All Chapters of 元夫が復縁を迫る頃、私は御曹司と再婚し妊娠していた : Chapter 61 - Chapter 70

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第61話

煌々と明かりが灯る邸宅へ、沙綾は足を踏み入れた。時彦はソファに座っていた。背筋をピンと伸ばし、ただならぬ雰囲気を纏っている。だが、その端正な顔は氷のように冷たく、暗く沈んだ漆黒の瞳には怒りが満ちていた。その視線が真っ直ぐに胸の奥へと突き刺さり、沙綾の心臓はどうしようもなく震え上がった。「こっちへ来い」沙綾は息を呑んだ。その冷え切った態度を前にしても、大股で時彦のそばへと歩み寄った。「いつ出て行ったんだ」「一週間前よ」「たかがエメラルドのネックレスのことでか」よくもまあ、そんな言葉を口にできたものだ。最近あれほど多くのことがあり、あんなにも悔しく理不尽な思いをしてきたというのに、時彦の目には何でもないことのように映っているらしい。「そういうことにしておけばいいわ」「戻ってこい」男の声は氷のように冷たかった。数時間前、時彦から冷たくあしらわれたことを思い出し、沙綾は言い放つ。「あなたと結婚したのは、私が自分からすり寄って無理に求めたことよ。あなたはただ両家の婚約を果たしただけで、私のことなんて少しも愛していないし、好きでもないでしょう。戻ってきてどうしろっていうの」時彦は突然手を伸ばして沙綾を引き寄せると、その冷たい指先でカシミヤのコートに触れた。「俺が忙しすぎることに不満で、そばにいてくれる子供が欲しいとずっと言っていただろう」ここ数日、沙綾に距離を置かれ続けていたせいか、時彦の中で苛立ちと欲求不満が募っていたのだ。沙綾は時彦の目を見つめた。そこには微塵の温もりもない。ただ生理的な欲求を処理したいだけだと言わんばかりの目だった。時彦が触れてくるのは、まるで義務をこなしているかのようだった。崇史が約束した株式がなければ、とっくに離婚していただろう。沙綾はその手を押し除けた。「あなたの子供なんて産みたくないわ、時彦。お義父様には、私から説明する。用がないなら、これで失礼するわ」未練もなく去っていく沙綾の背中を見つめ、時彦の胸の奥に得体の知れない感情が湧き上がってきた。沙綾はこれまで、一度も家出したことなどなかった。その背中はひどく痩せ細っていたが、足取りは決然としていた。ただ意地を張っているのではなく、本当にこのまま消え去ろうとしているかのようだった。思考がまとまるよりも先に、時彦は沙
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第62話

だが、今の時彦の仕打ちは、強烈な平手打ちを食らったも同然だった。自分の自己嫌悪も、彼への未練も、あまりにも滑稽だったのだと痛感させられた。幼い頃に自分を守ってくれたあの少年は、もうどこにもいない。男の視線は冷たく沈んでいたが、何も言おうとはしなかった。沙綾は自嘲気味に笑った。それもそうだ。どうでもいい相手に、わざわざ言葉を返す気など起きないのだろう。何か答えがもらえると思っていたなんて、自惚れもいいところだ。心が張り裂けそうな沙綾の姿を見て、時彦は胸の一部がぽっかりとえぐり取られたような感覚に陥った。手を伸ばして涙を拭ってやろうとした瞬間、沙綾は弾かれたように身をすくめ、体を丸めた。沙綾はよろめきながらソファから立ち上がり、邸宅から逃げ出した。そのひどく怯えた姿は、まるで悪魔から逃げるかのようだった。頭から鮮血が流れ落ち、視界を滲ませた。時彦は立ち上がり、沙綾の後を追って外へ出た。もし今追いかけなければ、もう一生彼女に会えなくなるような気がしてならなかった。「さーや?」背後から突然、時彦の低い声が響いた。さーや?彼にそんなふうに名前を呼ばれたのは、随分と久しぶりのことだった。振り返ると、時彦が足元をふらつかせながら追いかけてくるのが見えた。顔を伝って血が流れ落ちており、その痛々しい姿に、沙綾は思わず足を止めた。そこへ突然、朱里が現れ、時彦を抱え込むように支えた。「時彦!どうして血が出てるの!」時彦がそれ以上前に進むことはなく、二人の間には、まるで決して越えられない溝が静かに広がった。朱里が時彦の腕にすがりつき、甲斐甲斐しく心配する様子。それに穏やかに応える時彦。その光景を眺めているうち、沙綾はふと意識が遠のきそうになった。もしかすると、朱里の言う通りなのかもしれない。自分は戻ってくるべきではなかったのだ。あの二人こそ、お似合いなのだから。ポルシェのドアを開け、沙綾は車を走らせた。もう二度とこの場所に戻りたくない。家を出て、空いっぱいに広がる朝の光を見上げながら、沙綾は緊張した面持ちで由宇に電話をかけた。「由宇さん、夜が明けたよ」「ああ、あと二日経てば、離婚届受理証明書を受け取れるからね」由宇は確信に満ちた声で答えた。彼女はホッと息をつき、朧月レジデンスに戻ると、そのままバスルーム
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第63話

