LOGINあの夜から数日が経っても、燐の心に空いた穴は何も埋まらなかった。
燐はベッドで横になったまま、これまでのことを一人で思い返す。
すべては二年前に遡る――
黒鉄家。
明治以前から続く“旧き魔女”の血筋。そこに生まれた者、特に娘ともなれば誰もが大きな期待をかけるものだった。先祖と同じく、魔法の才を宿しているとして。
――だが、燐は違った。
彼女には魔法の才能がほとんどなかった。
魔力量は極小。一族の中で最も“出来損ない”と呼ばれるほどの有様に、周囲からの期待は簡単にひっくり返った。
『なに、魔法の才能が無い?』
『身体に宿せる魔力量が少ないようです』 『はあぁ。娘が生まれたからと期待してみればこれとは、がっかりじゃ。これじゃあ、ただの人間と変わりあるまい……』燐が覚えている限り、彼女は早々から、一族の殆どに見限られていた。
最も幼い頃の記憶は、蔵の中に閉じ込められて『しつけ』をされた思い出だった。まだ幼稚園に入る前の話だ。
『魔法を使えないなら、せめて
燐はあまり喋らない子供だった。
魔法の才能がないと知られてからは、家族からの期待を失うと共に一層その傾向が強くなっていった。
それでも――
『燐。貴女の価値は、魔力量なんかでは決まらないわ。これからの貴女が考え、成し遂げることで決まるの』
燐を産んだ母親だけは、そんな娘を心から可愛がって、抱きしめてくれた。
それは闇のような人生における灯火。
母の庇護を受けながら燐は勉学に励んで大学の経営学部へ進学。いつしか“才媛”と呼ばれるに至った。
『大学卒業おめでとう、燐。今の貴女ならどこに出しても恥ずかしくないわ……』
『ありがとう……お母様』しかし――
その母は原因不明の病に倒れ、大病院での入院生活を余儀なくされた。『ごめんなさいね、燐……』
『大丈夫よ。私はもう、大人だから』黒鉄家に、燐の味方はいなくなった。
莫大な治療費は黒鉄家の家計を著しく圧迫し、その中で、それから三ヶ月後――
『お父様……?』
『燐、お前に大切な話がある』黒鉄家の当主――父親から呼び出された燐は、和室で正座させられていた。
『お前に見合いの話が来ているんだ』
『見合い……ですか』燐の身体が硬くなる。
これは、母が居ないのを良いことに、燐を一族からの追い出そうというものだった。
『御堂家の長男、恭司君からの申し出だ』
『御堂家……?』御堂恭司――金融業界に接したこと人間ならば、誰もが知る名前だ。
若くして『御堂財閥』を継ぎ、CEOとなってからもその天才的な頭脳で業界の頂点に君臨した男。
『……私に、ですか?』
『そうだ。既に先方とは条件を話し合っている。向こうも黒鉄の魔女の血を求めているようでな……』燐は悟った。これは契約結婚だ。
結婚よりも、取引に近い――
『お前は魔力には恵まれなかったが、その血には、輸血した相手を癒やす力がある。互いに病人を抱える中、黒鉄家は金を、御堂家は血を欲している……』
燐は、魔法らしい魔法が使えない。しかしその一方で、黒鉄の魔女であることは間違いなかった。
黒鉄の血は、他者を癒やす血。魔力の有無にかかわらず生まれつき備え付けられた、高貴な血統の魔女が持つ効能であった。
「……」
つまり、燐は
燐は、父に向けて頭を下げて返事する。
拒否権など、なかった。
『……お母様の為にも、お受けします』
それから見合いの話は進み、遂に二人が対面することとなった。
よく晴れた日の午前、黒鉄家の和室で、黒いドレスに身を包んだ燐は御堂恭司と向き合う。
一言で表せば、氷のような人だった。
極めて整った顔立ちに引き締まった身体、冷静な態度。他人を簡単に寄せ付けないオーラに満ちている。
「恭司さん。私には魔法の才能がありません。それでもよろしいのですか?」
燐がそのように尋ねてみれば。
恭司は静かに目を瞑りながら、何ら変わらぬ様子で淡々と言葉を返した。
「……関係ありません。これは契約です」
その言葉に、燐は視界がぱっと明るくなったような気がした。すべてのものが、ずっと色鮮やかに映っているように見えた……
(……この人は、“私”を見てくれている)
(才能も、家のことでもない)
(ただ、“私”だけを見て――)
この話は極めて打算的なものであり、歯が溶けるような色恋沙汰とは程遠い。
しかしそれでも……燐の心はこの男の言葉で火を着けられたようだった。
