All Chapters of 元夫が復縁を迫る頃、私は御曹司と再婚し妊娠していた : Chapter 71 - Chapter 80

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第71話

沙綾は拳を強く握りしめた。指の傷の痛みが唐突に胸を突いたが、それでも時彦の瞳からは、微塵の感情の揺れも読み取れなかった。沙綾は彼の手を振り払い、奈々を連れて受付へと向かった。「すみません、小林沙綾と申します。事情聴取に伺いました」「小林さん、取調室へどうぞ」警察官に促され、「はい」彼女は淡々と頷いた。背後から、朱里の慌てふためく声が聞こえてきた。「時彦、どうしよう」「安心しろ。誰にも君に濡れ衣を着せさせはしない」時彦の声は確信に満ち、ひどく優しかった。それは、一切の労を惜しまず誰かを守ろうとする時の姿だった。かつては、そうやって守られていたのだ。陰鬱で冷酷な性格の時彦は、ビジネスの世界で容赦ない手段を渡り歩いてきた。だが、唯一、その優しさが向けられていたのは自分だけだった。他の人間など取るに足らず、自分だけが特別扱いされていた。だが、その優しさが向けられなくなった時、彼の冷酷さは……かつて築き上げた一方的な信頼もろとも、すべてを打ち砕くには十分すぎた。おそらく、最初から間違っていたのだ。その「特別扱い」に甘えるべきではなかった。自分にだけ優しく、他の人間にはどこまでも冷酷な人ではなく、根は優しい人を選ぶべきだったのだ。なぜだか、ふと陣の顔が思い浮かんだ。感情を押し殺し、沙綾は奈々に付き添われて取調室へと入った。陣に遭遇したこと以外、供述の内容は以前と変わらなかった。「小林さん、実行犯の男二人と鈴木有栖はすでに身柄を確保され、自身の犯行を全面的に認めています。しかし、彼らは遠藤さんとは面識がなく、双方の間に連絡手段もありませんでした」警察官が言った。「事件当夜、遠藤さんはあなたのご主人である高橋さんと片時も離れておらず、実行犯や鈴木有栖と接触した形跡はありません」あの時、薬効が全身を駆け巡り、自分は意識が朦朧としていた。まさか、聞き間違えたとでもいうのだろうか。「私を狙った理由について、何か言いましたか」「本人の供述によれば、あなたのわいせつ写真を撮って脅迫し、金を要求するつもりだったとのことです」筋は通っているように聞こえる。取調室を出ると、朱里が満面の笑みで時彦の腕にすがりつき、背後に遠藤夫妻を従えて、沙綾の目の前を通り過ぎていくのが見えた。沙綾は無表情のまま、奈々と一
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第72話

奈々の車がゆっくりと到着した。沙綾は手を引っ込め、スマートフォンを奪い返すと、車に乗り込んでその場を離れた。時彦は沙綾の細い背中を見つめながら、昨夜の痛ましく打ち砕かれた姿や、先ほどの悲哀と失望に満ちた表情が、まるで逆流する海水のように胸に押し寄せてくるのを感じた。胸の奥に込み上げてくる息苦しさに、胸を押さえたまま呆然と立ち尽くした。「時彦、私がやったんじゃないわ。お姉ちゃんと佐有里さんがいつも私とお母さんに濡れ衣を着せるから、わざとお姉ちゃんを怒らせようとして言っただけなの」朱里の緊張した声で、時彦はハッと我に返った。彼が淡々と相槌を打ち、不機嫌そうな顔をしていないのを見て、朱里はようやくホッと息をついた。朱里は昨夜、フォレストテラス青葉台で起きたことを思い出した。どうやら数日前から沙綾は家出をしていて、それを知った時彦が彼女を呼び戻し、二人は激しく言い争ったらしい。沙綾は時彦を叩きさえしたのに、彼は少しも沙綾を責めようとはしなかった。もし他の人間なら、間違いなくそれ相応の代償を払わされていたはずだ。それなのに、彼は「ただの誤解だ」と軽く受け流してしまったのだ。先ほどだって、二人はあんなに密着していた。もしかして時彦は、沙綾のことを嫌っていないのではないか?その考えが頭に浮かぶと、朱里はすぐにそれを打ち消した。いや、そんなはずはない。時彦はただ、株価と崇史の財産のために、沙綾との婚姻関係を維持したいだけなのだ。遠藤家と高橋家の合弁会社が上場し、二人が離婚すれば、彼は必ず私と籍を入れてくれる。たとえそれが、私に体外受精をさせるためだけの籍だとしても。私が離婚に応じない限り、あの二人が復縁することはない。私の子が無事に生まれれば、高橋家で唯一の孫として、崇史も必ず私の味方になってくれる。そうなれば、沙綾にはもう何の希望も残されていない。二十日後、私は高橋の奥様になるのだ。二人の仲がこじれ、沙綾が家出したと知ってからというもの、カレンダーに丸印をつけてカウントダウンする手が、興奮で震えるほどだった。---窓の外から吹き込む少し冷たい夜風が、沙綾の顔を撫でた。口角と頬の傷が、すっぴんでありながらも整った顔立ちに、どこか痛ましい儚さを添えていた。「沙綾、大丈夫?」奈々が気遣うように声をかけた。
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第73話