沙綾の手首は、氷のように冷たく大きな彼の手に、強く握りしめられていた。「よかった!心臓が止まるかと思いましたよ!」耳元で恵子の声がした。「どうして自ら命を絶とうなんてしたんですか」「えっ!」沙綾は驚いて恵子に視線を向けた。そこでようやく、完全に意識がはっきりした。その時、陣が彼女の手をパッと離した。恵子が歩み寄り、薄いブランケットを押し当てるようにして沙綾の体を包み込みながら説明した。「私が来た時、部屋中が水浸しで……小林さんがバスタブの中に沈んでいるのを見つけて、本当に腰を抜かしそうになりました。ちょうど出勤される氷室さんにお会いして、バスタブから抱き上げてもらい、心肺蘇生をしていただいたんです……睡眠薬を飲んで自ら命を絶つなんて、どうしてそんなことを。お母様が知ったら、どれほど悲しまれるか……」視界の端に、ベッドサイドテーブルの上で倒れている睡眠薬の小瓶と、そこからこぼれ落ちた数錠の薬が映った。フォレストテラス青葉台へ行った時、心が乱れていて、うっかり倒してしまったのだとぼんやりと思い出した。頭の中でガンと鐘が鳴ったような衝撃を受け、沙綾は陣の方を見た。つまり、陣は先ほど心肺蘇生を施して命を救ってくれたというのに、自分は彼を破廉恥な変質者だと勘違いし、あろうことか叩こうとしたということか。どっと羞恥心が込み上げてきた。蒼白だった顔は、気まずさで真っ赤に染まった。人工呼吸で押し当てられ、少し腫れた唇を噛み締めると、口の中に微かなミントの香りが広がった。先ほどの光景を思い出し、無意識に陣の唇へと視線を向けてしまった。陣は人を寄せ付けない空気を纏い、冷ややかに視線を逸らした。先ほどの熱を帯びた様子とは、まるで別人のようだった。陣が立ち去ろうとするのを見て、沙綾は胸を痛めた。何度も助けてもらっているのに、まだお礼も言えていないばかりか、あやうく彼を叩いてしまうところだったのだ。慌てて、沙綾はその袖を掴んだ。「氷室さん、助けていただいて本当にありがとうございました。命を救っていただいたご恩は、言葉では言い表せないほどで、私……」細い指が、突然大きな手に掴まれた。心臓がドクンと跳ねたが、陣が振り返ることはなかった。ただ冷たい顔で別の方向を見つめたまま、次の瞬間、彼女の手はパッと振り払われた。
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第64話

