店の時計は、もう十時を過ぎていた。 「その香りは……澄江さんの味噌ですね」 煌は布巾の包みを見たまま、喉を一度動かした。 「分かるんですか」 「子どものころに食べました。大人になってからも何度か。同じ材料を揃えさせても、この香りにはならなかった」 それほど祖母の料理を知る人なのに、糀には店で会った記憶がない。尋ねても、煌は過去を話すつもりがないらしい。 けれど、包みから離れられない顔をした祖母の客を、追い出す理由もなかった。 「今夜、誰も食べなかった料理ですけど……一緒に食べますか?」 「いいんですか」 「残り物です」 「食べたいです」 返事が早かった。 布巾をほどく。 豚肩ロース。 茶碗蒸し。 蕪ときゅうりの味噌ヨーグルト漬け。 家で出した時と同じ料理だ。それでも今は、皿へ目を輝かせて待つ人がいる。 祖母の声が浮かんだ。 どんな時でも、ご飯だけはちゃんと食べなさい。 何より大切なのは、まず生きることだから。 夫の裏切りを知った。 息子にお手伝いさんと言われた。 家を出た。 離婚も、蒼太のことも、糀ごよみのことも、何一つ決まっていない。 それでも、食べなければ明日のことを考えられない。 「温めますね」 糀は厨房の道具を確かめ、茶碗蒸しを湯煎にかけた。 豚肩ロースは薄く切り、古い鉄のフライパンで表面だけを軽く焼き直す。 漬物は小皿へ移した。 自分のためだけに食卓を整えることが、ひどく久しぶりだった。 糀はもう一膳と小皿を出した。 糀がカウンターの一席へ座ると、煌も隣の席に腰を下ろした。 「いただきます」 一口食べる。 肉は冷めても固くなっていなかった。 茶碗蒸しの白味噌も、濃すぎない。 いつもの味だった。 朝から何も食べていなかったことに、食べ始めてから気づいた。 運動会では水しか飲めなかった。 家へ戻ってからは、離婚届と書類のことで頭がいっぱいだった。 一切れ飲み込むと、冷えていた指先が少しずつ動くようになった。 泣くことも、怒ることも、これから考えればいい。 今はまず、明日の朝まで体をもたせる。 家族にいらないと言われても、味まで悪くなったわけではない。 「無理に褒めなくていいです」 「無理はしません」
آخر تحديث : 2026-08-26 اقرأ المزيد