All Chapters of 一族からも契約夫からも冷遇されていた“落ちこぼれ魔女”の私、血を捧げるだけの日々にさよなら――逆襲を始めます: Chapter 1 - Chapter 10

12 Chapters

第2話

あの夜から数日が経っても、燐の心に空いた穴は何も埋まらなかった。燐はベッドで横になったまま、これまでのことを一人で思い返す。すべては二年前に遡る――黒鉄家。 明治以前から続く“旧き魔女”の血筋。そこに生まれた者、特に娘ともなれば誰もが大きな期待をかけるものだった。先祖と同じく、魔法の才を宿しているとして。――だが、燐は違った。彼女には魔法の才能がほとんどなかった。魔力量は極小。一族の中で最も“出来損ない”と呼ばれるほどの有様に、周囲からの期待は簡単にひっくり返った。『なに、魔法の才能が無い?』 『身体に宿せる魔力量が少ないようです』 『はあぁ。娘が生まれたからと期待してみればこれとは、がっかりじゃ。これじゃあ、ただの人間と変わりあるまい……』燐が覚えている限り、彼女は早々から、一族の殆どに見限られていた。最も幼い頃の記憶は、蔵の中に閉じ込められて『しつけ』をされた思い出だった。まだ幼稚園に入る前の話だ。『魔法を使えないなら、せめて人並みに頭を使えるようになれ』 『お前にはそれしかないんだぞ、燐』 『悔しかったら、魔法の力で鍵を開けてみることだ……』燐はあまり喋らない子供だった。魔法の才能がないと知られてからは、家族からの期待を失うと共に一層その傾向が強くなっていった。それでも――『燐。貴女の価値は、魔力量なんかでは決まらないわ。これからの貴女が考え、成し遂げることで決まるの』燐を産んだ母親だけは、そんな娘を心から可愛がって、抱きしめてくれた。それは闇のような人生における灯火。母の庇護を受けながら燐は勉学に励んで大学の経営学部へ進学。いつしか“才媛”と呼ばれるに至った。『大学卒業おめでとう、燐。今の貴女ならどこに出しても恥ずかしくないわ……』 『ありがとう……お母様』しかし―― その母は原因不明の病に倒れ、大病院での入院生活を余儀なくされた。『ごめんなさいね、燐……』 『大丈夫よ。私はもう、大人だから』黒鉄家に、燐の味方はいなくなった。 莫大な治療費は黒鉄家の家計を著しく圧迫し、その中で、落ちこぼれの燐の立場はいっそう厳しくなっていった。それから三ヶ月後――『お父様……?』 『燐、お前に大切な話がある』黒鉄家の当主――父親から呼び出された燐は、和室で正座させられていた。『お前に見
last updateLast Updated : 2026-09-01
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第3話

見合いの後、燐は挨拶をしに行くため、恭司の運転する車――漆黒のクラウンの助手席に乗って御堂家へと向かっていた。大都会の街と雑多な人々が窓の外を後ろへ流れていく。隣では、線の整った横顔が真面目な表情で前方を見つめていた。(私、これからこの人と一緒に暮らすことになるんだ……?)この契約結婚が打算的なものだとは初めから分かっている。それでも――胸の奥がざわめいてしまう。「恭司さんのご両親は?」「父は仕事で日本にいない。母は……知っての通り病に伏している。家には私と弟の二人と使用人たちしかいない」最も緊張する場を終えた二人は、会話を続ける間に楽な形式へ落ち着き、話し方と口調をにわかに変えていく。恭司の喋りもこちらが“素”のようだ。「お義母様の病気は?」「全身が怠いと言っている。まるで鉛でも着ているようだと……」燐は、自分が何を求められているのかを改めて思い出した。御堂家は、生命力を分け与えられる燐の血を恭司の母へ輸血しようとしている。燐はそのために近くへ置かれるのだ。(……今の私にできるのは、それだけ)燐と恭司の結んだ契約は二つある。――ひとつ。燐は毎週二回、その身体から血を採取して御堂家に提供すること。「母を助けるため、あらゆる研究を調べて使えそうなものを探した。本当に色々探して……魔女の血にまつわる話を見つけた。燐、お前のことだ」「……その通り。私は目立った魔法こそ使えないけれど、血を介して自らの生命力を伝え、他人を癒やすことなら……」「これまで御堂家に“魔女”はいなかった。採血は母の容態が回復するまで行われる。今はお前の血だけが頼りだ、燐」「……はい」――ひとつ。御堂家はその見返りとして黒鉄家への資金援助を行うこと。「黒鉄家のことについては当主より――お義父様より聞いている。御堂家はこの契約に従い、母の健康と引き換えに多額の資金援助を行う」「本当に、ありがとうございます。私の母も入院が長くて」「……お互い、大変なものだな」話をしていると、二人を乗せた車は大きなゲートで仕切られた敷地へ入っていく。そこに建っていたのは、御堂家の、白く高くそびえる巨大な屋敷だった。「中を案内する。弟もいるはずだ」「よろしくお願いします、恭司さん」屋敷の前で降りた燐は、恭司にエスコートされながら御堂家の敷居を跨いだ。建物の中は、目
last updateLast Updated : 2026-09-01
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第4話