個室には何人かが集まり、談笑しながら盛り上がっていた。上座に座る恩師の修治が厳格な面持ちでいるのを見て、沙綾は足を踏み出すのをためらい、紀行の背中に隠れるように身を引いた。恩師に合わせる顔など、あるはずもなかった。「中島先生」紀行はそれに気づくと、手を伸ばして彼女を前へ押し出した。「沙綾が会いに来ましたよ」修治の視線が沙綾に向けられた。怒りを露わにしているわけではないのに威圧感があり、短く鼻を鳴らした。「結構だ」歓迎されていないことは明白だった。沙綾とて、これ以上恩師を不快にさせたくなかった。そう思ったところで、修治がふいに苦しそうに拳を口元に当て、小さく咳き込んだ。「お前たちだけが顔を出してくれればいいんだ」修治の顔色はひどく悪く、以前は白黒交じりだった髪も、今ではほとんどが白髪になり、目尻のしわも二年前よりずっと増えていた。手もすっかり枯れ木のように痩せ細っている。どうしてこんなに老け込んでしまったのだろう。「たとえ研究室で過労死しようとも、こいつの顔など見たくない。紀行、こいつを連れて帰れ」普通なら、六十五歳になってもまだ意気軒昂で、指導者として部下を指揮するのも余裕なはずだ。だが、この年齢になってもなお研究の最前線に立ち、自ら実験を行っているのだから、心身ともに計り知れない負担がかかっているに違いない。恩師がどれほど過酷な日々を送っているか、想像に難くなかった。二年前、先生は研究所を私に任せようとしていた。もしあの時、私がそれを断らなければ、先生はここまで体を壊さずに済んだのではないか。「せっかく沙綾が来たんですから……」紀行が沙綾を庇うように声を出した。「そうですとも。小林先輩だって……」そばにいた研究員たちも口々に取り成そうとした。だが、修治の顔色はさらに冷ややかになった。「先輩も何もない。この女は社長夫人だぞ。我々のようなつまらない研究の話に付き合う暇などあるはずがない」冷や水を頭から何度も浴びせられたように感じた。沙綾はここから立ち去るべきだと分かっていたが、足は鉛のように重く、一歩たりとも動かなかった。「先生、私は……」「よせ!私にそんな風に呼ばれる筋合いはない。呼ぶなら、中島教授と呼べ」その一言が、二人の間に越えられない一線を引いた。鼻の奥がツンと痛ん
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第65話

今、朱里のために、彼は資金や物資を寄付するだけでなく、その誇り高い背中すらも折り曲げたのだ。修治の枯れ木のような手が、時彦の差し出した名刺を受け取った。「先日の座談会で、お会いしましたな」時彦は穏やかに挨拶を交わした。「中島教授の座談会は非常に素晴らしく、多くのことを学ばせていただきました。中島教授、実は一つ折り入ってお願いがございます。私の妻の妹――遠藤朱里を、教授の研究室に受け入れていただけないでしょうか。この子は幼い頃から聡明で勉学に励んでおり、帝都大学の学生でもあり、成績も優秀です」妻の妹?こいつが離婚したがらないのも無理はない。妻の妹と不倫してスリルを楽しみながら、世間の口を封じることもできるのだから。修治の口角が微かに上がり、目尻のしわが折り重なる。これは、引き受けるつもりなのだろうか。沙綾は思わず息を呑んだ。修治が着ている古びた服は色褪せるまで洗い込まれており、自身の生活を切り詰め、すべての経費を学生への援助に充てている。そして、研究に最も欠かせないのが資金だ。彼が断る理由などない。朱里は有頂天になって駆け寄り、時彦の腕を放すと、修治の手を両手で包み込んだ。沙綾はもうこれ以上聞く気になれず、紀行に小声で告げた。「先輩、私、先に帰るわ」朱里の声が聞こえてきた。「先生は私の憧れです。先生の学生になれたら、一生の誇りに思います。それに、生涯をかけて研究に打ち込み、絶対に途中で投げ出したりしません!」「途中で投げ出す」という言葉を聞いて、沙綾の胸は切ない痛みに締め付けられた。まさか朱里に嘲笑われる日が来るなんて思いもしなかったが、それも自業自得だ。紀行は無理に引き留めようとはしなかった。「途中まで送ろう」「ええ」すると、修治は口を開いた。「申し訳ないが、高橋社長、それに遠藤さん……だったかな?私はもう年でね。新しい学生の面倒を見る気力はないんだ」朱里は失望の声を漏らし、時彦の顔色は一瞬にして冷え切った。これまで彼を拒絶した者などいなかったし、拒絶する度胸のある者など誰もいなかったのだ。沙綾は少し驚き、密かに恩師の身を案じたが、修治はふいに言葉を継いだ。「だが、私には最後にとった愛弟子がいてね。才能も研究能力もトップクラスだ。その子が戻ってきたら、君を弟子
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第66話

