All Chapters of 愛を知らない冷酷御曹司の妻になった私~身代わりで嫁いだ私を閉じ込めた夫は、すべてを失ってから愛に気づく~: Chapter 41 - Chapter 48

48 Chapters

第40話 私の人生を、私の手に

 翌朝。 目を覚ました瞬間。 私は、昨日のことを思い出した。 一条先生。 病院。 そして。 ――あなたの人生です。 どうするかを決めるのは、あなたです。 その言葉が。 胸の奥に残っていた。 私はゆっくり身体を起こした。 隣を見る。 龍斗さんは、まだ眠っている。 規則正しい寝息。 何も知らない顔。 私はしばらく、その横顔を見つめた。 昨日までなら。 この人が目を覚ますことが怖かった。 今日も。 怖い。 でも。 昨日までとは違う。 私は知っている。 私の苦しさを。 私の恐怖を。 聞いてくれる人がいる。 助けを求めてもいい。 逃げてもいい。 そして。 私の人生を決めるのは。 龍斗さんではない。 私自身なのだ。 私はお腹へ手を当てた。「……一緒に帰ろうね」 小さく呟く。「お母さんと、家に帰ろう」     ◇ 朝食の席へ行くと。 龍斗さんは、すでに座っていた。「おはよう」「おはようございます」 私は椅子へ座った。 いつもと同じ朝。 いつもと同じ食卓。 けれど。 私の中だけが。 昨日までとは違っていた。「体調は?」「大丈夫です」「お腹は?」「問題ありません」「気分は?」「普通です」 龍斗さんが、じっと私を見る。「昨日、病院で何か言われた?」「特にありません」「そうか」 龍斗さんはコーヒーを口にした。「今日も家で休んでいろ」「……はい」「外へ出る必要はない」「わかっています」「今日は俺も家にいる」「……はい」 私は静かに頷いた。 けれど。 そのとき。「由紀江」「はい?」「昨日より、落ち着いているな」 心臓が跳ねた。「そうですか?」「ああ」 龍斗さんは、私の顔を見つめた。「何か安心するようなことでもあった?」「……特にありません」「そうか」 龍斗さんは笑った。「ならいい」 その笑顔を見ながら。 私は思った。 この人は。 私の変化を見ている。 だから。 これからは。 もっと慎重にならなければならない。     ◇ 昼前。 私は自室で一人になった。 と言っても。 完全に一人ではない。 廊下には警備員がいる。 少し離れたところには使用人もいる。 以前なら。 その存在だけで息苦しくなっていた。 今は違
last updateLast Updated : 2026-09-04
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第41話 今は逃げない

 朝食を終えたあと。 私は自室へ戻ろうとしていた。 けれど。「由紀江」 背後から龍斗さんに呼び止められた。「はい」「今日は出かける予定は?」「ありません」「そうか」 龍斗さんは、少しだけ安心したように頷いた。「なら、今日はゆっくりしていろ」「はい」 私はそのまま歩き出した。 けれど。 廊下へ出た瞬間。 私は気づいた。 昨日までより。 警備員が多い。 玄関だけではない。 廊下の角。 階段の近く。 エレベーターの前。 まるで。 屋敷そのものが。 大きな檻になっていくようだった。     ◇ 部屋へ戻ると。 私は窓の外を見た。 門の前にも。 警備員が立っている。 車が出入りするたびに。 誰が乗っているのか。 確認している。 私はカーテンを閉めた。「……こんなの」 思わず呟く。 昨日までなら。 ここまでではなかった。 病院へ行った。 一条先生と話した。 それだけなのに。 龍斗さんは。 私が何かをしようとしていることを感じ取っている。 怖かった。 でも。 それ以上に。 焦った。 時間がない。 私は母子手帳を取り出した。 そして。 その中に隠してある紙を確認する。 病院の連絡先。 一条先生の名前。 相談先。 これだけが。 今の私にとっての逃げ道だった。     ◇ 昼前。 美和さんが部屋へ入ってきた。「奥様」「美和さん」 私はすぐに扉を閉めた。「どうしました?」「警備の人……増えましたよね」「はい」 美和さんが小さく頷いた。「昨日の夜から、さらに増えています」「やっぱり……」「何かあったんでしょうか?」「わかりません」 私は首を振った。「でも」 美和さんが声を落とした。「社長は、かなり警戒しているようです」「私が逃げようとしていることに?」「……おそらく」 胸が苦しくなった。「どうしましょう」「奥様」 美和さんが私を見る。「今は、逃げようとする素振りを見せないことです」「はい」「普通に過ごしてください」「わかっています」「そして」 美和さんは少し迷ってから。「もう一つ、気になることがあります」「何ですか?」「社長が、使用人に奥様の行動を細かく報告するよう指示したそうです」「……」「何時に起きたか」
last updateLast Updated : 2026-09-05
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第42話 赤ん坊なんていらない

