Todos los capítulos de 五年の贖罪婚を終わらせた日、愛だけはくれなかった御曹司は私を狂おしいほど求め始めた: Capítulo 31 - Capítulo 40

62 Capítulos

31話

 黒木はきっちり約束の十分で二人を切り上げさせると、雪乃を促してスタジオを後にした。  スタジオを出た黒木は、車に乗り込む前に一度だけ携帯を取り出し、指を滑らせた。 『はい、問題なく戻りました』  その一文を打ち終えると、黒木は僅かに眉を寄せた。  文字を消して『問題ありません』と打ち直す。そして、送信ボタンを押してすぐに画面を消して車へと乗り込んだ。  雪乃は羽織っていたジャケットを黒木へと返した。身体を覆っていた重みと温もりが離れ、急に身体が軽くなった気がした。けれど、どこか肌寒く感じる。 (エアコンもついていないのに……変ね)  体調を崩す前触れかもしれない――雪乃はカーディガンの前をしっかりと握り前を閉じた。  エンジン音が静かに響き、車は動き出す。窓の外を流れていく見慣れた街並みは、行きに見たものと何一つ変わらないはずなのに、どこか色を変えて映る気がした。  後部座席に座る雪乃の胸の中には、自分の作った音と湊の言葉が合わさった興奮と、ソロデビュー曲という信じられないような打診を受けた熱が未だに残っていた。暗闇の中にいた自分が、再び誰かと音楽で繋がれたという高揚感のまま、雪乃はつい前席の男へと視線を送り、口元を動かした。 『湊の元に行かせてくれて、ありがとう』  彼が自分の我儘を聞いてくれたから、湊と話すことができた。雪乃は彼に感謝を告げた。  黒木は前方を見据えたまま、何も答えなかった。ルームミラー越しに視線が動いた気配はあったが、読み取れていたのかどうか、雪乃には分からなかった。  それでも、胸の熱を抑えきれない雪乃は、つい続けて口元を動かしてしまう。 『アーティストに曲を提供するの、どう思いますか?』  前方の道路を見据えたまま、黒木は感情の籠もらない声で淡々と応じた。 「私には分かりかねます」 『そうよね……』  突っぱねるような言い方に、雪乃はしゅんと肩を落とした。興奮に任せて口を動かした軽率さを恥じる。  ルームミラー越しに、小さく縮こまる雪乃の姿を目撃した黒木だったが、ただ一言短く告げる。 「運転に集中しますので」  視線を前へと戻す黒木に、雪乃は車内でそっと手を合わせた。 『ごめんなさい』  それきり、車内には静寂だけが落ちた。雪乃は窓に額を預け、流れていく外の景色をただじっと眺め続けた。 ※
last updateÚltima actualización : 2026-09-20
Leer más

32話

  ※ ※ ※ 雪乃が口元を動かして話しかければ、黒木は反応して短く返答こそするものの、決して目を合わせようとはしなかった。 彼の視線は常に雪乃の少し上か、あるいは明後日の方向へと向けられている。ただ指示された警護対象として淡々とそこに存在しているだけ――そんな冷ややかな態度が、二人の間に見えない壁を作り上げていた。 柊也が手配した家政婦は、最初の一週間こそ毎日決まった時間に来ていたものの、二週目に入るとぱたりと姿を見せなくなった。 何か連絡があったわけでもない。ただ一方的に放置された事実を雪乃は静かに受け入れた。 キッチンへと向かい、冷蔵庫のドアを開けた。 中には何も入っていなかった。冷たい空気だけが空っぽの棚に存在している。(お腹も痛いし、食欲もない。一日くらい、食べなくてもいいかしら) だからと言って、明日の計画は何もない。雪乃の頭の中に出前をとるという選択肢は浮かばなかった。 下腹部に鈍い痛みが走り、雪乃はそっとお腹を押さえた。重苦しい身体を引き摺るようにして、廊下の先にあるトイレへと向かう。 当然ながら、黒木がトイレの中まで入ってくることはない。彼はトイレから少し離れた距離で静まり返った廊下で背筋を伸ばして待機している。 ドアノブに手をかけた際、雪乃はチラリと黒木の横顔を盗み見た。黒木は、目の前にある白い壁の一点を無表情のまま見つめているだけだった。 ※ 暫くしてドアが開き、廊下で待機していた黒木の元に雪乃が近付いてくる。 雪乃が黒木の足元まで近寄ると、彼女は申し訳なさそうに肩を竦め、そして小さく俯いた。 一度顔を上げ、黒木を見上げるも気まずそうに再び俯いてしまう。明らかに何かを言いたげな雰囲気に押され、黒木はつい訊ねてしまった。「どうされましたか?」 言い終えてすぐ、心中で黒木は舌打ちをする。こうやって自分から話しかけてしまえば、会話が続いてしまう。自ら警護・監視対象者との距離を縮めるようなことをしてしまい、黒木は眉間に深い皺を刻んだ。 意を決したように雪乃が顔を上げ、必死に口元を動かし
last updateÚltima actualización : 2026-09-21
Leer más

