LOGIN妊娠3か月の水城雲乃(みずき くもの)は、妊婦健診を受けるため車で病院へ向かう途中、誤って一人の妊婦をはねてしまった。 相手はまだ若く、20代前半くらいに見える女性で、そのお腹はすでに大きくせり出していた。 病院へ運び込まれたとき、彼女は息もまともにできないほど激しく泣いていた。「先生、お願いします。どうか赤ちゃんを助けてください。もう妊娠38週なんです。もうすぐ生まれるはずなんです!赤ちゃんを死なせるわけにはいかないんです!」 医師は彼女の手を握り、安心させるように言った。「大丈夫です。患者さんも赤ちゃんも必ず無事ですから!早くご家族に連絡してください。破水しています。いつ出産が始まってもおかしくありません!」 雲乃は傍らに立ち、不安に駆られながらその光景を見つめていた。 事故を起こした直後、彼女は夫の陸奥研司(むつ けんじ)に電話をかけたが、何度かけても繋がらなかった。 親友にも連絡してみたものの、やはり電話に出ない。 こんな状況にたった一人で直面するのは、初めてのことだった。 これまでは何が起きても、研司が真っ先に駆けつけてくれていたのに。 どれほど時間が経ったのか、やがて手術室のランプが消え、若い女性が中から運び出されてきた。 雲乃が駆け寄って謝ろうとしたそのとき、少し離れたところから数人が勢いよく駆けてきて、彼女を乱暴に押しのけた。 「大丈夫か?どこか痛むところはないか?」 若い女性は泣きながら首を横に振った。「私は大丈夫……あなた、私、さっき本当に怖かった。赤ちゃんが死んじゃうんじゃないかって……でも無事でよかった。見た?男の子よ。あなたにそっくりなの」 「ああ、見たよ」 男はそう答えると、女性の髪にそっと口づけを落とし、いたわるような眼差しを向けた。「よく頑張ったな、若菜」 この声……聞き覚えがある。 雲乃はゆっくりと顔を上げ、そこに研司の姿を見つけた瞬間、驚愕に目を見開いた。 きっと見間違いだ。 そうでなければ、どうして研司とほかの女との間に子供ができているの?
View More雨音はその光景を見つめたあと、何も言わずに車に戻った。「社長、水城部長はもう大丈夫そうです」凌雅の視線は研司へ向けられていた。雲乃を強く抱きしめている姿を見ると、なぜか無性に腹が立った。「すぐに彼女を車に乗せろ。家まで送る」雨音は少し困ったような顔をした。「でも……それはまずくないですか?ご主人がいらっしゃいますし」「二人はさっき離婚協議書に署名したばかりだ。もうすぐ夫婦でもなくなる」自分の上司にそこまで言われ、雨音もようやく察した。なるほど。仕事が終わったあと、駐車場で研司と雲乃を見かけて以来、凌雅がずっと雲乃のあとを追うよう指示してきた理由が、これで分かった。どうやら凌雅は、雲乃に対して上司と部下という関係を超えた感情を抱いているらしい。雨音は仕方なく再び車を降り、雲乃のもとへ向かった。「水城部長、よろしければお宅までお送りしますが?」「お願いします。助かります」雲乃は研司を押しのけて立ち上がると、雨音についてその場を離れようとした。それでも諦めきれない研司が、雲乃の手をつかんだ。「雲乃……俺が送る」「必要ない」雲乃はその手を振りほどき、無表情のまま告げた。「研司、今日、誰が私を殺そうとしたか分かってる?香坂若菜よ。それから、今日私があなたと一緒にいた間に、あなたたちの子供が交通事故に遭ったことは知ってる?」「知ってる。あいつのライブ配信を見た。全部知ってる!」「だったら分かるでしょう。久世社長が助けてくれなかったら、私は今日ここで死んでた。研司、もう疲れたの。本当にこれ以上、あなたと関わり続けたくない。離婚の手続きがすべて終わったら、書類は弁護士からあなたに届けてもらう。