All Chapters of 愛したあなたに、さよならを: Chapter 1 - Chapter 10

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第1話

雲乃がまだ状況をのみ込めずにいるうちに、手術室から出てきた女医がマスクを外した。「研司、安心して。若菜は無事よ。私がついてるんだから、何かあるわけないでしょ?悪いのは若菜を車ではねた人よ。まともに運転できないなら、最初から運転なんかしなきゃいいのに!」若い女性はようやく涙を拭い、笑顔を見せた。「私はもう大丈夫だよ、雅美先生。あの方もわざとじゃなかったと思うし、それに、彼女も妊娠してるみたいだったから」「若菜さん、まだあの人を庇うの?妊娠してるのに車を運転するなんて、他人を巻き込むようなものじゃないか」「そうだよ。若菜、怖がらなくていいからな。あとでそいつを見つけたら、俺たちが絶対に許さないから!」「必ずきっちり責任を取らせてやる!」その女医は、雲乃の親友である須藤雅美(すどう まさみ)だった。そしてそばにいた数人は、研司が昔から最も親しくしている友人たちだった。憤りをあらわにする彼らを見つめながら、雲乃は全身の血が凍りついたように感じ、下腹部にまでずしりとした痛みが波のように押し寄せてきた。一歩、また一歩と後ずさりした末、背中が壁にぶつかり、ドンッと鈍い音が響いた。その音に気づいた一同が、一斉に彼女のいるほうへ顔を向けた。雅美も雲乃の姿を目にした瞬間、呆然と立ち尽くした。「く……雲乃?どうしてここにいるの?」「雲乃さん?」研司の友人の一人が目を見開いた。「まさか、若菜をはねたのって……雲乃さんなのか?」ほかの者たちも一気に慌て始めた。「うわ……これ、修羅場ってやつじゃないか?」「やばいって。本妻が愛人をはねるなんて……研司さんが2年間も必死に隠してきたのに、結局バレちまったじゃん」その言葉を聞いても、雲乃は動かなかった。ただ顔を上げ、まっすぐ研司を見つめた。彼なら、きっと何か説明してくれる。そう思っていた。しかし研司は雲乃を一瞥しただけで、すぐにベッドの上の若い女性へ視線を戻した。「若菜、今は何も考えなくていい。出産したばかりなんだから、体を冷やすな。雅美に病室まで送ってもらえ。ここのことを片づけたら、すぐにお前と赤ちゃんに会いに行くから」若い女性は状況がのみ込めないまま頷き、不安そうに尋ねた。「研司、何かあったの?もしかして、私をはねたあの方と知り合いなの?もしそうなら、あまり責め
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第2話

研司は壁にもたれ、深い眼差しで雲乃を見つめていた。長い沈黙の末、ようやく低い声が聞こえてきた。「彼女は香坂若菜(こうさか わかな)。俺が外で囲っている女だ。23歳で、大学を卒業したばかり。大学2年のとき、クラブ・ルーセントで酒を売るバイトをしていて客に絡まれていたところを、俺が助けた。ちょうどその日、俺は誰かに薬を盛られていて、彼女に助けてもらった……それから、彼女を外に住まわせて面倒を見るようになった。若菜は素直で、聞き分けがよくて、純粋な子だ。俺が結婚していることも知らない。俺も最初は別れようと思って、一度別れを切り出したことがある。でも、彼女が泣きじゃくるのを見た瞬間、俺はもう一生この子を捨てられないんだと分かった。9か月前、妊娠したと聞かされたときも、最初は堕ろしてもらおうと思った。でも、あんなに幸せそうな顔を見たら、どうしてもできなかった……雲乃、もう起きてしまったことなんだ。信じてくれ。たとえ俺に外で別の女がいたとしても、一番愛しているのはお前だ。俺の妻は、お前だけだ!」目尻から涙がこぼれ落ちた。それなのに雲乃は笑った。「つまり、あなたはもう丸2年も浮気してたってこと?しかもこの2年間、あなたの周りの人はみんな知ってた。雅美まで知っていて、知らなかったのは私だけ……そういうこと?」「若菜は一人で妊婦健診を受けるのが怖いって言うから、雅美には話したんだ。彼女はお前の親友だろ?その雅美だって受け入れてくれたんだから、お前だって受け入れられるだろ?」雲乃は首を横に振り、全身を震わせながら泣いた。「研司、自分が何を言ってるか分かってるの?私にあなたの浮気を受け入れろって言ってるの?それとも、外で囲ってる女と、その子供まで受け入れろっていうの?」あまりにも取り乱している雲乃を見て、研司は手を伸ばして彼女を抱き寄せ、宥めるように優しく言った。「もういい、泣くな。つらいのは分かってる。でも若菜には何の罪もない。彼女は何も知らないんだ。だから、彼女の前で騒ぐのだけはやめてくれ。出産したばかりで体も弱ってる。俺は彼女を悲しませたくない」「彼女には罪がない?じゃあ私は?私は何も悪くないのに、傷つけられて当然だっていうの?」雲乃は力いっぱい彼を突き放した。「研司、お腹にあなたの子供がいるから、最後に一度だけチャンスをあげる。私を
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第3話

