Todos los capítulos de 五年の贖罪婚を終わらせた日、愛だけはくれなかった御曹司は私を狂おしいほど求め始めた: Capítulo 41 - Capítulo 50

62 Capítulos

41話

「両親に孫の顔を見せてやろう」 その言葉が耳の奥に落ちた瞬間、雪乃の脳は一拍遅れて意味を理解した。 理解した途端、視界の端が白く霞む。 背中に触れる柊也の掌の熱が、服越しにもかかわらず酷く熱い。雪乃の背中に嫌な汗が流れた。 柊也の胸を押している右手の古傷が、まるで「逃げられない」と告げるように疼いた。「孫の顔を見せれば、母さんはおとなしくなるだろうし、父さんも跡継ぎができたって喜ぶと思うんだ」 柊也は雪乃の首筋に顔を埋め、柔らかな唇で触れてくる。ぞっ、と全身の肌に鳥肌が立った。「年老いた両親を喜ばせよう――前回は駄目だったが、今回は分からないだろ?」(……嫌……っ) 月のものだという言い訳は、二度目は絶対に通用しない。 雪乃はホテルの時のように、必死の思いで柊也の顔を両手で掴み、まっすぐに彼の目を見つめた。『莉子さんがいるのに、いいの?』 唇をはっきりと動かす。読んでくれ、理解してくれ――と心の中で切実に願う。 しゃくだけれど、今は彼女の存在すら言い訳にして、この手から逃れようとするしかなかった。 だが、柊也はどこまでも余裕そうに薄く笑うだけだった。「莉子は関係ないだろ? いくら彼女でも、夫婦の部屋には来ないさ」 通じない。雪乃は首を振り、焦燥感に駆られながら再び口元を激しく動かす。『でもっ。彼女は、貴方に会いに別荘にまでついてきたんでしょ?』「すまない。今のは読み取れなかった」 冷淡な一言とともに、体が宙を舞った。 ベッドの上に力任せに投げ出され、雪乃はうつ伏せのまま倒れ込む。 ベッドから逃げ出そうと必死に手でシーツを掴み、這うようにして降りようとした。 だが、いつまでも思い通りに開かない右手の中指が、シーツの上で虚しく滑るだけだった。力を込めるほど、古傷の疼きが鋭さを増し、指先の感覚だけが遠ざかっていく。 けれど、次の瞬間――腰にかかる重く鈍い圧迫感に、体がぐにゃりとベッドへ沈み込む。 柊也が上から跨がって
last updateÚltima actualización : 2026-09-30
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42話

 「隣の部屋を黒木に貸したんだ」 その言葉が鼓膜に落ちてきた瞬間、雪乃の胸の中で戸惑いが生じた。 柊也がなぜ、わざわざそんなことを口にしたのか分からない。 黒木が隣の部屋にいるのなら――激しく物音を立てれば、彼が異変に気付いて助けに来てくれるかもしれない。それは絶望の淵で見えた、確かな希望ではないだろうか。 ただ、黒木を雇ったのは柊也だ。契約上の雇い主に逆らってまで、夫婦の私室の問題にどこまで踏み込んで介入してくれるのかという不安は残る。それでも、何もないよりはマシだった。 僅かな希望に縋り直すように、強張っていた肩の力がふっと抜け、身を竦めていた筋肉が柔らかくなる。 だが、その安堵を潰すように、柊也が雪乃の耳元で静かに囁いた。「俺たちがここで、何をしているか物音で分かるかもしれないな」 ――そういうことか、と雪乃は悟った。 雪乃には、その言葉が「隣の部屋にいる警護に、自分が夫に屈服させられ、抱かれている音を聞かれることになる」という恥辱の暗示にしか思えなかった。 救いなどではなく、さらなる屈辱と支配の警告。 そう受け取った途端、柔らかくなりかけた筋肉が緊張し、雪乃は再び冷たい絶望へと突き落とされた。「四六時中、一緒にいる警護に知られるのはさすがに恥ずかしいか?」 柊也の問いかけに、雪乃は必死で深く頷いた。(そうよ、嫌よ、恥ずかしい――だからやめて) 心の中で叫びながら、救いを求めるように何度も頷く。 けれど、柊也が雪乃の意を汲んだことなど、今までただの一度もなかった。 雪乃の頷きを「恥ずかしがっている妻の可憐な反応」として都合よく解釈した柊也は、満足そうに目を細めると、愛おしげに彼女の頬を撫でた。「なるべく――音を立てないように気をつけるよ」 そう言って、柊也は雪乃の太腿に触れていた手をさらに上へと移動させ、ショーツに手をかける。雪乃は恐怖のあまり懸命に身を捻るが、ギシッと軋むベッドの音に、思わず動きを止めてしまった。 冷たい指先がショーツの縁をなぞり、布越しに感じたことのない怖気が背筋を駆け上が
last updateÚltima actualización : 2026-09-30
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43話