 その日は。 朝から落ち着かなかった。 何度も時計を見てしまう。 午前十時。 十時十五分。 十時二十五分。 そして。 十時半。 搬入口へ続く廊下から、車の音が聞こえた。 納品業者が来た。いつもとは違う時間、ベビーベッドが運び込まれる。 私はリビングにいた。 龍斗さんは書斎にいる。 美和さんはキッチン。 警備員は玄関側。 昨日、私は覚えた。 人の動き。 警備員の交代。 搬入口の扉が開く時間。 そして。 業者が荷物を運び込むとき、一瞬だけ人の出入りが重なることも。 今日。 ここから出る。 私は朝から何度も自分へ言い聞かせていた。 怖い。 もちろん怖い。 でも。 ここに居続けるほうが。 もっと怖かった。 私はお腹へ手を当てた。「大丈夫」 小さく呟く。「お母さんが守るから」     ◇ 十時三十分。 キッチンから、美和さんの声が聞こえた。「ありがとうございます。こちらへお願いします」 業者が来た。 扉が開く。 閉まる。 また開く。 人の声が重なる。 私は立ち上がった。「奥様?」 美和さんが振り返った。「少し、部屋へ戻ります」「はい」 私は廊下へ出た。 心臓が激しく鳴っている。 けれど。 歩く。 搬入口のほうへ。 一歩。 また一歩。 警備員がこちらを見る。「奥様」「……はい」「どちらへ?」「少し外の空気を吸いたくて」「申し訳ありません」 警備員が立ち塞がる。「社長から、外へ出さないように指示されています」「……」 私は足を止めた。 やっぱり。 でも。 ここで諦めるわけにはいかない。「搬入口へ行くだけです、ベビーベッドが早く見たくて」「それもお控えください」「どうして?」「社長の指示です」 私は唇を噛んだ。 そのとき。 搬入口の扉が開いた。 業者の男性が荷物を運び込んでいる。 警備員の視線が、一瞬そちらへ向いた。 今。 私は走った。「奥様!」 後ろから声がする。 私は搬入口へ向かった。 扉の向こう。 外が見える。 ほんの数メートル。 あと少し。 あと少しで。 外へ出られる。 私は手を伸ばした。 けれど。 腕を掴まれた。「お待ちください!」「離して!」 私は必死に振りほどこうとした。「離してくださ
last updateLast Updated : 2026-09-06
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第43話 締め付ける鎖

 部屋の扉を閉めたあとも、私はしばらく動けなかった。 床に座り込んだまま、両手でお腹を包む。「赤ちゃん……」 小さく呟く。 幸い、今のところ痛みはない。 それでも、さっき床に倒れた感覚が何度も蘇ってくる。 ――怖い。 龍斗さんが怖い。 そして何より、この子を守れないことが怖かった。 私はゆっくり立ち上がり、ベッドへ腰を下ろした。 そのとき。 コンコン。 扉が二度、軽く叩かれた。 身体が強張る。「由紀江」 龍斗さんの声だった。 私は返事をしなかった。「……さっきは悪かった」 意外な言葉に、胸がざわつく。「でも、君があんなことをするからだ」 ――やっぱり。 謝っているようで、謝っていない。 原因は自分ではなく、私にあると言っている。「もう、勝手に外へ出ないでくれ」「…………」「君を守るためだから」 私は唇を噛んだ。 守る。 その言葉を聞くたび、胸が苦しくなる。 私が欲しいのは、閉じ込められることじゃない。 監視されることでもない。 自分の足で歩いて、自分で行き先を決めること。 そして、この子を安心して産める場所へ帰ること。「明日から、警備を増やす」「……え?」「今までより厳しくする。玄関だけじゃない。マンションの出入口は全部だ」 心臓が跳ねた。「どうして……」「今日みたいなことが二度と起きないようにする」「龍斗さん……」「それから、君一人で外へ出るのは禁止だ」 私は扉を見つめた。 その向こうにいる龍斗さんの顔は見えない。 でも、声だけでわかる。 本気なのだ。「病院へ行くときも、俺が付き添う」「…………」「買い物も、家族に会うときも、俺が一緒に行く」「家族に……?」「ああ」 龍斗さんは淡々と続けた。「しばらく、実家にも行かなくていい」「どうしてですか?」「今の君は不安定だから」「それは……」「俺が決める」 胸の奥が冷たくなった。 ――まただ。 私の気持ちではなく、龍斗さんが決める。 私の人生なのに。「……嫌です」 初めて、はっきりと言った。 扉の向こうが静かになる。「何?」「実家に帰りたいです」「駄目だ」「どうして?」「君が帰りたいと言ったら、そのまま帰ってしまいそうだから」「帰りたいんです」「由紀江」「私は……家に帰りたい」 声
last updateLast Updated : 2026-09-07
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第44話 私の赤ちゃん

