Masuk『代わりの何か、ですか……?』 雪乃は眉を下げ、一人思考の海へと沈み込んだ。 黒木が提示してきた交換条件の内容――けれど、この広大な屋敷の中で、彼女自身が自由にできる自分の物など何一つ存在しなかった。 唯一、金目になりそうなものがあるとすれば……雪乃は自分の左手に視線を落とす。薬指で冷たい光を放っているのは、指輪だった。まるで呪いのように皮膚に食い込み、どうしても外れることのない指輪。『……』 物がないとすれば、他に彼へ渡せるものなんて……。(……この身、とか……?) 次の瞬間、あまりに突飛で愚かな考えが頭を過り、雪乃は慌ててブンブンと首を横に振った。何をバカなことを考えているのだろうと、自分の顔が熱くなるのを感じる。 真剣な顔つきで悩んでは頭を振っている雪乃の様子を見つめていた黒木は、低く息を吐いた。「……冗談です。本当にお金はいりませんので」 彼の言葉に、雪乃はハッと顔を上げた。 冗談と言われても、そういうわけにはいかない。彼は自分を監視・警護するためだけに柊也から雇われている立場だが、実際にはこうして生理用品を買いに走り、スープまで用意してくれたのだ。何かと世話になっている以上、一方的に甘え続けるわけにはいかなかった。(私にできること……私に渡せるもの……) 必死に頭を巡らせていた雪乃の脳裏に、ふと閃きが舞い降りる。 自分が唯一できることが、たったひとつだけある。 雪乃は黒木を見上げると、お願いするように両手を合わせ、口元を動かした。『ペンと紙をくださいませんか?』 黒木は一瞬不審そうに眉を顰めたものの、無言のままスーツの内ポケットへと手を伸ばした。差してあったシンプルなボールペンと、小さなメモ帳を引き抜くと、それを雪乃へと差し出す。 雪乃はそれらを両手で受け取ると、
黒木は右手を徐に上げて、握り拳を作る。 過去の幻影を蹴散らすように強く握り締めた拳を解くと、その手をすぐ商品棚に伸ばし、片っ端からカゴに入れる。それから隣の衣料品コーナーにあった黒のスウェットパンツとレディース用のショーツも放り込んだのだった。 ※ 雪乃は二階の寝室で、ひとり窓の外を見つめていた。下腹部の重い痛みに耐えながら、静まり返った屋敷の中でじっと待つ時間は、やけに長く感じられる。 やがて、敷地内に見覚えのある黒い車が入ってくるのが見えた。 車が止まり、玄関のドアの開く音が響く。続いて、重く確かな足取りで階段を上ってくる音が聞こえてきた。 雪乃はそっと息を呑み、ドアの前で彼が叩いてくれるのを待った。 けれど、足音は雪乃の部屋の前を通り過ぎ、隣の部屋――黒木に与えられている隣室のドアが開いて閉まる音がした。(……あ) 拍子抜けしたような、どこか寂しいような思いを抱えて佇んでいると、ほんの少しの間のあと、今度こそ雪乃の部屋のドアが控えめに叩かれた。 雪乃が急いでドアを開けると、そこには、パンパンに膨らんだ大きなレジ袋を両手に抱えた黒木が立っていた。 黒木は一度も視線を合わせようとはせず、少し横を向いたまま、無表情に袋を差し出した。「どれがいいか分からなかったので、とりあえず全部買いました」 その言葉とともに差し出された袋の重みを受け取り、雪乃は驚きに目を丸くした。中を覗くと、多種多様な生理用品に加え、衣類が見える。雪乃は深々と頭を下げ、丁寧に口元を動かした。『ありがとうございます』 感謝を伝えて受け取ったものの、黒木はその場を動こうとしなかった。普段なら用件を済ませればすぐに身を引くはずの男が、どこか硬い眼差しで、まっすぐに雪乃を見下ろしてくる。 不審に思った雪乃が首を傾げると、黒木は低い声でぽつりと問いかけた。「……逃げなかったんですか?」 自分が留守にしていた間、屋敷には誰もいなかった。鍵さえ開ければ、外へ逃げ出す機会はいくらでもあったはずだ。
