All Chapters of 娘が舞台で「パパ」と呼んでいたとき、夫の居場所は?: Chapter 1 - Chapter 10

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第1話

家へ向かう車の中、美月は卒園式でもらった小さな花束を胸に抱いたまま、ずっと黙っていた。遼介に渡すつもりだったその花は、握りしめていたせいで少ししおれていた。赤信号で車を止めると、美月がふいに口を開いた。「ママ、あの子、なんでパパのこと遼介パパって呼んでたの?」私はハンドルを握ったまま、少し間を置いて答えた。「たぶん、冗談で呼んでただけじゃないかな」「パパ、あの子の靴ひもも結んでたよね」「うん」「おんぶもしてたよね」美月がどこまで見ていたのか、私にはわからなかった。ショッピングモールの1階には子ども向けの遊び場があり、遼介はそこであの子とずいぶん長いこと遊んでいた。クレーンゲームでぬいぐるみを取ってやり、しゃがんでスカートの裾を直し、歩き疲れた女の子を背負っていた。そんなふうに美月に付き合うことは、ほとんどなかった。私はずっと、遼介はそういう人なんだと思っていた。仕事が忙しく、もともとそっけない性格で、子どもの遊びに付き合うのが好きじゃないだけなんだと。美月が3歳のとき、一緒に積み木で遊んでほしいとせがまれても、10分もしないうちに仕事の電話が入り、遼介は席を立った。5歳の誕生日に遊園地へ行きたいと言ったときも、私にカードを渡して、二人で行ってくればいいと言っただけだった。去年の運動会の親子競技にも、遼介は来なかった。先生に遼介が来なかった理由を聞かれたときも、私は仕事が忙しいのだと説明した。そのうち、美月まで同じことを言うようになった。誰かに「パパは?」と聞かれるたび、決まってこう答えていた。「パパはお仕事なの。お金を稼がなきゃいけないから」私はそのたびに、遼介はただ忙しいだけなのだと美月に言い聞かせてきた。でも今日、それがただの思い込みだったと知った。遼介は30分もしゃがんだまま子どもの遊びに付き合い、女の子を肩車して、髪をぐしゃぐしゃにされても嫌な顔ひとつしなかった。それどころか、楽しそうに笑っていた。家に着くと、美月は花束を自分の部屋に持っていき、いつものように遼介の帰りを待つこともなかった。9時を回って、ようやく遼介が帰ってきた。靴を脱いでリビングに入ってくると、私を見て何気なく聞いた。「美月、もう寝た?」「寝たよ」「美月、ちゃんとできた?」私は顔を上げて遼介
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第2話

翌朝、美月はいつもよりずいぶん遅く起きてきた。部屋から出てきた美月は、ダイニングテーブルにいる遼介の姿を見ると、一瞬立ち止まった。いつもなら、朝起きると真っ先に遼介のところへ行くのに、その日は何も言わずに椅子に座り、うつむいたまま朝食に手をつけた。遼介も、いつもと違う美月の様子に気づいたようだった。「美月、昨日はごめんな。急に用事ができて、見に行けなくなって」美月は小さくうなずいた。「うん。大丈夫」そうやって物分かりよく振る舞う美月を見るほうが、かえってつらかった。遼介は用意していたプレゼントを美月の前に置いた。「ほら、これ。開けてみるか?」包みを開けると、中から出てきたのは、美月がずっと欲しがっていたブロックのおもちゃだった。けれど、美月はしばらく箱を眺めているだけで、思っていたほど喜ばなかった。「ありがとう、パパ」「気に入ったか?」「うん」美月は箱を脇に置き、また牛乳を飲み始めた。遼介は少し眉を寄せた。「今、作らないのか?」「ママが時間あるとき、一緒に作る」「パパも一緒に作れるぞ」その言葉に、美月が顔を上げた。「今日?」遼介は少し間を置いた。「今日は仕事があるから、週末にしよう」美月の目に浮かんだ期待は、すぐに消えた。「じゃあ、いい」遼介の表情が少し曇ったが、今度ばかりは私も何も言わなかった。朝食のあと、私は美月を連れて幼稚園へ忘れ物を取りに行った。戻ってくると、見慣れない車が家の前に停まっていて、そのそばに白いワンピース姿の女性が立っていた。香澄だった。私に気づくと、香澄はこちらへ歩いてきた。「橘真由さん、ですよね?」私はうなずいた。「何かご用ですか?」「昨日のこと、ちゃんとお話ししておいたほうがいいと思って」香澄は笑顔のまま続けた。「小春、前から遼介のことが大好きなんです。離婚してから少し不安定になってて……昨日は誕生日だったから、一緒にいてもらえないかって、私からお願いしたんです。だから、変に誤解しないでくださいね」三浦小春(みうら こはる)は、昨日遼介と一緒にいた香澄の娘だった。私は香澄を見た。「そういうふうには思ってません」あまりに平然とした私の返事が意外だったのか、香澄は一瞬戸惑ったような顔をした。少し間を置
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第3話