電話を切ると、スマホの画面に中絶手術の予約時刻を知らせる通知が表示された。雲乃はそのまま産婦人科へ向かった。「中絶手術を予約しましたが……」「雲乃、本当にあなたなの!?研司との子供を堕ろすつもり?本当にちゃんと考えたの?研司は一時の過ちで浮気しただけでしょう?でも、あなたのお腹にいるのは一つの命なのよ。たったそれだけのことで、この子を堕ろすつもりなの?」運が悪いことに、雲乃が予約を入れた担当医は雅美だった。雅美は京浜市市立病院の産婦人科医であり、雲乃の一番の親友でもある。研司と苦労を共にしてきた長い年月の中で、雲乃の体がすっかり弱ってしまったことを、雅美はよく知っていた。この子を授かったのも、5年もの妊活を続けた末のことだった。それなのに、本当に堕ろすというのか。雲乃は無表情のまま彼女を見つめた。「須藤先生、手術は3時半に予約しています。もうすぐ時間です」「研司に電話するわ。あの人だって、こんなこと絶対に許さないはずよ」雅美が電話をかけようとすると、雲乃はその手を押さえた。「これは私が自分で決めたこと。彼には関係ない」「彼の子供でもあるのよ!雲乃、そんな自暴自棄にならないで。たとえ研司に他の女がいたとしても、彼にとって一番大切なのは今でもあなたよ。ほら、今日だってあなたが妊婦健診に来るからって、ちゃんと手配してくれてたでしょう?検査機器だって、すべて最新のものを用意してくれてたじゃない」「すべて最新のもの?」雲乃は自嘲するように笑った。「だから私は事故を起こして彼に電話しても出てもらえず、あなたに電話しても出てもらえなかった。でも、あの女の子が事故に遭ったと聞いた途端、あなたたちは全員すぐに駆けつけた。そういうことでしょ?」雲乃はこれ以上、無駄な話をするつもりはなかった。「須藤先生が手術をしてくれないなら、別の先生にお願いします」そう言って立ち上がろうとした彼女を、雅美が呼び止めた。「雲乃、私がやるわ」……術前検査室。雲乃はベッドに横たわり、わずかに膨らみ始めたお腹を撫でながら、沈んだ眼差しでじっとそこを見つめていた。今日までは、この子が生まれてくる日をあれほど楽しみにしていた。けれど今は、一刻も早くこの子を堕ろし、研司と離婚したいとしか思えなかった。落ち着かない気持
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第4話