33話

  黒木は右手を徐に上げて、握り拳を作る。 過去の幻影を蹴散らすように強く握り締めた拳を解くと、その手をすぐ商品棚に伸ばし、片っ端からカゴに入れる。それから隣の衣料品コーナーにあった黒のスウェットパンツとレディース用のショーツも放り込んだのだった。 ※ 雪乃は二階の寝室で、ひとり窓の外を見つめていた。下腹部の重い痛みに耐えながら、静まり返った屋敷の中でじっと待つ時間は、やけに長く感じられる。 やがて、敷地内に見覚えのある黒い車が入ってくるのが見えた。 車が止まり、玄関のドアの開く音が響く。続いて、重く確かな足取りで階段を上ってくる音が聞こえてきた。 雪乃はそっと息を呑み、ドアの前で彼が叩いてくれるのを待った。 けれど、足音は雪乃の部屋の前を通り過ぎ、隣の部屋――黒木に与えられている隣室のドアが開いて閉まる音がした。(……あ) 拍子抜けしたような、どこか寂しいような思いを抱えて佇んでいると、ほんの少しの間のあと、今度こそ雪乃の部屋のドアが控えめに叩かれた。 雪乃が急いでドアを開けると、そこには、パンパンに膨らんだ大きなレジ袋を両手に抱えた黒木が立っていた。 黒木は一度も視線を合わせようとはせず、少し横を向いたまま、無表情に袋を差し出した。「どれがいいか分からなかったので、とりあえず全部買いました」 その言葉とともに差し出された袋の重みを受け取り、雪乃は驚きに目を丸くした。中を覗くと、多種多様な生理用品に加え、衣類が見える。雪乃は深々と頭を下げ、丁寧に口元を動かした。『ありがとうございます』 感謝を伝えて受け取ったものの、黒木はその場を動こうとしなかった。普段なら用件を済ませればすぐに身を引くはずの男が、どこか硬い眼差しで、まっすぐに雪乃を見下ろしてくる。 不審に思った雪乃が首を傾げると、黒木は低い声でぽつりと問いかけた。「……逃げなかったんですか?」 自分が留守にしていた間、屋敷には誰もいなかった。鍵さえ開ければ、外へ逃げ出す機会はいくらでもあったはずだ。
last updateÚltima actualización : 2026-09-22
Leer más

34話

 『代わりの何か、ですか……?』 雪乃は眉を下げ、一人思考の海へと沈み込んだ。 黒木が提示してきた交換条件の内容――けれど、この広大な屋敷の中で、彼女自身が自由にできる自分の物など何一つ存在しなかった。 唯一、金目になりそうなものがあるとすれば……雪乃は自分の左手に視線を落とす。薬指で冷たい光を放っているのは、指輪だった。まるで呪いのように皮膚に食い込み、どうしても外れることのない指輪。『……』 物がないとすれば、他に彼へ渡せるものなんて……。(……この身、とか……?) 次の瞬間、あまりに突飛で愚かな考えが頭を過り、雪乃は慌ててブンブンと首を横に振った。何をバカなことを考えているのだろうと、自分の顔が熱くなるのを感じる。 真剣な顔つきで悩んでは頭を振っている雪乃の様子を見つめていた黒木は、低く息を吐いた。「……冗談です。本当にお金はいりませんので」 彼の言葉に、雪乃はハッと顔を上げた。 冗談と言われても、そういうわけにはいかない。彼は自分を監視・警護するためだけに柊也から雇われている立場だが、実際にはこうして生理用品を買いに走り、スープまで用意してくれたのだ。何かと世話になっている以上、一方的に甘え続けるわけにはいかなかった。(私にできること……私に渡せるもの……) 必死に頭を巡らせていた雪乃の脳裏に、ふと閃きが舞い降りる。 自分が唯一できることが、たったひとつだけある。 雪乃は黒木を見上げると、お願いするように両手を合わせ、口元を動かした。『ペンと紙をくださいませんか?』 黒木は一瞬不審そうに眉を顰めたものの、無言のままスーツの内ポケットへと手を伸ばした。差してあったシンプルなボールペンと、小さなメモ帳を引き抜くと、それを雪乃へと差し出す。 雪乃はそれらを両手で受け取ると、
last updateÚltima actualización : 2026-09-23
Leer más