遼介を好きになってから1年半、ずっと私のほうから思いを寄せていた。大学を卒業してからは同じ街で働き、毎朝、遼介の分の朝食を用意して持っていった。遼介が残業する日は仕事が終わるまで待ち、胃が弱いと知ってからはおかゆの作り方も覚えた。冬に熱を出したときには、病院で一晩付き添ったこともあった。友人たちには、私ばかりが頑張りすぎだとよく言われた。でも、私は気にしていなかった。好きな人には何かしてあげたくなる。それが普通だと思っていたからだ。そんなある日、遼介が家まで送ってくれた。家の前まで来たところで、不意に名前を呼ばれた。「真由、俺と付き合わない?」あまりに突然で、私はしばらく返事もできなかった。その夜、家に帰るなり母に抱きついて泣いた。ようやく遼介に気持ちが届いたんだと思うと、涙が止まらなかった。でも今思えば、あの告白は驚くほどあっさりしていた。花束もなければ、告白らしい言葉もなく、「好きだ」のひと言さえなかった。それでも当時の私は、そんなことを気にも留めなかった。ロマンチックなことが苦手な遼介が、自分から付き合おうと言ってくれた。それだけで、十分愛されていると思えた。結婚するときも、プロポーズらしい言葉はなかった。ある日、遼介が婚姻届を手にして、「これ、出しに行くか?」と聞いてきただけだった。それでも、私はうれしくてたまらなかった。結婚してからの8年間も、遼介のほんの小さな反応ひとつで、愛されていると思えていた。食卓いっぱいに料理を並べて、遼介が「うまい」と言ってくれれば、それだけでその夜は幸せだった。出張帰りに空港で買ったチョコレートを一箱もらえば、もったいなくてなかなか食べられなかった。誕生日を忘れられても仕方ないと思った。記念日を祝わなくても気にしなかった。遼介が毎日ちゃんと家に帰ってきてくれれば、それでよかった。自分は、世間の多くの女性より幸せなんだとさえ思っていた。その日の午後、私は外付けHDDを元の場所に戻し、遼介には何も聞かなかった。夜、遼介が帰ってきたとき、私は浴室で美月の髪を洗っていた。遼介は浴室の入口に立つと、こちらを見た。「今日、香澄が来たんだろ?」私は手を止めた。「うん」「何て言ってた?」「昔、あなたと付き合ってたって」遼介は少し黙った。「もう昔の話だ」
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第4話