沙綾は振り返り、ドアを押さえた。「私は大丈夫よ」何も後ろめたいことなどない。だが、時彦が紀行に向けたあの態度を思い出す。時彦は昔から二重基準だ。自分は二股をかけて我が世の春を謳歌しているくせに、私には高橋の妻としての教えを枷のように押し付けてくる。もし私が陣と二人きりで部屋にいるのを見たら、彼は陣に対しても敵意を抱くかもしれない。離婚を目前に控えた今、余計な波風を立てて彼と衝突したくはなかった。「ドアを開けろ」時彦の声が急に冷たくなり、すでに苛立ちが滲んでいた。どうやって時彦を追い返そうかと頭を悩ませていると、ドアに手をついていた陣が、不意にドアノブへと手を伸ばした。彼が力強くドアを引くと、沙綾がドアを押さえる力と拮抗する。沙綾が横目で睨みつけると、陣は冷ややかに一瞥しただけで、彼女の意思など完全に無視した。二人が対峙していると、朱里の声が聞こえてきた。「時彦、ドレスを買いに付き合ってくれるんでしょう」ドアの向こう側で、ノブから静かに手が離れ、カチャッと音が響いた。時彦は足を踏み出し、立ち去っていく。その瞬間、陣によってドアが勢いよく開かれた。沙綾は思わず身構えたが、時彦は朱里を連れて一度も振り返ることなく去っていった。その後頭部にはうっすらと傷跡が見え、昨夜の出来事が何度も脳裏に蘇ってくる。心がざわつき、顔色も沈んでいった。「同じ穴の狢だな」耳元に突然、男の氷のように冷たい声が降ってきた。沙綾は陣を見上げた。「どういう意味ですか」陣の端正な顔が突然目の前に迫り、その瞳の奥には明らかな冷たさが宿っていた。「出て行け」沙綾が反応する間もなく、手首を彼の氷のように冷たい大きな手に握られ、そのままふわりと外へ引っ張り出された。バタン、と音を立ててドアが閉まる。ちょっと?時彦が二股をかけているからって、自分も同じだと思っているわけ?私は既婚者なのに、どうして彼を誘惑したりするのよ。自分には全くそんな気はない。ただ不注意で二回ほど胸に飛び込む形になってしまっただけで、下心があると決めつけるなんて。人の心にある先入観というものは、本当に厄介だ!沙綾はドアをノックしようと上げた手を下ろした。どう言い訳しても無駄だというのなら、もう二度と説明なんてしてやらない。その時、スマートフォン
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第67話

やはり考えすぎだった。時彦がここに現れるはずなどないのだ。彼の中では、自分のことなど何よりも後回しなのだから。沙綾は花束を受け取り、母親に手渡した。佐有里は機嫌が良く、こう褒めた。「綺麗な花ね。ときくんによろしく伝えてちょうだい」「もう帰っていいよ。人手は足りているから」沙綾は洋一に向かって言った。洋一は頷いて立ち去った。車椅子に乗った母親を押してドアを出ようとした時、突然問いかけられた。「その指、どうしたの?」「ああ、包丁でうっかり切っちゃって」幸い、顔の傷はコンシーラーテープで隠していたため、母親には気づかれなかった。「だから言ったでしょう、あなたは専業主婦には向いていないって。家政婦の松本さんがいるじゃない。そういうことは彼女に任せておけばいいのよ。愛情を伝えるのは、何も料理や洗濯だけじゃないんだから」佐有里は口では小言を言いながらも、その言葉の端々には、夫婦二人がうまくやっていってほしいという願いが込められていた。沙綾は黙り込んだ。母親に嘘はつきたくないが、離婚を決意したことをどう伝えればいいのかも分からなかった。いっそ、離婚が成立してから話せばいい。佐有里は和之と一緒に暮らしている。住んでいるのは、かつて帝都大学が和之に割り当てた教職員用の住宅で、庭付きの二階建てだが、建物自体はそれほど広くない。住宅街は古びているものの、立地が良く、生活にも交通にも便利な場所だった。沙綾は明日から母親の世話をしてくれる介護士を手配した。夜は福祉振興会の手伝いに行かなければならないため、一足先にその場を後にした。沙綾は高橋グループ傘下のホテルに駆けつけ、二階の宴会場へと向かった。「小林さん、先にメイクルームへご案内します。お着替えをどうぞ」有栖が出迎えてくれた。沙綾が退任した後、有栖は新会長のアシスタントになっていた。「ありがとう、助かるわ」「小林さんは今、どちらでお仕事を?私も小林さんについて行きたいです」「どうしたの?橘さんは良くしてくれないの?」「そういうわけではないんですが、一部の奥様方が橘さんにあまり協力的ではなくて……仕事が進めにくいんです」有栖は少し悩んでいるようだった。「私は今、研究所で働いているから、アシスタントは必要ないの。でも、何か私に手伝えることがあれば、いつ
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第68話

