百人近い招待客が、一斉に私を見る。  白い光が目へ刺さる。 「桐谷灯里博士ですか?」 「あの桐谷氏の娘さん?」 「CARE-LINKの開発者ですか?」  報道陣の声が重なった。  本当に、義母は発表した。  久条家を継げば、父の会社も、私の仕事も取り戻せる。  正臣に親権を争わせず、奏汰を私のそばで育てられる。  
last updateLast Updated : 2026-09-29
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第30話 僕を愛していなかったと、ここで言えるのか

「君は、どうしたい」  燎の問いが、静まり返った会場に残った。  正臣の手は、まだ私へ差し出されている。 「灯里」  正臣が私の名を呼んだ。 「僕を愛していなかったと、ここで言えるのか」  卑怯だった。  会社でも、特許でもない。  大勢の前で、私たちの八年間が愛だったのか、嘘だったのか、答えろと迫っている。  こんな場所で、愛しているかと迫るなんておかしい。  でも答えなければ、正臣は私の沈黙まで「愛している」に変える。  愛していなかったとは、言えなかった。  正臣を愛していた。  結婚式の日、彼の手を取った時は、この人となら何があっても生きていけると思った。  奏汰が生まれた夜、正臣は泣きながら私を抱きしめた。  初めて三人で朝を迎えた時、この幸せが一生続くと信じた。  嘘にはできない。 「私、あなたを愛していた」  会場がざわめいた。  燎を見る者もいた。  私も燎を見た。  彼の顎が固くなり、下ろした手が握られている。  聞きたくないはずなのに、止めなかった。  私が正臣との八年間を、自分の言葉で終わらせるまで待っている。  だから、私も目をそらさなかった。  正臣の目が大きく開いた。  すぐに、嬉しそうな笑みが浮かぶ。 「分かっている。だから、おいで」  正臣が私の手首をつかんだ。  そのまま引き寄せられ、甘い香りが近づく。 「今なら、まだ許せる」  耳元へ落ちた声も、昔と同じだった。  同じ体温。  同じ香り。  同じ声。  それが悲しくて、腹が立った。  八年前なら、迷わず取った。  ほんの少し前まで、奏汰と会社を返すと言われれば、戻るしかないと思っていた。  けれど、その手は私のスマートフォンを壊した。  私の頬へ皿を投げた。  逃げようとした私をつかみ、部屋へ閉じ込めた。 「愛していたの」  過去の言葉として、もう一度言った。  私は正臣の指を一本ずつ外した。  正臣の笑みが消えた。 「仕事を奪われる前のあなたを。私の話を聞いてくれた頃のあなたを。私を妻ではなく、灯里として抱きしめてくれたあなたを愛していた」 「僕は変わっていない」 「変わったわ」  声が震えた。 「それとも、最初から私が従っていたから、優しかっただけなの?」  正臣は、
last updateLast Updated : 2026-09-30
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