35話

  ※ ※ ※ 黒木からカップ麺の作り方を教わり、ネットで出前をとる方法を最近知った雪乃はノートパソコンを使用して、出前をとるようになった。というのも、全て黒木のクレジットカードからの引き落としになるのだが、彼が「カップ麺だけ食べて、身体を崩したらまた私がリンゴをすりおろす羽目になるので出前にしてください」と言い切ったからだ。『また私がリンゴをすりおろす羽目に……?』 自分の発言にバツが悪そうに目を逸らした黒木を見て、あの時ベッドサイドテーブルにあったすりおろしリンゴと解熱剤は、川本ではなく彼が用意したものだったのだ。すりおろした後のリンゴの皮が残っていたし、シンクには洗い物も放置されていた。これで、点と点が繋がった。雪乃は黒木に口元を動かしてお礼を言うも、彼は何も返さなかった。ただ、耳元が薄っすら赤くなっていることに雪乃は気付いて、彼はやはり根本は悪い人ではないのだと確信した。 それから数日経った頃。 屋敷に突然インターホンが鳴った。黒木が扉を開けると、そこに立っていたのは柊也の秘書である田迎だった。 訝しげな田迎の視線に、黒木は「旦那様に雇われて奥様の警護をしている黒木と申します」と上着の胸ポケットから名刺を取り出し、田迎に渡す。 彼はそれを受け取ると、名刺と黒木を交互に見比べ、頭を下げる。「旦那様からは何も聞かされておらず、失礼致しました」 そう言って、田迎もまた黒木に名刺を手渡した。 その一部始終を廊下の奥から見守っていた雪乃が、足音を忍ばせるように玄関へ近付いてくる。突然の秘書の訪問に戸惑いを隠せない雪乃へ向かって、田迎は頭を下げ、淡々とした声で告げた。「奥様。突然のお伺いで恐れ入ります。すぐにお支度をお願い致します。旦那様からのご指示で、今からご別荘へお連れします」 事前の連絡など一切なかった。 黒木も聞かされていなかったようで、一瞬だけ目を見開いた後に、すぐにいつもの鉄仮面に戻る。「旦那様は一足先にご別荘へ向かわれております。奥様をお連れするようにと仰せつかっております」 雪乃は田迎の発言に戸惑いを隠せず、口元を
last updateÚltima actualización : 2026-09-24
Leer más

36話

  柊也の隣に当然のような顔で座っていた莉子が、雪乃の姿を認めると、可憐な笑みを浮かべてすっと立ち上がる。「奥様、お久しぶりです」 丁寧なお辞儀とともに放たれた声に、雪乃はその場で凍りついた。なぜ、柊也の実家の別荘に、彼の幼馴染みであるはずの莉子が当たり前のように同席しているのか。頭の中が真っ白になり、言葉はおろか指一本動かすことすらできない。 固まる雪乃の背後に、すっと影が落ちた。黒木がいつもの無表情のまま、雪乃を護るように絶妙な間合いで背後に控える。 その巨大な存在感に目をとめたのは、テーブルの上座に腰掛けていた琴子だった。鋭い眼光で黒木を見上げ、露骨に眉を顰めた。「……うしろの方は?」「雪乃につけている警護なんだ。君も来たのか」 柊也が応接用のグラスを手にしたまま、気のない声で短く応じた。視線を黒木へ向けると、黒木は深く一礼し、低い声で応える。「はい」「警護なんているの?」 琴子は呆れたように溜め息を吐き、蔑むような視線を雪乃へと向けた。「物騒だからね」 柊也のそっけない返答を聞き流しながら、琴子は雪乃の全身を頭から足先までじっと検分するように見つめた。着慣れたロングカーディガンにタンクトップ、黒のスウェットパンツという、お世辞にも格式高い別荘にそぐわない雪乃の姿に、琴子の眉間の皺が一層深くなる。「夫の両親に会うっていうのに、その格好はなに? 礼儀がなってないわ」 刺すような義母の言葉が大広間に響き渡る。 雪乃は身を縮こまらせ、恥ずかしさと情けなさで頭を下げるしかなかった。理由を説明したくても言葉を発せないため、言い訳ひとつ許されない。着替えがないからこの格好で来ざるを得なかったのだと訴えたかったが、田迎を通して服を用意してあると言わせた柊也は、口を開こうともしない。 自分が原因であるにもかかわらず、妻を庇う素振りすら見せない夫。柊也はただグラスの氷を揺らすだけだった。「服は二階に用意してあるよ」 助け舟でも何でもない、穏やかな柊也の声が静まり返った広間に虚しく響いた。 雪乃は
last updateÚltima actualización : 2026-09-25
Leer más

