All Chapters of 結婚記念日に夫と愛人のウェディングフォトを見つけました。離婚した私、偏食CEOに溺愛され元夫が復縁を迫ってきてももう遅い: Chapter 21 - Chapter 30

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第21話 毎日でも食べたくなるほどの価値があります

 店の時計は、もう十時を過ぎていた。 「その香りは……澄江さんの味噌ですね」  煌は布巾の包みを見たまま、喉を一度動かした。 「分かるんですか」 「子どものころに食べました。大人になってからも何度か。同じ材料を揃えさせても、この香りにはならなかった」  それほど祖母の料理を知る人なのに、糀には店で会った記憶がない。尋ねても、煌は過去を話すつもりがないらしい。  けれど、料理の包みを見つめたまま動かない祖母の客を、追い出す理由もなかった。 「今夜、誰も食べなかった料理ですけど……一緒に食べますか?」 「いいんですか」 「残り物です」 「食べたいです」  返事が早かった。  布巾をほどく。  豚肩ロース。  茶碗蒸し。  蕪ときゅうりの味噌ヨーグルト漬け。  家で出した時と同じ料理だ。それでも今は、皿へ目を輝かせて待つ人がいる。  祖母の声が蘇った。  どんな時でも、ご飯だけはちゃんと食べなさい。  何より大切なのは、まず生きることだから。  夫の裏切りを知った。  息子にお手伝いさんと言われた。  家を出た。  離婚も、蒼太のことも、糀ごよみのことも、何一つ決まっていない。  それでも、食べなければ明日のことを考えられない。 「温めますね」  糀は厨房の道具を確かめ、茶碗蒸しを湯煎にかけた。  豚肩ロースは薄く切り、古い鉄のフライパンで表面だけを軽く焼き直す。  漬物は小皿へ移した。  自分のためだけに食卓を整えることが、ひどく久しぶりだった。  糀はもう一膳と小皿を出した。  糀がカウンターの一席へ座ると、煌も隣の席に腰を下ろした。 「いただきます」  一口食べる。  肉は冷めても固くなっていなかった。  茶碗蒸しの白味噌も、濃すぎない。  いつもの味だった。  朝から何も食べていなかったことに、食べ始めてから気づいた。  運動会では水しか飲めなかった。  家へ戻ってからは、離婚届と書類のことで頭がいっぱいだった。  一切れ飲み込むと、冷えていた指先が少しずつ動くようになった。  泣くことも、怒ることも、これから考えればいい。  今はまず、明日の朝まで体をもたせる。  家族にいらないと言われても
last updateLast Updated : 2026-08-26
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第22話 家族を捨てた人は、次の相手を見つけるのも早いのね

 空になった器を見ていた秘書が、眼鏡を押し上げた。 「よろしければ、社長のために料理を作っていただけませんか。報酬は正式にお支払いします」  煌の口元が、ほんのわずかに緩んだ。けれど、すぐ秘書を制した。 「今は仕事を頼む時ではありません。糀さんは家を出たばかりです」 「失礼しました」  社長と秘書なのに、互いに遠慮なく言えている。二人のやり取りを見て、糀は少しだけ肩の力を抜いた。  この人のために料理を作る仕事なら、悪くないかもしれない。けれど、大きな家の食卓で自分の料理が通用するのかは分からない。  迷っているうちに、煌が先に話を変えた。 「今夜は、どこで休むつもりですか」 「ここで」  糀は厨房の奥にある仮眠室へ目を向けた。 「ここには仮眠室しかありません」 「眠れれば十分です」 「十分ではありません。今夜の宿を手配します」  胸に生まれかけた安心が、すっと引いた。宿まで用意して、この人は自分に何を求めているのだろう。糀は鞄を抱き直した。 「あなたの家には行きません」  煌がわずかに目を瞬いた。 「私の家ではなく、神楽坂グループのホテルです」 「宿泊費は、自分で払います」  煌の眉がわずかに寄った。明らかに、自分が払うつもりだった顔だ。 「……分かりました」 「では、三浦様がご自身で負担しやすい価格帯のお部屋を手配します」  秘書がスマートフォンを取り出した。 「防犯は落とさないでください」 「もちろんです」  糀の条件をそのまま受け入れてくれたので、断る理由はなくなった。  店を出る前に、糀は戸締まりを確かめた。  自分の鍵で閉めたあと、煌も合鍵で施錠を確認する。 「明日、鍵を替えます」 「どうしてですか」 「瀬川家が複製している可能性があります」 「修司が?」 「今夜のことを考えれば、用心した方がいい」  怖かった。  けれど、考えたくないことを先に言ってくれるのは助かった。  黒い車へ戻る。 「ホテルへ行く前に、一度だけ自宅へ寄らせてください。明日の準備をしておきたいんです。十分で戻ります」「分かりました」 車は商店街を抜け、高い塀の続く道へ入った。  門の前で警備員が姿勢を正える。  車を見ただけで
last updateLast Updated : 2026-08-27
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第23話 ママ、もう新しい男の人のところにいるの?

