All Chapters of 夫がメイドを私の名前で抱いた――すべてを奪われた元・天才医療研究者は、冷徹社長に溺愛される: Chapter 31 - Chapter 40

60 Chapters

第31話 会社はもらいません

 ざわめきが止まる。 「鷺宮さん」  義母の声が飛んだ。 「久条グループの創立記念式典で、勝手にご自分の発表をなさるなんて。相変わらず無礼ね」  燎はマイクを持ったまま、義母を見た。 「本人の返事も聞かず、灯里を後継者にすると発表したのは、あなたが先だ」 「久条家のことです。あなたには関係ありません」 「灯里のことなら、関係ある」  会場が息を呑んだ。  義母の目が、わずかに細くなる。  正臣さえ口をつぐむ目を、燎は正面から見返した。  私のことなら関係がある。  三百人の前で、迷いもなく言い切った。  勝手な人だと思った。  それなのに、うれしかった。  久条家の妻としてでも、桐谷の娘としてでもない。燎は、私が作ったものを私の名前で世に出そうとしている。  それをうれしいと思う自分まで、見抜かれていそうで悔しかった。  こんな場所で、私の人生を勝手に取り合わないで。  燎はまだマイクを下ろさない。  いったい、何を言うつもりなの?  会場中の視線が、燎へ集まる。 「新しい医療データ会社を作る」  燎が私を見た。 「その会社を、君に贈る」  一拍遅れて、会場中から声が上がった。 「SENOVAが、桐谷博士のために新会社を?」 「会社を一つ、贈るということですか」 「鷺宮社長、桐谷博士とはどういうご関係ですか」  報道陣が一斉にマイクを向ける。  一瞬、言葉が出なかった。  後ろの席で椅子が鳴り、久条の役員たちが顔を見合わせた。さっきまで莉乃を見ていたカメラが、今はすべて私へ向いている。  私の仕事に、会社一つを賭ける。  しかも久条の創立記念式典で、正臣と義母の目の前で。  この男は、人の人生を変える話を、明日の予定のように言う。  嬉しくないはずがない。  正臣に道楽と呼ばれ、莉乃に名前まで奪われた仕事を、燎は会社にする価値があると言ってくれた。  八年間、聞きたかった。  私の仕事には価値がある。続けていい。そう言ってほしかった。  でも、喜んだまま受け取るわけにはいかない。  義母と燎は違う。燎は私の仕事を認めている。それでも、会社をもらって社長にしてもらうだけでは、また誰かに人生を決めてもらうことになる。  会社を作ったことなんてない。  今の私にできるのかも、正直分からな
last updateLast Updated : 2026-09-30
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第32話 正臣さまの妻は、私です

「CARE-LINKも、私が完成させます」  莉乃の声が、静まり返った会場に響いた。  正臣の灯里は自分だと言っただけでは、もう足りないらしい。  私の仕事まで、自分のものにすると宣言した。  正臣が振り返る。  私と同じ紺のドレス。同じ位置でまとめた髪。同じ耳飾り。  正臣の目が、一つずつ確かめるように莉乃の姿をたどった。  最後に、顔を見る。 「灯里」  迷いのない声だった。 「はい」  莉乃も迷わず答えた。  正臣の手が、莉乃へ伸びる。  莉乃は赤い絨毯を進み、その手を取った。指を絡め、私へ勝ち誇った笑みを向ける。 「正臣」  義母の声が飛んだ。 「その女を連れて、どこへ行くつもりです」 「帰ります」 「あなたに戻る席はありません」  正臣は母親を見なかった。 「代表を解任されることは、どうでもいいと言ったはずです」  莉乃の手を強く引き寄せる。 「僕には灯里がいる」  胸元へ抱かれ、莉乃がうっとりと目を細めた。  燎の腕が、私を背中へかばうように動いた。  けれど、正臣はもう私を見ていなかった。 「正臣さま」  莉乃が甘く呼ぶ。 「私が、おそばにいます」 「分かっているよ」  正臣は莉乃の頬に触れた。  私に傷をつけた手で、私と同じ顔を撫でている。  気味が悪かった。  それでも、目をそらさなかった。  これが正臣の選んだ灯里だ。  自分に逆らわず、いつでも優しく笑い、何をされても離れない女。 「行こう、灯里」  正臣が莉乃の腰を抱いた。  報道陣のカメラが、一斉に二人へ向く。 「久条前代表、その女性を奥様として扱うということですか」 「離婚は成立しているのですか」 「相良莉乃さんとの関係を説明してください」  正臣は答えなかった。  莉乃だけが振り返った。 「正臣さまの妻は、私です」  莉乃は報道陣へ、堂々と微笑んだ。  記者たちが顔を見合わせ、低いざわめきが広がった。  正臣が莉乃の腰を抱き直した。  莉乃が見上げると、正臣も幸せそうに笑った。  私の名前を使い、私と同じ顔で、二人は本当の夫婦のように寄り添っている。  幸せそうであればあるほど、歪んだ絵を見ているようで、気持ちが悪かった。  二人が会場を出ていく。  扉へ向かう途中、莉乃が一度だけ振
last updateLast Updated : 2026-10-01
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第33話 九年前に、何があったの

