Todos los capítulos de 五年の贖罪婚を終わらせた日、愛だけはくれなかった御曹司は私を狂おしいほど求め始めた: Capítulo 51 - Capítulo 60

62 Capítulos

51話

  雪乃はハッと息を呑み、立ち去ろうとしている柊也の袖を掴んで必死に首を振った。『そんな……! 黒木さんは何も悪くありません!』「雪乃が危険な目に遭った責任を取らせる。それだけだ」 柊也は雪乃の手を冷たく振り払うと、一度も振り返ることなく、靴音を響かせて廊下の奥へと立ち去っていった。 寝静まった病院の廊下に、取り残される二人。 雪乃は震える身を抱え、悲痛な眼差しで黒木を見上げた。言葉にならない思いで、何度も、何度も首を振る。 黒木は雪乃を見下ろし、肩の力が抜けたように息を吐き、ふっと笑った。初めて見る彼の穏やかな笑みだった。『辞めないでほしいです』 黒木を見上げて、切実な目で訴えるも彼は困ったように眉を下げるだけだった。「雇い主の命令には逆らえません」『でもっ』 雪乃は力強く口元を動かし、足を一歩踏み出した。けれど、冷え切って疲弊した体を支えきれず、膝から崩れ落ちそうになる。 すかさず伸びてきた黒木の力強い腕が、雪乃の体をしっかりと支えた。「今日、海に落ちたばかりです。今夜はもう休みましょう」 黒木がそう告げ、病室のドアノブに手をかけた。その瞬間、雪乃は彼のワイシャツの袖を掴み、小さく首を横に振った。 掴んだ指先に力を込め、離そうとはしなかった。これを離してしまえば、彼はもう自分の任務から完全に降りてしまうことになる。 廊下に、黒木の息を吐く音が落ちた。「少し話しますか?」 その誘いに、雪乃は頷いた。 二人は病室に入らず、近くの談話室に移動した。自販機の灯りに照らされた円形のテーブルを挟んで、二人はパイプ椅子に腰を下ろす。雪乃は掴んでいた黒木の袖から手を離し、テーブルの上で両手の指を固く絡ませ、俯いて唇を噛み締めた。「先ほどは庇ってくださりありがとうございました」 雪乃は顔を上げ、目の前に座る黒木を見る。彼は理不尽に柊也から怒声を浴びせられても、一言も言い返さなかった。『どうして言い返さなかったんですか?』「旦那様が仰る通り
last updateÚltima actualización : 2026-10-09
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52話

 「失礼します」 その声が聞こえ、ドアがすべて開ききるよりも早く、雪乃は裸足のままベッドを飛び降りてドアへ駆け寄った。(この声は――) この声を二度と聞くことはできないと思っていた――自然と笑みが零れ、頬が温かい。 扉が開くと同時に、雪乃は迷わず声の持ち主の厚い胸板に飛び込んだ。「っ……!」 不意を突かれた男――黒木は体を硬直させた。胸元へ一直線に突進され、思わず頭をグイッと後ろへ反らす。それでも持ち前の体幹のおかげで、一歩も後退せず、体勢を崩さずに持ちこたえてみせた。 飛び込まれたものの触れるわけにもいかず、黒木の両手は所在なさげに宙を彷徨っている。「おく、奥様……すみません、離れていただけると……」 動揺を隠せない黒木の声に、雪乃はハッと正気に戻り、慌てて体を離した。顔がカッと熱くなるのが自分でも分かる。「戻って参りました」 黒木がそう告げると、雪乃は顔を真っ赤にしたまま、必死に口元を動かした。『辞めないのですか?』「今朝、別荘に戻ったのですが――」『今朝? 今朝までいてくれたんですか?』「……」 雪乃の指摘に、黒木はコホンと気まずそうに咳払いをし、襟元を正した。「駐車場に旦那様と大旦那様がいらっしゃったんです。大旦那様が、奥様を救出したことを労ってくださり……私がクビになったとお知りになると『業務を全うした者を処罰するとは何事だ。むしろ表彰すべきだろう』『手柄を立てた警護をクビにすれば、世間体が悪い』と仰り、クビを取り消してくださいました」 絶対的な権力を持つ謙也には、柊也も逆らえない。だからこそ、柊也も黒木の復帰に「NO」と言えなかったのだ。『柊也は、何か言っていましたか?』「いいえ。こちらをご覧になることもありませんでした」 淡々と答える黒木の声に、不満の色はなかった。『それでも、戻ってきてくれたんですね』「&hel
last updateÚltima actualización : 2026-10-10
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53話