 あっ、と気づいた。 家族で使っていた位置情報の共有を、まだ切っていない。 修司のスマートフォンからなら、糀がどこにいるのか確認できる。 だからといって、居場所を確かめに来て、隠れて写真まで撮ったのだろうか? 糀はすぐに位置情報の共有を解除した。 指先が冷たくなっていた。 家を出ても、まだ見張られていたのだ。 糀は写真とメッセージを自分の保存先へ移した。 ホテルへ着くと、支配人が玄関まで出迎えた。 「神楽坂様のお連れでしたら、本来は最上階のお部屋をご用意するところですが、久我原様からのご指示どおり、通常フロアの長期滞在向けのお部屋を確保しております」  糀は隣にいる煌を見た。 「宿泊料も、予約時のままでお願いします」  煌が念を押すと、支配人は深く頭を下げた。 「承知しております」  糀は鍵を受け取り、従業員と先に歩き出した。  数歩進んで振り返ると、煌が支配人と秘書を呼び止めていた。声までは聞こえなかった。  通常フロアの部屋を予約時の料金で用意してもらえた。  今夜だけは、その厚意に甘えることにした。  部屋の前で、煌は足を止めた。 「明日の朝、店のことを説明できる弁護士を連れてきます」 「神楽坂さんの話が本当だと、私自身で確かめられるように、ですか」  煌の視線が一度だけ落ちた。さきほど同じ膳を囲んでいた時の柔らかさが、煌の顔から消えた。ほんの少し、傷ついたように見えた。  まだ煌を信じ切れていないことが、彼を傷つけたのだろうか。 「はい。あなた自身が聞いて、決めてください」  傷ついたように見えたのに、声は変わらなかった。 「神楽坂さんは、どこへ」 「戻ります」  煌の顔には、糀より長い一日の疲れが見えた。ここまで送らせたうえ、また一人で帰らせることが気になった。 「もう遅いですよ」 「あなたが安心して眠れる方がいい」  迷いのない返事に、糀は扉を握ったまま何も言えなくなった。 「今日は、ありがとうございました」 「礼は、明日の書類を確認してからにしてください」  煌は小さく頷いた。 「おやすみなさい、糀さん」  扉が閉まる。  一人になった途端、体から力が抜けた。  部屋には大きなベッドと、白いシーツがあった。  
last updateLast Updated : 2026-08-27
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第24話 会いたいなら、今日こそ離婚条件に署名しろ