私はもう行く。上司が送ってくれるから。それと、上司は私があなたと関わるのを快く思ってないみたいだから、これからはもう会わないようにしましょう」雲乃が身を屈めて車に乗り込むと、凌雅は彼女をちらりと見た。服の一部が引き裂かれていることに気づくと、何も言わずに自分のジャケットを脱ぎ、彼女の肩へ掛けた。雲乃は思わぬ気遣いに戸惑った。「いえ、大丈夫です」「着てろ」たった短い一言だったが、その声には拒否を許さない強さがあった。雲乃は仕方なく、おとなしく彼のジャケットを羽織った。雨音はバックミラー越し
少し離れたところでは、一台の車がタクシーのあとを一定の距離を保ちながら走っていた。タクシーが停まったのを見て、雨音も車を停めた。「社長、あの運転手、水城部長に危害を加えるつもりのようです」「警察には通報したか?」「もう通報しました」雨音は何か言いたげに少し躊躇してから、口を開いた。「でも、社長もあのライブ配信をご覧になりましたか?もし水城部長が本当に冷酷な人間だったとしたら……」「俺に何の関係がある?」凌雅は眉を上げ、口元に冷ややかな笑みを浮かべた。「俺はただ、彼女が優秀な人材だから助けるだけだ。優秀な人材なら、俺は助ける。それ以外のことには興味がない」「承知しました」雨音は頷き、それ以上何も言わなかった。再び前方へ目を向けると、すでに運転手は車のドアを開け、雲乃を車内から引きずり出していた。すぐそばには川が流れている。男の様子を見る限り、雲乃を川へ投げ込むつもりらしい。運転手はその場で若菜とライブ通話をつないだ。「香坂さん、言われたとおり、女はもう俺の手の中です。このまますぐ殺しますか?それとも、その前に少し苦しませますか?」通話がつながった瞬間、ライブ配信のコメント欄が一気に騒然となった。【えっ、本当にこんなことするの?】【これ、芝居じゃないよね?警察に捕まるの怖くないの?】【死人が出るぞ!誰か警察に通報したほうがいいんじゃない!?】……画面に映る雲乃を見つめる若菜の目には、激しい憎悪が宿っていた。彼女は画面を睨みつけ、一語一語、吐き捨てるように告げた。「殺して!今すぐその女を殺して!私の息子の道連れにして!」その言葉を口にした直後、ライブ配信は運営側によって強制終了された。運転手もそれ以上迷うことなく、雲乃を引きずって川へ投げ込もうとした。しかし途中で、男は雲乃の整った顔に目を留めた。どうせこのあと死ぬのなら、その前に自分が楽しんでも構わないだろう。「金持ちの女を俺が好きにできるなんて、ついてるな!」男はいやらしい笑みを浮かべながら腰を屈め、雲乃の服に手をかけた。だが次の瞬間、横から飛んできた蹴りをまともに受け、地面へ吹き飛ばされた。「痛ってぇ!誰だよ、俺の邪魔しやがって!」男は苦痛に顔を歪めながら地面から起き上がった。ところが、目の前にいるのが
雲乃はその場を離れ、タクシーに乗って自分のマンションへ向かっていた。車が走り出してまだ10分も経たないうちに、スマホが鳴った。雅美からだった。本当は出るつもりなどなかったが、雅美は何度も立て続けにかけてきたため、仕方なく電話に出た。「何?」「雲乃、早く私が送ったライブ配信を見て!」電話の向こうから聞こえてきた雅美の声は、いつもより何段も高かった。「どういうこと?」「とにかく配信を開けば全部分かるから!」雲乃はすぐに雅美から送られてきたリンクを開いた。しかし、そこに映っていたのは、祭壇の前に跪きながらライブ配信をしている若菜の姿だった。そして祭壇の上に飾られていた遺影には、まだ生後間もない若菜の赤ん坊が写っていた。「どうして……香坂若菜の子供、亡くなったの?」「知らなかったの?