研司は反射的に答えた。「若菜、お前が愛人なわけないだろ」「彼女が愛人じゃないなら、私が愛人だっていうの?」胸の奥で渦巻いていた怒りが、その瞬間、一気に爆発した。雲乃は手を振り上げ、研司の頬を思いきり平手打ちした。「研司、私たちは10年付き合って、結婚して5年になるのよ。それなのに、こんな仕打ちをするなんて!本当に最低のクズね!」「10年も……付き合ってたの?」若菜は立て続けに数歩後ずさった。「じゃあ……愛人だったのは私なの?私……」そのまま突然、力が抜けたように床へ崩れ落ちた。研司は慌てて駆け寄り、倒れかけた彼女を抱きとめた。「若菜、しっかりしろ!若菜……!」「出産したばかりで体が弱っているところに、強いショックを受けて気を失ったのよ。早く病室に戻して!」雅美も彼らと一緒に慌ただしくその場を離れていった。休憩室には、雲乃だけが取り残された。しばらくして看護師が入ってきて、申し訳なさそうに声をかけた。「水城さん、須藤先生はしばらく手が離せないそうです。手術は日を改めますか?」「いいえ、別の先生にお願いしてください」「申し訳ありません。須藤先生から、水城さんの手術は自分以外の医師にはさせないようにと言われているんです」雲乃は呆れたものの、どうすることもできず、別の病院へ行くことにしてその場を後にした。外へ出ようとしたところで、ちょうど戻ってきた雅美と鉢合わせた。「よかった、雲乃!まだ手術してなかったのね。研司から何度も念を押されたのよ。絶対にあなたに子供を堕ろさせるなって!」雲乃は尋ねた。「あの子はどう?」「かなり取り乱してるけど、研司がそばについてるわ。あの子、ずっと泣きっぱなしで、目も腫れ上がってる。雲乃、家に帰っても二人で喧嘩なんかしないでね」「どういう意味?」「あの子、予定より早く出産したでしょう?産後ケアをしてもらう施設もまだ決まってないの。研司も、若菜を一人にしておくのは心配だって言って、家に連れて帰ったわ。だから、もう揉めたりしないで仲良くして。若菜だって、雲乃の存在を受け入れて、雲乃から研司を奪うつもりはないって言ってるのよ。雲乃も、少しくらい寛容にならないと」目の前にいる女は、もう自分の友人ではなかった。雲乃は何も言わず、その足で法律事務所へ向かった。弁護士に離婚協
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第5話

雲乃は一瞬、呆然としたものの、反射的に手を伸ばして赤ん坊を受け止めようとした。しかし、駆け寄ってきた若菜に激しく突き飛ばされ、そのまま脇へよろめいた。「やめて!雲乃さん、どうしてこんなことをするの!」若菜が両手を伸ばして赤ん坊を受け止めた、まさにその瞬間、部屋のドアが開いた。床に倒れ込んだ雲乃が顔を上げると、研司はすでに足早にこちらへ歩いてきていた。「何があった?」「赤ちゃん……大丈夫?お願い、ママを怖がらせないで!」若菜は赤ん坊を胸に抱きしめ、息もまともにできないほど激しく泣きじゃくった。「雲乃さん、私、ちゃんと言ったじゃない。研司を奪うつもりなんてない、子供と一緒に彼のそばにいられるなら、愛人のままでも構わないって!ただ、将来この子が『愛人の子』だって言われて、周りから見下されるのが嫌だっただけなのに!だからって、私の子供を殺そうとするなんてひどすぎるよ!まだ生まれて3日も経ってないんだよ!こんなに小さい赤ちゃんなのに、宙に放り投げて、床に落として殺そうとするなんて……どうしてそんなことができるの!」「何だって?」研司が振り向いた瞬間、それまで優しかった瞳が一変し、みるみるうちに充血していった。雲乃を見つめるその目には、凍りつくような冷たい怒りが浮かんでいた。「雲乃、俺と若菜の子供を殺そうとしたのか?まだこんなに小さいんだぞ!お前だって妊娠してるのに、どうしてそこまで残酷になれるんだ!」雲乃はゆっくりと床から起き上がると、説明しようと口を開いた。「私がやってないって言ったら信じる?子供を宙に放り投げたのは彼女自身よ。それから私を突き飛ばしたのも彼女」「雲乃さん、それってつまり、私が自分の手で息子を殺そうとしたって言いたいの?」若菜はさらに大声で泣き出した。「もうこんな家には1秒だっていられない!研司、私、本当に頑張ったのよ。あなたの奥さんとうまくやっていこうって、精いっぱい努力した。でも、この人は赤ちゃん一人すら受け入れられないのに、私なんて受け入れられるわけがないじゃない!もう死ぬ!この子を連れて、あなたたちの前から永遠に消えてあげる!」若菜は突然、錯乱したようにベランダへ向かい、赤ん坊を抱いたまま手すりを乗り越えて飛び降りようとした。階下にいた使用人たちはその姿を目にすると、恐怖のあ
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第6話

