All Chapters of 元夫が復縁を迫る頃、私は御曹司と再婚し妊娠していた : Chapter 81 - Chapter 90

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第81話

時彦は全身から冷気を放ち、眉間に仄暗い陰りを宿していた。エレベーターに乗り込むと、その大きな手が沙綾の細い腰に回り、瞬時に沙綾の動きを封じた。沙綾は伏し目がちにその手を見つめた。冷ややかな視線を向けながら、彼が一体何の真似をしているのか理解できなかった。ロールスロイスの後部座席に乗り込んで、ようやく彼の手が離れた。車はそのまま相馬家へと向かった。和之は時彦を見ると、礼儀としてお茶を二杯淹れ、すぐに書斎へと戻っていった。佐有里はどこか嬉しそうに声をかけた。「ときくん、今夜は泊まっていって。和之が部屋を一つ片付けてくれたから、沙綾と一緒に休むといいわ」時彦が頷くのを見ても、沙綾は顔を上げることすらなく、黙ったままだった。ただ、不思議に思っていた。普段のこういう時なら、必ず朱里から電話がかかってきて、罠に嵌められただの何だのと騒ぎ立てるはずなのに、どうして今夜はこんなに静かなのだろうか。沙綾はしばらくの間、そのまま座っていた。佐有里がパジャマを持ってきてくれた。「崇史さんが数日後に帰ってくるわ。二人が仲直りしたと知ったら、きっと喜ぶはずよ。もし、あの方に嬉しいサプライズを報告できたら、もっと素晴らしいわね」その言葉が終わるや否や、背後から冷ややかな視線が突き刺さるのを感じた。沙綾は微かに口元を引きつらせ、手に持ったパジャマをきつく握りしめた。佐有里の言いたいことは明白だった。時彦との間に子供を作ってほしいのだ。残念ながら……沙綾は鼻の奥がツンとするのを感じ、胸の奥底から込み上げる痛みを堪えながら、低い声で言った。「母さん、早く休んで。明日は美しい花嫁さんにならなくちゃ。ベールも用意してあるからね」佐有里は珍しく、はにかんだ表情を見せた。「そんなもの、何に使うのよ。もう若い娘じゃないんだから」佐有里を部屋まで見送ろうとしたが、逆に「沙綾を部屋まで送らなきゃ」と言って譲らなかった。部屋の設えに不備がないか、時彦に失礼がないかを気にかけているのだ。佐有里が部屋を出ていくと、室内は針の落ちる音さえ聞こえそうなほどの静寂に包まれた。沙綾は服を着たまま、すぐにベッドに潜り込んだ。一方の時彦は、洋一が届けてくれた着替えを手に、バスルームへと入っていった。どれほどの時間が経っただろうか。突然部屋の明かりが消え、ベッド
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第82話

沙綾はソファに座って悠然と新聞を読んでいる時彦に視線を向け、それから先ほど自分を遮った男を見た。それは、彼が最も信頼を置くボディガード、近藤毅(こんどう たけし)だった。「どういうつもり?」まさか、本当に毅に二十四時間、自分を監視させるつもりなのだろうか?時彦は新聞を下ろし、佐有里と和之に向かって言った。「お義母さん、相馬教授、俺は時間になったら向かいます」「ええ」佐有里は頷いた。気品に満ちた男は沙綾のほうへ歩み寄り、冷淡な声で言った。「お前の安全を守るためだ」彼は立ち止まることなく相馬家を出て、ロールスロイスに乗り込んで去っていった。沙綾は怒りで息を荒らし、毅を睨みつけた。身長は180センチを優に超え、体重も100キロ近くありそうな、見るからに強面の大男だ。「奥様、行きましょう」耳元には、それを嬉しがる母親の声が届いた。沙綾は仕方なく、毅と一緒に病院へと急いだ。病室に入ると、毅はそのままドアの外に立って警護を始めた。沙綾は心配そうに奈々の手を取り、頭の先から足の先までまじまじと見つめた。額に擦り傷があるだけで、他に怪我はないと分かり、ようやく胸を撫で下ろした。「奈々?昨日、病院の近くの角で起きた事故って、あなたのことだったの?」奈々は手を引っ込め、絆創膏が貼られた額を撫でた。「絶対うちのお父さんがあなたを呼んだんでしょ?お父さん、すぐ大げさに騒ぐんだから。私は大丈夫よ。もう帰って」「でも、おじさんは、あなたが昨日から何も口にしてないって言ってたわよ」沙綾はすぐに、昨日の奈々の元気のない様子を思い出した。お見合い相手と何か関係があるのだろうか?奈々は淡々とした声で言った。「食欲がないだけ。たいしたことじゃないわ。今日、おばさんと和之おじさんが婚姻届を出す日なんでしょ?忙しいんだから、私のために時間を無駄にしないで」沙綾は奈々の目の前まで顔を近づけた。「じゃあ、用事が済んだら、あなたの大好きなケーキを買ってくるから、一緒に食べましょう?もし何か悩みがあるなら……」私に話して……残りの言葉を口にする前に、奈々の手が沙綾の頬に触れた。奈々はふいに微笑んだ。「沙綾、私ね、婚約するの」沙綾はゆっくりと目を見開いた。その瞳の奥には動揺と驚き、そして心の深いところにはほ
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第83話