それから3日間、私たちは必要なこと以外、ほとんど話さなかった。遼介は、少し時間を置けば私も落ち着くと思っていたのだろう。自分から説明することもなく、私もそれ以上聞かなかった。その間、私は美月の小学校入学に必要な書類をそろえながら、自分の荷物も片づけ始めた。この何年も家に置いたままだった書類や写真、服を、一つずつまとめていった。そうして初めて、自分の荷物が驚くほど少ないことに気づいた。寝室の大きなクローゼットも、ほとんど遼介の服で埋まっていた。4枚ある扉のうち、2枚分は彼のスーツ、もう1枚分は普段着。私の服は、残った1枚分に収まっていた。ベッド脇のチェストも同じだった。遼介の側には薬や眼鏡、充電器などが置かれていて、私の側にあるのはハンドクリームと読みかけの本が数冊だけだった。家の中を見渡せば、私が選んで買ったものはいくらでもあった。それなのに、自分のものとして持って出られるものは、ほとんどなかった。4日目の夜、帰ってきた遼介は、リビングに並べてあった二つのスーツケースを見るなり、玄関で立ち尽くした。しばらくして、ようやく口を開いた。「どこに行くんだ?」「実家に帰る」「いつ戻る?」「しばらくは向こうにいるつもり」遼介は鍵を置いた。「香澄のことか?」もう気持ちは落ち着いたと思っていたのに、そのひと言にはまだ胸が痛んだ。「まだ、私が三浦さんのことでこうしてると思ってるの?」遼介は何も言わなかった。私はテーブルの上に置いていた封筒を手に取った。「これ、離婚協議書」遼介の顔色が変わった。「真由」「この家も含めて、結婚してからの財産は半分ずつでいい。美月は私が引き取る。会いたいときはいつでも会っていい」「俺は離婚しない」私は遼介を見た。「どうして?」「昔付き合ってた相手がいたってわかっただけで、離婚するのか?」なんだか急に疲れた。「遼介。私の好物、覚えてる?」遼介は答えに詰まった。「私が好きな花は?」返事はなかった。「じゃあ、私が一番嫌いなものは?」それにも答えなかった。私は笑った。「去年、美月が3日間入院したとき、あなたは何回来た?」「あのときは出張だった」「美月を産んだときは?」遼介の顔が険しくなった。「会社でトラブルがあったん
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第5話

遼介は、真由が実家にいるのはせいぜい数日で、そのうち戻ってくると思っていた。5日目の朝、目を覚ますと、遼介はいつもの癖でキッチンへ向かった。コーヒーメーカーは冷えたままで、ダイニングテーブルにも何もない。冷蔵庫には食材がいろいろ残っていたが、朝食に何を食べればいいのか思いつかず、結局、牛乳のパックを取り出した。ひと口飲んだところで、賞味期限が2日前に切れていることに気づいた。以前なら、期限の切れたものが冷蔵庫に残っていることなどなかった。真由が毎週、中を整理していたからだ。シャツはいつも色ごとにきれいに掛けられ、胃薬も決まった引き出しに入っていた。出張の前には、スーツケースの荷造りまで真由が済ませてくれていた。遼介にとっては、それがずっと当たり前だった。真由がいなくなって初めて、その当たり前が全部、真由に支えられていたことに気づいた。午前中、遼介の母から電話がかかってきた。「今週はいつ帰ってくるの?」遼介が「週末」と答えようとしたところで、遼介の母はそのまま続けた。「真由には早めに来るように言って。最近、腰の調子が悪いの。病院にも付き添ってもらいたいし」遼介は少し黙った。「真由は行かない」「どうして?」「俺たち、離婚することになった」一瞬、電話の向こうが静かになった。次に聞こえてきた声は、さっきより明らかに大きくなっていた。「また真由が何か言い出したの?もういい大人なんだから、子どももいるのに、今さら離婚なんて何考えてるのよ!」その言葉が、遼介には初めてひどく耳障りに聞こえた。「母さん。俺が悪かったんだ」今度は遼介の母が黙った。「……あなた、何したの?」遼介は答えられなかった。そう聞かれて、遼介は初めて気づいた。これといって、大きな過ちが思い当たらなかった。浮気もしていない。暴力を振るったこともない。家のお金を勝手に誰かに渡したこともない。真由が口にしたのは、どれも些細なことばかりだった。以前の遼介なら、きっと気にも留めなかった。けれど、その一つひとつが積み重なって、真由は少しずつ離れていった。……その夜、初めて遼介のほうからメッセージが届いた。【美月はもう寝た?】私は十数分たってから返した。【寝たよ】もう一通、メッセージが届いた。
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第6話