「何度も助けてくれたって?」奈々の声が急に冷たくなった。沙綾はどうしたのだろうと訝しく思い、理由を尋ねようとしたが、その時スマートフォンが鳴った。彼女は電話に出た。「小林さん、現在服用されているお薬について少しお伺いしたいのですが」先ほど彼女を診察した医師、黒田進(くろだ すすむ)だった。「何か薬を服用されていますか」「普段は精神を安定させる薬を飲んでいますが、もうずいぶん前からやめています。ここ数日は風邪薬と睡眠薬を飲んだくらいですが、どうかしましたか?血液検査の結果に、何か問題でもあったのでしょうか」沙綾は思わず身構えた。「小林さん、阻害薬についてはどうですか」「何ですか、それは」「卵管の排卵を阻害する薬ですが、服用されていますか」心臓がドクンと跳ね上がった。「いいえ、飲んでいません」「申し上げにくいのですが、小林さん。あなたの血液からその阻害薬の成分が検出されました。明日、病院へ来る時間はありますか。一度精密検査をさせてください。何者かに継続的に薬を盛られている可能性があります」進の声はひどく険しいものになっていた。沙綾は呆然と立ち尽くし、心臓を大きな手で鷲掴みにされたような激しい痛みを覚えた。ここ最近、継続的に飲んでいたものといえば、時彦が買ってくれ、その後は洋一が代わりに補充してくれていたビタミン剤のボトル一つだけだった。いや、そんなはずはない。以前関係を持っていた時、時彦はいつも避妊具をつけていたのだから、わざわざ薬を盛る必要などないはずだ。それに今、彼は確かに自分との子供を望んでいる。たとえそれが崇史の財産目当てだとしても、昨夜の出来事がその最たる証明だった。スマートフォンを握る手に力が入り、震える声で答えた。「分かりました」沙綾は電話を切った。「どうしたの?」「ううん、何でもない。ただ、先生が後遺症を心配して、再検査に来るようにって」奈々に心配をかけまいと、沙綾は震える手で目尻に滲んだ涙を拭った。朧月レジデンスに到着し、奈々に別れを告げてエレベーターホールへと向かった。ゆっくりと開いたエレベーターのドアの奥に、陣と礼司の姿があった。二人とも地下駐車場から上がってきたのだろう。礼儀正しく会釈をしてエレベーターに乗り込むと、陣は冷ややかな顔をしたまま、何の反応
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第74話