37話

 現れたのは、桐生謙也――柊也の父親だった。 桐生エンタテインメントの社長職こそ引退したものの、発行済み株式の3分の2超を握る大株主であり、その威厳と生真面目な厳格さは今なお健在だった。 謙也の鋭い眼光が大広間を見渡す。一瞬で場が静まり返る中、彼の視線が雪乃の上で止まった。「……久しぶりだな、雪乃さん」 低く重厚な声でそう声をかけられ、雪乃は弾かれたように立ち上がると、深く頭を下げる。謙也は短く頷き、整然とした足取りで席へと向かった。 謙也は椅子に腰を下ろし、柊也の隣に座る莉子を一瞥し、眉を顰めて問い質す。「何故、柊也の隣に君がいる?」 その厳格な声に、莉子はハッとしたように顔を強張らせ、慌てて立ち上がった。「ご、ごめんなさい。つい幼馴染みの癖が抜けなくて……」 突然しおらしく、申し訳なさそうに頭を下げながら雪乃が座る席まで行くと、彼女に笑いかける。「すみません、奥様。お席、代わりましょう」 戸惑いながらも、雪乃は促されるまま柊也の隣へと席を移し、莉子は雪乃が元々座っていた位置に腰を下ろす。 そのやり取りを見ていた琴子が、ここぞとばかりに謙也へ話しかけた。「あなた、聞いてくださいな。実は雪乃さんが、莉子ちゃんに物を投げて怪我を負わせたそうなのよ」「お母様、私はもういいんです……」 謙也は冷ややかな一言でそれを遮った。「大した傷でもないのに、いつまで責める必要がある。……理由がなければ、物など投げん」 淡々とした、けれど一切の反論を許さない一言だった。 琴子も莉子も言葉を詰まらせる。謙也はそのまま、柊也と莉子の二人を冷酷な眼差しで見据えた。「むしろ、人目の多い場所で、表舞台に立つ人間が目立つような真似をするべきではない。いつ写真を撮られるかも分からんのだぞ」 先ほどまで雪乃を罪人として糾弾していた空気は一瞬で瓦解し、一転して柊也と莉子が謙也から厳しく叱られる構図へと変わった。琴子も夫の威圧感の前に割り込む
last updateÚltima actualización : 2026-09-26
Leer más

38話

「そんな、お母様。ここでそんな話は……夫婦のお話なのに」 莉子は両手を頬に当て、恥ずかしそうに頬を染めた。この時の口の端も引き攣っているのが雪乃の目にはっきりと映し出されたのだが、自分以外誰も気付いていないようだった。 琴子と言えば、莉子の発言を気に留める様子はなく、不満そうに口を尖らせる。「だって、あなたたち結婚して五年でしょう? できないのはおかしいわよ」 できないも何も……雪乃と柊也が肌を重ねたのは、結婚してからたった一度だけだった。 しかも、柊也に無理やり奪われたあの一度が、実を結ぶことはなかった。「授かり物だからさ。心配しないでよ」 軽やかに笑う柊也の手が、力任せに押さえつけている雪乃の左手の上で、静かに動いた。 指先が、雪乃の指輪にそっと触れる。 その触感に、背筋を氷でなぞられたような激しい悪寒が走り、雪乃の肌にぞっと鳥肌が立った。指輪を嵌めさせ、自分を「妻」という籠に閉じ込めている男の冷酷な圧迫感が全身に伝う。 ホテルでは月ものだと嘯いて拒否をしたことで免れたが――もしも、今夜誘われたら?(同じ嘘は通用しないかも――……) あの痛みと、自分ではなくなる感覚を、また味わう羽目になるかもしれない恐怖で、雪乃は首を締め付けられたかのように、気管が狭まる感覚に襲われた。(でも、莉子さんがいるから何もないかもしれない) 皮肉にも、莉子の存在に安心している自分がいて雪乃は感情をどこに置けばいいか分からなかった。「でも、あっという間に時間が過ぎちゃうわよ。まだ動けるうちに孫を抱きたいわ」 なおも食い下がる琴子に、それまで黙って茶を飲んでいた謙也が重い溜息を吐いた。「ここでそんな話はやめないか」「だって、あなた――」「くだらん」 謙也は呆れたように一言吐き捨てると、腰を上げて大広間を出て行ってしまった。「母さん、父さんをあまりイライラさせないでくれ。宥めるのが大変なんだから」 柊也は困ったように息を吐くと、よ
last updateÚltima actualización : 2026-09-27
Leer más