土曜日、遼介が美月を迎えに来た。約束の30分前には実家のマンションに着いていて、私が美月の手を引いて下りると、もう車のそばで待っていた。美月は遼介を見つけると、うれしそうに駆け寄った。「パパ!」美月がそのまま抱きつくと、遼介もようやく笑った。そのまま美月を抱き上げて聞いた。「今日はどこに行きたい?」「どこでもいいよ」「遊園地は?」美月は遼介の顔を見た。「パパ、遊園地好きじゃないでしょ?」遼介は一瞬、返事に詰まった。「今は好きだよ」美月はすぐに笑顔になった。「じゃあ、バイキングに乗りたい!」私は美月のリュックを遼介に渡した。「水と薄手の上着が入ってるから。6時までには戻ってきて」「わかった」返事をしたあとも、遼介はその場に残ったまま、私を見ていた。「一緒に行かないのか?」「行かない」「美月、ずっと三人で出かけたがってただろ?」私は少し笑った。「前はね。でも、もう慣れたみたい」その言葉に、遼介の笑顔が消えた。夕方5時半、遼介が美月を連れて戻ってきた。美月は大きなウサギのぬいぐるみを抱えていた。家に入るなり、ジェットコースターに3回も乗ったこと、一緒にアイスクリームを食べたこと、クレーンゲームに並んでぬいぐるみを取ったことを、楽しそうに次々と話してくれた。そんな美月を見ていると、私までうれしくなった。夜、お風呂で美月の髪を洗っていると、ふいに声をかけられた。「ママ。パパね、今日ずっと写真撮ってたよ」「うん」「あとね、ママは何が好きなのって聞かれた」私は手を止めた。「なんて答えたの?」「ママはいちごが好きって言った」思わず笑った。美月は少し考えてから聞いた。「でもママ、いちごが一番好きなの?」「違うよ」「じゃあ、何が一番好き?」「さくらんぼ」美月は少し驚いた顔をした。「知らなかった」私は美月の頬を軽くつまんだ。「いいんだよ」美月が知らないのは当たり前だ。まだ6歳なのだから。8年も一緒に暮らしてきた遼介まで知らなかったことのほうが、よほどおかしかった。翌朝、さくらんぼが一箱届いた。送り主の名前はなかった。私はしばらく箱を見つめたあと、そのまま幼稚園へ持っていき、職員室にいた先生たちに
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第7話

遼介から連絡が来ることが、以前より増えた。ほとんどは美月のことだった。小学校の入学手続きはいつするのか、ランドセルはどこのものがいいのか、最近は咳が出ていないか。以前は、こういうことを全部私一人で済ませていた。それが今では、遼介のほうから一つずつ確認してくるようになり、私も聞かれたことだけ答えていた。ただ、話すのは美月のことだけ。それ以外の話はしなかった。ある晩、遼介から突然電話がかかってきた。「真由」「何?」「美月が前に飲んでたアレルギーの薬、何て名前だった?」私は眉をひそめた。「アレルギー出たの?」「いや。念のため、こっちにも置いておこうと思って」私は薬の名前を教えた。それで話は終わると思ったのに、遼介は電話を切らなかった。しばらく黙ったままだったので、私から聞いた。「ほかに何かある?」「前に俺に言ってたよな?美月が何にアレルギーがあるか」「うん」「いつだっけ?」「美月が3歳のとき。初めてアレルギーが出たときに言ったよ」遼介は黙った。また忘れていたのだとわかった。最近になって、今まで美月のことをどれだけ私に任せきりにしていたのか、少しずつ気づいているのかもしれない。でも、今さら気づいたところで、私にはもう遅かった。実家に戻ってから15日目、遼介から会って話したいと連絡があった。最初は断るつもりだった。けれど、財産と美月のことで話したいと言われ、結局会うことにした。カフェに着くと、遼介はもう来ていた。向かいの席に座ると、私の前にはホットラテが置かれていた。私は手をつけなかった。それに気づいた遼介が聞いた。「好きじゃなかったか?」「私、乳糖不耐症なの」遼介の表情がこわばった。「前、牛乳買ってなかったか?」「美月のために買ってただけ」私は昔から牛乳が飲めなかった。遼介はしばらく黙ったあと、ラテのカップをテーブルの端に寄せた。「ごめん」結婚してから、遼介にこんなふうにきちんと謝られたのは初めてだった。私は離婚協議書に目を落とした。「それで、今日は何を話したかったの?」「俺は離婚したくない」「知ってる」「真由」遼介は声を落とした。「この前、お前に言われたこと、ずっと考えてた。今までちゃんとできてなかったことが、
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第8話