「わかり、ました。問題ありません」
「ありがとう……燐」初めて名前を呼ばれた――
燐は、胸の内がこそばゆくなる気持ちを堪えながら硬い表情で頭を下げる。
「いえ、その……不束者ですが、よろしくお願いします」
これがすべての始まり。
ここからあの雨の夜までの長い二年間を、燐は歩み出したのだった。
広いパーティー会場、中央、沢山の人々の関心が向けられる中で、燐は華から突きつけられた言葉に押し黙る。「あら、燐様。どうされました……?」意地悪に微笑む華。燐は――ため息の後に口を開いた。「……どのようなものでも?」「ええ、構いませんわ」「わかりました」皆の注目が燐に突き刺さる。その中で――彼女は華を睨み付けた。「次の月の終わりまでに、九条財閥の株価を、今より一割落としてみせましょう」その言葉に場が一気にざわめく。燐と華、二人の女の対立の一片が露わになる。淡々とした顔の燐の横で、恭司さえも眉を上げて表情を変える中――華は瞼を閉じたまま燐の言葉をしばらく頭で反芻すると、首を小さく横に振ってから目を開き、どこか相手を小馬鹿にするような笑みで言葉を返した。「あなた……随分と夢のない魔法ね」「夢、ですか。そういう魔法をご所望なら、パークのチケットでも買ってみては?」言葉の刃が飛び交う中、燐と華は二人だけの世界でぎろりと睨み合う。「そう言えば、興味深い話がありますの。貴女……“落ちこぼれの魔女”なんですって? 噂の真相を確かめる良い機会になるかしら」「構いませんよ。ですがその代わり――」燐の瞳の中で、冷たい炎が立ち上った。「――私の言う通りになった場合、御堂の敷居は、二度と自由に跨げないものと思ってください」燐がそう言い放つと、華は一瞬口を開くも言葉を詰まらせ……それでも、気勢で押し負けまいと一歩前へ出る。二人の顔が至近距離まで詰まる――「いいわ。その挑戦、受けてあげる。せいぜい無様を晒さないことね……」周りの人々が野次馬となり、この後の流れを口々に囁き合う中。華は最後、燐にだけ聞こえるような小さな声で唇をひそかに動かした。「やってみせろよ、貧血魔女」「……!」燐がハッとした直後、華は何事もなかったような笑みに戻ると恭司に一礼していた。そして恭司に「また今度」と述べてから、近くのウェイターが運ぶシャンパングラスを取って離れていく。(……なんなの、あの女?)(もう、分かったわ)(貴女がそこまで言うのなら……私も)華という嵐が去った後、他の人たちは場の空気を掴みかねていた。その中で燐と恭司は二人きりとなる。燐が一人難しい表情をしていると、恭司が横から――言葉を選びながら囁きかけた。「……すまなかった」「別に。良い
年次晩餐会の夜がやってきた。「行くぞ、燐」「はい」この日は、使用人の運転しているリムジンの後方で二人が並んで座っていた。恭司は燕尾服、燐は先日仕立ててもらったばかりの黒のパーティードレス。端から見れば実にお似合いの格好である。……夫婦である二人の間に会話はあまりないのが実情ではあったが。「途中で具合が悪くなったら、すぐに言え。会場のスタッフにも事情は伝えてある」「大丈夫です、迷惑はかけさせません」晩餐会――御堂財閥のこれまでについての総括と報告が為されるこの場は、この国の様々な大企業の重鎮が集う場でもある。いわゆる“上流階級”同士が交流することになる、選ばれた者たちの場。そこで燐を――彼らにとって公然の秘密である“魔女”を妻として披露する。しかもそれが歴史ある“黒鉄家の魔女”ともなれば、その世界を知る者たちにとっては大きなニュースとなること間違いない。「燐」「何?」「……俺の傍にいるんだ」それは、普段の恭司らしくない台詞に思えるものだったが――(思わせぶりなこと言わないでよ……)燐はそれを正面からは受け取らず、逆に従順を装うようにわざとらしく返していた。「……ええ。わかりました」まるで、西洋のおとぎ話に出てくる王城の大広間のような空間だった。広い会場には多くのテーブルと立食用のディナーが並べられていて、会場のあちこちでは着飾った人々が集まりを作ってはグラス片手に会話を楽しんでいる。「やはり御堂財閥ともなれば、このような催しの規模もまるで桁違いだ……」「ところで、社長夫人はご覧になった? とても綺麗な方で嫉妬しちゃうわ。