階段から転げ落ちても、雲乃が罰を免れることはなかった。彼女は無理やり起こされ、そのまま庭の中央にある石畳まで引きずられて跪かされた。容赦なく日差しが照りつける炎天下で、雲乃は頭がぼんやりし、全身が熱に包まれて息苦しいほどのつらさを感じていた。1時間が過ぎても、研司は戻ってこなかった。それどころか、電話一本すらかかってこなかった。照りつける日差しの下、全身は汗びっしょりになり、唇は乾いてひび割れ、顔色も次第に青ざめていった。どれほど時間が経ったのか、ついに雲乃は限界を迎えようとしていた。そのとき、下腹部に鋭くえぐられるような痛みが走り、彼女はもしかすると、お腹の子に異変が起きているのではないかと思った。もともとこの子は堕ろすつもりだった。それでも、いざ失うかもしれないとなると、やはり胸が締めつけられるほどつらかった。雲乃は痛みに耐えながら顔を上げ、ボディーガードに向かって声を絞り出した。「早く研司に電話して……お腹が、すごく痛いの……」見るからに苦しそうな彼女の様子に、ボディーガードはすぐさま研司へ電話をかけた。「社長、奥様がお腹が痛いとおっしゃっています。顔色もひどく悪くて、本当に具合が悪そうですが……」「今はあいつに構ってる暇なんかない!赤ん坊はまだ処置を受けてるんだ。こんなときまで俺の気を引こうとして、若菜に張り合うような真似はやめろと伝えろ!」「ですが社長、奥様は妊娠中ですし……」「俺と若菜の子供が死ぬようなことになったら、あいつの腹の子だって生かしておく必要はない!」電話は乱暴に切られた。研司の冷酷で突き放すような声は、すでに雲乃の耳にもはっきり届いていた。彼女は苦痛に背中を丸め、熱く焼けた石畳に両手をついて必死に耐えた。これほど暑く、肌を焼くほどの日差しが照りつけているというのに、雲乃はひどく寒かった。全身が震えて止まらないほど、寒くてたまらなかった。「痛い……痛いよ……!」彼女は地面にうずくまり、全身から力が抜けていくのを感じた。「お願い……助けて!佐藤さん、鈴木さん……お願い、助けて……!」「大変!奥様、出血してる!」使用人たちが慌てて駆け寄ると、もう研司の命令など気にしている場合ではないと、雲乃を地面から抱き起こした。「早く救急車を呼んで!奥様を病院へ運ば
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第7話

研司は心配そうに雲乃の手を握りしめた。「雲乃、大丈夫か?本当に心配したんだぞ。お前が無事でよかった」雅美もそばに立ち、後悔を滲ませながら言った。「ごめんね。あの妊婦が雲乃だって分かっていたら、すぐに駆けつけたのに。そうすれば、雲乃と研司の赤ちゃんだって死なずに済んだかもしれない……」雲乃は二人の言葉には答えず、研司の手から自分の手を静かに引き抜くと、淡々と尋ねた。「香坂若菜の子供はどうなったの?」「もう危険な状態は脱した」研司は優しい声で続けた。「安心しろ。若菜はもうお前を責めてない。お前の子供が亡くなったことを知って、あの子もすごくつらそうにしてた。それに、お前さえよければ、自分の子供をお前の子供だと思ってくれていいって言ってる。だから、もう二度とあんな衝動的なことはするな、な?手を出す前に、あの子だって俺の血を引いた子供なんだって考えてくれ」雅美もそばから同調した。「そうよ、雲乃。あなたは優しい人なのに、どうしてあんな恐ろしいことをしてしまったの?」ここまで来ても、二人が信じているのは若菜だけだった。雲乃と研司は幼い頃からの付き合いで、これまで何があっても、研司が一番気にかける相手はいつだって彼女だった。たとえ彼女が何か間違ったことをしても、彼は無条件で彼女の味方をしてくれた。一方、雅美と出会ったのは、雲乃が妊活をしていた頃だった。最初は患者と医師という関係だった二人が、何でも話せる親友になるまでには、5年もの月日がかかった。その間、雲乃は何かあるたび、どんなことでも雅美に打ち明けてきた。雅美もかつて、雲乃に絡んできたチンピラを相手に喧嘩までしてくれたことがある。あのとき、雅美はこう言っていた。「雲乃、私、昔から友達ってほとんどいなかったの。でも今は、雲乃が私の一番の親友だって決めてる。この先、一生変わらないから!」けれど今、その一番の親友も、一番愛していた夫も、すべてほかの女のものになってしまった。雲乃は目を閉じた。もう二人と言葉を交わす気力すらなかった。どうせ、すべてはもうすぐ終わるのだから。「二人とも出ていって。疲れたから」研司は名残惜しそうに立ち上がった。「じゃあ、またあとで来る」彼が出ていった直後、雲乃のスマホが鳴った。私立探偵から、調査で見つかった証拠がすべて
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第8話