燐に与えられた部屋は、母屋から長い廊下を通った先にある離れの中にあった。ベッドはある。テーブルもある。テレビも冷蔵庫も一通りのものが揃えられ、いずれも最高級品であることは間違いない。しかし――それらは全て、燐をこの部屋に隔離しておくための物にも思える。遠く離れたこの部屋に使用人の気配はない。燐はここで、一人で過ごすのだ。(ここが、私の部屋……)燐の『新婚生活』が始まった。 *翌日、最初の採血が行われた。燐はベッドに横たわり、担当の医師に針を刺してもらう。採血の際には、必ず血液検査が行われる。医師が脈拍・血圧・血中成分の数値を確認し、危険があれば中止される。厳重な管理の下で行われるが、それでも、針を刺されれば痛みを感じた。血を取られる度に熱が抜けていくのも分かった――「っ……」身体から抜かれた血は管を通り、チューブを赤黒い色に染めながら下方にある採血バッグへ溜められていく。それを見ていた燐は、自分の命が少しずつ奪われるような錯覚に陥るのだった。(これで……)(これで、お母様が助かるなら……)御堂家での暮らしは華やかだが、元から上流階級の出であった燐にとっては目新しいものはない。朝食は係の者が用意してくれて、それを食堂で食べる。燐が玉子を食べたいと言えば、今朝は程よい半熟加減のスクランブルエッグが出てきた。他のサービスも申し分ない。しかし――(……恭司さんとは、まだ会えてない)(やっぱり、仕事が忙しいのかしら)三日が経ち、四日が経った。恭司は一度たりとも離れに顔を見せなかった。代わりに来るのは医者だけであり、彼らが来るのも医療行為のためだった。五日目の夜。燐は窓の外を見て、御堂家の玄関が車の灯りに照らされるのを待っていた。だが、その時はなかなか来ない。(恭司さん……)(せめて“おやすみなさい”だけでも……)暗い夜の風景をぼんやり眺めていると、その闇が金色のライトで切り裂かれた。燐はすぐに身体を起こすと、ベッドの横で注意深く立ち上がり、離れの長い廊下を行って玄関まで向かう。(恭司さん……!)燐が玄関まで辿り着けば、丁度扉が開いて恭司の高い背丈が現れた。「恭司さん、おかえりなさい……」「燐……? 大丈夫か」靴を脱いで上がった恭司はすぐに、どこか息を切らしている燐を見て感づくとその肩に手を置いて支える。燐
last updateLast Updated : 2026-09-01
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第5話