 逃げようとすればするほど、音が大きくなることに気付いた雪乃は、逃げることを諦め、受容することに決めた。ただ、一度音が出てしまえば、ベッドのスプリングの軋む音が大きくなる一方で、肉同士がぶつかる音も鳴り止まない。雪乃が動かないように気をつけたところで、柊也が動くせいで音は部屋の壁に反響する。「……くっ」 柊也の短い唸り声とともに、熱い飛沫が雪乃の腹の奥を叩いた。  ※ 執拗に重ねられる行為に耐え続け、雪乃がようやく解放されたのは、東の空が白み始めた夜明け頃だった。 所有物のように扱われることへの憤りすら、時間が経つにつれて感じなくなり、雪乃は頭の中を空っぽにすることで現実から目を逸らし続けた。 静まり返った部屋に、柊也の携帯電話が甲高い電子音を響かせる。 画面を見た柊也が、苦々しく眉を寄せた。秘書の田迎からだった。会社で重大なトラブルが発生したという報せに、柊也は溜息を吐くと、横たわる雪乃には目もくれず、急ぎ身支度を整えて部屋を出て行った。 嵐が去った部屋で、雪乃は重い体をなんとか起こした。 一晩中捻り上げられていた関節が軋み、体を起こすだけで呻き声が漏れそうになる。右手の古傷も、握り締め続けた名残でじんじんと熱を持っていた。 よろよろとした足取りで、雪乃は部屋に備え付けられている浴室に向かった。 シャワーのレバーを上げると、水が肌を打ち、徐々に温度が上がっていく。 曇った鏡に映る自分の顔を、雪乃はぼんやりと見つめた。 目元は赤く腫れ、濡れた髪が頬に張り付いている。見慣れているはずの顔が、昨夜までの自分とはどこか違う人間のように思えた。 シャワーの温度を上げ、何度も肌を擦った。それでも、柊也に触れられた感覚まで洗い流すことはできない。 これ以上擦れば、肌が赤くなるだけだと分かって、ようやく手を止めた。 浴室を出る際、雪乃は一度だけベッドへ目を向けた。 乱れたシーツが目に入った瞬間、胃の奥がせり上がる。 すぐに視線を逸らし、何も見なかったことにするようにロングカーディガンの前をきつく合わせた。
last updateÚltima actualización : 2026-10-01
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44話

 雪乃は深く頭を下げた。 黒木はその姿を一瞥すると、静かに言った。「奥様、頭をお上げください」 頭上で響く黒木の低い声に、雪乃がそっと顔を上げると、黒木は感情の読めない眼差しで雪乃を見つめていた。「分かりました。車を出します」 理由を問い質すこともなく、それだけ告げると黒木は踵を返し、雪乃を連れて義両親たちに挨拶をしないまま、外に出た。 雪乃は後部座席に座り、シートベルトを締める手が僅かに震えていた。 黒木がエンジンをかけると、雪乃はルームミラー越しに黒木を見た。すると、彼と視線が合う。『街に降りてもらって……病院に行きたい』「何科ですか?」 雪乃は一瞬だけ黙った。 喉がひきつり、言葉が形になるまで数秒かかった。『婦人科』 たった四文字の口形。黒木は理由を問うことは一切せず、「分かりました」と短く応じて、雪乃から視線を外し、アクセルを踏み込んだ。 山道を抜け、沿岸部の街並みに入ると、一軒の婦人科クリニックの前に車が止まった。 車を降りようとして、雪乃ははっと息を呑んだ。自分は着替えの服すら満足になく、お金がない――。申し訳なさに身を縮こまらせ、雪乃はおずおずと黒木を見上げた。 唇が震えながら動く。『お金を貸していただけないでしょうか』 黒木は迷う素振りすら見せず、上着の内ポケットから二つ折りの財布を取り出すと、それをそのまま雪乃へ差し出した。「どうぞ」 まさか財布ごと渡されるとは思わず、雪乃は驚いて目を丸くした。財布の重みが掌に乗ると、胸の奥がぎゅっと締め付けられる。「現金とカードが入ってます。どちらを使っても構いませんので」 黒木は淡々と言った。その声音には、貸し借りの感覚がまるでなかった。 ただ「必要だから渡す」という事務的な判断だけがあるように聞こえた。(誰かに頼らなければならない自分が情けない) そんな思いが、喉の奥で引き攣るように渦を巻いた。『絶対に返します』 雪乃は震える唇で、その言葉を形作
last updateÚltima actualización : 2026-10-02
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45話