《本当に僕より、その人が大事なの?》  糀は何度も返事を書き直した。 《蒼太より大事な人はいないよ》 《ママは、無理やり書類に署名させられそうになったから家を出たの》 《知らない男の人の家には泊まっていないよ》 送信しても既読はつかず、電話も切られた。代わりに修司から届いた。 《蒼太を混乱させるな》 《会いたいなら、今日こそ離婚条件に署名しろ》  糀は画面を保存した。  証拠になると思った。けれど、保存しただけでは蒼太へ届かない。  どうして、また蒼太を使うの。  どうして、私の言葉だけが届かないの。  朝、部屋へ運ばれてきたのは、白粥と焼き魚、薄味の煮物だった。  ワゴンを押してきた女性従業員が、料理を並べながら何度も糀を見た。 「支配人、やっぱりこの方が、社長が昨夜――」 「お客様の前です。慎みなさい」 「何か?」 「社長に囲われている方なんですか?」 「お客様に、なんて失礼なことを!」  後ろにいた支配人が、慌てたように女性従業員を制した。 「申し訳ありません」  支配人が言った。 「神楽坂社長が、宿泊される方の朝食まで細かく指示されるのは珍しいので。塩分は控えめにして、温かいものを用意するように。それから、外部の人間をこのフロアへ近づけないようにと、昨夜、厳しく念を押されました」  女性従業員がさらに目を丸くした。 「警備まで……。てっきり、ご家族か、その……特別な方なのかと」 「違います。私には子どももいます。夫から逃げてきたところを、助けていただいただけです」 糀の答えを聞いた女性従業員の顔には、驚きがはっきりと浮かんだ。 まさか。あの生真面目で近寄りがたい神楽坂社長が、子どものいる人妻を……? 女性従業員の視線が、糀の顔から手首へ動いた。まだ何か聞きたそうな顔をしている。「申し訳ありません」 女性従業員は頭を下げたが、料理を並べながら小さく言った。「それでも、社長にここまで気にかけていただけるなんて、少しうらやましいです。社長が女性のお客様の食事まで確認されたのは、九条様がお泊まりになった時以来ですね」 支配人が咳払いをし、女性従業員は慌てて口を閉じた。 九条様とは誰なのだろう。  煌なら、恋人や配偶者がいてもおか
last updateLast Updated : 2026-08-27
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第25話 私は、あなたを知りません

 糀の喉が詰まった。 「……蒼太に、そんなものを見せたの」  蒼太は、それを見てどう思ったのだろう。 傷ついても、糀には言えずに我慢していたのかもしれない。  そう思うと、胸が痛んだ。 「だって、本当のことを知る権利があるもの」 「違います。私は無理に署名させられそうになって、一人でホテルに避難しただけです」  修司が鼻で笑った。 「じゃあ、あの男の家じゃなくて、そのままホテルに行ったんじゃないのか?」 「ホテルまでは送ってもらいました。でも、泊まったのは私一人です」 「写真があるんだよ」 「写真に写っているだけで、同じ部屋に入った証拠にはなりません」  弁護士が間に入った。 「昨日の署名強要、面会を条件にした発言、今の発言も記録対象です」 「お前は?」 「神楽坂の顧問弁護士です」 「まだその芝居を続けるのか。その女に、弁護士代なんか払えるわけがないだろ!」  修司の声が荒くなった。 「どうせ男の金だ。やっぱり不倫じゃないか」 「助けてもらっただけです。私は、あなたとは違います」 「母親のくせに、男に守ってもらって恥ずかしくないの」  義母が木箱を抱え直した。 「この店を売れば、蒼太のためにもなるのよ。あなたが意地を張るから、みんな困っているの」  糀の指が、強く握り込まれた。  これまで糀は、自分が怒っていいのか分からなかった。 妻だから。母親だから。 そう言われるたびに、いつも我慢してきた。  けれど、祖母の店を荒らし、蒼太に嘘まで聞かせたのは彼らだ。 もう、黙っている理由はなかった。  糀は三人をまっすぐ見た。 「蒼太のためなら、どうして蒼太に嘘を聞かせるんですか」  自分でも驚くほど、強い声が出た。  修司が一瞬黙り、美咲も口を閉じた。義母の手も、木箱の上で止まった。  けれど、義母はすぐに「ふん」と鼻を鳴らした。  義母の目が細くなった。 「嫁のくせに、口答えだけは一人前ね」  糀は祖母の木箱へ手を伸ばした。  その前に、修司が立ちはだかる。 「署名しろ」 「しません」 糀は、修司をまっすぐ見返した。  糀が書類を押し返すと、修司が腕を振り上げた。 糀の肩が、わずかに震える。 それでも、目は逸らさなかった。 弁護士が間へ入り、その腕を肩で受け止める。「暴力も記
last updateLast Updated : 2026-08-29
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第26話 もう、その言葉で黙りません