遼介と香澄の関係が決定的に変わったのは、それから1週間後だった。その日、香澄は小春を連れて遼介の家にやってきた。食材をたくさん買ってきていて、この前、小春の面倒を見てもらったお礼がしたいと言った。けれど、遼介は二人を中へ入れなかった。「もう、こうして家に来るのはやめてくれ」香澄は驚いたように遼介を見た。「どうしたの?」「真由が嫌がるから」香澄は一度笑った。「でも、二人は離婚するんでしょ?」遼介が眉をひそめると、香澄の笑顔も消えた。「遼介、もしかして今さら、真由さんと離れたくないって気づいたの?」遼介は答えなかった。遼介が答えないでいると、香澄はさらに続けた。「だったら、私たち、もう一度やり直せない?私はもう離婚したし、あなたももうすぐ独身になるでしょ。小春だって、ずっと遼介のことが大好きだし。あのとき、選ぶ相手を間違えたって、ずっと後悔してた」数か月前なら、少しくらい心が揺れたかもしれない。香澄は、若い頃に本気で愛した相手だった。けれど今、目の前の香澄を見て、遼介の頭に真っ先に浮かんだのは、真由が家を出た夜だった。泣きながら、真由は聞いた。「私のこと、愛してる?」あのとき遼介は、何ひとつ答えられなかった。香澄はまだ、大学時代に二人で行った場所や、あの誕生日、海へ行った日のことを話していた。途中で、遼介がその話を遮った。「もういい」香澄は戸惑ったように遼介を見た。「どうしたの?」「もう全部、昔のことだ」「でも、ずっと覚えてたじゃない」確かに、覚えていた。写真だって十数年も残していた。けれど遼介は、そのとき初めて気づいた。忘れられなかったのは香澄そのものではなく、最後まで気持ちの整理がつかなかった、あの頃の記憶だったのかもしれない。香澄と別れたあと、遼介は真由と結婚した。真由は遼介を待たせることもなければ、気持ちを察してほしいと求めることもなかった。いつも変わらず、そばにいてくれた。それがあまりにも当たり前になって、いつの間にか、真由だけはずっと自分のそばにいると思い込んでいた。香澄が聞いた。「真由さんのこと、愛してるの?」遼介はすぐには答えなかった。しばらくして、ようやく口を開いた。「いつからかは、俺にもわからない
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第9話