  雪乃は驚いて振り返ると、そこには鮮やかな水着にシアー素材の羽織を引っかけた莉子が、笑顔でこちらへ歩いてくるところだった。濡れた髪を掻き上げながら、莉子は自慢げに胸を張っていた。「ちょうどPVの撮影が終わったところなんですよ。来月新曲を出すんですけど、是非聴いてくださいねー」 屈託のない笑顔を見て、昨日柊也から聞かされた滞在理由を、今になって思い出した。(この子がここにいるって覚えていたら、絶対ここには来なかったのに) 溜息を喉の奥で呑み込み、雪乃は莉子へ軽く頭を下げて愛想笑いを浮かべると、その場を立ち去ろうと足を向けた。 だが、莉子は軽快な足取りで追ってくる。雪乃の目の前へ回り込もうとした瞬間、すっと雪乃を隠すように割り込んだのは黒木だった。「もぅ、私は奥様と話したいだけなんですー」 莉子は不満げに唇を尖らせた。「私の仕事ですので」 黒木は表情ひとつ変えず、淡々と突っ撥ねる。莉子はつまらなそうに肩を竦めると、黒木を上から下まで眺めた。「私もボディガードほしいなー。社長にお願いしようかな?」 その言葉を無視し、雪乃は足を進めて莉子の横を通り過ぎた。 けれど、莉子は一定の距離を保ちながら、雪乃の後ろをぴったりとついてくる。背後から視線を感じ続けるのは、決して気持ちのよいものではなかった。 そこへ、息を切らした莉子のマネージャー・高月が駆け寄ってきた。「黒木さん!」 高月は黒木の前で立ち止まると、息を乱しながら告げた。「桐生社長からお電話です」 黒木は眉間に深々と皺を寄せた。「私に?」「黒木さんの携帯が繋がらないようです」 黒木がスラックスのポケットから携帯電話を取り出し画面を確認すると、表示は圏外になっていた。「後でかけ直すと伝えてください」「ですが、急ぎの用件とのことです。契約のことで話したい、と仰っていました」「契約?」 黒木は眉を寄せて、額に皺を作った。 それを聞いていた雪乃の表情に翳りが差した。(もしかしたら
last updateÚltima actualización : 2026-10-03
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46話

  「楽譜……?」 莉子のその呟きに、雪乃の息が止まった。 風が紙片を揺らし、その影が雪乃の瞳の奥で震えた。 彼女が手にしている紙片を雪乃は凝視した。四つ折りにされた跡が残るそのメモに雪乃は見覚えがあった。太陽の光に透けて見える裏側の音符の羅列は、自分が書いた旋律だった。(黒木さんは、ずっと持っていてくれたの……?) 紙片を折りたたみ、メモ帳と一緒に上着の内ポケットへしまった黒木が告げた言葉を、雪乃は思い出す。『受け取ります。将来、金目になるかもしれませんし』 その時の黒木の表情は読めなかった。ただ、喜んでもらえなかった気がして、悲しかった。きっと彼は、あれを処分しただろう――雪乃はそう思っていた。楽譜を読めない彼にとって、自分が渡した短い旋律に価値はない。あれを堂々と『対価です』と自信げに渡した己を恥じてさえいた。 でも、黒木はそれを持っていてくれた。四つ折りにして、財布の中にずっと――……。 財布なら、毎日持ち歩くものだ。開くたびに、この紙が目に入ることもあったはず。それでも、邪魔だと取り出してしまうことはなかったのだ。(聞いたら、また金目になるからって言うのかしら) そんな返事をする黒木の顔が、容易に思い浮かんだ。今なら、その言葉を聞いても落ち込まずにいられる気がした。楽譜を読めない彼が、あの日からずっと手元に置いていてくれた。それが分かっただけで、もう十分だった。 胸の奥が、妙に擽ったい。 初めてだった――自分が渡したものを、そのまま持っていてくれた人は。柊也は一度も、雪乃からのプレゼントを開けたことがなかった。 だが、その紙片は今、莉子の指先に摘ままれている。 莉子は不審そうに眉を顰めながら、その紙切れを潮風の中で空に翳した。「これって、ゴミかな?」 雪乃は莉子へ近付き、手を伸ばした。 指先が紙片に届く寸前、莉子の手がひょいと引かれた。 空を掴んだ指が、行き場をなくして宙に残る。もう一度伸ばしても、莉子は半
last updateÚltima actualización : 2026-10-04
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47話