「高橋さんは、十九日後にあなたと婚姻届を出して体外受精をすると約束されたのではありませんか?たった数週間の違いです」朱里は一言も発さず、行ったり来たりと歩き回っていた。――まさか、嘘だったなんて!沙綾は視線を引っ込めると、洗面所へ入り、窓から外へ抜け出して足早に病院を後にした。突然、一台の送迎車が滑り込んできて、行く手を遮った。毅が運転席から降りて車の前を回り込み、沙綾のために後部座席のドアを開けた。「奥様、十一時です。お時間です」沙綾は少し深く息を吸い、激しく波打つ感情を押し殺して車に乗り込んだ。車は放たれた矢のように走り出した。「どうして役所に向かわないの?」「社長から、会社へ迎えに来るようにと指示がありました」沙綾は視線を窓の外へ逸らした。心の底で渦巻く焦燥感と怒りが頂点に達していた。車は高橋グループの本社に到着した。一分、また一分と時間が過ぎていくが、時彦は一向に姿を現さない。沙綾の視線が車のキーに落ちた。「上に行って、時彦を急かしてきてくれない?このままじゃ、婚姻届を出す時間に遅れてしまうわ」「奥様、私は社長から、絶対にあなたのおそばを離れないようにと命じられております」先輩から『今どこにいるんだ?』とLINEが届いた。婚姻届を提出する時間が迫っている。沙綾は仕方なく車を降りて上の階へ向かい、毅はつかず離れずの距離でその後を追った。社長室に到着し、ドアをノックしようとしたその時、中から律の声が聞こえてきた。「産婦人科部長の奴、俺が少し脅しただけですべて白状しやがったよ。朱里の子宮には何の問題もない。あいつは嘘をついてるんだ」沙綾の胸の奥が微かに震え、ノックしようとした手が宙で止まった。時彦の焦る様子のない、落ち着き払った声が中から響いた。「ああ」「『ああ』ってなんだよ!まさかお前、本当にあいつに子供を作らせるつもりなのか?」律は驚きのあまり声を張り上げた。朱里の怪我が嘘だと知ったあの瞬間、沙綾の心の底にはある一つの考えがよぎっていた。――もし時彦が、自分が騙されていたと知ったら、朱里との関係をきっぱりと断ち切り、体外受精なんてやめるのではないか、と。だが、朱里がどれほど卑怯な人間であろうと、時彦はどこまでも底なしに彼女を包み込み、尻拭いをするつもりだ
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第84話