病院。若菜の子供は無事だった。搬送が比較的早かったこともあり、救命処置を受けたあと、すでに危険な状態を脱していた。病室のベッドに横たわる小さな我が子を見つめながら、若菜はずっと涙を流し続けていた。研司は彼女の涙を拭ってやりながら言った。「ほら、もう泣くな。これ以上泣かれたら、俺までつらくなる」「本当に、つらいって思ってくれるの?」若菜は鼻をすすった。「研司、正直に答えて。あなたにとって、私と赤ちゃんのほうが大切?それとも雲乃さんと、彼女のお腹の子のほうが大切なの?」研司は彼女に顔を向け、眉間に深い皺を寄せた。「そもそも比べるようなものじゃない。雲乃は俺の妻なんだから」その答えは、若菜にとって予想外のものだった。彼女は一瞬呆然としたが、それでも諦めきれずに尋ねた。「でも私、最初は自分が愛人だなんて知らなかったのよ?もし知っていたら、絶対に……」「若菜、ここまで来たんだ。もう腹を割って話そう」研司は彼女の言葉を遮ると、その眼差しを次第に曇らせた。「お前は最初から、俺に妻がいることを知ってたんだろ?」「何を言ってるの?」若菜の表情が一瞬強張り、視線が落ち着きなく泳ぎ始めた。「私が、あなたに奥さんがいるなんて知ってるわけないじゃない。知ってたら、最初からあなたとは付き合ってないわ!」「クラブ・ルーセントのマネージャーから聞いた。お前は俺に近づく前に、俺が何者なのか調べてたそうだな」隠していた思惑を容赦なく暴かれ、若菜は一瞬、どう反応すればいいのか分からなくなった。長いこと呆然としたあと、ようやく震える声で尋ねた。「知ってたのに……どうして私と付き合ったの?」「お前が素直で、聞き分けがよくて、従順だったからだ」研司は手を伸ばし、彼女を腕の中へ抱き寄せた。「だから俺も、お前と遊ぶくらいならいいと思った。お前が望む暮らしを与えてやるのも、お前が俺の子供を産むのも、俺と雲乃の家に住むのも許した。でも、これだけは覚えておけ。俺の妻は雲乃だ。俺が一番愛してるのも雲乃だ。もう二人が揉めるところは見たくない。分かったな?」真剣な表情でそう告げる男を見つめ、若菜はしばらく茫然としていた。確かに、自分はとっくの昔に研司の素性を知っていたし、妻がいることも最初から知っていた。それでも、これほど長く一緒に過
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第9話