それにあの御曹司が婚約していたなんて……」「噂では、黒鉄家の娘が身売りに出された、とも聞いているが、どうだろうね」「まあ……」業界の様々な噂話が飛び交う中、もっとも人からの注目を集めていたのは、やはりパーティーの主役である御堂財閥CEOの恭司と、今回初めて公に披露される形となった燐であった。「恭司さん、お久しぶりです。そしてこちらが……」「恭司の妻の、燐です。初めまして」「おお、こちらこそ初めまして。なんとも美しい妻を貰ったようで……」燐は恭司の隣で社長夫人としての姿を演じ続けていた。周りにはどうやら好評のようで、特に大きな事件もなく客人たちの挨拶回りは進んでいく。このまま何事もなく――そ
契約結婚から二年が経ち、燐がベッドの上で転がりながらスマートフォンの画面に指を滑らせていたある日。何も変わらない、退屈と鈍痛の毎日――それらが一変するような出来事が、一通のメールによって知らされた。「……恭司さん?」珍しい相手からのメールだった。 燐はその内容を見て目を大きくする。「“社長夫人として、年次晩餐会に参加して欲しい”……社長夫人……私が……?」いまいち実感が伴わないが、確かに燐は社長夫人だったのだと思い出した。社長夫人、つまり……恭司の妻であることが対外的にアピールされる。乾ききっていた心が躍ることはなかったが、彼との関係を確認するという意味でもまたとないチャンスだった。「“晩餐会に出席するためのドレスを買いに行く……”って、恭司さんと一緒に、お買い物するってこと……?」じんわりと温かな気持ちが広がっていく。しかし同時に、素直に喜びきれない自分がいることにも気付いて溜め息をつく。(恭司さん、もしかして、私を気遣ってくれているのかしら)(でも……)(本当なら、その優しさをもっと早いうちから見せてくれれば良かったのに)しかし、燐は擦れ始めていたものの、まったく嬉しく感じないわけでもなかった。あまり期待しすぎないくらいで、燐はその日が訪れるのを待った。ドレス選びの予定は、直近の採血から数日後、燐がもっとも動ける日に入っていた。この日、燐は何日ぶりかも分からない外出に戸惑っていたが、使用人の女性たちが部屋で服を見繕ってくれた。(恭司さんと、二人で外出……)(おかしい感想だけど、なんだか夫婦にでもなったみたい)(パーティー用のドレスを買うのだから、恭司さんにとってはお仕事の延長なのかもしれないけど)身支度を終えて外に出てみれば、御堂家の前には見慣れたクラウンが止まっている。恭司は、運転席のドア前に立って燐を待っていた。ドレスを買いに行くためか、カジュアルであり
それから更に時間が経って――契約結婚から二年が経とうとしていた、ある朝。燐の部屋に、一枚の紙が届けられた。燐は使用人が出て行った後に一人で目を通す。 『契約変更覚書』『かねてから行っていた輸血ですが、患者の症状が悪化したことにより、以下のように内容を変更したく存じます……』 記されていたのは、週に二回行う採血の、量を増やすという内容だった。書類の下には、燐からの同意を得るための空欄がある。しかしそれは、同意の形をした“強制”でしかない。少なくとも――今の燐には、今更断れるようなものではなかった。(……)(……分かっているわ)(言っても、仕方ないものね)この頃になると、燐の心はボロボロに擦り切れていて、日課のスマホスクロールをこなすだけの存在になっていた。恭司が浮気をしたという証拠はない。 しかし、華は未だ彼と近いところにいる。もしかしたら全部燐の考え過ぎで、あの二人は本当にビジネスの関係でしかないのかもしれない。恭司は燐のことを大切にしていて、華にはまったくなびいていないのかもしれない。だけど――(もう……疲れちゃった、かも)怒りの感情には賞味期限があり、長く抱えるのにも限度がある。疑いを抱き続けるのもまた、心を無闇に締め付けて不毛な消耗を生み出すだけだ。今の燐が辿り着いた結論は……それらの感情に見ないふりを決めることだった。(……恭司さん)何も言わず、燐はその書類にサインした。雨が降っている。 遠くから、雷鳴が小さく聞こえてくる。土砂降りの夜。家を離れていた恭司は、自らが経営する会社近くにあるとある料亭を訪れていた。静かな和の空間で椅子に腰掛け、目を閉じて思慮に耽る。 その頭を様々な情報が駆け抜けて整理されていく中、入口から一人の女性が現れる。「恭司さん」「来たか、華」入ってきたのは、よそ行きのドレスで綺麗に着飾ってきた華だった。彼女は恭司の元にやってくると、どこか期待するような目をしながら彼の隣へ歩み寄っていく。「ごめんなさい、恭司さん。忙しいのに、わざわざ夜遅くに来てもらって」「必要なことだ。仕事なら仕方ない」「ええ、“必要なこと”だものね……」華が恭司の肩に手を乗せた瞬間――雨音の響く中で、恭司のスマートフォンが震えて着信を知らせた。(この時間に……誰だ?)恭司が取り出してみれば、