沙綾はわずかに動揺した様子で、耳を熱くしながら一歩後ずさり、顔を上げて男を見た。陣は全身から冷たい空気を放ち、微かに眉間を寄せ、沙綾の訪問を不快に思っているようだった。「ひ、氷室さん、私のパールのピアスを見ませんでしたか」「見ていないな」ドアノブを握る彼の大きな手に微かに力が入り、骨張った関節が白く浮き出た。沙綾は慌ててドアを押さえ、彼の不機嫌で警告するような視線と真っ向からぶつかりながら説明した。「氷室さん、このドレス、いくらでしたか。お金、振り込みます」「必要ない」「必要ないって、どうしてですか」このドレスはとても高価なのだ。男はゆっくりと背筋を伸ばし、冷ややかな視線を向けた。「君にやる」「命を救っていただいたのに、これ以上お金を使わせるわけにはいきません」沙綾が言い終わるか終わらないかのうちに、その手を陣に掴まれた。男の手のひらは火のように熱く、薄いタコがある。沙綾の手の甲をそっと擦って微かな痺れを引き起こすと、そのまま彼女の手をドアから引き剥がした。次の瞬間、彼は力任せにドアを閉めた。バタン、と大きな音が響き、心臓がビクッと跳ねた。沙綾はその場に呆然と立ち尽くし、頭の中が真っ白になった。――私を蛇蝎のごとく忌み嫌い、一切の関わりを持ちたくないばかりか、お金すら受け取ろうとしないなんて。沙綾はなぜか少し落ち込み、踵を返して1202号室へと戻った。---沙綾は1202号室に戻って食事を済ませ、恵子を見送った後、普段から飲んでいるビタミン剤を取り出した。その夜、沙綾は絶え間なく悪夢にうなされた。空が白み始めると同時に、彼女は病院へと向かった。「この薬の成分を調べていただけませんか」沙綾はビタミン剤を進に手渡した。進はすぐに検査を手配した。二時間後、検査の結果が出た。「小林さん、ビタミン剤には何の問題もありませんでした」その言葉を聞いて、不安で波立っていた心がゆっくりと落ち着き、心の奥底で崩れかけていた何かも、静けさを取り戻した。「私の体の状態は、どうでしたか」「大変申し上げにくいのですが、あなたの卵巣は毒素に侵され、すでに非常に深刻な状態に達しています」それを聞いた途端、沙綾の顔から血の気が引いた。報告書を握りしめる指に力が入り、喉が詰まる。口を開こうと
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第75話

まさか、時彦と朱里の子供のことなのだろうか?結局、時彦は何も答えてくれなかった。朱里の「時彦」という一言で、彼は呼ばれるままに立ち去ってしまった。後には、床に散らばった検査結果報告書だけが残された。沙綾はゆっくりと床にしゃがみ込み、報告書を拾い上げた。担当医である進の言葉が脳裏に蘇る。「小林さん、私も全力を尽くしますが、毒素に侵されていた期間が長すぎました……恐らく、手の施しようがありません」細い雨がしとしとと降り続いている。顔を濡らしているのが涙なのか雨水なのか、もう分からなかった。報告書を両手で強く握りしめ、ゴミ箱へ投げ捨てた。沙綾は全身ずぶ濡れになるまで、病院の入り口に立ち尽くしていた。行き交う車の耳障りなクラクションの音で、ようやく我に返る。一台の黒いベントレーが目の前を通り過ぎ、後部座席には陣の端正な横顔が見えた。沙綾は冷静さを取り戻し、車を走らせて由宇の法律事務所へ向かった。「沙綾、どうしたんだい」ずぶ濡れになった彼女を見て、由宇は秘書に視線を向けた。「着替えの服はあるかい?小林さんに持ってきてあげてくれ」「大丈夫よ、由宇さん。車に着替えがあるから」沙綾はそう言って止めた。「じゃあ、小林さんに乾いたタオルと、温かいココアをお願いするよ」由宇は気遣うように秘書へ指示した。秘書がタオルとココアを持ってきて退室すると、沙綾はバッグからスマートフォンを取り出した。「由宇さん、ちょっと聞いてもらいたいものがあるの」由宇が頷くと、沙綾はすぐに音声データの再生ボタンを押した。昨夜の朱里の言葉が、広いオフィスに響き渡る。沙綾が昨夜起こったことを由宇に話すと、由宇の瞳の奥に一抹の同情の色が浮かんだ。沙綾は平気だというように微笑み、胸に込み上げる苦痛を押し殺しながら尋ねた。「これって、自白になるよね?この録音で、朱里が黒幕だと告発できるの?」「この言葉だけで、朱里を結びつけるのは難しいだろうね。ダークウェブでの取引記録のような、確固たる証拠が見つかれば別だけれど。でも、ダークウェブ上の情報は発信されたらすぐに消えてしまうし、あそこは法の及ばない場所なんだ。追跡するのは恐らく不可能に近い」由宇はそう説明した。「コンピューターの専門家に依頼してあげることはできる。でも、覚悟しておいた方がいい
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第76話