由宇は窓辺に立ち、スマートフォンを耳に当てていた。誰と通話しているのかは分からないが、その口調はひどく険しかった。「本当にそうするつもりか?」ドアの開く音を聞きつけてこちらを振り返ると、彼は電話の相手に向かって冷ややかに言い放った。「後悔しないことを祈るよ」そして電話を切り、沙綾のほうへ歩いてきた。自分に向けられた由宇の視線が重苦しいことにハッとし、沙綾はドアをノックし忘れていたことに気づいた。「ごめん、由宇さん。立ち聞きするつもりはなかったの」時彦の能力なら、その気になればすぐに自分の居場所を突き止めてしまうだろう。沙綾は焦りを感じながら、由宇の前へ進み出た。「ただ、少しでも早く離婚届受理証明書を受け取りたかっただけで……」由宇は彼女を少しの間見つめて沈黙した後、その顔から視線を外し、デスクの後ろへ歩いていった。引き出しを開け、中にある金庫を開く。彼が細い指を上げて暗証番号を入力しようとするのを見て、沙綾は俯いた。緊張のあまり両手をきつく握り合わせ、少し早くなった自分の呼吸音に耳を澄ませていた。数秒後、由宇がこちらへ戻ってきた。顔を上げると、浮かびかけた喜びがその表情に凍りついた。見開かれた瞳と、微かに震えるまつ毛。沙綾は訳が分からないまま、由宇の手のひらに置かれた赤いUSBメモリをつまみ上げた。「こ……これは何?」彼女が欲しいのは離婚届受理証明書だ。これは明らかに違う。「沙綾、離婚届受理証明書の手続きで少しトラブルがあってね、すぐには出せなくなったんだ」由宇は彼女を怯えさせまいとするかのように、ひどく声を潜めて言った。「これは、僕が専門家に頼んでダークウェブをハッキングして見つけ出した証拠だ。朱里がダークウェブで人を雇い、君を暴行させようとした際のチャット履歴と送金記録が入っている」沙綾の宙に浮いていた心は、一気に氷の底へと沈み込んだ。腕が力なく垂れ下がり、拳をきつく握りしめる。爪が手のひらに深く食い込み、白っぽい跡がいくつも残った。手のひらに握られた証拠は、まるで真っ赤に焼けた鉄のように、彼女の胸の奥を激しく焼いた。唇から血の気が完全に引き、信じられないというように震える。「何が問題だったの?私が何か書類を出せば、どうにかなるの?」由宇の顔をじっと見つめ、その目から何と
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第85話

由宇は「ああ」と短く答えた。「時間だ」時彦は足を踏み出し、そのまま外へ向かった。沙綾は、役所で待っている母のことを思い出し、唇を噛みしめながら、崩れそうになる感情を必死に押し殺した。由宇に軽く頷くと、何事もなかったかのように彼の後について外へ出る。時彦に近づいた途端、クチナシの香りが鼻をつき、胃の中が激しく波打った。吐き気に思わず身をかがめると、無理に保っていた平静が、音を立てて崩れ去った。一番沙綾を傷つけたのは、時彦の不倫ではない。必死に逃げようとしても、決して逃げられないという現実だったのだ。頭上から時彦の声が降ってきた。「立て」沙綾の肘が、彼の大きな手でぐいと引き上げられた。針で刺されたように身を強張らせ、思い切りその手を振り払った。だが、次の瞬間にはまた強く握り込まれてしまう。彼に抵抗する力など残っていなかった。強引に引き起こされると、冷淡な視線と真正面からぶつかった。逃げられないだけではない。見慣れた顔なのに、心の距離だけは遠い夫と四六時中向き合わされ、従順で聞き分けのいい妻を演じ続けなければならない。終わりの見えないこの結婚生活の中で、ただ腐っていくしかないなんて……なんて哀れなのだろう。沙綾は思い切り時彦を突き飛ばし、半ばヒステリックに叫んだ。「離して!」だが、彼をわずかでも動かすことはできなかった。細い腰を片手で完全に押さえ込まれ、時彦が冷ややかな声で言った。「朱里はお義父さんに罰を受け、謹慎処分になった。外出は禁じられている。いい加減にしろ。お義母さんが待っているぞ」時彦は、沙綾が暴行事件のことで取り乱しているのだと思い込んでいた。その言葉を聞いた瞬間、張り詰めていた神経がプツリと切れ、沙綾は力なくその場に崩れ落ちそうになった。時彦に強く抱き止められ、そのままビルから連れ出される。ロールスロイスの後部座席は、死んだような静寂に包まれていた。沙綾は手のひらのUSBメモリをきつく握りしめ、その生気を失った瞳に、微かな憎悪の光を宿していた。役所に到着した。沙綾の姿を認めた紀行が、声をかけてきた。「沙綾、どうしてそんなに顔色が悪いんだ?」沙綾は首を振り、大丈夫だと伝えた。佐有里はベールを被り、まるで女優のように美しかった。理知的な和之と並んで立つ姿は、と
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第86話

