LOGIN幼稚園の卒園式の日、私、橘真由(たちばな まゆ)の娘、橘美月(たちばな みづき)は、親子で演じるお芝居に出演することになっていた。 お芝居の最後には、美月が父親に飛びつき、「パパ、私、大きくなったよ」と言う場面があり、美月はそのために丸2か月も練習を重ねていた。 夫の橘遼介(たちばな りょうすけ)は、美月に「絶対に見に行く」と約束していた。 ところが開演10分前、遼介からメッセージが届いた。 【ごめん、急に仕事が入っちゃって。今日は行けそうにない】 本番では、美月がひとりで舞台の中央に立ち、誰も座っていない席に向かって、何度も「パパ」と呼びかけた。 最後は先生が舞台に上がって美月を抱きしめ、代わりに最後の場面を演じてくれた。 卒園式が終わったあと、私は美月を連れてショッピングモールへご飯を食べに行った。 エレベーターに乗ったところで、美月がふいに下を指さした。 「ママ、あれ、パパだよ」 私もそちらに目をやると、ほんの30分前に仕事で来られないと言っていた遼介が、メリーゴーラウンドのそばにしゃがみ、7歳くらいの女の子の靴ひもを結んでいた。 その後ろには、遼介の大学時代の初恋の人、三浦香澄(みうら かすみ)が、ケーキを抱えて立っていた。 女の子は遼介の首に腕を回し、うれしそうに笑っていた。 「遼介パパ、お誕生日、一緒にお祝いしてくれてありがとう!」 美月はガラス越しに、その光景を長いこと見つめていた。 「ママ……パパが今日来てくれなかったのって、あの子のほうが美月より大事だから?」 その瞬間、私はもう、美月に何と説明すればいいのかわからなくなった。 結婚して8年、私は何度も、遼介をかばう言い訳を考えてきた。 けれど、今回ばかりはもう、言い訳をする気にはなれなかった。
View More美月の7歳の誕生日には、遼介は1週間も前から仕事を入れないようにしていた。美月は水族館に行きたいと言った。遼介は朝7時にはもう来ていて、約束より1時間も早かった。遼介を見つけると、美月はうれしそうに駆け寄った。「パパ、今日は途中で帰ったりしないよね?」遼介は美月を抱きしめた。「うん。今日はずっと一緒にいるよ」今度は、最後まで約束を守った。一日中、スマホは何度も鳴っていたけれど、遼介は一度も電話に出なかった。美月がイルカの乗り物に乗りたいと言えば一緒に列に並び、記念スタンプを押したいと言えば、それにも付き合った。午後のシロイルカのショーでは、美月は遼介に肩車してもらい、楽しそうに笑っていた。私は少し離れたところから、二人を眺めていた。1年前の卒園式では、美月が舞台の上から何度もパパを呼んでいたのに、遼介は最後まで来なかった。そんな遼介が、今日は朝からずっと美月のそばにいた。美月がうれしそうなのを見て、私もうれしかった。本当に、それだけだった。帰るころには、雨が降り出していた。遼介は傘を開くと、無意識に私のほうへ寄ってきた。けれど、私は自分の傘を開いた。「大丈夫。持ってるから」遼介は足を止めた。美月は私の手を握ったまま、振り返って遼介の手も取った。「パパ、早く」三人で駐車場へ向かった。美月を真ん中に、私と遼介が両側を歩いた。車に着くまで、誰も何も話さなかった。車まで戻ったところで、遼介に呼び止められた。「真由」振り返ると、遼介は雨の中に立っていた。しばらく黙ったあと、遼介が聞いた。「あの頃、俺がもっと早く気づいてたら……今とは違ってたかな」「うん。違ってたと思う」その言葉に、遼介の表情が一瞬明るくなった。「でも、もう遅いよ」遼介は黙って目を伏せた。私はもう、慰める言葉をかけようとは思わなかった。今さら「愛してる」と言われても、それで11年間のことが変わるわけじゃない。この11年、遼介にそばにいてほしいとき、私は何度も一人で耐えるしかなかった。今さら何をしてくれても、あのとき一人で耐えたことの埋め合わせにはならない。私ももう、今さら何かしてほしいとは思っていなかった。美月は車に乗ると、窓越しに遼介へ手を振った。「パパ、また来週
香澄はこの街を離れる前、一度だけ私を訪ねてきた。遼介から連絡が来ることはもうなく、小春の誕生日も、人に頼んでプレゼントを届けただけだと香澄は言った。「ずっと、私が戻れば遼介は待っていてくれると思ってたんです」香澄は私を見て、苦笑した。「でも、待ってたのはもう私じゃなかったんですね」私は何も答えなかった。「遼介とは、もうやり直さないんですか?」「はい」「まだ遼介のこと、好きなんですか?」少し考えてから答えた。「前は、すごく好きでした」11年も好きだったのだから、離婚したからといって、気持ちが急になくなるわけではなかった。離婚したばかりの頃は、痩せた遼介を見ると胸が痛んだし、体調を崩したと聞けば、つい電話をかけたくなった。でも、そのたびに思いとどまっているうちに、少しずつ気にならなくなっていった。週末は陶芸を習ったり、美月と旅行に出かけたり、たまには友人と映画を観たりして過ごした。以前は、何をするにも遼介がいるのが当たり前だった。けれど、遼介がいなくなっても、思っていたほど困ることはなかった。むしろ、自分のために使える時間が増えて、今まで後回しにしていたことも楽しめるようになった。帰る前に、香澄が言った。「遼介、今すごく後悔してますよ」私はうなずいた。「知ってます」「それでも、やり直そうかなって思うことはないんですか?」私は少し笑った。「思ったことはあります」「じゃあ、どうして?」「あの頃、どれだけ傷ついたか思い出すから……」そうすると、やっぱりやり直そうとは思えなかった。