法律事務所を出ると、沙綾は一人で軒下に立ち、雨に霞む行き交う車を見つめた。ふと、自分に行く当てがないことに気づいた。研究所のほうは、二日間の休みをもらっている。明日は、母親と和之が婚姻届を出す日だ。車に戻り、奈々に電話をかける。「奈々、今時間ある?」「私ね、午後からお見合いなの」「お見合い?」その言葉を聞いて、沙綾は心から奈々のために喜んだ。奈々もついに、心の中に残っていたあの初恋の人への未練を断ち切ったのだ。これで、二人とも素晴らしい未来へと歩き出せる。「良い知らせを待ってるわ」奈々の笑い声は軽やかだった。「後で詳しく話すわね」「ええ、『スウェイ』で待ってる」沙綾は車を走らせ、「スウェイ」へと向かった。「スウェイ」は汐見市で最高級の会員制クラブで、バーやラウンジ、VIPルームなど、さまざまなエンターテインメント施設が完備され、セキュリティも万全だった。「沙綾さん?」バーテンダーが声をかけてきた。沙綾は静かに頷いた。「お酒を一杯お願い」沙綾はここの常連ではなかったが、時彦との関係が良好だった頃、夜半過ぎによく彼を迎えに来ていた。そのため、顔を合わせるうちにすっかり顔なじみになっていた。「シャンパンでよろしいですか?」「ええ」バーの本格的な営業は夜の九時からで、今の時間はまだ客足もまばらだった。ふと視線を向けると、予想外なことに、隅の半円形のボックス席に気品あふれる男が座っていた。陣だった。彼の周りには、たくましく凛々しい雰囲気を持つ男たちが群がっていた。みな同じような髪型をしており、グラスを手に次々と彼に酒を勧めている。その傍らに立つ礼司の顔には、いささか引きつったような愛想笑いが浮かんでいた。バーテンダーがグラスを差し出すと、沙綾は静かに視線を戻した。「もう一杯お願い」元気な赤ちゃんを授かる準備のために、沙綾はもう二年間も一滴の酒も口にしていなかった。だが、もともと酒には強く、いくら飲んでも酔わない体質だった。それでも今は、お酒の力で何もかも忘れて、少し休みたい気分だった。何杯か飲み進めた頃、陣のいるテーブルはひときわ騒がしくなっていた。男たちは肩を組み、大声で笑い合いながら何かを話している。一方の陣は、ソファに深く身を沈め、時折
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第77話

エレベーターの壁にもたれかかっていた陣は、瞬時に鋭い目つきになり、一歩前へ出た。片腕で沙綾の腰を抱き寄せ、もう一方の手で頭を庇うようにして、彼女をエレベーターの中へ引き入れた。そのままドアが閉まる。恐怖が少し収まると、沙綾は思わず小さく息を吐き出した。後から湧き上がってきた怯えを隠しきれず、顔を上げると、陣が冷ややかな視線で見下ろしていた。気品あふれる男の全身からは強い酒の匂いが漂い、目尻には微かな赤みが差している。しゃがれた声で、ひどく険しい口調で言った。「死にたいのか?」「違う……」沙綾は小さな声で答えた。おそらく、本当に飲み過ぎたせいで足元が滑ったのだ。うなじに添えられた男の大きな手が不意に力を込め、彼女の顔を引き寄せた。男の熱を帯びた吐息が彼女の唇をかすめ、深く底知れぬ瞳には、酒で赤く染まった沙綾の顔が映し出されている。わずか二センチの距離。温かな息遣いが甘く絡み合い、濃厚な酒の香りが四方に満ちていた。「命がけで追いかけてきて、何がしたいんだ?」陣は不機嫌そうに眉をひそめ、強い詮索の目を向けた。まるで彼女の下心でも疑っているかのようだった。普段はいくら飲んでも酔わないはずなのに、今の沙綾は、酔いによって思考がぼやけていくのを感じていた。陣を突き飛ばそうとしたが、その体に触れた瞬間、指先が無意識にすくんでしまう。慌てて弁解した。「あなたが倒れちゃうんじゃないかって、心配で……」その時、エレベーターが突然大きく揺れ、真っ暗になった。彼女は彼の胸の中に倒れ込み、誤ってその唇が彼の唇に重なってしまう。頭の中をガンと殴られたような衝撃が走った。唇が触れ合った一秒後、普段は冷淡な男が突然強引になり、絶対的な支配感で彼女の顎を持ち上げる。アルコールの香りが滑らかな唇と歯の間で絡み合い、狭い空間に言葉にならないほどの胸の鼓動が満ちていく……「ピーン」という音とともに、エレベーターのドアがゆっくりと開いた。外からの光が差し込み、男の深い瞳に激しい情欲の波が揺らめいているのが見え、沙綾の瞳も微かに震えた。次の瞬間、沙綾は両肩を押さえられ、体を起こされた。「すまない、酔っていた」陣は掠れた声でそう言うと、視線を逸らした。大きな手が彼女の肩から手首へと滑り降り、そのまま彼女をエレベーターの外へと引き出す。
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第78話