 朝、目が覚めたとき。 最初に感じたのは、下腹部の重い痛みだった。「……痛い」 まだ眠気の残る頭で、私はお腹を押さえた。 昨日までとは違う。 鈍く、重い痛みが下腹に広がっている。 私はゆっくり身体を起こした。 その瞬間。 嫌な感覚がした。 私は慌てて布団をめくった。「……え?」 下着に、ほんの少しだけ赤いものがついていた。 血。 わずかだった。 けれど、妊娠中の今。 それが意味することを考えると、身体中から血の気が引いていく。「赤ちゃん……」 私はお腹に手を当てた。 怖い。 どうしよう。 病院に行かなければ。 すぐにでも診てもらわなければ。 私はベッドから立ち上がった。 下腹部の痛みは、まだ我慢できる程度だった。 私はスマートフォンを手に取った。 そして、一条先生のいる病院へ電話をしようとした。 けれど。 その前に、部屋の扉が開いた。「由紀江?」 龍斗さんだった。「どうした?」 私は反射的にスマートフォンを握りしめた。「……病院へ行きたいです」「病院?」「お腹が痛くて……」 龍斗さんの顔が変わった。「どのくらい?」「わかりません。でも……」 私は言葉を止めた。「少し、出血もあります」 龍斗さんの眉が動いた。「出血?」「はい」「見せて」「……嫌です」 身体を引く。 龍斗さんは一瞬黙った。「由紀江」「病院へ行かせてください」「わかった」 そう言ってくれるのかと思った。 けれど。 龍斗さんの視線が、私の手元へ向いた。「スマートフォンを貸して」「どうして?」「俺が病院に連絡する」「私がします」「由紀江」「自分で電話できます」 私はスマートフォンを握ったまま、一歩下がった。 すると龍斗さんが手を伸ばした。「貸せ」「嫌です」「病院へ行くんだろう?」「はい」「なら、俺が連絡する」「一条先生に診てもらいたいんです」 その名前を口にした瞬間。 龍斗さんの顔から表情が消えた。「……一条?」「はい」「また、あの医者か」 嫌な予感がした。「一条先生なら、私のことを診てくれます」「俺が連れていく」「救急車を呼んでください」「必要ない」「でも……」 痛みが強くなってきた。 私はお腹を押さえた。「っ……」「由紀江?」 額に汗が滲む。
last updateLast Updated : 2026-09-08
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第45話 ただ愛されること

 目を覚ますと、白い天井が見えた。「…………」 ぼんやりと瞬きをする。 身体が重い。 腕には点滴の針が刺さっていた。 透明な液体が、点滴の管を通っている。 ポタ。 ポタ。 一定の間隔で、滴が落ちていく。 その音だけが、静かな病室に響いていた。「……ここは……」 声を出すと、自分の声がひどく掠れていた。「病院ですよ」 隣から声がした。 看護師さんだった。「気がつきましたか?」「……はい」 看護師さんが私の手を取る。 手首に指を当て、脈を測っている。「気分はどうですか?」「……身体が、重いです」「無理に動かなくて大丈夫ですよ」 看護師さんの顔を見つめる。 何かがおかしい。 胸の奥がざわざわする。 私はお腹へ手を伸ばした。 いつもなら。 そこに、小さな命がいると思えた。 けれど。 今は――。「赤ちゃんは?」 看護師さんの手が止まった。「…………」「赤ちゃんは……?」 もう一度聞いた。 看護師さんは私を見つめた。 その目が、悲しそうに揺れる。「……」 そして。 ゆっくりと。 首を左右に振った。「…………え?」 意味がわからなかった。「どういう……ことですか?」 看護師さんは答えない。 ただ、辛そうに目を伏せる。 その瞬間。 胸の奥が大きく揺れた。「……嘘」 声が震える。「違いますよね?」 看護師さんが小さく首を振る。「……ごめんなさい」 その言葉で。 すべてわかった。「……いや」 涙が込み上げてきた。「嫌……」 私はお腹を押さえた。「この子……」 声にならない。 昨日まで。 ここにいた。 私の大切な子。 私が守ると決めた。「……ごめんね」 涙が頬を伝う。「ごめんね……」 何度も謝った。 自分がもっと早く逃げていれば。 もっと早く一条先生に助けを求めていれば。 もっと強く抵抗していれば。 そんな後悔ばかりが頭の中を駆け巡る。 ――私が守れなかった。 その思いが、胸を締め付けた。 看護師さんが私の肩にそっと手を置く。「今は、泣いていいんですよ」「……はい」 涙は止まらなかった。     ◇ しばらくして。 病室の外が騒がしくなった。「お待ちください!」 聞き覚えのある声。 私は顔を上げた。 ガチャッ。 扉が
last updateLast Updated : 2026-09-09
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第46話 別れの朝

