LOGIN美月の7歳の誕生日には、遼介は1週間も前から仕事を入れないようにしていた。美月は水族館に行きたいと言った。遼介は朝7時にはもう来ていて、約束より1時間も早かった。遼介を見つけると、美月はうれしそうに駆け寄った。「パパ、今日は途中で帰ったりしないよね?」遼介は美月を抱きしめた。「うん。今日はずっと一緒にいるよ」今度は、最後まで約束を守った。一日中、スマホは何度も鳴っていたけれど、遼介は一度も電話に出なかった。美月がイルカの乗り物に乗りたいと言えば一緒に列に並び、記念スタンプを押したいと言えば、それにも付き合った。午後のシロイルカのショーでは、美月は遼介に肩車してもらい、楽しそうに笑っていた。私は少し離れたところから、二人を眺めていた。1年前の卒園式では、美月が舞台の上から何度もパパを呼んでいたのに、遼介は最後まで来なかった。そんな遼介が、今日は朝からずっと美月のそばにいた。美月がうれしそうなのを見て、私もうれしかった。本当に、それだけだった。帰るころには、雨が降り出していた。遼介は傘を開くと、無意識に私のほうへ寄ってきた。けれど、私は自分の傘を開いた。「大丈夫。持ってるから」遼介は足を止めた。美月は私の手を握ったまま、振り返って遼介の手も取った。「パパ、早く」三人で駐車場へ向かった。美月を真ん中に、私と遼介が両側を歩いた。車に着くまで、誰も何も話さなかった。車まで戻ったところで、遼介に呼び止められた。「真由」振り返ると、遼介は雨の中に立っていた。しばらく黙ったあと、遼介が聞いた。「あの頃、俺がもっと早く気づいてたら……今とは違ってたかな」「うん。違ってたと思う」その言葉に、遼介の表情が一瞬明るくなった。「でも、もう遅いよ」遼介は黙って目を伏せた。私はもう、慰める言葉をかけようとは思わなかった。今さら「愛してる」と言われても、それで11年間のことが変わるわけじゃない。この11年、遼介にそばにいてほしいとき、私は何度も一人で耐えるしかなかった。今さら何をしてくれても、あのとき一人で耐えたことの埋め合わせにはならない。私ももう、今さら何かしてほしいとは思っていなかった。美月は車に乗ると、窓越しに遼介へ手を振った。「パパ、また来週
香澄はこの街を離れる前、一度だけ私を訪ねてきた。遼介から連絡が来ることはもうなく、小春の誕生日も、人に頼んでプレゼントを届けただけだと香澄は言った。「ずっと、私が戻れば遼介は待っていてくれると思ってたんです」香澄は私を見て、苦笑した。「でも、待ってたのはもう私じゃなかったんですね」私は何も答えなかった。「遼介とは、もうやり直さないんですか?」「はい」「まだ遼介のこと、好きなんですか?」少し考えてから答えた。「前は、すごく好きでした」11年も好きだったのだから、離婚したからといって、気持ちが急になくなるわけではなかった。離婚したばかりの頃は、痩せた遼介を見ると胸が痛んだし、体調を崩したと聞けば、つい電話をかけたくなった。でも、そのたびに思いとどまっているうちに、少しずつ気にならなくなっていった。週末は陶芸を習ったり、美月と旅行に出かけたり、たまには友人と映画を観たりして過ごした。以前は、何をするにも遼介がいるのが当たり前だった。けれど、遼介がいなくなっても、思っていたほど困ることはなかった。むしろ、自分のために使える時間が増えて、今まで後回しにしていたことも楽しめるようになった。帰る前に、香澄が言った。「遼介、今すごく後悔してますよ」私はうなずいた。「知ってます」「それでも、やり直そうかなって思うことはないんですか?」私は少し笑った。「思ったことはあります」「じゃあ、どうして?」「あの頃、どれだけ傷ついたか思い出すから……」そうすると、やっぱりやり直そうとは思えなかった。