「屋敷に帰る前に携帯ショップに寄りましょう。その前に、銀行口座を作るといいかもしれません」 黒木が淡々と告げた。雪乃は驚いて目を丸くし、素早く口元を動かす。『契約違反では?』「契約書には、携帯ショップと銀行に寄ってはならないとは書かれていませんから」 黒木が真顔で屁理屈をこねてみせると、雪乃の顔にぱっと華やかな笑みが弾けた。 病院の自動ドアを抜けると、夏の光が目を刺した。雪乃は眩しさに目を細め、黒木の広い背中を追って駐車場へ歩いたのだった。 ※  ――車内。 雪乃は後部座席に揺られながら、自分の手元に戻ってきた免許証と保険証を掲げて見つめていた。 自分の手に帰ってきた身分証明書。これでようやく、自分が自分であることを証明できるものが手に入ったのだ。 信号待ちで停車するたび、黒木はルームミラー越しに雪乃の様子を盗み見ていた。 あんなにも嬉しそうに身分証を眺める姿に、黒木の口元が無意識のうちにふっと緩む。 その時、雪乃が何かを思いついたようにパッと顔を上げた。ミラー越しにバッチリと目が合ってしまう。黒木は「見ていたことがバレた」と一瞬焦ったが、雪乃本人はそれどころではない様子で、ハッとした表情で前へ乗り出してきた。黒木は雪乃の方へ顔を向け、彼女の口元を見た。『お金がないので、携帯の契約ができません』「出世払いで、私が払いますよ」『そこまでしてもらうわけにはいきません』「通信だけなら、今は安いです。電話はほとんど使わないでしょう」 黒木は淡々と論理的に説明を続けた。雪乃は少しの間ためらった後、真摯に口元を動かした。『……湊さんに作る曲のお金が入る予定です。それでお返しします』(別に……返さなくても構わないんだが) 黒木は心の中でそう思ったが、わざわざ口には出さなかった。(彼女の意思を尊重しよう)「分かりました」 そう答えると、雪乃はホッとしたように深く頷き、再び大切そうに身分証を掲げて眺め始めた。
last updateÚltima actualización : 2026-10-11
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54話

 「は、話ってなんですか?」 高月の目が泳ぎ、黒木と真っ直ぐ視線を合わせられないでいた。 そんな彼女の目を真っ直ぐに見つめたまま、黒木は淡々と訊ねる。「どうして電話だと偽った?」 その言葉に反応し、高月は黒木の目を見つめ返す。「嘘じゃないです! 本当にあったんです!」「ほぉ」 黒木はそれ以上言葉を挟まない。ただ無言のまま、冷徹な視線で「続きを言え」と催促しているようだった。「社長から黒木さんに電話が繋がらないから、取り次いでくれって連絡があったんです!」「どこ宛てに?」「どこ、って……それは」 しどろもどろになる高月に、黒木は淡々と問いを重ねる。「大企業のプロダクションの社長が、平社員の携帯電話を知っているとは思えないんだが」「私の携帯にじゃありませんっ! こちらに電話があったんです!」 高月は早口で捲し立てた。「別荘に?」「そうです!」「それにあんたがたまたま出たのか? 他人の家の電話に?」 黒木の冷静な指摘に、高月は落ち着かない様子で頬に流れる髪を耳にかけ、そのまま後ろ首を撫でた。 黒木は、そんな様子を見せる高月から視線を外すことはなかった。「莉子の撮影が終わるまでの間、私はこちらの広間で待機していたんです。電話が鳴って、誰もいらっしゃらなかったので私が代わりに出たんです!」 目を真っ直ぐ見つめて伝えてくる高月だったが、その唇は震え、彼女は何度も舌で湿らせていた。 それを見逃さず、黒木は目を細めて視線を合わせたまま、静かに返す。「じゃあ着信履歴を調べても問題ないな?」「――え」「俺は元警官だから警察に知り合いがいる。俺が頼めば調べてもらえるぞ」「ほっ、ほほ、本当に電話があったんです!」 高月は声が裏返りながらも、必死に否定の声を上げた。「俺が別荘に着いた時には社長はここに着いたところだった。電話せずに口頭で話せば済むはずだろ」「でも、本当にあったんです!」
last updateÚltima actualización : 2026-10-11
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55話