「沙綾が乱暴されている写真をばら撒かれたくなかったら、さっさと時彦さんと離婚するように説得することね!でなければ、あなたの惨めな末路が、そのままあの娘の未来になるわよ」電話の向こうから、詩織の悪意に満ちた呪詛が響いてきた。沙綾は怒りで全身を震わせた。沙綾は電話を切り、その番号を着信拒否リストに入れると、病室へ向かった。佐有里はすでに目を覚ましており、悲哀に満ちた眼差しで彼女を見つめていた。「沙綾……」佐有里は目を潤ませ、胸を詰まらせた。佐有里が涙を流すのを見るのは、これが二度目だった。かつて正人と離婚し、親権を争う裁判になり、さらには沙綾と離れ離れになった時でさえ、佐有里は泣かなかった。ただ力強い声で、必ず迎えに行くからと言い聞かせてくれた。初めて涙を見せたのは、沙綾がずっと正人に騙され、母親に捨てられたのだと思い込んでいたと知った時だった。沙綾は慌てて佐有里に寄り添い、なだめるように言った。「お母さん、私、酷いことなんてされていないわ」「本当?」佐有里はまだ疑わしそうな顔をしている。「本当よ。それだけじゃないわ。朱里がならず者を雇って私を襲わせようとした証拠も手に入れたの。明日には、それを警察に提出するつもりよ」沙綾は病室に他の人がいないことを確認すると、佐有里のそばで声を潜めて言った。「よかったわ、沙綾」佐有里は彼女の手をぎゅっと握りしめた。その瞳の奥には、詩織に仕返しできることへの安堵と喜びが浮かんでいた。沙綾は思わず佐有里を強く抱きしめた。ひとまず大事に至らずに済み、家族は安堵の中で退院を迎えた。紀行は相馬研究所の仕事が忙しく、一緒に相馬家へは帰らない。彼は少し離れたところに立っている時彦を見やり、眉をひそめて沙綾に言った。「あいつ、どういうつもりだ?」役所に時彦が姿を現したことに、紀行は驚きを隠せなかった。ここ数年、時彦は沙綾のことなどすっかり無関心だったのに、急にこうして付きまとうようになったことが、紀行に一抹の不安を抱かせていた。沙綾は首を振った。「先輩、明日研究所に出勤した時に、また詳しく話すわ」「わかった。気をつけて帰れよ」紀行が念を押した。一行は相馬家に戻った。玄関を入るとすぐ、正人がソファにどっかりと座っているのが見えた。足を無造作に広げ、まるで自分がこの家
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第87話

ゾッとするような寒気が込み上げると、沙綾は佐有里に強く引き寄せられた。佐有里は怒りに震える声で、正人を叱りつけた。「沙綾もあなたの娘なのよ!少しも不憫に思わないどころか、よくもまあ平気な顔をして朱里を庇い、この子を酷い目に遭わせられるわね!何を寝ぼけたことを言ってるの!」佐有里は書類を拾い上げ、正人に向かって力いっぱい投げつけた。遺言書がパラパラと床に滑り落ちる。「どうやら、痛い目を見せてやらないと分からないようだな」正人は顔色一つ変えず、微塵も反省の色を見せないまま言い放つと、短く号令をかけた。その声に合わせて、黒服のボディガードたちが外から一斉になだれ込んできた。「今日は力ずくでも、その証拠を奪い取ってやるからな」「ふざけるな!このっ……!」和之が即座にスマートフォンを取り出し、警察に通報しようとした。だが、次の瞬間、ボディガードにスマートフォンを奪い取られ、本人も床に突き飛ばされてしまった。沙綾は慌てて和之を助け起こした。視線を上げると、時彦の冷ややかな眼差しとぶつかり、胸の奥からどす黒い怨嗟が湧き上がる。佐有里が怒りのあまりソファに倒れ込み、胸を押さえて苦しそうにしているのを見て、沙綾は氷のように冷たい視線を正人へ向けた。「証拠なら、渡してあげるわ」「それでいいんだ。お父さんだって、お前が苦しむ姿は見たくないからな。朱里が少し考えなしなだけだ、姉として大目に見てやりなさい」「姉?」沙綾は冷笑を浮かべた。「私とあの女は一ヶ月しか違わない。お母さんがまだ妊娠初期の頃に、あなたはすでに詩織とできあがっていたんでしょう!姉妹だなんて、反吐が出そうだわ」正人は怒りで顔を歪ませ、手を差し出した。「USBメモリをこっちへ寄こせ。明日にはすぐ公証役場へ行ってやる」「沙綾、渡しちゃ駄目よ!」佐有里が大声で叫び、近所の人に助けを求めようとしたが、即座にボディガードに口を塞がれた。沙綾は前へ進み出てボディガードを突き飛ばし、佐有里をその胸に庇うように抱き寄せて、冷たく言い放った。「あなたの財産なんてちっとも欲しくない。でも、お母さんの医薬特許は絶対に返してもらうわ!」佐有里はハッとしたように息をのんだ。沙綾が、己への暴行未遂事件を不問にすることを代償にして、二十四年前に理不尽な仕打ちを受け
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第88話