「俺に同意を求めるな」 燎の声は低かった。 いつもなら、何を言われても人を食ったように笑う。 けれど今は、口元に笑みがなかった。 会場のざわめきが、また止まった。 壇上の柊吾は、マイクを持ったまま笑った。「自分以外が最善だと認めるのは、難しいか」「勘違いするな。おまえが最善だったことはない」 燎の言葉を気にした様子もなく、柊吾が壇上を降りる。 記者たちが道を空けた。 燎は私の腰から手を離さなかった。 柊吾が近づくほど、その指に力がこもる。 燎は私を柊吾に近づけたくないのだろう。 だけど、私には彼に聞きたいことがあった。 莉乃が柊吾へ送った合図。 その直後に発表された、正臣の後任。 偶然とは思えなかった。「どうして、あなたが正臣の後任なの」 私が聞くと、柊吾の足が止まった。「それは、久条志津子に聞くべきだ」「あなたは断らなかった」「断る理由がないからね」「父の会社を、何に使うつもり?」「君が捨てた会社だろう」 声が低くなった。「捨ててない。奪われたの」 柊吾の眉が、わずかに上がった。「知りたい?」「ええ。それに、あなたが莉乃と何を企んでいるのかも」 柊吾の視線が、私へ向いた。「燎は、僕がSENOVAを追われた理由まで話した?」「何も聞いていないわ」「そうだろうね。昔から、自分に都合の悪いことは話さない」 燎の眉間に、深い皺が寄った。 挑発だと分かっている。 それでも、私だけ何も知らないことが気になった。 燎の腕が、私を胸元へ引き寄せた。 背中が燎の胸に触れる。 一歩出ようとした私を、腰に回った手が引き戻した。 邪魔しないで、と言いたかった。 けれど、その手を振りほどく気にもなれなかった。 柊吾の視線が、私の腰にある燎の手へ落ちた。「莉乃は自分で選んだ。欲しいものを手に入れるためにね」「質問に答えていないわ」「久条正臣は、失った妻を取り戻したい。相良莉乃は、その妻になりたい。利害が一致しただけだ」 正臣が取り戻したいのは、私ではない。 逆らわず、家を出ず、いつも笑って待っている妻だ。 莉乃は、その通りに振る舞っている。 八年一緒に暮らしたことも、奏汰を産んで育てたことも、正臣には「失った妻」の一言でしかないのだろうか。 分かっていたはずなのに、柊吾に「利害」と呼ばれると腹
last updateLast Updated : 2026-10-02
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第34話 僕に罰されるのが、そんなに嬉しい?