離婚してから半年、遼介は何度もやり直したいと言ってきた。けれど、私は一度も応じなかった。花は届くたびに送り返し、食事に誘われても、美月のことで話があるとき以外は会わなかった。ある日、遼介は雨に濡れながら、私の勤め先のビルの前で2時間も待っていた。仕事を終えて外に出た私は、遼介を見つけて足を止めた。「どうして中で待たなかったの?」「仕事の邪魔したくなかったから」遼介は持っていた傘を私に差し出した。「今夜は雨だって言ってたから。傘、持ってないかと思って」私は持っていた傘を見せた。「持ってるよ」遼介はそれを見たまま、しばらく黙っていた。前は、出かける前に天気を確認するのはいつも私だった。寒い日は上着を持つように言い、雨の日は傘を忘れないように声をかけていた。でも遼介が、私にも同じように気を配ってくれることはほとんどなかった。今になって、遼介はようやく私のことにも気を配るようになった。でも私はもう、遼介に気にかけてもらわなくても平気だった。「もう帰って」そう言って背を向けると、遼介がふいに聞いた。「俺たち、もうやり直せないのか?」私は足を止めた。この半年で、遼介はずいぶん痩せていた。後悔していることも、今度は一時の気持ちじゃないことも、私にはわかっていた。それでも、気持ちは変わらなかった。「もうやり直すつもりはないよ」遼介の目が赤くなった。「どうして?」「もう、あなたのことは許してるから」遼介は言葉を失った。「あなたを許してから、やり直したいって気持ちもなくなったの」以前の私は、遼介が変わって、いつか本当に私を愛してくれたら、それまで我慢してきたことも無駄じゃなかったと思える気がしていた。でも、あとになってわかった。どれだけ我慢したって、それで今までのつらさが報われるわけじゃない。私はただ、傷ついていただけだった。だから、遼介にこの先ずっと埋め合わせてもらおうとは思わなかった。それに、遼介を愛した自分は間違っていなかったと思いたいからといって、もう一度やり直そうとも思わなかった。
離婚してから、遼介は少しずつ変わっていった。美月のことを理由に私へ連絡してくることも、毎日のように花を持って家まで来ることもなくなった。その代わり、今まで私に任せきりだったことを、自分でするようになった。美月の学校からの連絡も自分で確認し、保護者会にもきちんと出るようになった。習い事にも付き添い、何にアレルギーがあるのか、熱を出したときはどの薬を飲ませればいいのかも、ようやく覚えた。美月が体調を崩した夜には、遼介が一人で朝まで病院に付き添った。翌朝、私が病院に着くと、美月は点滴につながれたまま、遼介に抱かれて眠っていた。遼介は処方された薬を私に渡した。「こっちは朝晩1回ずつ。もう1つは食後に飲ませる」少し驚いた。以前は、薬の飲ませ方なんて覚えていなかった。遼介はスマホを開いて見せてきた。薬を飲ませる時間や回数が、メモにきちんと残してあった。「忘れそうだから」私はうなずいた。「お疲れさま」自分でも、ずいぶん他人行儀だと思った。遼介はしばらく私を見てから、低い声で聞いた。「前はこういうこと、全部一人でやってたんだよな。やっぱり大変だった?」そんなことを聞かれるとは思わなかった。「大変だったよ」「なんで一度も俺に言わなかったんだ?」私は笑った。「言ったよ」遼介は黙った。私はそれ以上何も言わなかった。最近は、昔のことをいろいろ思い出しているのだろう。でも、今さら思い出したところで、もう一度やり直せるわけではなかった。帰る前、遼介に朝食は食べたかと聞かれた。「まだ」そう答えただけだった。10分ほどして、水を買おうと下へ降りると、車の上に朝食の入った袋が置かれていた。中身は、ちゃんと私の好みに合わせて選ばれていた。今度は、ちゃんと覚えていた。それでも朝食の袋を見ていると、もっと早くこうしてくれていたら、と思った。昔の私は、遼介がこういうことを覚えてくれるのを何年も待っていた。けれど、今になってようやく覚えてくれても、もう昔のようには喜べなかった。
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