 十分前――神楽坂グループ本社、会議室。 主要株主たちを前に、次の議案を説明していた煌のもとへ、顧問弁護士から緊急の連絡が入った。 煌は資料を閉じ、すぐに立ち上がった。「会議を中断します。続きは午後四時から」「お待ちください」 一人の取締役が、静かに声を上げた。「この議案は、社長の承認なしでは進められません。今ここで中断するわけにはいかないでしょう」 煌が、その男を見る。「緊急事態です」「ですが、会社の重要な案件でもあります」 男は引かなかった。「秘書に任せればいいでしょう。社長自ら行く必要がありますか?」 煌は男を見たまま、短く答えた。「急ぐ必要もなかった会議を、急に前倒ししたのは、あなたですね」 男が、一瞬だけ黙った。 煌はその反応を見ただけで、何も言わずに会議室を出た。 エレベーターへ向かいながら、煌が秘書に告げた。「警備を現地へ。警察への連絡準備と、店内、通りの映像保全を。管理記録と合鍵の所在も確認してください」「はい。車は地下に待たせています」 煌は、さらに歩調を速めた。「一分でも早く」 ***  澄乃の前で、黒い高級車のドアが開いた。  現れたのは、すらりとした長身の煌だった。  上質なスーツを身にまとい、整った顔には冷静で揺るぎのない表情が浮かんでいた。歩く姿にさえ隙がなく、ただそこにいるだけで人の目を引いた。  その後ろには、十人もの警備員が続いていた。普段より明らかに多い。  煌は、騒ぎの中心にいる糀を見つけると、ほんの一瞬だけ目を細めた。  不意に、煌の視線が人混みの一点で止まった。糀もそちらを見ると、帽子とマスクをつけた人物が、ずっとスマートフォンをこちらへ向けていた。  煌に見られたと気づいた瞬間、その人物は慌ててスマートフォンを下ろした。  煌は秘書に低く告げた。 「あの撮影している人を、見張っておけ」  秘書が頷き、スタッフの一人が人垣の端へ移動した。  糀はようやく息を吐いた。来てくれた。その姿を見ただけで、震えていた足に少し力が戻った。  誰も声を荒げていない。それなのに、さっきまでの騒ぎが急に小さく見えた。  義母が鼻で笑った。 「愛人のお出ましね。黒い服を並べて脅すつもり?まさか極道じゃないでしょうね」  修司も、煌が社長だ
last updateLast Updated : 2026-08-29
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第27話 あなたが傷つけられることも、私は耐えられません

 修司は最後まで糀をにらんだが、警備員を見て外へ出た。 義母は渋々、木箱を床へ戻した。 美咲は見覚えのない女性へ一瞬だけ視線を送り、修司の腕を引いて義母も連れ出した。 見覚えのない女性も、人混みへ消えていた。 煌は倒れた椅子を起こし、散らされた道具を見回した。 「助けに来てくださって、ありがとうございました」  糀が頭を下げると、煌は首を横に振った。 「間に合わなくて、すみません」 「謝らないでください。私なら、何を言われても耐えられます」  糀は笑おうとした。けれど、うまく笑えている自信はなかった。  煌は答えず、無理に笑おうとする糀の顔を見つめた。眉間に深いしわが寄る。 「大丈夫でしたか?」 「はい……ただ、祖母が残してくれた店まで傷つけられるのは、耐えられません」  言い切った途端、声が震えた。 怖かっただけではない。悔しかったのだ。自分が否定されることには慣れてしまったのに、祖母が大切にしていたものまで踏みにじられるのは、どうしても許せなかった。 煌は糀の手を取った。指先まで冷えていることに気づくと、その顔がさらに険しくなった。 「震えています」 「もう、大丈夫です」 「大丈夫な人の手は、こんなに冷たくなりません」  責める口調ではなかった。糀を傷つけた者への怒りを、必死に抑えている声だった。 「店だけではありません」  煌は糀から目をそらさなかった。 「あなたが傷つけられることも、私は耐えられません」  低い声だった。迷いのない言葉なのに、糀の手を包む指にだけ力が入っていた。 「え……。祖母との約束があるから、ですか」  そう尋ねると、煌の眉がわずかに動いた。 「それだけなら、こんなことは言いません」 「では、どうして……」 「糀さんだからです」  煌は言い切った。 「神楽坂さんは、誰にでもそんなことを言うのですか」 「言いません」  間を置かずに返ってきた。 「失礼いたします」  映像を確認していた秘書が、タブレットから顔を上げた。 「社長が主要株主との会議を途中で出たのは、私が知る限り初めてです」 「余計なことを言わなくていい」  煌が低く止めると、秘書は「承知しました」と言いながら、わずかに口元を緩めた。  糀は初めて知った。煌は、誰にでも同じ言葉をかけ、同じように駆けつけ
last updateLast Updated : 2026-08-28
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第28話 もう、試験は始まっていた

