LOGIN「上とか、下とか。そんな話をしてるんじゃない」
やっと出た声に、拓真は露骨に顔をしかめた。
「お前の立場は守るって言ってるだろ」
私はテーブルの上の離婚届を見た。
あの紙に名前を書いた夜、結婚した時のことを思った。
夫婦になれたのがうれしくて、この姓を名乗っていた自分がいた。
拓真はその名前を残せば、私が満足すると思っている。
夕食の途中で、夫が隣の家へ出ていく。
私は母屋に残って、帰りを待つ。妻と呼ばれるのが私でも、そんな毎日になるのだ。
「私、あなたと暮らしたかったんだよ」
拓真が顔を上げた。
「……少しは、使った。でも、人に会う時の服も必要だったの」絵里は拓真の袖をつかんだまま答えた。画面の中では、ドレスの裾を広げた自分が笑っている。あの時は、着た姿を誰かに見てもらうことしか考えていなかった。「向こうで仕事の話をするのに、みっともない格好では行けないでしょう。拓真さんのために持ち帰る技術の話なんだから」拓真は携帯を下ろした。けれど、画面は消さず、膝の上に置いた。「服を買う金まで含めたつもりはなかった」絵里は唇を結んだ。少しくらい構わないと、言ってほしかった。閉じたカーテンの前で、卓の照明だけが明るい。顔をそらせば、逃げたと思われそうだった。「先に、言えばよかったね」声を落とすと、拓真は袖をつかむ手へ目をやった。「そんなに身構えるな。責めたくて聞いてるんじゃない」指先に、彼の手が重なった。絵里はその温かさにすがるように、握っていた袖を離した。手を返すと、拓真は握り返してくれた。まだ、嫌われてはいない。「私、ちゃんと挽回したいの。追加の開発を進めるにも、お金がいるでしょう。足りない分、また助けてくれる?」つないだ手を膝へ寄せた。今度はうまくやると言えば、ここまでしてくれた拓真なら、もう一度力を貸してくれるはずだった。だが、返事はなかった。「拓真さん?」「何に使うか分からない金は、今は出せない」
【一緒に開発を進めたとは言えない。私の名前は使わないで】翌朝、届いた返事を読んで、絵里はベッドの上で身を起こした。昨夜送った文章が、そのすぐ上に残っている。拓真に聞かれた時だけ、話を合わせてほしい。そう頼んだだけなのに。カーテンの隙間から、枕元へ細く光が差していた。絵里は携帯を膝へ下ろし、もう一度持ち上げた。【細かい説明は私がするから。少しだけ助けてくれない?】返事を待つ間、開発という言葉を使わなければよかったと思った。相談に乗っていた、と頼めば、ここまで強く断られなかったかもしれない。やがて画面に、新しい文章が現れた。【購入窓口を紹介しただけです。それ以上のことは知りません】絵里は唇をかんだ。その紹介を受けてデモを買ったことは、間違っていない。けれど、これだけを拓真に言われたら、自分が話してきた追加開発をどう説明すればいい。ここで連絡先を渡さなければ、拓真はまた催促するだろう。ようやく話せることになったと伝えた方が、きっと喜ぶ。紹介の先は自分で進めた、と横から説明すればいい。【私も一緒にいるから、拓真さんと話してもらえる?】少し待って、返事が来た。【私がしたことについてなら、説明します】絵里は相手の都合を聞き、日本の夜に通話する約束をした。最後に送った【ありがとう】には、返事がなかった。……夜、リビングへ入ると、拓真はソファで携帯を見ていた。絵里に気づくと、隣に置いていたクッションを脇へ寄せる。「ここに座れ。もう時間か?」「うん。話せるって」厚いカーテンは閉まり、卓の照明がふたりの間を照らしていた。絵里は拓真の隣へ座った。朝から何度も考えた説明を、頭の中でもう一度なぞる。「客には、俺から話してきた」拓真が携帯を伏せた。「今のデモでは、預かった資料は使えない。そう説明した」「……ごめんなさい。私のために、そんなことまで」「俺の会社の発表会だ。お前ひとりに説明させられるか」肩へ置かれた手が温かかった。客の前で失敗したあとも、こうして隣を空けてくれる。朝の冷たい返事を思い出すと、ここに座っていられることが、余計にありがたく感じられた。絵里はその手に、自分の手を重ねた。「私、ちゃんと話をつけるから。あの人との話も、任せてくれない?」「お前だけで抱えなくていい。俺も聞く」拓真は肩から手を下ろし、