部屋の中は真っ暗で、ニコチンの匂いが濃く漂っていた。廊下の照明に長く引き伸ばされた沙綾のシルエットが、入り口の赤い絨毯に焼き付いている。斜めに差し込む光の中、絨毯の隅には揉み消された吸い殻がいくつか転がっていた。福祉振興会の運営陣は裕福なマダムばかりだ。このような場で自分たちの服に煙草の匂いがつくような真似は絶対にしないし、ましてや煙草を吸うことなどあり得ない。突然の眩暈が襲い、視界がどんどんぼやけていく。額にはびっしりと冷や汗が滲んでいた。体内の血液が沸騰して暴れ回り、強烈な渇望が津波のように全身を呑み込もうとしている。沙綾は弾かれたように後ずさりすると、つま先の向きを変え、一目散に駆け出した。二歩ほど走ったところで、スイートルームから二人の男が飛び出してきた。「早く捕まえろ!」恐怖によって少しだけ意識がはっきりしたものの、足取りはさらに覚束なくなり、視界はぐらぐらと揺れている。背後から追ってくる足音がどんどん近づいてきた。巨大なパニックと沸き立つような渇望が心の中で絡み合い、体は火のように熱く、力が入らない。必死に気力を振り絞り、角を曲がった。ぼやけた視界の先で、誰かがドアを開けようとしている。沙綾は藁にもすがる思いで、躊躇うことなくその人物へと飛びついた。足元がもつれ、視界と共に体が深い暗闇の中へと転がり込んだ。バタン、と音を立ててドアが閉まる。「どこに行った?どうして見失うんだ!早く探せ、遠藤様が急かしているんだぞ」二人の男の声は、ドアの外に遮断された。静寂に包まれた暗闇の中、沙綾の理性はまだ辛うじて保たれていたが、体は全くコントロールが利かなかった。鼻先をかすめる男性の香りに、どうしようもなく惹きつけられてしまう。沙綾に抱きつかれた男は、体を支え起こすと、そのまま手を離した。自制しなければ。離れなければ。だが、心の底で崩壊していく暗黒の渦に飲み込まれそうになり、男の襟首を掴んで引き留めずにはいられなかった。相手が後ずさりして明らかに拒絶の態度を示しているというのに、沙綾は苦しさに耐えかねてその体にすり寄ってしまった。「お願い……」沙綾は呂律の回らない声で哀願した。耐え難い羞恥心に呑み込まれそうになっていた。その瞬間、男の足がピタリと止まった。沙綾は自分から飛び込むように男の
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第69話

