「もう安心してサインすればいい」 修司の投げたペンが、食卓の上で転がった。 糀は条件書を見下ろした。 《料理SNS『糀ごよみ』の譲渡について》 全投稿。 フォロワー。 広告収益。 企業案件窓口。 八年かけて積み上げたものが、ひとまとめにされていた。新しい料理を調べたり、家族が喜ぶメニューを考えたり、夜中までコメントを返したりした時間も、修司には譲渡欄の一項目でしかない。悔しくて、紙を持つ指に力が入った。 「これは、私のアカウントです」 「家にいる間に作ったものだろ」 修司は当然のように言った。 「料理も材料も、家のものを使っている。瀬川家の資産と考えるのが自然だ」 「私が撮って、私が文章を書いて、私が返事をしてきました」 「だから何だ」 義母が鼻で笑った。 「糀ごよみなんてダサい名前で、中身も地味だけど、月に少しお金が入ったんでしょう。家のことを放って外で仕事をした気にならないで」 「署名はしません」 糀は言った。 「条件を全部確認して、必要なら専門家に相談します」 「大げさだな」 修司は笑った。 「お前に相談できる相手なんているのか」 美咲が、わざとらしく心配そうな顔をした。 「糀ちゃん、一人で暮らせる? 家を出たら、すぐ困るんじゃない?」 「当面の生活費は出さない」 修司は次の紙を出した。 「慰謝料もなし。お前が勝手に出ていくんだ。蒼太との面会は、月一回。こちらが認めた場合だけだ」 家を出る日は、修司が指定する。 婚姻中に得た収入は、瀬川家への協力分として扱う。 「蒼太を条件にしないで」 「なら早く署名しろ」 修司の声は低くなった。 「何でも言うことを聞いてきたんだ。今さら揉めるな」 蒼太は、食卓の端で黙っていた。 美咲のスマートフォンを握ったまま、糀を見ようとしない。 その時、美咲のスマートフォンが鳴った。 美咲は画面を見て、ぱっと顔を明るくした。 「修司さん、見て」 画面には、糀のアカウント名が表示されていた。 《糀ごよみ様 新規企業案件のご相談》 「ほら。もう、私のところに来てる」 「受けないで」 糀は美咲のスマートフォンを奪おうと手を伸ばしたが、美咲はすぐに身をかわした。 「どうして? 条件書に書いてあるでしょう」
آخر تحديث : 2026-08-20 اقرأ المزيد