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第11話 祖母の店の鍵がなくなっていた

「もう安心してサインすればいい」  修司の投げたペンが、食卓の上で転がった。  糀は条件書を見下ろした。  《料理SNS『糀ごよみ』の譲渡について》  全投稿。  フォロワー。  広告収益。  企業案件窓口。  八年かけて積み上げたものが、ひとまとめにされていた。新しい料理を調べたり、家族が喜ぶメニューを考えたり、夜中までコメントを返したりした時間も、修司には譲渡欄の一項目でしかない。悔しくて、紙を持つ指に力が入った。 「これは、私のアカウントです」 「家にいる間に作ったものだろ」  修司は当然のように言った。 「料理も材料も、家のものを使っている。瀬川家の資産と考えるのが自然だ」 「私が撮って、私が文章を書いて、私が返事をしてきました」 「だから何だ」  義母が鼻で笑った。 「糀ごよみなんてダサい名前で、中身も地味だけど、月に少しお金が入ったんでしょう。家のことを放って外で仕事をした気にならないで」 「署名はしません」  糀は言った。 「条件を全部確認して、必要なら専門家に相談します」 「大げさだな」  修司は笑った。 「お前に相談できる相手なんているのか」  美咲が、わざとらしく心配そうな顔をした。 「糀ちゃん、一人で暮らせる? 家を出たら、すぐ困るんじゃない?」 「当面の生活費は出さない」  修司は次の紙を出した。 「慰謝料もなし。お前が勝手に出ていくんだ。蒼太との面会は、月一回。こちらが認めた場合だけだ」  家を出る日は、修司が指定する。  婚姻中に得た収入は、瀬川家への協力分として扱う。 「蒼太を条件にしないで」 「なら早く署名しろ」  修司の声は低くなった。 「何でも言うことを聞いてきたんだ。今さら揉めるな」  蒼太は、食卓の端で黙っていた。  美咲のスマートフォンを握ったまま、糀を見ようとしない。  その時、美咲のスマートフォンが鳴った。  美咲は画面を見て、ぱっと顔を明るくした。 「修司さん、見て」  画面には、糀のアカウント名が表示されていた。  《糀ごよみ様 新規企業案件のご相談》 「ほら。もう、私のところに来てる」 「受けないで」  糀は美咲のスマートフォンを奪おうと手を伸ばしたが、美咲はすぐに身をかわした。 「どうして? 条件書に書いてあるでしょう」
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第12話 その書類にサインする必要はありません

 その日の夜、祖母の店の鍵は、修司の上着のポケットから見つかった。 「店の書類を確認しただけだ」  何を探していたのか尋ねても、修司は答えなかった。  あの時は、家族なのだからと自分を納得させた。けれど、本当にそれだけだったのだろうか。  祖母が店を糀へ残したと知ると、修司はその価値だけを何度も確かめた。あの時、鍵を持ち出した修司を問い詰めていれば、ここまでされずに済んだのだろうか。家族だからと飲み込んだ自分が悔しかった。  あの店は、糀が帰れる最後の場所だった。  料理を続けられる場所だった。  祖母の名前を、まだ自分の手で守れる場所だった。  祖母は店を閉めたあと、三席のうち一つに糀のまかないを置いてくれた。 「ここは、糀がいつ帰ってきてもいい場所だからね」  湯気の向こうで笑った祖母の顔を、今も覚えている。あの席まで、この人たちの金に換えさせるわけにはいかなかった。  義母が身を乗り出した。 「あんな古い店、あなた一人でどうするの。私たちなら有効活用できるわ。売れば少しはお金になるでしょうし」  大事な店だ。  どうして、勝手に売る話になっているの。 「売りません」  美咲が、画面から顔を上げた。 「でも、撮影場所にはよさそう。古民家風って今、需要あるんです。私の料理を撮る背景にしたら、糀ごよみの雰囲気も残せるし」  料理だけではない。  名前だけでもない。  祖母の店まで、飾りにするつもりなのだ。 「嫌です」  糀は言った。 