  柊也と黒木の視線が静かに交錯し、お互いに息を呑む。 黒木の目に飛び込んできたのは、柊也の唇に残るかすかな口紅の跡と、覗く鎖骨に刻まれた鮮やかな赤い跡だった。さらに背後に佇む莉子のシャツは上から三つほどボタンが留められておらず、その胸元の際どい場所には、虫刺されのような跡が点々と残っていた。 ただならぬ気配を察し、雪乃が黒木の脇から部屋の中を覗き込もうとする。黒木は思わず一歩後ろへ下がり、己の大きな体で雪乃の視界を遮るようにその進行を阻んだ。 柊也は貼り付けたような薄い笑みを浮かべると、シャツのボタンを留め、緩んでいたネクタイをゆっくりと締め直した。鎖骨のキスマークが布の下へ隠れていく。 黒木は柊也の唇に残る口紅を指摘したかったが、背後に雪乃がいる。 昨日、目の前で心臓が止まった妻だ。その妻が退院した日に、この男は、この部屋で何をしていたのか。顎の筋が、勝手に固くなる。だが、それを口にできる立場に、自分はない。 黒木の背後からそっと顔を出した雪乃が、室内と柊也の姿を目に留める。ごくりと唾を飲む小さな音が、黒木の耳に届いた。「雪乃、退院したのか」 柊也は雪乃へと視線を移し、何事もなかったかのように穏やかな声をかける。 本人は、自分の唇に何が残っているのかにも気付いていないのだろう。「奥様。お加減はいかがですか?」 その背後から、莉子が可憐な微笑みをたたえて会釈した。 雪乃の視線が、莉子の乱れた胸元に刻まれた赤い跡へと吸い寄せられる。 上気した肌と、乱れた服を見て雪乃は勘付いた。(この場所で……あの部屋で……) 柊也に無理やり組み敷かれたあのベッドで、二人が何をしていたのか――酷い寒気と不快感が波のように押し寄せ、雪乃は込み上げる感情を瞳に溜めて柊也を見上げた。 これでもまだ、二人に関係はないと言い張るのか――そう問い詰めたくても、雪乃の唇は糸で縫われたように動かない。 病院の廊下で「今夜は休め」と言い捨てた夫が、同じ穏やかな顔で莉子の隣に立っている。 柊也は雪乃の異変
last updateÚltima actualización : 2026-10-12
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56話

  ※ ※ ※ 別荘から帰ってきてから一週間が経過した頃、雪乃はゲストルームでノートパソコンを開き、画面越しに湊と対面した。「百地先輩が作った曲、三曲とも受け取りました! どれも素敵だったんですけど、二曲目、テンポ速いのにちゃんと切ないのがいいですね!」 雪乃は照れたように首を振る。「俺、本気で言ってるんですよ! ね、黒木さん!」 雪乃の背後に立っていた黒木は、いきなり話を振られて眉間にぐっと皺を寄せた。「ね、黒木さん!」 返事をせず黙り込む黒木に、雪乃は振り返って見上げる。 彼女の真っ直ぐな視線を受け止めた黒木は、コホンと咳払いをして言った。「……金になりそうな曲だと思います」 その言葉に雪乃の顔がパッと華やぎ、笑顔で再び画面へ視線を向けた。 すると、湊の画面の端からひょっこりと彗が顔を出した。「……どうもお久しぶりです」 声が極端に小さく、湊がすかさず通訳する。「久しぶりだって言ってます」『久しぶり』 雪乃が口元を動かすと、彗は頬をポッと染めながら照れくさそうに画面外へと消えていった。背後からは他のメンバーのがやがやとした賑やかな声が聞こえてくる。「メンバー全員います。今、生放送前なんですよ」『忙しい時にごめんね』「いえいえ! 先輩とお話しできて嬉しいです。こっちもずっとバタバタしてたんですけど、やっと明日、うちの社長と飯に行けることになって。その時にデビュー曲を披露しますね」 雪乃は力強く頷いた。ついに自分の作った曲が形になる――胸がトクトクと高鳴り、雪乃は手を胸に当てた。「それと、作曲続けてらっしゃるなら、チャンネル開設するのってどうですか?」 思いもしなかった提案に、雪乃は首を傾げる。「今はネットだけで活躍する顔出しNGの歌手とかもいますし。先輩の名を広げる大きなチャンスだと思うんですよ」『でも、観る人なんているかな……』「いますよ
last updateÚltima actualización : 2026-10-13
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57話

