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24 فصول

第21話 毎日でも食べたくなるほどの価値があります

 店の時計は、もう十時を過ぎていた。 「その香りは……澄江さんの味噌ですね」  煌は布巾の包みを見たまま、喉を一度動かした。 「分かるんですか」 「子どものころに食べました。大人になってからも何度か。同じ材料を揃えさせても、この香りにはならなかった」  それほど祖母の料理を知る人なのに、糀には店で会った記憶がない。尋ねても、煌は過去を話すつもりがないらしい。  けれど、包みから離れられない顔をした祖母の客を、追い出す理由もなかった。 「今夜、誰も食べなかった料理ですけど……一緒に食べますか?」 「いいんですか」 「残り物です」 「食べたいです」  返事が早かった。  布巾をほどく。  豚肩ロース。  茶碗蒸し。  蕪ときゅうりの味噌ヨーグルト漬け。  家で出した時と同じ料理だ。それでも今は、皿へ目を輝かせて待つ人がいる。  祖母の声が浮かんだ。  どんな時でも、ご飯だけはちゃんと食べなさい。  何より大切なのは、まず生きることだから。  夫の裏切りを知った。  息子にお手伝いさんと言われた。  家を出た。  離婚も、蒼太のことも、糀ごよみのことも、何一つ決まっていない。  それでも、食べなければ明日のことを考えられない。 「温めますね」  糀は厨房の道具を確かめ、茶碗蒸しを湯煎にかけた。  豚肩ロースは薄く切り、古い鉄のフライパンで表面だけを軽く焼き直す。  漬物は小皿へ移した。  自分のためだけに食卓を整えることが、ひどく久しぶりだった。  糀はもう一膳と小皿を出した。  糀がカウンターの一席へ座ると、煌も隣の席に腰を下ろした。 「いただきます」  一口食べる。  肉は冷めても固くなっていなかった。  茶碗蒸しの白味噌も、濃すぎない。  いつもの味だった。  朝から何も食べていなかったことに、食べ始めてから気づいた。  運動会では水しか飲めなかった。  家へ戻ってからは、離婚届と書類のことで頭がいっぱいだった。  一切れ飲み込むと、冷えていた指先が少しずつ動くようになった。  泣くことも、怒ることも、これから考えればいい。  今はまず、明日の朝まで体をもたせる。  家族にいらないと言われても、味まで悪くなったわけではない。 「無理に褒めなくていいです」 「無理はしません」
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第22話 家族を捨てた人は、次の相手を見つけるのも早いのね

 空になった器を見ていた秘書が、眼鏡を押し上げた。 「よろしければ、社長の料理を作っていただけませんか。報酬は正式にお支払いします」  煌の口元が、ほんのわずかに緩んだ。けれど、すぐ秘書を制した。 「今は仕事を頼む時ではありません。糀さんは家を出たばかりです」 「失礼しました」  社長と秘書なのに、互いに遠慮なく言えている。二人のやり取りを見て、糀は少しだけ肩の力を抜いた。  この人のために料理を作る仕事なら、悪くないかもしれない。けれど、大きな家の食卓で自分の料理が通用するのかは分からない。  迷っているうちに、煌が先に話を変えた。 「今夜は、どこで休むつもりですか」 「ここで」  糀は厨房の奥にある仮眠室へ目を向けた。 「ここには仮眠室しかありません」 「眠れれば十分です」 「十分ではありません。今夜の宿を手配します」  胸に生まれかけた安心が、すっと引いた。宿まで用意して、この人は自分に何を求めているのだろう。糀は鞄を抱き直した。 「あなたの家には行きません」  煌がわずかに目を瞬いた。 「私の家ではなく、神楽坂グループのホテルです」 「宿泊費は、自分で払います」  煌の眉がわずかに寄った。明らかに、自分が払うつもりだった顔だ。 「……分かりました」 「では、三浦様がご自身で負担しやすい価格帯のお部屋を手配します」  秘書がスマートフォンを取り出した。 「防犯は落とさないでください」 「もちろんです」  糀の条件をそのまま受け入れてくれたので、断る理由はなくなった。  店を出る前に、糀は戸締まりを確かめた。  自分の鍵で閉めたあと、煌の合鍵でも施錠を確認する。 「明日、鍵を替えます」 「どうしてですか」 「瀬川家が複製している可能性があります」 「修司が?」 「今夜のことを考えれば、用心した方がいい」  怖かった。  けれど、考えたくないことを先に言ってくれるのは助かった。  黒い車へ戻る。 「ホテルへ行く前に、一度だけ自宅へ寄らせてください」 「何かあるんですか」 「明日の準備をしておきたいんです。十分で戻ります」  車は商店街を抜け、高い塀の続く道へ入った。  門の前で警備員が姿勢を正える。  車を見ただけで門が開いた。 「ここが、ご自宅ですか」 「正確には神楽坂家の本
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第23話 ママ、もう新しい男の人のところにいるの?