「その店には署名しません」 「専門家に確認した。お前が署名すれば、移転手続きは進められる」 「専門家って誰ですか」 「お前が知る必要はない」  譲渡同意書。  店舗。  所有者欄には、糀の名前が印字されている。  署名欄だけが、空白だった。  糀はスマートフォンを持ち上げ、書類を撮った。 「撮るな」  修司が手を伸ばした。  糀は一歩下がった。 「嫌です」  二度目の「嫌です」は、食卓の全員に届く声だった。  修司が目を見開く。  今まで大人しく従っていた妻が、初めて拒んだことに驚いたようだった。 「証拠にします」 「何の証拠だ」 「私のものを、私の同意なく奪おうとした証拠です」  糀は震える指で、もう一枚撮った。譲渡条件、店舗の住所、空白の署名欄。今ま
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第13話 この方の店は、私のものです

「その書類にサインする必要はありません」  低い声が、食卓の空気を切った。  手首を掴まれ、髪を乱したまま、糀はゆっくり顔を向けた。  そこに立っていたのは、黒いスーツの男だった。  長いコートの肩に、外の冷たい空気が残っている。  背が高い。  整った顔立ちと、まっすぐな目。  それだけで、狭い玄関の空気が変わった。  その一歩後ろに、眼鏡をかけた男性が控えていた。 「誰だ、お前」  修司が、糀の手からペンを離さないまま言った。  男は一歩だけ食卓へ近づいた。 「神楽坂です」  男は修司へ鋭く冷たい目を向け、名刺を一枚、食卓の端へ置いた。  美咲は、企業案件の返信画面を開いたまま固まった。  さっきまで糀を嘲っていた美咲が、急におとなしくなった。その視線は、目の前の男の顔に吸い寄せられていた。  けれど、美咲はすぐに顎を上げた。  修司が名刺へ目を落とす。 「神楽坂フードホールディングス……代表取締役」  修司の声が、少しだけ弱くなる。 「こんな名刺、本物かどうか分からないじゃない」  美咲が唇を尖らせた。 「糀ちゃんみたいな人が、大企業の社長に相手にされるはずない。誰か雇ったんじゃないの?」  義母も鼻で笑う。 「地味で取り柄もないくせに、突然男を呼んで助けてもらおうなんて。体を使うことは覚えたの?」  煌は眉をひそめただけで、何も言い返さなかった。 「自分のことは棚に上げて、俺を責めるのか」  修司の指に力が入った。  痛みで、糀の息が止まる。  録画データはある。  今ここで出せば、修司と美咲が何を話していたかは示せる。  けれど、修司は蒼太を盾にしている。  祖母の店の書類も、まだ食卓に置かれている。  怒りに任せて、ここで切るカードではない。  あの動画は、後で必ず使う。 「その手を離してください」  煌の声は冷静だった。けれど、修司を見る目は鋭く、言葉の一つひとつが低い。糀には、彼が怒りを抑えているように見えた。  修司の指が止まる。  修司は言い返そうとして、口を開いた。  けれど、すぐには声が出なかった。  さっきまで糀の手首を掴み、食卓の全員を従わせていた人が、たった一言で動きを止めている。  それなのに、修司の肩が少し引けて見えた。  糀は初めて、修司が大きな
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第14話 あの子に、あの味を託す

「この方の店は、私のものです」  食卓が静まり返った。  糀も、すぐには意味が分からなかった。  祖母の店。  澄乃。  あの古い店が、どうして神楽坂煌のものになるのだろう。 「何を言ってるんだ」  修司が先に声を荒らげた。 「あれは糀の祖母の店だ。だからこっちで話をしている」 「その話を、今ここで進めることはできません」 「できる。専門家に確認した」  修司は譲渡同意書を掴んだ。 「糀が書けば、移転手続きは進む」 「いいえ」  煌の声は変わらなかった。  内ポケットから封筒を取り出し、中の書類を一枚だけ食卓に置く。 「正確には、三浦澄江さんと神楽坂家の間に覚書があります。