背後を取られた燐はすぐに振り返る。華が、にこやかな笑みで立っていた――廊下の奥からの光が顔に影を作っている。「華さん……どうしてここに」「前に言わなかったかしら。私、恭司さんと一緒にお仕事しているの」華は悪びれることなく、小さな声になって燐の耳元に囁きかける――仕事場にいるであろう恭司には聞こえないように。「それで……“燐”。今日は寝ていなくてもよろしくて?」チクリ、と胸を刺される感覚。燐は華の顔を見ないようにしていた。見たら最後、呑まれてしまいそうだから。「私、聞いちゃったの。貴女、黒鉄家から追い出されたんですってね」「それは――」「魔女なのに魔法が使えない。貴女のような“落ちこぼれの魔女”が、どうして恭司さんの隣にいられるのかしら」「……もしかして、貴女も?」燐が聞き返すと、華は不機嫌そうにフンと鼻先であしらった。「一緒にしないで頂戴。私は、貴女よりもずっと、恭司さんを理解しているの」「…………」「あら、疲れちゃったのかしら? 話すことがないなら行くわ。……無理せず、ずっとベッドにいてもいいのよ?」そう言って華は部屋の一つに入る。後から燐が戸の隙間を覗いてみれば、背中を向けて座る恭司の傍で、華が立ったままその背後へ近付いているところだった。「恭司さんったら、相変わらず仕事ばかりなんだから。たまには息抜きでもしたらどう?」「今、しているところだ」「やだっ、そんなこと言われたら照れちゃうわ……」華の手が恭司の肩に触れている。燐は、胸の中をぎゅっと鷲づかみにされたような不快感を覚え始めていた。「何かあったら言ってね。私にできることだったら、手伝うから――」そうして、華は、燐の方をちらと見る。まるで最初から覗き見ていることを分かっていたかのように。そして――恭司の隣に居る自分の姿を、これでもかと見せつけ続けた。(……)(……
燐はしばらくインターネットの海で情報を集めていった。公開されている範囲で、集会やパーティーにまつわる様々な話を揃えていく。『今日は経営者同士の交流会です。あの御堂財閥のCEOもいらっしゃって、早速話を聞いてきました。私が若い頃はもっとチャランポランだったなぁ・・・』『九条財閥のお嬢さん、やはり美しい! よくお酒を嗜まれるそうで話が弾みました。事業者としての一面もあるようで、これは将来に期待ですね!』『周りが凄い人多すぎて、自分まで凄い人になったような錯覚に陥る』『このイケメンを見て!御堂財閥の恭司さん。そこに居るだけで場が浄化される。。。彼女さんいるのかな?気になる~‼』そして、燐の中で結論が出る。――恭司の傍に、いつもあの女がいる。(なんなの、あの女……まるで既成事実を積み上げているみたい。恭司さんは気がついているのかしら)(それとも、知っての上で……?)(……“私”がいるのに?)家の中で恭司と会う頻度も多くはない。不満を募らせていた燐は、恭司が早帰りすると分かった日にわざと食堂で遅めの夕食を取った。それから恭司が帰ってきたタイミングでちょうど食事を終えたように振る舞い、玄関で彼を出迎える――「おかえりなさい、恭司さん。ちょうど夕食を終えたところだったの」「燐か。体調はどうだ?」「……問題ないわ。あの、恭司さん」恭司の、仕事とプライベートの間に存在する間隙のような時間。 ここを逃したら次はいつ話せるか分からない――夫婦なのに? 燐は若干の悔しさも滲ませながら、聞こうと思っていたことを尋ねた。「恭司さんは、私のことを本当に心配してくれてるの?」「そんなことを聞いて、どうした?」「ごめんなさい、一人の時間が長いから、つい不安になってしまって」「お前は何も心配しなくていい。あらゆる問題に対応できるよう専門家を揃えているから、安心してくれ」「……そうね」安心できれば、どんなに良か