 糀は写真とメッセージを自分の保存先へ移した。  ホテルへ着くと、支配人が玄関まで出迎えた。 「神楽坂様のお連れでしたら、本来は最上階のお部屋をご用意するところですが、久我原様からのご指示どおり、通常フロアの長期滞在向けのお部屋を確保しております」  糀は隣にいる煌を見た。 「宿泊料も、予約時のままでお願いします」  煌が念を押すと、支配人は深く頭を下げた。 「承知しております」  糀は鍵を受け取り、従業員と先に歩き出した。  数歩後ろで、煌が声を落とす。 「朝食は通常料金の範囲で、一番いいものを。不審な人物は絶対に近づけないでください。警備は最上階と同じ体制で」  秘書が眼鏡を押し上げた。 「部屋は通常でも、扱いは最上級ということですね」 「当然です」  小声だったが、そのやり取りは糀にも聞こえた。  普通の部屋を頼んだはずなのに、朝食と警備は最上級らしい。なぜそこまでしてもらえるのかは分からない。けれど、もう反論する力も残っていなかった。  今夜だけは、その厚意に甘えることにした。  部屋の前で、煌は足を止めた。 「明日の朝、店のことを説明できる弁護士を連れてきます」 「神楽坂さんの話が本当だと、私自身で確かめられるように、ですか」  煌の視線が一度だけ落ちた。さきほど同じ膳を囲んでいた時の柔らかさが、煌の顔から消えた。ほんの少し、傷ついたように見えた。  まだ煌を信じ切れていないことが、彼を傷つけたのだろうか。 「はい。あなた自身が聞いて、決めてください」  傷ついたように見えたのに、声は変わらなかった。  煌が部屋へ入ろうとしないことに気づく。 「神楽坂さんは、どこへ」 「戻ります」  煌の顔には、糀より長い一日の疲れが見えた。ここまで送らせたうえ、また一人で帰らせることが気になった。 「もう遅いですよ」 「あなたが安心して眠れる方がいい」  迷いのない返事に、糀は扉を握ったまま何も言えなくなった。 「今日は、ありがとうございました」 「礼は、明日の書類を確認してからにしてください」  煌は一歩下がった。 「おやすみなさい、糀さん」  扉が閉まる。  一人になった途端、体から力が抜けた。  部屋には大きなベッドと、白いシーツがあった。  糀一人のために用意された椅子も、タオルもある。
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第24話 この店から出て行って!

《本当に僕より、その人が大事なの?》  糀は何度も返事を書き直した。 《蒼太より大事な人はいないよ》 《ママは、無理やり書類に署名させられそうになったから家を出たの》 《知らない男の人の家には泊まっていません》  送信しても既読はつかず、電話も切られた。代わりに修司から届いた。 《蒼太を混乱させるな》 《会いたいなら、今日こそ離婚条件に署名しろ》  糀は画面を保存した。  朝、部屋へ運ばれたのは白粥と焼き魚、薄味の煮物だった。支配人から、煌が「外部の人間を部屋へ近づけないように」と指示していたことも聞いた。  昨夜、秘書へ小声で頼んでいたのは、このことだったのだ。  午前十時、ホテルのロビーに煌と弁護士が来た。  祖母の店は糀が受け継ぐ財産で、瀬川家が勝手に売ることはできない。煌は祖母から、店を傷ませないための管理だけを預かっていた。弁護士の説明は明快だった。  糀が親権について尋ねようと口を開いたとき、テーブルの上の煌のスマートフォンが震えた。 「会社で緊急の対応が必要になりました。弁護士と先に澄乃へ行ってください。必ず追いつきます」  糀は弁護士と二人で店へ向かった。  店の前には修司の車があり、引き戸が開いていた。  中へ駆け込むと、三脚のうち一脚が倒れ、引き出しの中身が床へ散っていた。美咲は棚へスマートフォンを向け、義母は祖母の木箱を勝手に開けている。 「何をしているの。出ていって!」 「話が先だ」  修司が新しい書類を糀の胸元へ押しつけた。 「男とホテルへ入った証拠がある。慰謝料を払うのはお前だ」 「ホテルで泊まったのは私一人です。今日も署名しません」  糀が書類を押し返すと、修司が腕を振り上げた。弁護士が間へ入り、その腕を肩で受け止める。 「暴力も記録します。これ以上近づかないでください」 「お前に、弁護士代なんか払えるわけがないだろ!」  修司は外へ出ると、通りへ向かって声を張った。 「この女は息子を捨てて、別の男とホテルへ行ったんです!」 「おばあさんの店まで男へ渡すつもりよ!」  人が集まり始めた。その中から、見覚えのない女性が前へ出る。 「澄江さんが知ったら悲しむわ。昔からの客も、みんなそう思っていますよ」  糀は女性の顔を見た。祖母の常連なら、結婚前に店を閉めないでと心配してくれた
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