 騒ぎから二時間後。  散らされた道具を戻し、店の鍵を交換すると、糀は三席の椅子を見渡した。  割られたものはない。 引き出しの中まで荒らされた跡が残っていた。  祖母が守ってきた店へ、修司たちは勝手に入り、売る話まで進めようとした。鍵を替えただけでは、奪われかけた事実は消えない。  それでも、三席はここにある。厨房も、祖母の道具も残っている。  この三席しかない店に客が入り、自分の料理を食べてくれる。  祖母のそばで店を手伝っていたころのように、仕込みをして、料理を出す。 目の前の客が一口食べ、幸せそうに笑ってくれる。  結婚してから、店の厨房を離れて八年になる。  でも、祖母の店を手伝った経験はある。調理師免許も持っている。 家族のためとはいえ、毎日料理を作り続けてきた。 何もできないわけではない。  ここからなら、もう一度始められるかもしれない。 家族に使われるためではなく、自分の料理で生きたい。  祖母の店と一緒に、自分の人生も取り戻したい。 「……私は、この店を開けたいです」 「決めるのは、あなたです。店の所有権も、料理の決定権も」 煌は弁護士から管理返還の書類を受け取り、糀の前へ置いた。「澄江さんから預かった管理権限は、今日であなたへ返します」  書類の最後には、糀の名前が記されていた。修司や義母の名前ではない。  祖母の店をどうするのか、自分で決めていいのだ。  糀は書類へ目を落とした。 「でも、店を開くにはお金がかかります」  糀ごよみの収益は、すべて家計へ入れてきた。営業許可を取り、食材や足りない設備を揃えられるだけの貯金は残っていない。  料理の仕事で得たお金なのに、自分の仕事を始めるためには使えなかった。今さら悔しがっても、必要な費用が生まれるわけではない。 「必要最小限の費用は、私が貸します。返済額と期限は弁護士を通して書面にする。店を担保に取る条項も、料理へ口を出す権利も入れません」 「そこまでしてもらう理由がありません」 「無条件で貸すとは言っていません」  煌は厨房へ目を向けた。 「貸す前に、今度は店で出すつもりの料理を食べさせてください」 「この間の料理では、足りませんか」 「そうではありません。あれは、ご家族のた
last updateLast Updated : 2026-08-28
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第29話 夫ではない男性の腕の中にいる