  ※  画面が暗くなり、湊たちの姿が消えた。 雪乃は静かに画面を見つめながら、湊が言っていたチャンネル開設のことを思い返す。動画共有サイトで自分のチャンネルを持つ――今まで考えたこともなかった提案だったが、ネットを通じて自分の曲を聴いてもらえるかもしれないと思うと、初めてピアノを触った幼少期を思い出した。自分の指が音を奏でた時のあのワクワク感が、今彼女の胸に蘇ってきている。後でチャンネルの作り方や仕組みについて調べてみよう、と雪乃は思う。 その前に、と少しだけ曲の続きをいじりたくなり、デスクトップ上のDAWソフトのアイコンへマウスカーソルを動かした。 しかしソフトが立ち上がるより早く、横からすっと黒木の太い腕が伸びてきた。 パタン、と小さな音を立てて、ノートパソコンの蓋が閉じられる。 雪乃は驚いてハッと顔を上げ、背後に立つ黒木を見上げた。 黒木は眉間に薄く皺を寄せたまま、静かに首を横に振った。「夕食がまだです」 雪乃はすかさず口元を素早く動かす。『これが終わったら食べます』「それはいつになるんですか。食事が先です」 低くブレのない声で諭された。 これ以上食い下がっても、この頑固な黒木が折れてくれないことはよく分かっていた。 雪乃は諦めたように小さく息を吐くと、彼の言葉に従って大人しく立ち上がった。 別荘から屋敷に帰ってきてからというもの、黒木の態度の棘がなくなり、どこか丸くなったように感じる。けれど代わりに、まるで保護者のようになった気がしていた。だがそれは決して不快なものではなく、胸の奥を擽られるような、心地いい温かさがあった。 声を出さないまま、雪乃はクスクスと笑う。 それを見下ろして、黒木は目を細め、口元に微かな笑みを浮かべたものの――雪乃が自分を見上げたタイミングで笑みを殺し、いつもの鉄仮面へと戻った。 雪乃はキッチンに移動し、食事を温める。 あらかじめ出来上がっている料理を電子レンジで温めるだけで完成するワンプレートの食事だ。カップラーメンや出前よりも栄養バランスが考慮されているらしく、
last updateÚltima actualización : 2026-10-14
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58話

  画面の向こうで困惑を露わにする湊だったが、背後から「出番五分前でーす!」とスタッフの大きな声がかかった。「くそっ……先輩、出番なんで一回切ります! また後で連絡しますから!」 戸惑いを残したまま、ぷつりと通話が切れた。 暗転した携帯の液晶画面に、血の気の引いた自分の顔が映り込む。(どうして……どうして、莉子さんが私の曲を披露していたの?) 幾重にも重なる疑問が頭を駆け巡り、脳が処理しきれずに激しい眩暈を覚える。見かねた黒木が、そっと雪乃の肩を支えてベッドの縁に腰掛けさせた。(私のパソコンを、誰かが触った……?) 記憶の糸を必死に手繰り寄せる。そういえば別荘で、ちゃんと蓋を閉めたはずなのに開いていた。あの時だろうか。でも、あんなにも早く歌詞を乗せて、生放送で披露できるものなのだろうか。 あるいは別荘より前――この屋敷で、自分のパソコンに触れられる人物は――ぐるぐると過熱していく思考を遮るように、黒木が静かに声をかけた。「奥様。あまり考えすぎないでください。お体に障ります」『でも、考えないとっ……!』 雪乃は口元を早く動かして食い下がろうとするが、黒木は首を横に振った。「今考えても答えが出ないことは、考えるべきではありません。一度ゆっくり休み、落ち着いてから考えましょう」 諭すような声で言い含め、黒木が部屋を出て行こうと背を向ける。その瞬間、雪乃は咄嗟に左手を伸ばし、彼のスーツの袖を強く引っ張った。『傍に居てほしいです』「寝室に留まるわけにはいきません」『私が眠るまででいいですから……』 縋るような雪乃の瞳を見つめ、黒木は降参したように肩を落とした。「……眠るまでです」『はい』「眠ったら、私は外へ出ます」 黒木はそう言うと、ベッドから少し離れた椅子を引いた。雪乃はほんの少しだけ胸を撫で下ろした。 黒木が椅子へ腰
last updateÚltima actualización : 2026-10-15
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59話