奥様、という呼び方は「奥方」という言葉に由来し、これはかつて配偶者となった女性が家の奥の部屋に住んでいたことから来ている……とされている。今の燐はまさにそのような暮らし方を余儀なくされていた。母屋ではない離れで、使用人たち以外には見られることもない場所。そんなところに、初めて見る女性の姿がある。「あらあら、もしかして貴女が例の“奥様”かしら?」「……どちら様?」傾斜のついた医療用ベッドに頭を預けながら燐が聞けば、その女性はあからさまな笑みを片手で隠してから優雅なカーテシーを決める。「お初にお目に掛かりますわ。わたくしは九条華。九条財閥CEOの娘でございます」「九条財閥――」「あら、その様子だとご存じのようですわね。実は私、恭司さんとは懇ろなお付き合いをしておりますの……」華と名乗った彼女は、ベッドで採血中の燐に不敵な笑みを見せた。身動きの取れない彼女に舐めるような視線が向けられる――燐のこめかみがピクリと動いて、布団の上で拳が作られる。「確か、“黒鉄燐”様でしたわね? せっかく籍を入れても黒鉄を名乗るのは、貴女がよほど血筋を重んじているからかしら」「……ただの慣例よ。それで、なぜ令嬢がこんなところまで直々に? お忙しいであろう方とお見受けしますが」燐の言葉が少しばかり濁っていた。それはもしかしたら、今までの不遇や傷心からの反動だったのかもしれない。場の空気がひりつき始めていた。二人の女の視線がぶつかって火花を散らす。「ふふ、私は恭司さんのビジネスに出資しておりまして。ビジネスパートナーとして良くやらせていただいておりますの」「ビジネスパートナー、ね……」「この間、恭司さんが忘れ物をしたから届けに来たのだけど……」――“忘れ物”?燐の表情が変わると、華はより下卑た笑みで言葉を継いでいく。「もしかして、恭司さんは仕事のことを何も話してくださらないのかしら……?」「……っ」「貴女が望むなら、昼間の恭司さんについて色々と教えてあげてもいいけれど……いいえ、守秘義務がありますので、やはり教えられませんわ。残念ですわね……」言葉の一つ一つが刃となって、燐の鈍っていた心に突き立て、毛羽立てていく。忘れていた感情が――ごく些細な大きさではあるが、燐の中で種から小さく芽を出していく。「華さん、と言いましたね」
last updateLast Updated : 2026-09-02
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第6話

軋む床の上に座らされているような暮らしだが、そのすべてが燐を苦しめていた訳ではない。緊張から解き放たれるその一瞬は、恭司の弟、暁が部屋にやって来た時だった。「やあ、義姉上」採血を終えて貧血気味になっていたとしても、彼が部屋の中に入るだけで燐の周りはふわっと明るくなる――「暁さん……?」「いつもお疲れ様。見せたい物があって」恭司によく似た顔立ちの弟、暁はドアの外枠から斜めに顔を出して挨拶する。燐の身体からふっと余計な力が抜けた。暁は部屋の真ん中まで来ると、寝転ぶ燐の隣で小さな椅子に腰掛けて目の高さを合わせる。彼は今日も緩い格好をしていたが、顔立ちのせいもあってかだらしなくは見えず、かえって似合って見えるのが不思議だった。「何を持って来たの?」「この間、血液検査をしたでしょ」「したけど……」暁は、何枚かの紙が入ったクリアファイルを差し出した。燐が目を通してみれば、それには――数日前に行った、彼女の血液に関する分析結果が詳細に記されている。「これ……」「医師がまとめたものだよ。兄上は先に目を通している。僕もそのことを聞いて、当事者の君にもお届けしたって訳」ざっと全体を見る。医療の知識にそこまで詳しくない燐だが――その中に『魔力量』の項目を見つけて目を留めた。魔力量:極小。分かってはいたが、燐の顔が曇った。「……ありがとうございます、暁さん。でもどうして、恭司さんは私に何も言わなかったの?」「きっと、余計な心配をしてほしくなかったんだと思うよ。兄上はそこまで酷い人じゃない……それは僕が保証する」暁からの言葉に燐は目を伏せる。――そこまで酷い人じゃない。本当ならば、私もそのように恭司さんのことを信じていたかったのに。「心配しているなら直接言えば良いのに」「はは、それは僕もそう思うね。そうだ、新しい生活になって数日だけど、何か欲しいものはある?」「欲しいもの?」燐は自分がいる部屋を見回した。寝転がっているベッドは、医療用ベッドの中でも最高級の物が用いられていて文句の付けようもない。テーブルもあればテレビもあって、燐が生活に困ることのないように物品が細かく揃えられている。しかし――「……暁さん。スマートフォンをもう二台、いただくことはできますか?」「二台! いいよ。何に使うのかは……」「たいしたことではありません。
last updateLast Updated : 2026-09-02
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第7話