今日一日、若菜は研司に何度も何度も電話したのに、研司は一度も出なかったの。途中からは携帯の電源まで切ってた!若菜は今朝、研司に会いに彼の会社まで行ったんだけど、その帰りに交通事故に遭ったの。本人は無事だったけど、赤ちゃんは病院に運ばれてきたときには、もう……助からなかった。それで若菜は、せめて最後に一目だけでも子供に会ってほしくて研司に電話したの。でも研司は行かなかった。アシスタントに電話しても、研司はもう若菜に会いたくないって言ってるって、そのまま電話を切られたらしいの!それで子供が亡くなって、若菜も取り乱してしまって……今、ネットであなたのことを晒してる。自分の子供が死んだのも、自分がこんなふうになったのも、全部あなたと研司のせいだって!その話を知った人たちが、今ネットであなたを一斉に攻撃してるの。コメントを見れば分かるわ」雲乃がもう一度ライブ配信を開くと、案の定、画面には凄まじい勢いでコメントが流れ続けており、そのほとんどが彼女と研司を罵倒するものだった。【マジかよ、こんな男本当にいるの?実の子供まで平気で捨てられるとかあり得ないだろ!】【この女じゃない?今日見たよ。飲食店街であの男と一緒にラーメン食べてた!】【息子が死んだっていうのに、のんきにラーメンなんか食べてたの?二人とも人間じゃない!】【香坂さん、あまりにも可哀想すぎる。何も知らずに愛人にされて、命懸けで産んだ赤ちゃんも1か月も経たないうちに亡
涙で視界が滲み、雲乃は研司を急かした。「早く行こう」しかし研司は歩き出さず、ポケットから数枚の紙幣を取り出して若い男に差し出した。「これを持っていけ。彼女に何か美味いものでも食べさせてやれ」「でも、知らない方からお金なんていただけません」女の子は慌てて手を振って断ったが、男の子はその金を受け取った。「すみません、名刺を一枚いただけませんか?俺、いつかお金を稼げるようになったら、必ずお返しします!実は今日、彼女の誕生日なんです。俺たち、こっちに来たばかりで、まだ誕生日ケーキを買ってやるお金もないし、ちゃんとした料理を食べさせてやる余裕もなくて……もう口先だけで『いつか幸せにする』なんて言いたくないんです。今すぐ彼女に美味しいものを食べさせて、ケーキも買ってやりたいんです!このお金も、必ず返します。絶対に約束は守ります!」研司は男のまっすぐな眼差しを見つめると、名刺を一枚差し出した。「持っていけ。彼女を大切にな」「陸奥さん、ありがとうございます!」二人は嬉しそうにその場を離れていった。去り際、女の子は一度だけ振り返り、雲乃を見た。「あの綺麗な方、陸奥さんの奥さんみたい。すごくお似合いだね。きっと私たちみたいに、二人でずっと苦労してきたんだろうな。今はあんなに成功してるんだもん。私たちだって、いつかきっとあんなふうになれるよ!」雲乃は二人の姿が完全に見えなくなるまで見送ってから、ようやく再び歩き出した。道中、二人は一言も交わさなかった。それなのに、この道を歩いているだけで、これまでのすべてをもう一度辿っているような気がした。やがて、あの麺屋の前で足を止めた。店主はもう二人のことを覚えていなかった。「いらっしゃいませ。何にします?」研司が先に声をかけた。「店で一番高いラーメンを二つください」「それなら、こちらの鶏ガラ海鮮旨辛味噌ラーメンですね。海鮮ラーメン、二つ!」立ち去ろうとした店主を、研司が呼び止めた。「エビ、多めに入れてください。妻が好きなんです」その一言に、雲乃の胸が鋭く痛んだ。覚えている。昔、研司は自分にこう言ったことがあった。「雲乃、いつか金持ちになったら、ここの海鮮ラーメンを食べさせてやるからな。エビを山ほど追加して、腹いっぱい食わせてやる!」けれど実際に金を手にしたあと、