 「すでに決まったことですし、スタッフに迷惑をかけるのはよくないのでお断りします」 「えー、でも最初と最後の順番を変えるだけですよ?」  さも簡単なことのように小首をかしげる莉子に対し、湊は息を吐き出し、嘲笑に歪みそうになる口元をなんとか笑みの形に整えながら、冷静な答えを返していく。 「大賞を獲った歌手だけがトリの枠を頂けるんです。演出の時間の長さも違いますし、無理ですね」 「なーんて。言ってみただけです」  莉子は悪びれもせず、可憐な表情のままクスクスと喉を鳴らした。 「莉子さん、そろそろ次の現場の時間が……」  傍に控えていた男性マネージャーが、携帯の画面を見せながら声をかけてくる。 「はいはい、分かってるってば。新しいマネージャー、融通利かないんだから」  莉子は少しだけ不満そうに唇を尖らせたが、すぐにクルリと向き直り、湊に向かって可愛らしく手を振った。 「じゃあ~、リーダーさん! またね!」  パタパタと軽やかな靴音を響かせ、マネージャーを従えて去っていく莉子の背中を、湊はただ無言で見つめ続けた。  莉子が去った後、頭の中で先ほど聴かされたメロディが何度も反芻される。あの曲は、雪乃から五日前に送られてきた曲と全く同じだった。別々の人間が、全く同じ曲を作る確率なんてゼロに等しい。ならば、どちらかがどちらかの曲を盗作したということになる。 (莉子の曲を、先輩が……?)  一瞬だけ頭をよぎった疑念を、湊はすぐに打ち消した。  莉子がこれまで作ってきた曲はどれも似たり寄ったりで、オリジナリティに欠けていた。だが今回の曲は、これまでの「アイドル歌手・莉子」のイメージを完全に脱却するような出来栄えだった。サビ前には、莉子の引き出しには絶対にない巧みな転調が盛り込まれている。 (……売れる)  悔しいことに、プロのミュージシャンとしての直感がそう告げていた。  そう思ってしまった自分自身に激しい腹が立った。そしてそれは同時に、あの曲が莉子の名前で世に出て売れてしまえば、誰もあれを「雪乃が作った曲」だとは信じなくなるという残酷な現実を意味していた。  今す
last updateÚltima actualización : 2026-10-16
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60話

  雪乃の喉から、ひゅっと小さく息が漏れた。『だ……から、曲を盗んだの?』「盗んだわけじゃない。雪乃にはできないことを、俺が代わりにしてあげただけだ」(してあげた……?)「世に出してあげたんだよ」 そう言って微笑む柊也。掴まれた手首に、じわじわと痛みが増していく。 かつては、この人を愛していたはずだった。 でも、こんな彼のどこが好きだったのだろう。 彼は変わってしまったのだろうか。それとも、最初からこうだったのだろうか――。 必死に声帯を震わせて声を絞り出そうとするものの、喉からは虚しく掠れた息漏れしか出てこない。昔は当たり前に話せたはずなのに。目の前で笑うこの男に、溢れ出る不条理を言葉にして言い返したいのに。『……どうして、莉子さんなの?』「どうして莉子なのかって? 幼馴染だし、最近スランプ気味だったから心配でさ」 柊也は何でもないことのようにさらりと言ってのけた。妻の音楽と権利を平気で踏みにじり、莉子のために差し出した理由が「幼馴染のスランプへの心配」――あまりにも身勝手で、雪乃は眩暈を覚えた。「雪乃だって、莉子に助けられてきたじゃないか」(いつ?) 雪乃は虚ろな目で柊也を見上げる。「彼女の音楽に慰められてきただろ?」 柊也の視線が、雪乃の背後にある十個のオルゴールに向けられる。 結婚記念日と誕生日に柊也が贈ってきたそれらの旋律は、莉子がアメリカで作曲したものだった。 雪乃はそれを知らず、柊也が自分のために選んでくれた曲だと思い込んでいた。 だが、莉子のデビュー曲を聴いた時、自分の勘違いだと知った。 柊也は雪乃のためではなく、莉子の曲をオルゴールにして飾っていただけだった。「恩返しだと思えばいい」 どこまでも自分を正当化する口ぶりに、雪乃は突き刺すような激しい胃の痛みを覚え、強い吐き気がこみ上げてきた。 怒りに任せて、雪乃は彼の手を振り払った。あれほど強く握られてい
last updateÚltima actualización : 2026-10-17
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