39話

 黒木の低い声が、静かに空気を切った。「私の警護対象者ではない方の命令は、聞けません」 莉子の笑みが、ぴしりと音を立てて崩れた。その顔には隠そうともしない苛立ちが浮かぶ。 雪乃は、右手でそっと口元を覆った。 笑みを隠すため――けれど、胸の奥がじんわりと熱を帯びているのを自覚していた。あの莉子に、自分の声を出せないという欠点を逆手に取って、やり返すことができたのだから。 その一部始終を見ていた琴子が、すかさず声を上げる。「雪乃さん。莉子ちゃんは柊也の幼馴染みよ? そういう態度はどうなのかしら?」 嫌みの前触れのような声音。 莉子の右の口角が吊り上がるのが雪乃の目に入った。 雪乃は返す術もなく、ただ静かに視線を落としたその瞬間――「失礼します」という黒木の声が雪乃と琴子の間に割って入った。「奥様にはこれからご予定がありますので、失礼致します」(予定――?) 雪乃は目を瞬かせたまま、黒木に腕を軽く添えられ、その場から連れ出される。大広間を出て、廊下に出たところで黒木を見上げ、そっと唇を動かした。『なにか予定、あったかしら?』 黒木は雪乃から視線を逸らし、前方を見て、淡々と答える。「口からでまかせです」 雪乃は目を丸くした。 その言葉の意味が胸の奥に落ちていくにつれ、頬がじわりと熱を帯びる。(助けてくれたの?) 雪乃は黒木の前に歩み出て、口元を動かした。『ありがとう』 あの場に味方はいない、と思っていたのに。背後にいたようだった。 黒木の表情は変わらない。ただ、短く息を吐き、素っ気なく言い捨てた。「有言実行しただけです」 階段を上がりましょう、と黒木は雪乃を促し、二人は並んで広い階段を一段ずつ上る。 雪乃はそっと隣を歩く黒木を盗み見た。 その横顔はいつも通り無表情なのに――耳の後ろが、ほんのり赤く染まっているように見えた。 雪乃はそれに触れず、視線を落とし、黒木に見えないように俯いたまま、もう一度だけ小さく唇を動かした。『あ&
last updateÚltima actualización : 2026-09-28
Leer más

40話

 柊也はベッドの縁に腰を下ろし、化粧台の椅子に座る雪乃へ手を伸ばした。 その動きは、まるで舞台の上で決められた振付をなぞるように滑らかだった。 そっと重ねられたその手は、さっき大広間で強く握られたものとはまるで別人のものだった。 絹のように柔らかく、触れた瞬間に溶けてしまいそうなほど優しい。 みんなの前で妻を糾弾しようとした人物とは思えないほどに。 彼の裏切りを知るまで、この優しさは本物だと思っていた。でも、今は違う。全て、偽りだということを雪乃は見抜いている。 雪乃は手を抜き、化粧台の上に置いていたメモ帳とボールペンを左手で掴んだ。掌が汗で湿っている。ページを開く指が、僅かに震えていた。『私は何のために呼ばれたんですか?』 書き終えた瞬間、胸の奥が少しだけ軽くなる。言葉にできた、それだけで、息が少し楽になった気がした。 けれど、その安堵は長くは続かなかった。 その文字を見た柊也は、困ったように眉を下げた。まるで、雪乃が理不尽なことを言っているかのような表情だった。 伝えたはずの言葉は、彼の中で都合よく塗り替えられていく――その予感に、軽くなったはずの胸が、再び重く沈んでいった。「さっきのあれを怒っているのか? あれはパフォーマンスだよ」(パフォーマンス……?) その言葉が、胸の奥で鈍く響く。 雪乃は眉間に皺を寄せ、喉が引き攣るような感覚に襲われた。「莉子は雪乃を許すって言ってくれた。でも、大人としては謝罪の場を設けるべきだろ?」 雪乃は理解できなかった。 そもそも莉子の怪我は大したものではない。 あの時、あの場で右手を負傷したのは自分の方だ。 なのに――どうして、自分が謝罪をしなければならないのだろう?「雪乃は反省している、と莉子に見せる必要があったんだ」(反省も何も、私を踏み躙ったのは貴方たちなのに?) 胸の奥がぎゅっと縮こまり、呼吸が浅くなる。 気道が狭まったように息が苦しい。「雪乃が何も謝らないと周囲の心証が悪いだろ? だから、人
last updateÚltima actualización : 2026-09-29
Leer más
ANTERIOR
1234567
ESCANEA EL CÓDIGO PARA LEER EN LA APP
DMCA.com Protection Status