※ ※ ※ 雪乃が口元を動かして話しかければ、黒木は反応して短く返答こそするものの、決して目を合わせようとはしなかった。 彼の視線は常に雪乃の少し上か、あるいは明後日の方向へと向けられている。ただ指示された警護対象として淡々とそこに存在しているだけ――そんな冷ややかな態度が、二人の間に見えない壁を作り上げていた。 柊也が手配した家政婦は、最初の一週間こそ毎日決まった時間に来ていたものの、二週目に入るとぱたりと姿を見せなくなった。 何か連絡があったわけでもない。ただ一方的に放置された事実を雪乃は静かに受け入れた。 キッチンへと向かい、冷蔵庫のドアを開けた。 中には何も入っていなかった。冷たい空気だけが空っぽの棚に存在している。(お腹も痛いし、食欲もない。一日くらい、食べなくてもいいかしら) だからと言って、明日の計画は何もない。雪乃の頭の中に出前をとるという選択肢は浮かばなかった。 下腹部に鈍い痛みが走り、雪乃はそっとお腹を押さえた。重苦しい身体を引き摺るようにして、廊下の先にあるトイレへと向かう。 当然ながら、黒木がトイレの中まで入ってくることはない。彼はトイレから少し離れた距離で静まり返った廊下で背筋を伸ばして待機している。 ドアノブに手をかけた際、雪乃はチラリと黒木の横顔を盗み見た。黒木は、目の前にある白い壁の一点を無表情のまま見つめているだけだった。 ※ 暫くしてドアが開き、廊下で待機していた黒木の元に雪乃が近付いてくる。 雪乃が黒木の足元まで近寄ると、彼女は申し訳なさそうに肩を竦め、そして小さく俯いた。 一度顔を上げ、黒木を見上げるも気まずそうに再び俯いてしまう。明らかに何かを言いたげな雰囲気に押され、黒木はつい訊ねてしまった。「どうされましたか?」 言い終えてすぐ、心中で黒木は舌打ちをする。こうやって自分から話しかけてしまえば、会話が続いてしまう。自ら警護・監視対象者との距離を縮めるようなことをしてしまい、黒木は眉間に深い皺を刻んだ。 意を決したように雪乃が顔を上げ、必死に口元を動かし
黒木はきっちり約束の十分で二人を切り上げさせると、雪乃を促してスタジオを後にした。 スタジオを出た黒木は、車に乗り込む前に一度だけ携帯を取り出し、指を滑らせた。『はい、問題なく戻りました』 その一文を打ち終えると、黒木は僅かに眉を寄せた。 文字を消して『問題ありません』と打ち直す。そして、送信ボタンを押してすぐに画面を消して車へと乗り込んだ。 雪乃は羽織っていたジャケットを黒木へと返した。身体を覆っていた重みと温もりが離れ、急に身体が軽くなった気がした。けれど、どこか肌寒く感じる。(エアコンもついていないのに……変ね) 体調を崩す前触れかもしれない――雪乃はカーディガンの前をしっかりと握り前を閉じた。 エンジン音が静かに響き、車は動き出す。窓の外を流れていく見慣れた街並みは、行きに見たものと何一つ変わらないはずなのに、どこか色を変えて映る気がした。 後部座席に座る雪乃の胸の中には、自分の作った音と湊の言葉が合わさった興奮と、ソロデビュー曲という信じられないような打診を受けた熱が未だに残っていた。暗闇の中にいた自分が、再び誰かと音楽で繋がれたという高揚感のまま、雪乃はつい前席の男へと視線を送り、口元を動かした。『湊の元に行かせてくれて、ありがとう』 彼が自分の我儘を聞いてくれたから、湊と話すことができた。雪乃は彼に感謝を告げた。 黒木は前方を見据えたまま、何も答えなかった。バックミラー越しに視線が動いた気配はあったが、読み取れていたのかどうか、雪乃には分からなかった。 それでも、胸の熱を抑えきれない雪乃は、つい続けて口元を動かしてしまう。『アーティストに曲を提供するの、どう思いますか?』 前方の道路を見据えたまま、黒木は感情の籠もらない声で淡々と応じた。「私には分かりかねます」『そうよね……』 突っぱねるような言い方に、雪乃はしゅんと肩を落とした。興奮に任せて口を動かした軽率さを恥じる。 バックミラー越しに、小さく縮こまる雪乃の姿を目撃した黒木だったが、