時彦は冷淡な視線を向け、USBメモリから革靴をどけた。正人はUSBメモリを拾い上げると、時彦の腕を大きな手で軽く叩き、得意げに笑った。「いい婿だ。朱里は一日中家に引きこもって、君に会いたいと騒いでいる。一緒に遠藤家へ来るか?」時彦は淡々と頷き、正人と共に去っていった。沙綾は男の冷酷な背中を見つめ、体の横に垂らした手を強く握りしめた。佐有里の瞳の奥にある失望の色を見て、沙綾は問い詰める衝動を抑えた。まだこの結婚生活を続けてほしいと願っているのか、と。だが、佐有里が今日、立て続けに二度も打撃を受けたことを思うと、これ以上負担をかけたくなくて、結局何も聞かなかった。「お母さん、医薬特許を取り戻せたのは良いことよ。まさに災い転じて福となす、だわ」自分に向けられた佐有里の悲しげな視線に気づき、沙綾は慰めるように口を開いた。沙綾は打ちひしがれた様子の和之にも目配せをした。和之はすぐに沈んだ感情を振り払い、前へ進み出ると佐有里を抱き寄せ、優しくなだめた。「佐有里、今日は盛大にお祝いしないとな」二人の言葉を聞いて、佐有里も微かに穏やかな表情を見せた。「腕を振るって、沙綾に栄養をつけてあげて。この子、ずいぶん痩せてしまったみたいだから」「おじさんの手料理は絶品だから、たくさん食べなくちゃ。ついでにお弁当に詰めて病院へ持っていって、奈々にもおすそ分けするわ」沙綾は瞳の奥の陰りを払い、笑顔で応えた。これでようやく、その場の空気が和らいだ。二人が談笑しながらキッチンへ入っていくのを見届けると、沙綾は紀行に電話をかけ、先ほどの出来事を話した。「先輩、セキュリティシステムの専門家を知りませんか?」正人がボディガードを引き連れて我が物顔で乗り込んできたことで、沙綾は警戒心を強めていた。この古い住宅地は警備員が少ないだけでなく、防犯カメラも少なく、安全面に一定の不安があった。それでも、昔なじみの隣人が多く、帝都大学や病院にも近いため、仕事や生活には便利だった。もし和之と母をセキュリティの厳しい高級マンションへ引っ越させれば、周りは見知らぬ人ばかりで人付き合いも希薄になり、二人が窮屈な思いをするのではないかと考え、セキュリティシステムの導入を思いついたのだ。これさえあれば、防犯カメラ越しに二人と会話をしたり、安全を確
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第89話