拓真の顔を見たまま、鞄の持ち手を握った。さっきは、もう少し話していたいと思った。私をのぞき込んでくれた時、もっと話を聞いてもらえる気がした。けれど、薬指を隠すように手を引くことはしなかった。「つけ直すつもりはないの」机の向こうで、拓真の口が少し開いた。そのまま何も言わず、私を見ていた。指輪は、短期賃貸の机の引き出しにある。今日は持ってきてもいない。何か言ってくれるのを待って、私もすぐには立てなかった。あの優しい顔が戻れば、きっとまた、うれしくなる。膝に鞄を引き上げた。中には、13日に返すと書かれた控えが入っている。椅子を引く音が、相談室に響いた。美弥子はバッグへ手を重ねたまま座っていた。私は隣の弁護士へ頭を下げてから、拓真を見た。「失礼します」声が少しかすれた。言い直さず、鞄を持って扉へ向かった。廊下へ出て扉を閉めた。その前で少し足を止め、鞄を持ち直して歩き出した。4月13日、月曜日。仕事を終えた私は、駅前の建物の脇へ寄り、携帯を取り出した。人の流れを外れてから、自分の口座を開く。このあとは、不動産店へ行く。勤務後に内見できる時間を、数日前から予約していた。その前に、確かめたかった。入出金明細を開くと、今日の日付の行があった。振込人は拓真。入金額は、1,200万円。指先で画面を止め、桁を確かめた。全部、入っている。 
全額返す。私は病院の壁際で、その言葉を読み直した。父のために残すお金と、自分が暮らすためのお金。通帳の残高を見ながら、どちらも減っていくことを考えずに済む日が来るかもしれない。返信欄を開いた。会いたいと言われたことより、先に確かめたいことがあった。【いつ返してもらえますか】少し待つと、返信が届いた。【13日の月曜に、1,200万円全部振り込む】私は日付を確かめ、そのやり取りを弁護士へ転送した。週が明けてから相談し、調停の申立てを済ませた。拓真との面会は、私が頼んで弁護士の事務所にしてもらった。母も返済のことで話したいと言っている、と拓真から聞いた時には、携帯を置いたまま、しばらく返事ができなかった。それでも、家へ戻って話すわけではない。弁護士に同席してもらえることを確かめ、返済の話をするのなら、と了承した。……金曜日。相談室へ入ると、美弥子が先に座っていた。卓上に置いたバッグの持ち手へ両手を重ね、私を見ている。拓真は隣の椅子から顔を上げた。「澪。こっちに――」私は卓を挟んだ向かいの椅子を引いた。隣には弁護士が座る。拓真は口を閉じ、背広の前を直した。壁際の時計の秒針が動いていた。
拓真は、澪からの返信を読み直した。調停で進めるよう、正式に頼んだ。「まだ、話が終わってないだろ」相良邸の食卓で、すぐに電話をかけた。呼出音が続き、やがて切れた。昨夜は、ひとりで店へ行ったと言った。今朝は、自分の返事を待たずに離婚を進めている。携帯を卓へ置きかけ、また手に取った。配達の注文画面を開く。今日も、何を食べるか自分で決めなければならない。料理の写真を次々に見ても、食べたいものが見つからなかった。澪がいた頃は、席に着けば食べられた。「拓真さん」絵里が入口に立っていた。「少しは食べられそうか?」「まだ、気持ちが悪くて……」拓真は隣の椅子を引いた。「無理するな。飲めそうなものは?」「お水を」冷蔵庫から水を出し、グラスへ注ぐ。絵里へ渡した時、携帯が鳴った。担当社員だった。「購入先から返事が来ました。メールを転送しましたので、ご確認ください」「直せるのか?」「設定の問題ではありません。購入したデモには、客先の資料を取り込んで処理する機能がないそうです」拓真の手が止まった。「待て。調整すれば使えるんじゃないのか」「設
絵里がスマートフォンを差し出した。「購入した時の書類です」相良邸の居間で、拓真はそれを受け取った。画面には、英文の契約書が開かれていた。ようやく、客に説明できるものが出てきた。米国側の対応が遅れていたのなら、向こうにも責任を取らせればいい。拓真は携帯の画面に目を落とし、利用目的の欄で指を止めた。営業用デモ。顔を上げると、絵里は卓の向こうに立ったままだった。「これは、今日見せたものの契約か?」「はい。最初に導入した時のものです」「客の資料でも動かせるというのは、どこに書いてある」絵里の手が、携帯へ伸びた。「製品として使うための調整は、別なんです。その書類だけでは全部は――」拓真が画面を自分へ向け直すと、伸びてきた手が止まった。準備した実演が動いたことは、拓真も見ている。だが、客の資料を使っても同じようにできると約束したのは、自分だった。「別なら、その取り決めは?」「向こうに確認しています。今、先方との関係を悪くしたら、直せるものも直してもらえなくなります」「俺は、今日できるのかと聞いてるんじゃない。できると言った根拠を出せと言ってるんだ」少し声が大きくなった。絵里が口を閉じ、卓の縁を見た。会場で社員に確かめられた時、自分も同じように声を強めた。準備したもの