条件が満たされるまで、あの店を瀬川家へ移すことはできません」 「覚書?」  糀は思わず聞き返した。  三浦澄江。  祖母の名前だった。  書類の上にも、その名前が印字されている。 「そんな昔の覚書が、今も有効なの?」  美咲が唇を尖らせた。 「条件が何か知らないけど、おばあさんはもう亡くなってるんでしょう。今さら昔の約束なんて関係ないじゃない」  煌の目が、わずかに冷たくなった。 「亡くなったからといって、交わした約束が消えるわけではありません」  美咲が何か言い返そうとしたが、煌は相手にしなかった。 「あなた方がどう思おうと、私には関係ありません。今日は三浦さんと話をするために来ました」  義母は不満そうに口を曲げた。 「でも、あんな古い店でしょう。修司が修繕費を出したこともあるのよ。家族で使うなら、何が悪いの」  嘘だ。  修繕費は、祖母の残したお金と糀の貯金から出した。  修司は、見積書を見ようともしなかった。  でも、あの店は祖母の店だ。  糀が子どもの頃、学校帰りに座ったカウンターがある。  祖母が漬物を切り、味噌汁を出してくれた場所だ。  どうして、この人たちは勝手に売る話をしているのだろう。 「だいたい、糀ちゃん一人であの店をどうするの」  美咲が言った。 「料理だって地味だし、店も古いし。私たちならもっときれいにできる。売るにしても、使うにしても、その方がいいでしょう」  その言い方に、糀は指先を握った。  売る。  使う。  祖母が大事にしていた場所を、どうしてそんなに簡単な言葉で片づけられ
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第15話 この一億円の案件って、本当ですか?

 《あの子に、あの味を託す》  さっき煌が出した古い紙に書かれていた一文が、糀の頭から離れなかった。 「あの子」とは、誰のことなのか。 「あの味」とは、いったい何のことなのか。  祖母は亡くなる前、「すべての味をお前に教えた。これからも、ちゃんと受け継いでいってほしい」と言っていた。  あの言葉には、まだ糀の知らない意味があったのだろうか。  答えを知っているのは、目の前の煌だけだった。 「何だ、それは」  修司が封筒へ手を伸ばした。  その前に、煌が一歩動いた。 「触らないでください」  声は静かだったが、修司を拒む苛立ちがはっきり伝わった。  糀は思わず煌を見た。  この紙に触れられることを、彼は本気で嫌がっている。 「権利の話は、正式な場で確認します。少なくとも、今ここで三浦さんに署名させて進める話ではありません」 「夫婦の離婚に、知らない男が出てくるなんておかしいだろ」 「おかしいのは、相手の手首を掴んで署名させようとしたことです」  修司の顔が赤くなった。  糀は、思わず自分の手首を押さえた。  赤い跡が残っている。 「三浦さん」  煌が声を落とした。 「今夜、この家に残りますか」  糀は、すぐには答えられなかった。  修司も義母も、美咲もいる。  蒼太は食卓の端で、まだスマートフォンを握っている。  ここに残れば、また同じことが始まる。  署名しろ。  母親なら折れろ。  何もできないくせに。  そう言われ続ける。 「勝手に決めるな」  修司が割り込んだ。 「離婚届も店の書類もまだだ。今出ていくなら、蒼太には二度と会わせない」 「母親のくせに、子どもを置いて逃げるのね」  義母が言った。 「最後まで被害者みたいな顔して」  美咲も吐き捨てた。  蒼太に会える約束はない。  生活費もない。  糀ごよみも戻っていない。  何ひとつ取り戻せていない。  蒼太を見る。  名前を呼びたかった。  一緒に行こうと言いたかった。  けれど、蒼太は美咲のスマートフォンを握ったまま、顔を上げなかった。  運動会で「お手伝いさん」と言った声が、耳に残っている。  それでも、蒼太を嫌いになれるわけがない。  蒼太はまだ、周囲の大人に影響されている子どもなのだ。  だからこそ、今
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第16話 一億円の案件? あなたに払うお金は一円もありません