沙綾は微かに動きを止め、顔を上げることもなく言った。「由宇さんを責めないで。きっと全力を尽くしてくれたはずよ」彼女の瞳の奥には、揺るぎない決意が宿っていた。「絶対に離婚してみせるわ。たとえ短期間でできなくても、十八日後には私も出国するんだし。嫌な奴に会わずに済めば、気分も楽になるわ」その言葉は奈々の胸にグサッと突き刺さり、どうしようもない切なさが込み上げてきた。沙綾の腕に添えられた彼女の手が、微かに力を込める。――ごめんね、沙綾。今回だけは、私に勝手をさせて。私と陣が婚約して、結婚の日取りさえ決まれば、離婚届受理証明書は絶対に私が手に入れてあげる!五年にわたる片思いが、ようやく実を結ぼうとしているのだ。どんなアクシデントも起きてほしくはなかった。沙綾は奈々の手に置いていた視線を上げ、その顔を見つめた。「ぼんやりしないで。冷めたら美味しくなくなっちゃうわよ」奈々が頷いて、ちゃんと食事を始めるのを見て、沙綾はようやく少し安心した。「それにしても、あなたの婚約者って誰なの?昨日言っていたお見合い相手?でも、会えなかったんじゃないの?こんなにすぐ婚約を決めるなんて、軽率すぎない?婚約する前に、私に一度会わせてもらえない?一度どんな人か確かめさせてほしいな」奈々は衝動的な性格ではないと分かってはいても、やはり心配だった。……二時間後、夜の帳が静かに街を包み込んでいた。病院を出た沙綾は、奈々の前で無理に作っていた明るい表情を消し、朧月レジデンスへ帰ろうとした。「奥様」突然、古い木の下から毅が姿を現した。「社長から、フォレストテラス青葉台へお送りするよう申しつかっております」「ずっと私をつけていたの?」毅は沙綾の驚きと怒りに満ちた視線を受け止め、黙って頷いた。この瞬間、自分がまるで玩具のように時彦に支配されているのだと、はっきりと悟った。全身が震え、目を閉じて、自分はまだ彼の妻なのだという事実を無理やり受け入れようとした。胸の中で渦巻く屈辱と怒りを必死に抑え込もうとしたが、それでも感情が限界に達してしまいそうになるのを感じた。「心療内科へ連れて行って」沙綾は生気を失った目を開き、外へと歩き出した。毅はすぐに後を追い、送迎車の後部座席のドアを開けた。心療内科のクリニックに到着した。
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第90話

夫がいる身でありながら、他の男に関わろうとしている――そう言わんばかりの目だった。沙綾は唇をきつく噛んだ。昨夜、陣が怒ってドアを閉めたのも無理はない。これ以上誤解が広がって仕事に影響が出るのは避けたかったし、ただでさえ頭の痛い問題が山積みなのだから、今のうちにはっきりと弁解しておきたかった。少し顔を上げると、深く底知れない陣の瞳と視線がぶつかった。「氷室さん、あなたと顔を合わせるたびに予期せぬことばかり起きて、自分でもどうしてなのか分かりません。ですが、これ以上誤解なさらないでください。私と夫は結婚して二年になりますが、夫婦関係はとても良好で……」あの一件――『六彩堂』で、時彦と朱里が親しげに歩み寄る姿を見た陣から、同じ穴の狢だと言われたことを思い出す。きっと、夫婦仲が冷え切っているせいで、新たな後ろ盾にすり寄ろうとしているのだと誤解しているのだろう。突然、陣が身をかがめた。端正な顔がわずか二センチの距離まで近づき、清涼感のある男性特有の香りが、かすかなミントの香りと混ざり合い、強烈な威圧感とともに沙綾の顔を包み込んだ。あの夜、「スウェイ」のエレベーターでの記憶が、狂おしいほど鮮明に蘇ってくる。暗闇の中。柔らかな唇が触れ合ったあの瞬間、体内でアルコールが激しく波打ち、無意識に彼の唇を軽く食むと、そのまま強引に唇を割って入られた。甘美で背徳的な光景が脳裏に飛び込んでくる。沙綾は陣の深い瞳に触れた途端、思わず呼吸を荒らげ、抑えの利かない感情が全身を駆け巡り、足から力が抜けて立っていられなくなりそうだった。沙綾は強く拳を握りしめ、手のひらに爪が食い込む痛みを感じることで、暴走しそうな感情を必死に抑え込んだ。突然、彼にその手を開かれた。手のひらには血が滲んでいて、目を覆いたくなるほど痛々しかった。陣が指の腹で、その傷跡にそっと触れる。痛みに小さく声を漏らし、手を引っ込めようとしたが、その手は強引に引き寄せられ、体ごと彼の胸の中へ引き込まれた。沙綾はもう片方の手を上げて彼の胸を押し返そうとした。自分に夫がいることを忘れたわけではない。陣に近づいて、その名声に傷をつけるような真似ができるはずもなかった。だが、薄く柔らかな白シャツ越しに男の体温が伝わった瞬間、その大きな手で肩を掴まれ、そのままソファへと押し倒され
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