燐はしばらくインターネットの海で情報を集めていった。公開されている範囲で、集会やパーティーにまつわる様々な話を揃えていく。『今日は経営者同士の交流会です。あの御堂財閥のCEOもいらっしゃって、早速話を聞いてきました。私が若い頃はもっとチャランポランだったなぁ・・・』『九条財閥のお嬢さん、やはり美しい! よくお酒を嗜まれるそうで話が弾みました。事業者としての一面もあるようで、これは将来に期待ですね!』『周りが凄い人多すぎて、自分まで凄い人になったような錯覚に陥る』『このイケメンを見て!御堂財閥の恭司さん。そこに居るだけで場が浄化される。。。彼女さんいるのかな?気になる~‼』そして、燐の中で結論が出る。――恭司の傍に、いつもあの女がいる。(なんなの、あの女……まるで既成事実を積み上げているみたい。恭司さんは気がついているのかしら)(それとも、知っての上で……?)(……“私”がいるのに?)家の中で恭司と会う頻度も多くはない。不満を募らせていた燐は、恭司が早帰りすると分かった日にわざと食堂で遅めの夕食を取った。それから恭司が帰ってきたタイミングでちょうど食事を終えたように振る舞い、玄関で彼を出迎える――「おかえりなさい、恭司さん。ちょうど夕食を終えたところだったの」「燐か。体調はどうだ?」「……問題ないわ。あの、恭司さん」恭司の、仕事とプライベートの間に存在する間隙のような時間。 ここを逃したら次はいつ話せるか分からない――夫婦なのに? 燐は若干の悔しさも滲ませながら、聞こうと思っていたことを尋ねた。「恭司さんは、私のことを本当に心配してくれてるの?」「そんなことを聞いて、どうした?」「ごめんなさい、一人の時間が長いから、つい不安になってしまって」「お前は何も心配しなくていい。あらゆる問題に対応できるよう専門家を揃えているから、安心してくれ」「……そうね」安心できれば、どんなに良か
last updateLast Updated : 2026-09-03
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第8話

背後を取られた燐はすぐに振り返る。華が、にこやかな笑みで立っていた――廊下の奥からの光が顔に影を作っている。「華さん……どうしてここに」「前に言わなかったかしら。私、恭司さんと一緒にお仕事しているの」華は悪びれることなく、小さな声になって燐の耳元に囁きかける――仕事場にいるであろう恭司には聞こえないように。「それで……“燐”。今日は寝ていなくてもよろしくて?」チクリ、と胸を刺される感覚。燐は華の顔を見ないようにしていた。見たら最後、呑まれてしまいそうだから。「私、聞いちゃったの。貴女、黒鉄家から追い出されたんですってね」「それは――」「魔女なのに魔法が使えない。貴女のような“落ちこぼれの魔女”が、どうして恭司さんの隣にいられるのかしら」「……もしかして、貴女も?」燐が聞き返すと、華は不機嫌そうにフンと鼻先であしらった。「一緒にしないで頂戴。私は、貴女よりもずっと、恭司さんを理解しているの」「…………」「あら、疲れちゃったのかしら? 話すことがないなら行くわ。……無理せず、ずっとベッドにいてもいいのよ?」そう言って華は部屋の一つに入る。後から燐が戸の隙間を覗いてみれば、背中を向けて座る恭司の傍で、華が立ったままその背後へ近付いているところだった。「恭司さんったら、相変わらず仕事ばかりなんだから。たまには息抜きでもしたらどう?」「今、しているところだ」「やだっ、そんなこと言われたら照れちゃうわ……」華の手が恭司の肩に触れている。燐は、胸の中をぎゅっと鷲づかみにされたような不快感を覚え始めていた。「何かあったら言ってね。私にできることだったら、手伝うから――」そうして、華は、燐の方をちらと見る。まるで最初から覗き見ていることを分かっていたかのように。そして――恭司の隣に居る自分の姿を、これでもかと見せつけ続けた。(……)(……
last updateLast Updated : 2026-09-03
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第9話