離婚してから半年、遼介は何度もやり直したいと言ってきた。けれど、私は一度も応じなかった。花は届くたびに送り返し、食事に誘われても、美月のことで話があるとき以外は会わなかった。ある日、遼介は雨に濡れながら、私の勤め先のビルの前で2時間も待っていた。仕事を終えて外に出た私は、遼介を見つけて足を止めた。「どうして中で待たなかったの?」「仕事の邪魔したくなかったから」遼介は持っていた傘を私に差し出した。「今夜は雨だって言ってたから。傘、持ってないかと思って」私は持っていた傘を見せた。「持ってるよ」遼介はそれを見たまま、しばらく黙っていた。前は、出かける前に天気を確認するのはいつも私だった。寒い日は上着を持つように言い、雨の日は傘を忘れないように声をかけていた。でも遼介が、私にも同じように気を配ってくれることはほとんどなかった。今になって、遼介はようやく私のことにも気を配るようになった。でも私はもう、遼介に気にかけてもらわなくても平気だった。「もう帰って」そう言って背を向けると、遼介がふいに聞いた。「俺たち、もうやり直せないのか?」私は足を止めた。この半年で、遼介はずいぶん痩せていた。後悔していることも、今度は一時の気持ちじゃないことも、私にはわかっていた。それでも、気持ちは変わらなかった。「もうやり直すつもりはないよ」遼介の目が赤くなった。「どうして?」「もう、あなたのことは許してるから」遼介は言葉を失った。「あなたを許してから、やり直したいって気持ちもなくなったの」以前の私は、遼介が変わって、いつか本当に私を愛してくれたら、それまで我慢してきたことも無駄じゃなかったと思える気がしていた。でも、あとになってわかった。どれだけ我慢したって、それで今までのつらさが報われるわけじゃない。私はただ、傷ついていただけだった。だから、遼介にこの先ずっと埋め合わせてもらおうとは思わなかった。それに、遼介を愛した自分は間違っていなかったと思いたいからといって、もう一度やり直そうとも思わなかった。
離婚してから、遼介は少しずつ変わっていった。美月のことを理由に私へ連絡してくることも、毎日のように花を持って家まで来ることもなくなった。その代わり、今まで私に任せきりだったことを、自分でするようになった。美月の学校からの連絡も自分で確認し、保護者会にもきちんと出るようになった。習い事にも付き添い、何にアレルギーがあるのか、熱を出したときはどの薬を飲ませればいいのかも、ようやく覚えた。美月が体調を崩した夜には、遼介が一人で朝まで病院に付き添った。翌朝、私が病院に着くと、美月は点滴につながれたまま、遼介に抱かれて眠っていた。遼介は処方された薬を私に渡した。「こっちは朝晩1回ずつ。もう1つは食後に飲ませる」少し驚いた。以前は、薬の飲ませ方なんて覚えていなかった。遼介はスマホを開いて見せてきた。薬を飲ませる時間や回数が、メモにきちんと残してあった。「忘れそうだから」私はうなずいた。「お疲れさま」自分でも、ずいぶん他人行儀だと思った。遼介はしばらく私を見てから、低い声で聞いた。「前はこういうこと、全部一人でやってたんだよな。やっぱり大変だった?」そんなことを聞かれるとは思わなかった。「大変だったよ」「なんで一度も俺に言わなかったんだ?」私は笑った。「言ったよ」遼介は黙った。私はそれ以上何も言わなかった。最近は、昔のことをいろいろ思い出しているのだろう。でも、今さら思い出したところで、もう一度やり直せるわけではなかった。帰る前、遼介に朝食は食べたかと聞かれた。「まだ」そう答えただけだった。10分ほどして、水を買おうと下へ降りると、車の上に朝食の入った袋が置かれていた。中身は、ちゃんと私の好みに合わせて選ばれていた。今度は、ちゃんと覚えていた。それでも朝食の袋を見ていると、もっと早くこうしてくれていたら、と思った。昔の私は、遼介がこういうことを覚えてくれるのを何年も待っていた。けれど、今になってようやく覚えてくれても、もう昔のようには喜べなかった。