 発表会場で、燎と柊吾が大勢の前でにらみ合っていた、その頃。  正臣が向かったのは、ホテルの出口ではなかった。  莉乃は正臣に腰を抱かれたまま、最上階行きのエレベーターへ乗った。  廊下の奥にある部屋へ入る。  扉が閉まり、鍵がかかった。  正臣の手が離れる。  莉乃が振り返るより早く、背中が扉へ押しつけられた。 「正臣さま……」  顎をつかまれ、顔を上げさせられる。  正臣の目に、会場で見せた優しさはなかった。 「僕の前で、あの男を選んだ」  莉乃は否定しなかった。  正臣が見ているのは、自分ではない。  鷺宮燎の隣へ歩いていった灯里だ。  そう分かった途端、下腹に甘い熱が集まった。 「ごめんなさい、正臣さま」  灯里の声を真似て、莉乃は謝った。  正臣の親指が、唇を強く押す。 「謝れば、許されると思っているのか」  莉乃は正臣を見上げた。  怒っている。  自分だけを見て、激しく怒っている。  それがたまらなく嬉しかった。 「僕を捨てた罰を与える」  灯里として、罰してもらえる。  その言葉に、莉乃の全身が甘く痺れた。  脚のあいだが甘く疼き、熱い蜜が滲んだ。 「はい。罰してください、正臣さま」  莉乃は正臣の手首へ自分から触れた。 「私が悪いんです。あなたの前で、鷺宮さんを選んだから」  正臣の目が細くなった。  莉乃が演じているのは、壇上で燎の隣へ歩いた灯里だ。正臣が怒っている相手も、目の前にいる莉乃ではない。  それでよかった。  今、正臣の頭の中にいる女を、自分の身体で独占できる。  莉乃は正臣のネクタイへ手をかけた。結び目をゆるめ、シャツのボタンを一つ外す。 「私を、正臣さまの望む灯里にしてください」  正臣の手を取り、自分の腰へ置いた。  ためらいはなかった。ここまで灯里の服を着て、声を真似て、妻の席へ座るために来たのだ。 「もう一度言って」 「鷺宮さんを選んで、ごめんなさい」  言い終わる前に、唇を塞がれた。  後頭部をつかまれ、扉へ押しつけられる。強く噛まれた唇が痛んだ。莉乃は逃げず、正臣の首へ両腕を回した。 「もっと……怒ってください」  正臣の指が、紺のドレスの肩紐へかかる。 「この服も、あの男のために着たのか」 「違います。あなたに選んでもらうためで
last updateLast Updated : 2026-10-03
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第35話 灯里。もうこんなに濡れてる

 手を外すためではなかった。  正臣が離しかけた手を、莉乃は自分の喉へ押し戻した。 「やめないで」  正臣の目が、わずかに見開かれる。  怖い。  このまま力を入れられたら、本当に殺されるかもしれない。  それなのに、身体の熱はさっきより強くなっていた。  正臣が灯里へ向ける激しい感情を、今は自分の身体だけが受けている。 「もっと、私を灯里だと思って」  莉乃は鏡の中の正臣へ笑いかけた。 「灯里を罰したいなら、全部、私にしてください」  正臣の手が喉から離れ、顎をつかむ。 「名前を言え」 「久条灯里です」  莉乃は、鏡の中の自分を見たまま答えた。  振り向かされ、もう一度唇を奪われた。 「そうだ。君は僕の灯里だ」  その言葉だけで、脚のあいだが疼いた。  莉乃は正臣の手を取り、濡れた場所へ導いた。 「灯里。もうこんなに濡れてる。やっぱり、僕がいいんだね」 「はい……正臣さまがいいです。正臣さまの灯里にしてください」  腕を取られ、ベッドへ押し倒される。  両手首を頭の上で押さえられても、莉乃は目をそらさなかった。  自分から脚を開き、正臣の腰を引き寄せる。 「僕を捨てて、気持ちよかった?」 「いいえ」 「嘘をつくな」  ぬるりと、正臣が一気に入ってきた。  身体の奥まで押し広げられ、莉乃の喉から声が弾ける。 「ああっ……正臣さまっ」  腰を強く打ちつけられる。  痛みのすぐあとを、熱い快感が追ってきた。  ベッドが軋むたび、胸が揺れる。  正臣の手が乳房をつかみ、赤く残るほど強く揉んだ。 「あっ……そこ、もっと……」 「あの男に、こうされたかった?」 「違います……私が欲しいのは、正臣さまだけ」 「なら、証明して」  動きがさらに激しくなる。  深く突かれるたび、身体の奥から甘い痺れがせり上がった。  濡れた場所が擦れるたび、くちゅ、と小さな音が鳴る。  その音を聞かれることさえ、恥ずかしいのに嬉しかった。  莉乃は正臣の肩へ爪を立てる。  逃げるためではない。もっと深く受け入れるために、腰を持ち上げた。 「もっと……正臣さま、もっとください」  正臣が灯里へ向ける怒りを、もう自分から求めている。  灯里が拒んだものを、自分だけが受け取っている。  それが嬉しかった。
last updateLast Updated : 2026-10-05
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第36話 今夜は抱かない