 病室に、重い沈黙が落ちた。 龍斗さんの手には、まだケリーバッグが握られている。 けれど、もう私に差し出されることはなかった。 一条先生が、ゆっくりと私たちの間に立った。「九条院さん」「……なんだ」「先ほど、警察に連絡しました」 龍斗さんの顔が上がる。「……警察?」「はい」 一条先生は淡々と答えた。「奥様から聞いていたこれまでの状況と、今日のことを伝えています」「余計なことを……」「余計なことではありません」 一条先生の声は静かだった。「患者さんの安全を守るためです」「俺は何もしていない」「救急車を呼ぼうとした奥様からスマートフォンを取り上げた」「……」「病院でも、診察を受けようとする奥様を止めようとした」「俺は……」「そして先ほど、私を突き飛ばしました」 龍斗さんの顔が強張った。 一条先生は続ける。「警察が来ます」「……待ってくれ」「何を待つんです?」「由紀江と話をさせてくれ」「もう十分です」「頼む」 龍斗さんは私を見る。 その顔には、今まで見たことのない焦りが浮かんでいた。「由紀江」 私は何も答えなかった。「俺が悪かった」「…………」「本当に悪かった」 龍斗さんが一歩近づく。 一条先生が制止しようとする。 けれど。「頼む……」 龍斗さんは私のベッドの前で立ち止まった。 そして。 突然、床に膝をついた。「……龍斗さん?」 次の瞬間。 龍斗さんは、深く頭を下げた。 床に額をつける。「すまなかった」 私は黙って見つめた。「由紀江……許してくれ」「…………」「俺が間違っていた」 声が震えている。「君を閉じ込めたことも、監視したことも……全部、俺が悪かった」「…………」「もうしない」 龍斗さんは顔を上げた。 必死な目だった。「だから、帰ってきてくれ」 私は何も言わない。「俺を捨てないでくれ」 その言葉に。 胸の奥が、ほんの少しだけ動いた。 ――昔の私なら。 きっと、そうだった。 龍斗さんが苦しそうな顔をすれば。 謝ってくれれば。 もう一度だけ信じてみようと思ったかもしれない。 けれど。 今は違う。 私は静かに龍斗さんを見た。「……何を許してほしいんですか?」「全部だ」「全部?」「ああ」「私を閉じ込めたこと?」「……ああ
last updateLast Updated : 2026-09-10
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第47話 飛び立つ鳥

 それから、数か月が経った。 季節は、ゆっくりと変わっていた。 私は実家の自分の部屋にいた。 窓を開けると、春の風がカーテンを揺らす。 柔らかな日差しが、床に落ちていた。「……暖かい」 私は窓辺に立った。 ここへ戻ってきたばかりの頃は、何をしていても胸が苦しかった。 朝起きても。 夜眠っても。 ふとした瞬間に思い出してしまう。 病院の白い天井。 点滴の滴。 あの日の痛み。 そして。 守れなかった小さな命。 何度も自分を責めた。 もっと早く逃げていれば。 もっと強く拒んでいれば。 もっと早く助けを求めていれば。 けれど。 一条先生は、何度も言ってくれた。 ――あなたのせいではありません。 その言葉を聞くたびに、少しずつ息ができるようになった。 私は窓の外を見つめる。「……ごめんね」 小さく呟いた。「守ってあげられなくて」 胸に手を当てる。 もう、そこに命はいない。 それでも。 あの子がいた時間を、私は忘れない。 短い時間だったけれど。 確かに、私の中にいた。 私が愛した、大切な子だった。     ◇ 離婚が成立したのは、それからしばらくしてからだった。 九条院家は、私の実家に対して起きた融資問題についても動いた。 龍斗さんが裏で手を回していたことが明らかになり、関係先との交渉が進められた。 父の会社も、すぐに元通りとはいかなかった。 失った信用を取り戻すには時間が必要だった。 けれど。 家族は、誰一人私を責めなかった。「お前が悪いんじゃない」 父は何度もそう言った。「帰ってきてくれただけでいい」 母は、私を抱きしめてくれた。 妹も。 弟も。 何も聞かずに、ただそばにいてくれた。 私は、その温かさの中で少しずつ自分を取り戻していった。 そして。 ある日。 私は離婚届を見つめていた。 署名をする。 ペン先が、紙の上を滑る。 最後に印鑑を押した。 それだけだった。 長かった。 でも。 終わるときは、驚くほど静かだった。「……終わった」 私は小さく呟いた。 もう私は。 九条院龍斗の妻ではない。 誰かに決められた人生を歩く必要もない。 私は私だ。     ◇ その日の午後。 私は病院を訪れていた。 あの日以来、一条先生には何度も支えてもら
last updateLast Updated : 2026-09-10
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