それから更に時間が経って――契約結婚から二年が経とうとしていた、ある朝。燐の部屋に、一枚の紙が届けられた。燐は使用人が出て行った後に一人で目を通す。 『契約変更覚書』『かねてから行っていた輸血ですが、患者の症状が悪化したことにより、以下のように内容を変更したく存じます……』 記されていたのは、週に二回行う採血の、量を増やすという内容だった。書類の下には、燐からの同意を得るための空欄がある。しかしそれは、同意の形をした“強制”でしかない。少なくとも――今の燐には、今更断れるようなものではなかった。(……)(……分かっているわ)(言っても、仕方ないものね)この頃になると、燐の心はボロボロに擦り切れていて、日課のスマホスクロールをこなすだけの存在になっていた。恭司が浮気をしたという証拠はない。 しかし、華は未だ彼と近いところにいる。もしかしたら全部燐の考え過ぎで、あの二人は本当にビジネスの関係でしかないのかもしれない。恭司は燐のことを大切にしていて、華にはまったくなびいていないのかもしれない。だけど――(もう……疲れちゃった、かも)怒りの感情には賞味期限があり、長く抱えるのにも限度がある。疑いを抱き続けるのもまた、心を無闇に締め付けて不毛な消耗を生み出すだけだ。今の燐が辿り着いた結論は……それらの感情に見ないふりを決めることだった。(……恭司さん)何も言わず、燐はその書類にサインした。雨が降っている。 遠くから、雷鳴が小さく聞こえてくる。土砂降りの夜。家を離れていた恭司は、自らが経営する会社近くにあるとある料亭を訪れていた。静かな和の空間で椅子に腰掛け、目を閉じて思慮に耽る。 その頭を様々な情報が駆け抜けて整理されていく中、入口から一人の女性が現れる。「恭司さん」「来たか、華」入ってきたのは、よそ行きのドレスで綺麗に着飾ってきた華だった。彼女は恭司の元にやってくると、どこか期待するような目をしながら彼の隣へ歩み寄っていく。「ごめんなさい、恭司さん。忙しいのに、わざわざ夜遅くに来てもらって」「必要なことだ。仕事なら仕方ない」「ええ、“必要なこと”だものね……」華が恭司の肩に手を乗せた瞬間――雨音の響く中で、恭司のスマートフォンが震えて着信を知らせた。(この時間に……誰だ?)恭司が取り出してみれば、
last updateLast Updated : 2026-09-04
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第10話

契約結婚から二年が経ち、燐がベッドの上で転がりながらスマートフォンの画面に指を滑らせていたある日。何も変わらない、退屈と鈍痛の毎日――それらが一変するような出来事が、一通のメールによって知らされた。「……恭司さん?」珍しい相手からのメールだった。 燐はその内容を見て目を大きくする。「“社長夫人として、年次晩餐会に参加して欲しい”……社長夫人……私が……?」いまいち実感が伴わないが、確かに燐は社長夫人だったのだと思い出した。社長夫人、つまり……恭司の妻であることが対外的にアピールされる。乾ききっていた心が躍ることはなかったが、彼との関係を確認するという意味でもまたとないチャンスだった。「“晩餐会に出席するためのドレスを買いに行く……”って、恭司さんと一緒に、お買い物するってこと……?」じんわりと温かな気持ちが広がっていく。しかし同時に、素直に喜びきれない自分がいることにも気付いて溜め息をつく。(恭司さん、もしかして、私を気遣ってくれているのかしら)(でも……)(本当なら、その優しさをもっと早いうちから見せてくれれば良かったのに)しかし、燐は擦れ始めていたものの、まったく嬉しく感じないわけでもなかった。あまり期待しすぎないくらいで、燐はその日が訪れるのを待った。 ドレス選びの予定は、直近の採血から数日後、燐がもっとも動ける日に入っていた。この日、燐は何日ぶりかも分からない外出に戸惑っていたが、使用人の女性たちが部屋で服を見繕ってくれた。(恭司さんと、二人で外出……)(おかしい感想だけど、なんだか夫婦にでもなったみたい)(パーティー用のドレスを買うのだから、恭司さんにとってはお仕事の延長なのかもしれないけど)身支度を終えて外に出てみれば、御堂家の前には見慣れたクラウンが止まっている。恭司は、運転席のドア前に立って燐を待っていた。ドレスを買いに行くためか、カジュアルであり
last updateLast Updated : 2026-09-05
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