沙綾は寒さに震え、体を小さく丸めた。「氷室さん、奥様は……」陣はソファに座っていた。すでに隙のない完璧な服装を整えており、眉をわずかに動かした。その漆黒の瞳には、ぞっとするような冷気が宿っている。医師は言い間違えたことに気づき、慌てて言い直した。「こちらのお嬢さんは、非常に強力なその手の薬を盛られています。点滴をすれば大抵の薬効は中和されますが、残留を防ぐため、点滴が終わってから採血し、持ち帰って検査に回します」「出て行ってくれ」陣がそう言うと、医師は頷いて退室し、入れ替わるように二人の警察官が入ってきた。警察官たちは陣に軽く会釈をし、彼の許可を得てからベッドに近づき、尋ねた。「小林さん、事件当時の状況を教えていただけますか」沙綾は思わず視線を上げ、陣を見た。男の視線は逸らされることなく、彼女と真っ向からぶつかったが、その瞳の色はひどく淡かった。自分のことを嫌っているはずなのに、陣はこうして義侠心から助けてくれた。それだけでなく、細部まで気を配り、適切に対処してくれた。本当に懐の深い人だ。沙綾は視線を戻し、警察官に事の顛末をすべて説明した。「一晩中、何も口にしていませんか」確かに何も食べてはいなかったが……「オレンジジュースを一杯だけ飲みました。前のアシスタントだった鈴木有栖から渡されたものです。それから、私を追いかけてきた男たちが『遠藤様』と口にするのを聞きました。おそらく、私の異母妹である遠藤朱里のことだと思います」「関係者を連行して事情聴取を行います。体調が回復したら、警察署まで正式な調書を取りに来てください」警察官が言った。「はい」沙綾はこくりと頷いた。二人の警察官が立ち去ると、室内は点滴の落ちる音しか聞こえないほどの静寂に包まれた。数メートルの距離を隔てて視線が絡み合い、沙綾は先ほど薬効に乱されたことを思い出した。布団の中にあるもう片方の手をぎゅっと握りしめ、気まずい羞恥心を押し殺して、なんとか彼を見つめ返した。陣の視線は極めて冷淡だった。数秒ほど沙綾を見つめてから、口を開く。「調書を取る時、どう言えばいいか分かっているか」沙綾は首を横に振った。どういう意味だろう。先ほど話した内容と違うことを言えということだろうか?「下にはパトカー、救急車、それにメディアの記者たちがい
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第70話

エレベーターを降りると、奈々の瞳が微かに輝いた。気品を纏った男が、とある部屋から出てきて、こちらへ向かって歩いてきたのだ。「陣?」奈々は囁くように男の名を呼んだ。男は淡々と視線を上げ、彼女を一瞥すると、「どうも」と短く返した。すぐに無言で視線を逸らし、秘書の礼司にガードされながら立ち去っていく。二人がすれ違う瞬間、清冽なシダーウッドの香りが鼻先をかすめ、心臓が早鐘を打った。遠ざかっていくその後ろ姿を見送りながら、奈々は思わず頬を赤らめる。エレベーターのドアが閉まる音で、彼女ははっと我に返った。陣は冷酷で人を寄せ付けないが、それは誰に対しても同じだ。自分の呼びかけに応えてくれただけでも、よほど優遇されていると言える。そう思うと足取りも軽くなり、奈々は沙綾に教えられた部屋番号を頼りに目当ての部屋へたどり着き、ドアをノックした。ドアが開いた瞬間、彼女の足がピタリと止まった。エレベーターホールへと視線を向け、あることに気づいて心臓がギュッと縮み上がった。陣は先ほど、まさにここから出てきたのだ。「小林さんの友人です」女性従業員にそう名乗ると、奈々は大股で中へ入った。応接室に医師が一人いるのを見て感情を押し殺し、ベッドルームのドアをノックして開けた。「奈々……」奈々は沙綾の痛々しい姿を見て、聞きたい言葉をすべて喉の奥に飲み込んだ。それよりも先に、胸が張り裂けそうな思いが込み上げてきた。「沙綾、大丈夫なの?」沙綾は首を横に振った。「何も……されてないわ」「それならよかった」奈々が布団をめくるのを手伝うと、薄いシフォンのドレスが真っ白な肌にねっとりと張り付き、ほとんど透けて見えていた。沙綾の透き通るような体には、手首、指、口角、頬に至るまで傷がついていた。白い包帯が巻かれた腕からはうっすらと血が滲んでおり、どれもすべて新しい傷だった。奈々はたまらなく胸を痛め、沙綾を支えるように手を伸ばした。「動かないで。私が着替えさせてあげる」「ありがとう、奈々」奈々はそっと手を伸ばし、沙綾を抱きしめた。「馬鹿な子ね。もう、そんな顔しないの」着替えと点滴を終えた沙綾は、奈々に付き添われて警察署へと向かった。中に入るなり、正人が頭ごなしに怒鳴りつけてきた。「沙綾、よくも自分の妹に濡れ衣を着せてくれたな
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