離婚の話をしてから1か月ほど経ったころ、私は遼介と市役所の前で待ち合わせた。遼介は約束より10分遅れてやってきた。髪は少し乱れ、ほとんど眠れていないように見えた。そんな遼介を見るとやっぱり胸が痛んだが、それもほんの一瞬だった。「行こう」そう言って背を向けたところで、遼介に呼び止められた。「真由、愛してる」11年間、ずっと待っていた言葉だった。けれど、いざ聞いてみると、思っていたほど嬉しくはなかった。ただ鼻の奥がつんとした。「……今さら言わないでよ」しばらく、背後で遼介が動く気配はなかった。やがて、声がした。「俺はずっと、愛って、自分でもどうしようもなくなるものだと思ってた。若い頃みたいに、相手のことで頭がいっぱいになって、普段ならしないようなことまでしてしまう。そういうものだって。だから真由と結婚してからも、俺たちはただ一緒にいて楽なだけだと思ってた。でも、お前がいなくなって初めてわかった。毎日家に帰りたいと思ってたのは、帰れば真由がいたからなんだ」私は手にしていた離婚届に目を落とした。この言葉を1年前に聞いていたら、きっと遼介に抱きついていた。でも今は、もうそんな気持ちにはなれなかった。「美月を見てると、お前に似てるなって思う。出張から帰るたび、最初に会いたいと思ってたのもお前だった。前に聞かれたことも、このところずっと考えてた。真由、俺はお前を愛してる。気づくのが遅すぎた」涙がこぼれた。「うん。遅すぎたね」遼介がこちらへ一歩近づいてきた。「もう一度だけ、チャンスをくれないか」私は首を横に振った。「遼介は今になって、やっと私を大事にしようとしてくれてる。でも、私はもうそれを望んでない」遼介は何も言わなかった。私は涙を拭った。「私は何年も傷ついてきたの。あなたが今つらいからって、それで今までのことが消えるわけじゃない。本当に後悔してるなら、今日はもう、私の決めたことを受け入れて」遼介に何かを頼むのは、これが最後だった。その日、遼介は離婚届に署名した。手続きを終えて市役所を出たあとも、遼介は入口の階段にしばらく立ったままだった。「これから、もう一度お前に振り向いてもらえるように頑張ってもいいか?」私は遼介を見た。「後悔するのはあなたの自由。でも、
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第10話

離婚してから、遼介は少しずつ変わっていった。美月のことを理由に私へ連絡してくることも、毎日のように花を持って家まで来ることもなくなった。その代わり、今まで私に任せきりだったことを、自分でするようになった。美月の学校からの連絡も自分で確認し、保護者会にもきちんと出るようになった。習い事にも付き添い、何にアレルギーがあるのか、熱を出したときはどの薬を飲ませればいいのかも、ようやく覚えた。美月が体調を崩した夜には、遼介が一人で朝まで病院に付き添った。翌朝、私が病院に着くと、美月は点滴につながれたまま、遼介に抱かれて眠っていた。遼介は処方された薬を私に渡した。「こっちは朝晩1回ずつ。もう1つは食後に飲ませる」少し驚いた。以前は、薬の飲ませ方なんて覚えていなかった。遼介はスマホを開いて見せてきた。薬を飲ませる時間や回数が、メモにきちんと残してあった。「忘れそうだから」私はうなずいた。「お疲れさま」自分でも、ずいぶん他人行儀だと思った。遼介はしばらく私を見てから、低い声で聞いた。「前はこういうこと、全部一人でやってたんだよな。やっぱり大変だった?」そんなことを聞かれるとは思わなかった。「大変だったよ」「なんで一度も俺に言わなかったんだ?」私は笑った。「言ったよ」遼介は黙った。私はそれ以上何も言わなかった。最近は、昔のことをいろいろ思い出しているのだろう。でも、今さら思い出したところで、もう一度やり直せるわけではなかった。帰る前、遼介に朝食は食べたかと聞かれた。「まだ」そう答えただけだった。10分ほどして、水を買おうと下へ降りると、車の上に朝食の入った袋が置かれていた。中身は、ちゃんと私の好みに合わせて選ばれていた。今度は、ちゃんと覚えていた。それでも朝食の袋を見ていると、もっと早くこうしてくれていたら、と思った。昔の私は、遼介がこういうことを覚えてくれるのを何年も待っていた。けれど、今になってようやく覚えてくれても、もう昔のようには喜べなかった。
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