「じゃあ、しじみのお味噌汁、ちゃんと飲んでね」沙綾はしじみのお味噌汁をローテーブルに置くと、振り返って部屋を出た。ドアが閉まると、奈々の視界も完全に遮られた。温かい手が額に触れ、奈々はハッと我に返った。目の前には、心配そうな顔をした沙綾がいる。「どうしたの?顔色がすごく悪いよ」「なんでもないわ」奈々は胸の奥を震わせながら、その手をそっと下ろした。「沙綾、会社でまだ仕事があるから、先に行くわね」「気をつけて帰ってね」「あなたも……早く帰ってね?」奈々は数歩ほど歩き出してから、振り返って沙綾を見た。「小泉さんが戻るまで、もう少しだけ氷室さんの様子を見ておくわ。彼が戻ったら私も帰る」沙綾は小声で答え、頷いて去っていく奈々の寂しげな背中を見送った。――奈々、心ここにあらずって感じだったけど、仕事で疲れすぎているのかな?視線を戻し、沙綾はふと考える。――お見合いが上手くいかなかったから?さっき、相手は私も知ってる人だと言っていた。この界隈のどの御曹司なら、奈々がそこまで気にするんだろう?もしかして、彼女がずっと好きだった人?沙綾は廊下の窓辺へ歩み寄り、窓の外を見下ろした。奈々のベンツが車寄せから走り去っていくのが見え、その車体が遠くの街角を曲がるまで目で追った。突然、その街角から濃い灰色の煙が立ち上り、かすかに騒がしい声まで聞こえてきた。交通事故でも起きたのだろうか。沙綾はドクンと心臓を跳ねさせ、慌ててスマートフォンを取り出して奈々に電話をかけた。次の瞬間には電話がつながり、奈々の声を聞いて無事を確認すると、ようやくホッと息をついた。その時、前方から礼司が歩いてきた。沙綾が電話を切り、ちょうど帰ろうとした矢先、VIPルームのドアが開いた。機嫌の悪そうな顔をした陣が出てきたのだ。礼司は慌てて歩み寄り、彼を支えようとしたが、陣はそれを避け、真っ直ぐに前へ歩いていった。「沙綾さん、朧月レジデンスに帰られますか?」礼司が焦ったように尋ねた。「ええ」「ご一緒してもよろしいでしょうか?どうか、社長の世話を手伝っていただけませんか」先ほどのあのキスのせいで、沙綾は少し尻込みしていた。「社長はお酒を召し上がっていますので、車に乗ると気分を悪くされるかもしれません。私が運転し
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第79話