「三浦糀さんに依頼したつもりでした」  煌は、まっすぐ美咲を見た。 「あなたではありません」  美咲の口が止まった。  一瞬、意味がわからなかったように目を瞬かせる。やがて、作り笑いの端がひくりと引きつった。  悔しそうに、その顔が歪む。  糀も息を止めた。  彼はまた、自分の旧姓を呼んだ。  三浦糀。  もう捨てたはずの名前なのに、煌が口にすると、不思議と自分自身を取り戻したような気がした。 「どういう意味よ」  美咲はすぐに笑顔を作り直した。 「今は私が糀ごよみを管理しています。企業案件なら、私を通していただかないと」 「必要ありません」  煌は取り合わなかった。  隣に控えていたタブレットを持つ眼鏡の男性へ、淡々と顔を向ける。 「糀ごよみ宛ての交渉を止めてください。三浦さん本人以外からの返信には応じないよう、関係部署にも伝えて」 「承知しました」  男性がその場でタブレットを操作し始めた。  あまりにも迷いのない動きに、美咲の顔から余裕が消える。 「待ってください」  声が上ずった。 「もう打ち合わせも進めているんです。一億円を超える案件なのに」 「だから止めるんです」  煌は美咲を見ようともしなかった。 「投稿者本人ではない方へ、支払う理由はありません」  修司が椅子を蹴って立ち上がった。  脚が床を擦り、耳障りな音を立てる。 「他人が夫婦の金に口を出すな」 「三浦さんの仕事に対する依頼です。あなたへの依頼ではありません」 「なんだと」  修司が一歩踏み出す。  しかし、眼鏡の男性がすっと煌の前へ立つと、勢いを失ったように足を止めた。  そこへ義母が割って入る。 「待ちなさい」  義母は煌を頭の先から足元まで値踏みするように眺め、鼻で笑った。 「一億円の案件なんて、話がうますぎるでしょう。最初に大金を見せて信用させて、あとから保証金や手数料を払わせる詐欺よ。今は本物の会社や社長の名前だって使うんだから、検索で顔が出たくらいで信じちゃだめよ」  そして、煌から渡された名刺を指先で弾く。 「それに、この男はさっきから『三浦さん』と呼んでいるじゃない。糀と特別な関係だから、こんな芝居までしているのよ。本物の社長が、こんな女のために家まで来るわけがないでしょう」  美咲はスマートフォンの
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第17話 料理に込めた愛情は、捨てるものじゃない

 義母は糀をにらんだ。 「男に助けてもらって、いい気にならないことね」  糀は、修司と義母と美咲の顔を順に見た。誰も、自分たちが糀にひどい仕打ちをしているとは思っていないようだった。  頬に書類を投げつけられ、手首を掴まれても、それさえ気にしていなかった。  この家で糀は、妻でも母でもなく、料理と金を差し出す人間として扱われてきた。最初から、一人の人間として大切にされていなかったのだ。  もう、ここに残る理由はなかった。 「今夜、この家を出ます」  糀は言った。  修司も義母も、美咲も黙った。  自分の声が思ったよりはっきり出たことに、糀自身が驚いた。 「ただし、離婚届にも、店の書類にも、今日は署名しません」 「蒼太を捨てるのか」  修司がすぐに言った。 「捨てません。私がここに残らないことと、蒼太を捨てることは違います」  蒼太は美咲のスマートフォンを握ったまま、顔を上げなかった。  名前を呼びたかった。  一緒に行こうと言いたかった。  それでも、今ここで泣いて頼めば、修司はまた蒼太を盾に、理不尽な要求を突きつけてくるだろう。  義母が蒼太へ声を張り上げた。 「蒼太、何をぼんやりしているの。お母さんが知らない男についていこうとしているのよ!」  美咲が蒼太へ目配せした。 「ママ、この男の人と行くの? 僕を捨てるの?」  糀の足が止まった。  本当なら、今すぐ蒼太を連れて出たかった。けれど、今夜の寝場所すら決まっておらず、煌が何者なのかも分からない。このまま蒼太まで連れ出す方が、無責任なのかもしれない。  