離婚の話をしてから1か月ほど経ったころ、私は遼介と市役所の前で待ち合わせた。遼介は約束より10分遅れてやってきた。髪は少し乱れ、ほとんど眠れていないように見えた。そんな遼介を見るとやっぱり胸が痛んだが、それもほんの一瞬だった。「行こう」そう言って背を向けたところで、遼介に呼び止められた。「真由、愛してる」11年間、ずっと待っていた言葉だった。けれど、いざ聞いてみると、思っていたほど嬉しくはなかった。ただ鼻の奥がつんとした。「……今さら言わないでよ」しばらく、背後で遼介が動く気配はなかった。やがて、声がした。「俺はずっと、愛って、自分でもどうしようもなくなるものだと思ってた。若い頃みたいに、相手のことで頭がいっぱいになって、普段ならしないようなことまでしてしまう。そういうものだって。だから真由と結婚してからも、俺たちはただ一緒にいて楽なだけだと思ってた。でも、お前がいなくなって初めてわかった。毎日家に帰りたいと思ってたのは、帰れば真由がいたからなんだ」私は手にしていた離婚届に目を落とした。この言葉を1年前に聞いていたら、きっと遼介に抱きついていた。でも今は、もうそんな気持ちにはなれなかった。「美月を見てると、お前に似てるなって思う。出張から帰るたび、最初に会いたいと思ってたのもお前だった。前に聞かれたことも、このところずっと考えてた。真由、俺はお前を愛してる。気づくのが遅すぎた」涙がこぼれた。「うん。遅すぎたね」遼介がこちらへ一歩近づいてきた。「もう一度だけ、チャンスをくれないか」私は首を横に振った。「遼介は今になって、やっと私を大事にしようとしてくれてる。でも、私はもうそれを望んでない」遼介は何も言わなかった。私は涙を拭った。「私は何年も傷ついてきたの。あなたが今つらいからって、それで今までのことが消えるわけじゃない。本当に後悔してるなら、今日はもう、私の決めたことを受け入れて」遼介に何かを頼むのは、これが最後だった。その日、遼介は離婚届に署名した。手続きを終えて市役所を出たあとも、遼介は入口の階段にしばらく立ったままだった。「これから、もう一度お前に振り向いてもらえるように頑張ってもいいか?」私は遼介を見た。「後悔するのはあなたの自由。でも、
遼介と香澄の関係が決定的に変わったのは、それから1週間後だった。その日、香澄は小春を連れて遼介の家にやってきた。食材をたくさん買ってきていて、この前、小春の面倒を見てもらったお礼がしたいと言った。けれど、遼介は二人を中へ入れなかった。「もう、こうして家に来るのはやめてくれ」香澄は驚いたように遼介を見た。「どうしたの?」「真由が嫌がるから」香澄は一度笑った。「でも、二人は離婚するんでしょ?」遼介が眉をひそめると、香澄の笑顔も消えた。「遼介、もしかして今さら、真由さんと離れたくないって気づいたの?」遼介は答えなかった。遼介が答えないでいると、香澄はさらに続けた。「だったら、私たち、もう一度やり直せない?私はもう離婚したし、あなたももうすぐ独身になるでしょ。小春だって、ずっと遼介のことが大好きだし。あのとき、選ぶ相手を間違えたって、ずっと後悔してた」数か月前なら、少しくらい心が揺れたかもしれない。香澄は、若い頃に本気で愛した相手だった。けれど今、目の前の香澄を見て、遼介の頭に真っ先に浮かんだのは、真由が家を出た夜だった。泣きながら、真由は聞いた。「私のこと、愛してる?」あのとき遼介は、何ひとつ答えられなかった。香澄はまだ、大学時代に二人で行った場所や、あの誕生日、海へ行った日のことを話していた。途中で、遼介がその話を遮った。「もういい」香澄は戸惑ったように遼介を見た。「どうしたの?」「もう全部、昔のことだ」「でも、ずっと覚えてたじゃない」確かに、覚えていた。写真だって十数年も残していた。けれど遼介は、そのとき初めて気づいた。忘れられなかったのは香澄そのものではなく、最後まで気持ちの整理がつかなかった、あの頃の記憶だったのかもしれない。香澄と別れたあと、遼介は真由と結婚した。真由は遼介を待たせることもなければ、気持ちを察してほしいと求めることもなかった。いつも変わらず、そばにいてくれた。それがあまりにも当たり前になって、いつの間にか、真由だけはずっと自分のそばにいると思い込んでいた。香澄が聞いた。「真由さんのこと、愛してるの?」遼介はすぐには答えなかった。しばらくして、ようやく口を開いた。「いつからかは、俺にもわからない