「連れていくよ」  正臣は、莉乃の髪をゆっくり撫でた。 「君がCARE-LINKを完成させるんだ。僕の隣で」 「でも、お義母さまは、正臣さまを会社から……」  正臣の指が止まった。 「母が決めることじゃない」  正臣は、代表を下ろされても、自分の影響まで消えるとは思っていないらしい。 「母が何を言っても、僕が連れていく。あの会社を大きくしたのは僕だ」 「私を、灯里として連れていってくださるんですか」  正臣が眉を寄せた。 「何を言っているんだ。君は灯里だろう」  莉乃は微笑み、正臣の胸へ頬を戻した。  明日からは、会社でも灯里になれる。 * * *  あのあと、燎は答えなかった。  柊吾が記者たちに囲まれて離れたあとも、燎の腕は私の腰に回ったままだった。 「燎」  呼ぶと、ようやく指の力が少し緩んだ。  けれど、腕は解かれない。  さっき柊吾へ向けた冷たい声が、まだ耳に残っている。  怖いはずなのに、離してほしいとは思わなかった。  私に触れるなと告げた燎の腕の中に、もう少しいたかった。 「あの人は、誰なの?」 「SENOVAを一緒に始めた男だ」  燎は柊吾が消えた扉を見ていた。 「俺が追い出した」  やはり、ただの知人ではなかった。  燎が誰かの名前を口にするだけで、あれほど声を冷たくする。  二人の間で壊れたものは、会社だけではない気がした。 「どうして?」 「守るべきものを、数字に変えたからだ」  それ以上、燎は言わなかった。  九年前も間に合わなかった。  柊吾の言葉が耳に残っている。  燎は九年前に、誰を守れなかったのだろう。  知りたい。  仕事のためではない。  燎のことだから、知りたかった。 「九年前に、何があったの?」  燎の視線が、私へ戻った。 「今話せば、あいつに言わされることになる。それが気に入らない」  今は話さない。でも、隠し続けるとは言わなかった。  その違いを、私は勝手に信じたくなった。 「帰るぞ」 「本邸へ?」 「ああ。今夜、君を一人にする気はない」  また勝手に決める。  腹を立てるべきなのに、「一人で帰す気はない」という言葉ばかりが残った。  けれど、パーティーで燎の腕を取ったのは私だ。  今夜も隣にいたいと思っているのも、私だっ
last updateLast Updated : 2026-10-06
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第37話 俺が君を奪えば、君の人生は変わる

「俺が君を奪えば、君の人生は変わる」  日付が変わる少し前、燎の私室で、私は唇に触れたままの親指を見た。  指の腹は少し硬く、触れられた場所だけが熱い。  顔を上げると、すぐ近くで目が合った。  まっすぐ通った鼻筋も、薄い唇も、嫌になるくらい好みだった。言われていることより、あの唇が気になってしまう。  でも、いちばん目を引くのは、その強い目だった。  私を見て、欲しいとためらわずに言う。手に入るかどうかを疑っている顔ではない。  この人なら、何度つまずいても立ち上がりそうだ。傷ついても、腹を立てても、また欲しいものへ手を伸ばす。  その強さが怖い。なのに、私を欲しがるこの目を、もっと近くで見ていたかった。 「一夜だけ俺のものになって、朝になれば元へ戻れると思うな」  親指が、濡れた唇をゆっくり拭う。 「君はまだ、その覚悟ができていない」  なんて傲慢な男だろう。  私の人生なのに、私より先に覚悟の有無を決めている。  腹が立つ。  けれど、間違っているとも言えなかった。  私はまだ正臣の妻だ。  離婚は成立していない。奏汰を連れて屋敷を出たばかりで、親権だってこれからどうなるかわからない。  今夜、燎に抱かれたことを正臣が知れば、必ず私から奏汰を奪うために使う。  今すぐ、抱いてと言いたかった。  身体はまだ、燎の手が戻ってくるのを待っている。ドレスの留め金に触れられた感覚を思い出すだけで、奥が疼いた。  でも、駄目だ。  頭では分かっている。  それでも、燎が欲しかった。  私の迷いを見抜かれたことより、欲しいのに手を伸ばせない自分の方が悔しい。  私は燎の手を唇から外した。 「嫌な男ね」 「知ってる」  燎が口元だけで笑った。  その余裕まで腹が立つ。  私は燎のネクタイをつかみ、強く引いた。  唇を重ねると、燎の笑みが消えた。  次の瞬間、後頭部を大きな手でつかまれる。  傾けられた顔に、燎の舌が深く入り込んだ。 「ん……っ」  濡れた唇が、かすかな音を立てる。  息を奪われるほど深く口づけられても、私はネクタイを離さなかった。  燎の舌を追うと、抱かれなかった身体の奥が、また熱く疼く。  このまま離れたくない。  そう思った自分ごと振り切るように、先に唇を離した。  燎の指
last updateLast Updated : 2026-10-07
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第38話 俺は、金を出したものを手放さない