 糀はごくりと唾をのみ込み、振り返った。「鯛茶漬けを作ります」 近所の鮮魚店へ電話し、刺身用の真鯛を届けてもらう。米屋から新米を、発酵食品店から生タイプの醤油麹も取り寄せた。  届いた真鯛は、指で押すと、すぐに身が戻った。糀は包丁を研ぎ、まな板の前で一度だけ息を吐いた。  手は動いた。八年間、毎日使ってきた手だった。  真鯛は皮目だけを熱した鉄鍋へ押し当て、香ばしく焼く。身の透明感を残したまま薄く引き、深い藍色の皿へ花びらのように重ねた。  醤油麹は魚へ直接塗らない。炒った胡麻をすり、醤油麹とだしでのばし、澄乃返しを一滴だけ加える。真鯛の甘みを覆わない量を、身の上へ細く落とした。  土鍋の蓋を開けると、炊きたての米の香りが立った。昆布と鰹節で引いた金色のだしには、仕上げに古い梅酢を一滴落とす。酸っぱくするためではない。胡麻と鯛の脂を切り、最後に米の甘みを感じられるようにするためだ。  家では、家族の好みに合わせることを最初に考えた。  今日は違う。食べやすさも、満足感も大切にしながら、自分が客へ出したい順番で味を組み立てた。  糀は真鯛の皿と土鍋ご飯、だしの入った土瓶を一つの膳に載せた。  カウンターまで運ぶ間、食器が触れ合わないよう、両手へ力を入れた。煌は急かさず、運ばれてくる膳だけを見ている。 「炙り真鯛の醤油麹胡麻茶漬け膳です。最初は真鯛だけを。次はご飯に載せて、最後にだしをかけてください」 「これが、今の私の味です」  そう口にした途端、逃げたくなるほど緊張した。  けれど、もう膳は煌の前にある。  煌はまず、炙った真鯛だけを口に入れた。  次に、土鍋ご飯へ真鯛を載せる。そして最後に、金色のだしを注いだ。  表情は変わらない。けれど、箸は止まらなかった。  茶漬けを食べたところで、煌の手が口元へ上がった。咳ではない。何かを顔に出しそうになったのを隠したのだ。  値踏みではない。記憶の中にある味を探している。  煌はもう一口食べ、椀に残っただしまで飲みきった。 「家庭の味を、店で出す料理にしたんですね」  糀は返事ができなかった。 「……澄江さんの味を、継いでいる」  祖母の名を、この人は当たり前のように呼んだ。  けれど煌は、そこで頷かなかった。 「
last updateLast Updated : 2026-08-28
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第30話 私には必要です

 抱きしめられている。 まだ離婚も成立していないのに、夫ではない男性の腕の中にいる。 そう気づいた途端、顔が熱くなった。 離れなければと思った。けれど、体が動かなかった。 料理を認められたから泣いたのではない。 家族が見ようともしなかった八年間を、この人だけは、糀の手を見て認めてくれた。 もう一度、耳元で名前を呼ばれた。 糀さん。  糀は煌の胸元へ額を預けたまま動けなかった。  強く閉じ込める腕ではない。逃げようと思えば離れられる。それなのに、今は離れたくなかった。 「話したいのなら、私が聞きます」  出会ってまだ二日しか経っていない。ほとんど知らない男性に、家族のことを話すのは怖かった。 「話したら、笑われると思います」 「笑いません」  迷いのない返事だった。  糀は、震える声を抑えなが、言葉を選んだ。息を吸うたび、喉の奥が震えた。 「私たち、結婚して八年になるのに、一度も結婚写真を撮っていなかったんです。やっと撮れることになった日に、夫は来ませんでした」  あの日の写真館が浮かぶ。 「代わりに見たのは、夫と美咲が撮ったウェディングフォトでした。私が着るはずだったドレスで、二人が笑っていたんです」  最後の言葉だけ、声がかすれた。  煌の背に回された手へ力が入った。 「そんなこと、人がしていいんでしょうか」 「いいはずがありません」 「私が怒っても、いいことなんですよね」 「当然です」  糀は、その答えを誰かに言ってほしかったのだと分かった。  写真館から帰る間も、家へ戻って修司たちと向き合った時も、自分のどこが足りなかったのかを探していた。 もっと夫に優しくしていれば。 もっと見栄えのする料理を作っていれば。 蒼太が友達へ紹介したくなる母親でいれば。 悪い理由を自分の中に見つければ、八年間がすべて嘘だったと思わずに済んだからだ。  けれど、悪かったのは糀ではない。  そう認めた途端、抑えていた怒りが涙へ変わった。息を吸おうとしたのに、喉がひくりと鳴った。 「家へ帰ったら、美咲が私のエプロンを着けて、私の台所に立っていました。運動会では、蒼太が友達に美咲を『僕のお母さん』って紹介して……私は、お手伝いさんだって」  ひっ、と小さなしゃくりが漏れ
last updateLast Updated : 2026-08-30
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