ちょうどそのとき、雲乃の様子を見に来た雅美も、病室の前にやって来た。雲乃が子供を失ったと知り、少しでも体力をつけてもらおうと、わざわざ栄養のあるスープまで作って持ってきていた。「雅美、雲乃はどこだ?」研司は雅美の腕をつかんだ。その声にすでに焦りが滲んでいることには、自分でも気づいていなかった。「病室にいないの?」雅美は室内を見回したが、そこはすでに看護師によってきれいに片づけられていた。「この様子だと、もう退院したみたいね」「一人で退院したのか?どうして俺に何も言わないんだ?」研司の顔色がみるみる険しくなった。「流産したばかりで、まだ体だって弱ってるんだぞ。病院はどうして退院なんか許したんだ!」「研司、落ち着いて。すぐに確認してくるから」雅美が事情を聞きに行っている間、研司はスマホを取り出し、雲乃に電話をかけた。しかし何度かけても、彼女は出なかった。何かあったのではないかという不安に駆られ、研司は慌てて病室を飛び出した。「確認してきたわ。雲乃、自分で退院手続きをして、一人で帰ったそうよ」雅美は手にしたスープの入った容器を握りしめ、険しい表情で尋ねた。「連絡はついた?」「ずっと電話に出ない。メッセージを送っても返事がない」「私たちに怒ってるのかしら……」雅美はため息をついた。「私が悪かった。もっと早く駆けつけていれば、お腹の赤ちゃんだって、もしかしたら助けられたかもしれないのに」研司は耐えきれなくなったように頭を抱え、声を詰まらせた。「俺が悪いんだ……あんなふうに跪かせたりしなければ、子供は死なずに済んだ」「研司、今はそんなことを悔やんでいる場合じゃないわ。とにかく早く雲乃を捜して」研司がアシスタントに電話をかけようとスマホを取り出した、そのときだった。突然、着信音が鳴った。「もしもし、陸奥研司さんでいらっしゃいますか?水城雲乃さんの代理人を務めております、大川(おおかわ)と申します」弁護士からだと分かった瞬間、研司はさらに動揺した。「代理人?どういうことだ?まさか雲乃に何かあったのか?」「陸奥さん、まずは落ち着いてください。今、お時間はございますか?一度、直接お会いしてお話ししたいことがあります」「何の話だ?」「水城さんとの離婚についてです」……カフェ。大
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第10話

研司は離婚協議書に署名することなく、慌ただしく会社へ向かった。会社に着くなり、企画部の社員たちが一斉に駆け寄ってきた。「社長、このあとの企画について、何社かの取引先からあまりいい反応をいただけていません。皆さん、奥様に直接企画を担当してほしいとご指名なんですが、奥様と連絡がつかなくて!」「そうなんです。明日の木下社長の展示会は特に重要ですし、会場の設営自体はほとんど終わっていますが、木下社長からは明日、奥様に必ず現場へ来てほしいと言われています。もし奥様がいらっしゃらなかったら、今後の取引にも影響が出るかもしれません!」「人事部長はどこだ?俺の部屋に来させろ!」研司は怒りに任せてオフィスへ入っていき、人事部長も恐る恐るそのあとをついていった。パソコンの画面に表示された雲乃の退職届を見た瞬間、研司は怒りで顔色を変えた。「林田(はやしだ)、誰の許可を得て雲乃の退職を認めた!」林田部長は恐怖で足元がふらつきそうになりながら、俯いたまま震える声で答えた。「奥様から、妊娠したのでしばらく仕事を離れてゆっくり休みたいと言われたんです。それに、社長もすでに了承しているとおっしゃっていたので、私も退職を承認してしまって……!社長、本当に申し訳ありません。お二人ですでに話し合われているものだと思っていたんです!」「馬鹿か!どうして俺に確認しなかった!雲乃は企画部の責任者だぞ。彼女の企画力を評価して取引を持ちかけてきた企業がどれだけあると思ってる。それなのに、簡単に辞めさせたのか!」「申し訳ありません、社長。私……私は……」「出ていけ!」研司にも、今さらこの件を責めたところで何の意味もないことは分かっていた。雲乃は去った。もう戻ってこない。今回ばかりは、本当に自分に心底失望したのだ。そうでなければ離婚を切り出すはずもないし、二人で一から築き上げたこの会社を捨てるはずもなかった。「では、明日の木下社長の展示会は……」研司は椅子にもたれ、疲れ切った様子で眉間を押さえた。「俺が直接行く」人事部長が退出すると、オフィスには研司一人だけが残された。ふと視線を落とすと、デスクの上に置かれた一枚の写真が目に入った。写真の中の雲乃はまだ23歳で、若く、美しく、眩しいほど明るかった。カメラに向かってピースサインを
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