時彦は沙綾の手首をきつく掴み、身動きが取れないようにした。氷のように冷たい声が、彼女の胸を締め付ける。「荷物をまとめて、家に帰るぞ」悔しさと怒りが同時に込み上げ、沙綾はもう我慢できなかった。「二度とあの家には戻らないわ!」時彦が突然顔を近づけてきた。その暗く沈んだ黒い瞳には、色濃い危険な気配が漂っている。沙綾は怯えて後ずさったが、逃げ場はなく、背筋に骨の髄まで染み入るような寒気が走った。その時、1202号室のドアが押し開けられた。恵子が驚いた顔で二人を見つめている。「高橋さん……」言いかけたところで、時彦に冷たく睨みつけられ、恵子は慌てて言葉を言い換えた。「旦那様、どうしてこちらへ?」「沙綾の荷物をまとめろ」時彦は沙綾から手を離し、冷たく命じながらマンションの中へと足を踏み入れた。恵子は道を譲り、歩み寄って沙綾を支えた。「奥様、これは……」痛む手首をさすりながら、沙綾は怒りを帯びた視線を大きく開かれたドアへ向けた。このままドアを閉めて彼を部屋に閉じ込め、自分だけ逃げ出してしまいたい。今夜さえ乗り切れば、明日には自由になれるのだ。ドアノブを握ろうとした瞬間、時彦が不意に振り返った。下から舐め回すような冷酷な視線が、彼女の顔でピタリと止まる。沙綾はハッと瞳を揺らした。突然鳴り響いたスマートフォンの着信音が、二人の視線を遮った。スマートフォンを取り出すと、母親からの電話だった。沙綾は怒りと焦りを押し殺し、電話に出た。「沙綾、今日ね、ときくんがお見舞いに来てくれたのよ。あの子がわざわざ足を運んでくれるなんて、あなたへの情がある証拠よ。言うことを聞いて、お母さんを心配させないで。彼と一緒に帰りなさい」佐有里がそう言い終えると同時に、電話の向こうから荒い息遣いが聞こえてきた。沙綾の心は一気にどん底へと突き落とされた。脳裏に、衰弱した母親の姿が浮かんだ。ドアノブを握っていた手から力が抜け、だらりと垂れ下がった。胸の中で渦巻く無力感と苦痛を押し殺し、沙綾は淡々とした声で言った。「お母さん、私のことは心配しないで。自分の体のことだけを考えて」「あなたたちが仲良くしてくれれば、お母さんも元気になるわ」電話を切り、時彦を見た。その瞳には一切の温もりがなく、ただ深い静寂だけが広がっている。沙綾は身を翻し、部
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第80話

沙綾は時彦の冷淡な視線とぶつかり、いとも簡単に捕らえられた自分の手に目を落とした。この瞬間、心の底から絶望が込み上げてきた。まるで泥沼に深く沈み込んだ人間のようだ。もがき、反抗するたびに、より息苦しい束縛が返ってくるだけで、最後には完全に呑み込まれてしまう。時彦に嫁ぐと決めた時、それを知った母親の言葉を思い出した。「沙綾、あなたの後ろ盾になってくれる人はいないのよ。高橋家はあなたが嫁いでいい場所じゃない。名門なんて、表向きは華やかに見えるけれど、本当は……お母さんはね、あなたに私と同じ轍を踏んでほしくないの。それに、ときくんは愛人の子だし……」「愛人の子」という言葉を聞いて、時彦が幼い頃に婚外子と嘲笑われていたことを思い出し、沙綾は母親の言葉を遮った。「私は愛人の子じゃないけれど、だから何だっていうの?結局は私だって陰で後ろ指を指されているわ。婚外子として生まれるなんて、彼だって望んだわけじゃないのよ」時彦を庇う沙綾に心底呆れたのか、佐有里はジュエリーボックスを置いて立ち去った。母と再び連絡を取ったのは、結婚後のことだった。沙綾が修治から除名されたことを知った佐有里は、沙綾が時彦と海外でハネムーンを過ごしていたにもかかわらず、わざわざ電話をかけてきて、頭ごなしにひどく叱りつけた。海外の研究所では、沙綾がどんなに努力しても、いつも様々な理由をつけて研究成果を横取りするよう強要された。周りよりも才能があったというのに、いいように利用され、ひどい仲間外れにされ、研究に対して完全に気力を失ってしまった。それに、時彦と一緒にいる時だけ、沙綾は悪夢を見ずに済んだ。誰もこの苦しみを理解してくれなかった。母親は幼い頃から、沙綾がどれだけ高く飛べるかだけを気にかけ、疲れないかとは一度も聞いてくれなかった。母親のしていることがすべて自分のためであり、愛情からきていることは分かっている。沙綾はそれに耐えられるし、十分に自立もしていた。しかし、決して誰からの気遣いも必要としていないわけではなかった。母親はまるで、気遣う言葉を口にすれば、娘が弱くなってしまうとでも恐れているかのようだった。あの時、沙綾は無言で電話を切り、母親との間にわだかまりが生まれた。そのことを思い出していると、目尻から涙がこぼれ落ちた。今自分が受けている
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