 結局、昨夜は燎の部屋へ行かなかった。  ベッドに入っても、なかなか眠れなかった。  目を閉じると、燎に腰を引き寄せられた感触と、唇の熱を思い出す。  扉を開ければ、燎はきっと気づく。話がしたいのではなく、もう一度触れてほしくて来たのだと。  それが悔しくて、自分の部屋から出られなかった。 *** 「行くぞ」  翌朝八時、燎は本邸の玄関で私を待っていた。  濃紺のネクタイを締めている。昨夜、私がつかんで引いたものとは違う。 「何を見ている」 「ネクタイ。昨日と違うから」 「君が皺にした」  燎の目が、私の指へ落ちた。 「また引きたいのか」 「引きたくない」  すぐに答えたのに、燎は悪戯っぽく笑った。  私が嘘をついたと分かっている顔だった。 「どこへ?」 「君の会社だ」  昨夜の発表を思い出した。  会社はもらわない。私が作る。そう言ったばかりだ。 「まだ会社なんてないけど」 「だから、作りに行く」  燎は当然のように言い、先に扉を出た。  車が着いたのは、SENOVA本社の向かいにある高層ビルだった。  最上階へ上がると、広いフロアに新しい机が並んでいた。窓の向こうには、病院や研究施設が集まる街が見える。  真鍋が私たちを待っていた。 「ここは、来週の説明会から三十日後の選考まで、桐谷さんの会社へ貸し出します。今日から使えます。開発環境も、今夜までに使えるようにします」 「貸し出す?」  燎を見た。 「投資じゃないの?」 「投資には条件がある」  やっぱり、この男はただ甘くはない。 「どんな条件?」 「NEXUS ONEを取れ」  息を呑んだ。  まだ会社すらない私に、日本で一社しか選ばれない枠を取れと言うの?  その名前は知っていた。  海外の病院と研究機関が、日本で一社だけ開発相手を選ぶ。  選ばれれば、複数の病院で試験運用ができる。  父が生きていた頃から、いつか挑みたいと話していた選考だ。  けれど、実績のない会社が簡単に通る場所ではない。 「本気で言っているの?」 「冗談で会社は動かさない」 「人もいない。製品だってこれからよ」 「来週の説明会から、三十日ある」 「三十日しかないじゃない」  燎は少しも動じなかった。 「SENOVAは、君の会社と共同で出る」
last updateLast Updated : 2026-10-08
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第39話 勝った方が、本物の灯里です