糀は唇を噛み、蒼太を見た。 「蒼太。あなたを捨てるんじゃない。それだけは信じて」  声が震えないように、ゆっくり言った。  蒼太はようやく顔を上げた。スマートフォンを握る指が、わずかに震えていた。  その瞳に戸惑いが浮かんでいる。糀は、ここまで傷つけられるまで家を出られなかった自分を責めた。  もっと早く、この子を大人たちの嘘から守るべきだった。 「必ず、また話をしに来るから」  返事はなかった。  糀は唇を噛み、蒼太へ背を向けた。  玄関へ向かう前に、糀は台所へ戻った。  食卓には、誰にも箸をつけられなかった料理が、そのまま残されている。  照りよく仕上げた肉も、なめらかに蒸し上がった茶碗
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第18話 それでは、また後で

 玄関では、煌が糀を待っていた。 「送ります」  煌が言った。 「大丈夫です」  糀は首を振った。 「自分で行きます」 「送ります。あなたが一人で歩けることと、今夜一人で歩かせていいかは別です」  玄関を出ると、冷たい風が頬を打った。  門へ向かう一歩ごとに、八年間守ろうとしてきた暮らしが終わっていく。苦しくても、糀は前を向いた。 「絶対に後悔させてやる!」  背後で修司が怒鳴った。  糀の足が止まる。  けれど、振り返らなかった。振り返れば、また八年間と同じように言いくるめられる気がした。  目の前にいる男が、本当に自分を助けてくれるのかは分からない。  ここを出た先に、今よりひどいことが待っているかもしれない。  それでも、もうこの家には戻れなかった。  玄関の扉を開けた煌が、糀を振り返った。  その視線が、糀の左手首で止まる。  袖口から、小さな火傷跡がのぞいていた。  一瞬だけ、煌の目が揺れた。  どうして、そんな顔をするのだろう。  糀が手首を隠すより先に、煌が手を差し出した。 「行きますよ」  迷っている暇など与えないような口調だった。  糀はその手を見つめたあと、そっと重ねた。  大きな手が、逃がさないように糀の手を握る。  糀は煌に導かれ、八年間暮らした家を出た。  眼鏡の男性が追いついた。 「瀬川氏たちは家へ戻りました。書類の内容も控えました。車は門の前です」 「明朝、法務へ」  眼鏡の男性はうなずいた。  煌は後部座席のドアを開けた。  さきほどタブレットを出した眼鏡の男性が、運転席へ回る。 「乗ってください」  糀は開いたドアの前で足を止めた。  黒い革張りの座席を見た途端、知らない男性の車に乗ろうとしているのだという怖さが込み上げる。それ以上に、蒼太を残した家から、本当に離れてしまうことが苦しかった。  料理の入った鞄を抱きしめ、明かりのついた家を振り返る。 「ここに残れば、また息子さんを使って署名を迫られます」  冷静な声だった。  迷っている糀を慰めるのではなく、今しなければならないことを示すような口調だった。  糀は唇を引き結び、車へ乗り込んだ。煌も反対側から隣に座る。二人の間には、料理の入った鞄一つ分の距離が空いていた。  知らない男性が隣にいることに
last updateآخر تحديث : 2026-08-25
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第19話 やっぱり変な人だ

 黒い車が見えなくなってから、糀は息を吐いた。  夜の歩道に一人で立っている。  財布の現金は多くない。  糀ごよみの収益口座も、今はどうなっているか分からなかった。  それでも、知らない男性について行くことはできなかった。  祖母の店までなら歩いていける。住宅ではないが、奥には仮眠用の小部屋がある。一晩くらいなら、そこで過ごせるだろう。  子どものころに何度も通った道だ。  糀は鞄を抱え、商店街の方角へ歩き出した。  祖母の周りには、いつも人がいた。  漬物の作り方を教えてほしいという人。  味噌蔵や料理屋の人。  遠くから祖母の料理を食べに来る人。  祖母は来る人を拒まなかった。  