前方を見据えたまま、黒木が静かに口を開いた。彼は音楽やエンターテインメントの類には疎い男だったが、画面越しに会話した湊の顔くらいは知っている。「先日、連絡があった男性から私宛にまた連絡がありました。彼がこれを送ってきました。確認されるかと思い流しました」 ――湊がこれを。 彼の歌詞は、曲に合わせて聴くと、不思議なほど雪乃の胸の奥へと入り込んできた。 失ったものを嘆く言葉ではない。 何もかも失くしてしまったあと、それでもなお自分の中に残っているものを探すような歌だった。 ハスキーな歌声が、自分の作った旋律に重なる。 雪乃は膝の上に置いた右手を、ゆっくりと見下ろした。 自由に動かない指。 二度と戻らない感覚。 声も、舞台も、五年間信じてきた夫への想いも、少しずつ自分の手から零れ落ちていった。 それなのに――。『この胸に残った音だけは 私を置いていかなかった』 その一節が流れた瞬間、雪乃の喉がきゅっと狭くなった。 柊也は、何度も自分を置いていった。 昨夜でさえ、「やり直そう」と言ったその翌朝には、別の女へ「愛してる」と告げて出て行った。 けれど、この音だけは違った。 失ったと思っていた。もう自分には何も残っていないと思っていた。 それでも、頭の中にはずっと音があった。 指が動かなくても、声が出なくても――消えずに残っていた。 雪乃は唇を固く結んだ。 堪えようとした涙が、一粒だけ頬を伝った。 雪乃は立ち上がるような勢いで上半身を起こすと、前席の黒木に向かって必死に口元を動かした。『会いに行きたいです。お願い、連れて行ってください。彼のスタジオはすぐ近くなんです』 バックミラー越しに雪乃の必死な表情を捉え、黒木は一瞬眉を顰めた。「無理です。寄り道はできません」 即座に却下する黒木に対し、雪乃は引かなかった。両手を合わせ、訴える。逃げるためでも、柊也への反抗でもない。ただ純粋に、この曲を聴いた感想を直接湊に伝えたかった。『お願い
※ 五年間積み重ねてしまった期待の残骸が、未だに自分の中で消えずに不格好な傷として残っていることを突きつけられ、雪乃は静かに唇を噛み締めた。 柊也がはめた左手の薬指の指輪を外そうと右手で触れるも、そもそも力が入らない指のせいかビクともしない。 洗面所へと向かい、蛇口を捻った。冷たい水で両手を濡らし、ハンドソープを泡立てて滑りを良くすると、指輪に右手の指先を掛けた。必死に引き抜こうと力を込めるが、痛みばかりが走り、指輪はびくとも動かない。 自由になどさせない――冷たい金属の感触が、まるでそう突きつけてくるかのようだった。雪乃は溢れそうになる感情を殺し、諦めたように力を抜いてベッドルームへと戻った。 その時、静寂を破ってドアのインターホンが鳴った。「失礼します」 扉の向こうから落ちてきたのは、聞き覚えのある低い声だった。 ロックが解除され、静かにドアが開く。そこに顔を出したのは、黒木だった。 彼は部屋へと足を踏み入れると、手にしていた紙袋から着替えを取り出した。雪乃のために自宅から持ってきたのは、見慣れたロング丈のタンクトップと、薄手のカーディガンだった。「お着替えをお持ちしました」 ベッドの上に腰掛けたままの雪乃へ、黒木が衣服を差し出す。 雪乃はそれを受け取ると、逃げるように洗面所へと入ってドアを閉めた。 嫌味なほど身体に吸い付くドレスを脱ぎ捨て、着慣れたタンクトップに着替えて上からカーディガンに袖を通す。前を固く閉ざそうと、震える指先で生地を強く握り締めた。 洗面所のドアを開けて部屋に戻ると、待機していた黒木が静かに一礼した。「参りましょう」 雪乃は小さく頷き、黒木と共にスイートルームを後にした。 昨夜、柊也と二人で通った静まり返る廊下を踏んだ。壁や床を彩る深い赤色が、どうしても昨夜の記憶を呼び覚まし、息苦しさに喉が詰まる。 ふと、雪乃はカーディガンの上からそっと自分の腹部に手を添え、ゆっくりと擦った。 昨夜、背後から抱き締められた柊也の腕の重み。そして彼が残していった「実を結ばなかったん