「出るに決まってるわ」  燎が満足そうに笑った。 「そう言うと思った。だが、久条も出る」  代表になった柊吾が出てくるだけなら、燎はわざわざこんな言い方をしない。 「誰が来るの?」 「相良莉乃が、CARE-LINKを持ってくる」  その名前を聞いた瞬間、腹が立った。  私が本物だ。  私の仕事も、父の会社も、あの女に渡さない。  偽物に、負けるわけにはいかなかった。 * * *  それから一週間、私は毎日あの最上階へ通った。  ほとんど眠れないまま、燎が集めた技術者や弁理士と、CARE-LINKの設計を残して久条の特許を避ける方法を、朝から夜中まで探し続けた。  案はいくつも出た。  けれど、検証も、新しい特許を出願できる段階まで仕組みを固めることも、今日までには間に合わなかった。  翌週の午後、私は燎と並んで、都内の国際医療センターにあるNEXUS ONE選考説明会へ入った。  会場の前には、国内の医療企業や研究機関の関係者が集まっていた。  足を止めた私の腰へ、燎の手が回る。 「止まるな」  薄いスーツの生地越しに、指の力と熱が伝わった。 「怖がってない」 「知っている。腹が立っている顔だ」  燎が顔を寄せる。いつものコロンが、ふわりと香った。 「その顔を見ていると、今すぐ連れ帰って、俺しか考えられなくなるまで抱きたくなる」  あの夜の唇を思い出し、脚の間が甘く疼いた。  一週間も、あの続きをしていない。  悔しくて睨むと、燎は楽しそうに口元を上げた。  腰を抱かれたまま扉をくぐる。  正面に、正臣と莉乃がいた。  莉乃は白いシャツに黒いスーツを着ている。髪も短くまとめ、使い込まれたノートを胸に抱いていた。  一週間前より、また私に似ていた。  目元が少し腫れている。寝不足にも見える程度だった。  けれど、二重の幅と目尻の角度が、前より私に近い。  何か、変わった?  私の視線に気づくと、莉乃は私と同じ角度で顎を上げた。  正臣の視線が、私の腰にある燎の手で止まった。  陰のある目元が、すっと冷える。 「その手を離せ」  近くにいた男たちが会話を止めた。  燎は手を離さない。 「誰に命令している」 「僕の妻に触るな」 「正臣さまの妻は、私です」  莉乃がすぐに言った。  そ
last updateLast Updated : 2026-10-09
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第40話 私が負けても、私は私よ

「違う」  自分でも驚くほど低い声が出た。 「勝っても、あなたは私にはならない。私が負けても、私は私よ」  莉乃の笑みが消えた。  ノートの角が、握りしめた指の下で折れた。 「……ならない?」  声がかすれた。本当にショックを受けたようだった。  けれど、莉乃はすぐに持ち直すと、また私の真似をした。私と同じ角度で顎を上げた。 「では、何を争うんですか」 「患者に届くものを作れるかどうか。それだけよ」  NEXUS ONEは、海外の病院と研究機関が、日本で一社だけ開発相手を選ぶ。  父が生きていた頃から、いつか挑みたいと話していた選考だ。  名前を奪い合うための場所ではない。 「きれいごとだ」  正臣が切り捨てた。 「会社名もない。人もいない。製品もない。そんな状態で、選ばれると思っているのか」 「SENOVAは、彼女の会社と共同で出る」  燎が答えると、周囲の何人かがこちらを見た。 「設立前の会社と?」  参加企業の男が、隣の男と顔を見合わせる。  正臣は鼻で笑った。 「基盤だけあっても、中身は作れない」 「CARE-LINKを設計したのは彼女だ。次も作れる」  燎は当然のように言った。  私なら、もう一度作れる。  燎は、そんなふうに思ってくれていたんだ。  嬉しかった。  正臣が莉乃の肩へ手を置いた。 「こちらには会社も、開発陣も、試験データもある。君を開発から外したあとも、準備は進めてきた。今さら勝てるとでも?」  正臣は莉乃へ、励ますように微笑んだ。  陰のある目元がやわらぐと、端正な顔は昔の優しい夫そのものに見えた。  研究の進捗を話すたび、私に向けていた笑顔だった。  もう、あの笑顔を取り戻したいわけではない。  それでも、私の仕事を奪った莉乃へ向けられると腹が立った。  隣で、燎が私をちらりと見た。  私は気づかないふりをした。 「何より、CARE-LINKの特許はこちらにある。それに、灯里も準備してきた。そうだろう?」 「ええ、私、勉強しました」  莉乃がノートから手を離し、私を見た。 「それで、欠点を見つけました」 「欠点?」 「患者本人が入れた記録も、家族が代わりに入れた記録も、今のCARE-LINKは同じ一件として並べますよね」  すぐには答えられなかった。
last updateLast Updated : 2026-10-10
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