  汗を手の甲で拭い、左手でネクタイを緩めながら、黒木は別荘へ戻ってきた。 胸の奥がざわついている。 あの高月の態度の違和感が、喉の奥に重く残っていた。 別荘の駐車場へ差し掛かったところで、見知った黒の高級車が視界に入り、黒木は自然と走る速度を緩めた。 運転席のドアが開く。出てきたのは、柊也の秘書を務める田迎だった。「黒木さん、お戻りでしたか」 田迎は軽く会釈し、後部座席のドアを開けた。すると、スラックスの皺を伸ばしながら、柊也が姿を現した。 黒木は思わず息を呑む。急ぎの用件で電話をしてきたはずの男が、なぜ今、目の前にいるのか。「雪乃は部屋か?」 柊也は何でもないことのように訊ねてきた。その態度に、黒木は眉を顰めた。「私に、お電話をされたのでは?」「電話?」 柊也の表情は本気で分からないという顔だった。(――謀られた) その瞬間、黒木の脳裏に最悪の予感が走った。高月が言っていた「急ぎの用件」など、最初から存在しなかったのだ。目的はただ一つ――自分を雪乃の側から引き離すこと。(なんのために? なぜバレるような嘘を?) 黒木の張り詰めた表情に気付いたのか、田迎が微かに眉を寄せた。「何かありましたか?」 柊也は視線を別荘の玄関へ向けたまま、黒木の様子に気付く気配もない。 黒木は返事もせず、弾かれたように踵を返すと、再び海へ向かって全力で走り出した。 革靴が地面を叩く音が、やけに遠く聞こえる。すぐ戻ります、と告げた自分の声だけが、耳の奥に居座っていた。 青褪めた顔で『行って』と告げた雪乃が、脳裏に浮かぶ。上着を預かろうと伸ばされた指先も、こちらを真っ直ぐに見つめていた目も、鮮明に覚えていた。 あの時、一緒に連れていけばよかった。電話を受ける間、傍で待っていてもらうことだってできたはずだ。 黒木は奥歯を噛み締め、地面を蹴る足に力を込めた。 遊歩道へ続く道中、急ぎ足で戻ってくる高月とすれ違う。 どういうつもりで自分と雪乃を引き離したのか、胸
last updateÚltima actualización : 2026-10-05
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48話

  青褪めた唇に自身の口を重ね、黒木は懸命に息を送り込んだ。 一度、二度。祈るように彼女の胸元を見つめる。「……っ、ケホッ、カハッ……!」 喉の奥から海水を吐き出し、雪乃の胸が大きく跳ね上がった。うっすらと開いた瞳が黒木を映し出す。けれど、その意識はほんの一瞬で、雪乃は糸が切れたように再び深い暗闇へと落ちていった。 触れた首筋には、今度は微かな脈が感じられた。けれどそれが、いつ途切れてもおかしくないことは、冷え切った肌の温度が告げていた。「奥様……っ!」 黒木はびしょ濡れになったスラックスのポケットから、慌てて携帯電話を取り出した。防水仕様の端末は水に浸かっても正常に画面を点灯させたが、アンテナマークの横には虚しく圏外の二文字が表示されている。「……チッ」 普段の冷静さを欠いた黒木は低く舌打ちを漏らすと、携帯を投げ捨てるようにポケットへ押し込んだ。躊躇うことなく雪乃の身体を横抱きに抱え上げ、上着と靴は桟橋に放置したまま別荘へ向かって足を踏み出す。 腕の中の身体は、水を吸った衣服の重さに反して、酷く軽かった。日に灼けた地面の熱が靴下越しに足裏を焼くが、足を止める理由にはならない。 黒木は雪乃の身体を抱えたまま別荘へ駆け込み、エントランスに入った直後のスペースで立ち止まった。 そこには、騒ぎを聞きつけた柊也、そして琴子と莉子が集まっていた。 別荘なら、携帯は繋がるだろう――そう思って、自分は雪乃の救命活動を行い、その間に彼らの誰かに救急車を呼んで貰おうと口を開くも、それは莉子の必死な弁明に遮られた。 黒木より一足先に戻っていた莉子は、柊也に涙を流しながら縋り付いていた。「雪乃さんが……急に桟橋の方へ走っていって、足を滑らせちゃったんです! 危ないからダメって言ったのに……っ」 その言葉を受け、琴子が冷ややかな視線を、黒木の腕の中でぐったりと力なく垂れ下がる雪乃へと向けた。手を口元に当て、吐き捨てる
last updateÚltima actualización : 2026-10-06
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49話