教えてほしいと言われれば、惜しまず手を動かして見せた。  その中に、一人だけ、祖母の新しい料理を自分のものとして発表した人がいた。  祖母が何か月も試していた漬け床の配合を持ち出し、先に自分の名前で料理雑誌へ載せた。  祖母の方が盗んだのではないかと疑われた。  誤解が解けるまで、祖母は何度も頭を下げた。  糀は、その背中を見ていた。  だから、理由もなく助けてくれる人はいないと思っている。  優しい顔で近づいた人が、何を欲しがっているのか分からないうちは、信じてはいけない。  煌は祖母のことを知っている。  古い覚書も持っていた。  糀の料理を探していたと言った。  それだけに、警戒しなければならなかった。  角を曲がると、後ろから一定の速さで靴音が聞こえた。  糀が振り返る。  誰もいない。  少し離れた路地に、さっきの黒い車が止まっていた。  その横を、背の高い男が歩いている。 「神楽坂さん?」  糀が声を上げると、煌の足が止まった。 「どうして、歩いているんですか」 「あなたが一人で歩くと言ったので」 「だからって、ついてきたんですか」  煌の後ろから、眼鏡の男性が困った顔で近づいてきた。 「社長。やはり車でお送りした方が早いのでは」 「断られた」 「では、車で後ろから」 「それでは怖がらせる」 「歩いてついていく方も、十分怖いと思います」  煌は黙った。  糀は思わず、ほんの少しだけ息を漏らした。  笑ったのだと気づいて、すぐに口元を押さえる。  家を出てから、初めてだった。 「なぜ
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第20話 あなたの店です

「どうして、あなたがこの店を直しているんですか」  糀が聞くと、煌は階段から立ち上がった。糀の警戒を確かめるように目を細める。 「どうやら、まだ足りなかったようですね」 「何がですか」 「あなたに、私を信じてもらうためにしたことが」 「信じる、ですか」  初対面で、何を考えているのかも分からない相手だ。しかも糀は、ついさっきまで家族に騙されていた。簡単に信じられるはずがない。  それなのに、なぜだろう。煌がほんの少し、がっかりしたように見えた。  けれど、その目は揺らいでいなかった。まるで糀がいつかここへ戻ることを、祖母から聞いていたかのように。  ――何なの、この人は。 「澄江さんから、店の管理を預かっていたからです」 「祖母から?」 「亡くなる少し前に、合鍵と、必要な補修をする権限を預かりました」 「どうして、あなたに?」  煌は、すぐには答えなかった。 「それは、今ここで私の口から話すべきことではありません」 「祖母は、私には何も言いませんでした」 「あなたが自分でここへ戻るまでは、知らせないでほしいと言われていました」 「どうしてですか」 「その理由は、澄江さんが残したものを、あなた自身で確かめてください」  糀は煌の顔を見た。  祖母の判断を当然のように信じる眼差しには、妙な説得力があった。まるで、糀より長く祖母の秘密を預かってきた人のようだ。  けれど、祖母の常連や友人の中に、こんなに若い男性はいなかった。なぜ祖母がこの人を選んだのかは、まだ何も分からない。 「店は、どこまで直したんですか」 「雨漏りと、危険な箇所だけです。看板もカウンターも、澄江さんが残した形をできるだけ残しています」  糀は鞄から自分の鍵を出した。  きしんでいたはずの戸は、前より滑らかに開いた。  店内には、小さな照明がついていた。  古い木の匂いは残っている。  けれど、床は磨かれ、カウンターもきれいになっていた。  カウンターの前には、背もたれのある木の椅子が三脚並んでいた。  古い椅子だったが、座面は新しく張り替えられ、脚も丁寧に磨かれている。  新しく作り替えたのではない。  傷のある柱も、色の濃くなった棚も、そのまま残されている。  糀はカウンターに近づいた。  祖母がいつも布巾で拭いていた場所が、昔
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