  黒木は圧迫のリズムを崩さず、雪乃の胸元へ必死に力を込め続けた。 その間にも、柊也たちの気配が視界の端で揺れる。だが、黒木は一切見ない。彼の視線は、雪乃の顔にだけ向いていた。(頼む……戻ってきてくれ……っ) 掌の下で感じる雪乃の身体は、氷のように冷たく、あまりにも儚い。力を込めれば容易に砕けてしまいそうなその華奢な躯に、黒木は自身の命を分け与えるかのように懸命に呼吸を送り込んだ。 胸の奥で、古い傷が疼いた。 情報提供者の男が血を流して道に倒れていた姿が、ふっと脳裏に浮かぶ。 警察官時代――黒木は公安に身を置いていた。彼には、命懸けで内情を告発してくれた一人の協力者がいた。 極めて危険な情報を提供してくれていたその男の身に、組織の追手が迫っていることを察知した黒木は、即座に保護を上層部へ進言した。 だが、上司から下された命令は残酷なものだった。「作戦の継続が最優先だ。今あの男を動かせば、こちらの捜査網がバレる。切り捨てろ」 警察は完全な縦社会で、上司の命令に逆らうことは悪であり、たとえ実行したとしても今後警察という組織の中で出世は見込めず、肩身の狭い思いをすることを黒木は知っていた。彼は警察官としての「正義」と「命令」を取った。 結果、情報提供者であることが露見したその男は、無残にも殺害された。 事件の後、上司は何事もなかったように言い放ったのだ。「まあ、仕方がなかった。協力者なんて、また作ればいい」 拳を握り締め、考えるより先に上司の顔面をぶん殴っていた。 その後、黒木は警察を自主退職した。 辞めたのは、上司を殴ったからでも自分が短気だからでもなかった。組織の命令に盲従し、一番弱く、自分を信じてくれた人間を道具のように扱い見殺しにした――そんな自分自身に対する嫌悪からだった。「命令に従ったのは俺です。殴ったことについて、言い訳するつもりはありません」 ――そう言って、去った。 一人の人間を見捨てたことが、ずっと心の奥底に錘となって沈んだままだ
last updateÚltima actualización : 2026-10-07
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50話

 雪乃の背中しか見えない黒木には、彼女がなんと唇を動かしたのか分かる由もなかった。 ただ、目の前に立つ柊也の表情が、口元に笑みを作る途中で固まっているのを目にして不穏な空気は読み取れた。 柊也は固まった口元をわざとらしく歪めると、貼り付けたような笑みを浮かべた。「……ふっ、急に何を言い出すかと思えば」 その笑みは、眼球の奥までは一切届いていないような作り物だと分かるものだった。苛立ちを隠しきれていない声が病院の廊下に落ちる。「海に落ちた衝撃で、パニックになって頭が混乱しているんじゃないか? そこまで追い詰められていたとはね」 柊也は哀れむような視線を雪乃に向け、言葉を続けた。「まだ体が本調子じゃないんだ。休みなさい――」 柊也はそう言いながら、雪乃の肩へ手を伸ばした。その指先が触れようとした、その瞬間――雪乃はその手をやんわりと払いのけた。『私の話を聞いて下さい』 ゆっくりとした唇の動きだが、それは力強かった。宙で止まったままの柊也の手が、所在なさげに揺れている。 払われた手を見つめたまま、柊也の笑みが深まった。「なぜ庇うんだ?」 その声は、怒鳴り声よりもずっと冷たく、底に何の感情もない空洞のようだった。 雪乃は、一切怯まなかった。柊也から目を逸らすことなく、彼の瞳を真摯に見つめる。柊也の瞳に嫉妬が揺らいでいる。そのことに、柊也自身も、対峙する雪乃も気付いてはいなかった。『海に落ちたのは、私の不注意です』 柊也がこの唇を読んでくれるかどうか、賭けだった。 前回のようにはぐらかされるかもしれない――だが、柊也は雪乃の唇をしっかりと読んでくれた。「不注意、か」 柊也は低く呟き、喉の奥で嘲るように笑った。「そんな不注意を起こさせること自体、警護としての無能の証明だろう。なぜそいつを庇う必要がある?」 不快そうに眉を顰め、視線を雪乃へと向けた。「屋敷で二人きりで過ごして……二人の間になにかあったのか?」『何もありません』 雪乃は毅
last updateÚltima actualización : 2026-10-08
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