Todos los capítulos de 五年の贖罪婚を終わらせた日、愛だけはくれなかった御曹司は私を狂おしいほど求め始めた: Capítulo 21 - Capítulo 30

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021話

  ガチャリと鍵が閉まる金属音が響き渡り、玄関には重苦しい静寂が落ちていた。 柊也が去り、残されたのは雪乃と黒木、そして川本の三人だけだった。「……奥様、立ち尽くしていては身体に障ります。リビングへ参りましょう」 川本に促され、雪乃は重い足取りでリビングへと移動した。雪乃はフラフラになりながら、ソファへ腰を下ろして俯いた。力なく垂れた前髪の隙間から、雪乃は斜め前に立つ黒木を密かに盗み見る。 スーツの上からでも分かる圧倒的な体躯は隙がなく、壁のように立ち塞がっている。柊也とは違う、感情の波を一切感じさせない無機質な瞳。何を考えているのか全く読み取れない。こんな大男に阻まれたら、女の力で逃げ出すことなど到底不可能だと絶望が胸を絞めつけた。(どうして……どうして柊也は、あんな勝手なことばかりするの?) 自分は他の女と関係を重ねているくせに、自分勝手に服を奪い、連絡手段を断ち、見張りまでつけて私を閉じ込める。どこまで私を踏みにじれば気が済むのだろう。不条理な怒りと恐怖で、唇が震えた。「あの……奥様」 思い詰める雪乃に、川本が申し訳なさそうに、意を決したような低く沈んだ声で話しかけてきた。「大変言いにくいのですが……本当はお伝えしようと思っていたところで、こんなことが起きまして……」 雪乃が顔を上げると、川本は気まずそうに指先をすり合わせていた。「実はわたくし、初孫ができまして……」 ノートもペンもない雪乃は、立ち上がると、心からの祝福を込めて拍手を送った。声は出せなくても、その穏やかな笑みが言葉以上の感情を伝えていた。「ありがとうございます……」 目元を緩めた川本は、胸の詰まる思いで深々と頭を下げた。「それで、申し訳ないのですが、娘の傍に居てあげたいので、お暇をいただきたいのです。孫が生まれて一ヶ月ほどしましたら復帰いたしますので……」 申し訳
last updateÚltima actualización : 2026-09-12
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022話

 (まさか本当に、十二ページが必要になるなんてな……) 黒木は腕の中で熱に魘される雪乃を見下ろした。そして、倒れそうになった雪乃を受け止めた拍子に床へ落としてしまった、川本に押し付けられた引き継ぎノートへと視線を移す。 羽のように軽い身体を腕の中に収めたまま、黒木は片膝をついてノートを拾い上げ、二階の寝室へと足を向けた。 静かにベッドへ雪乃を横たえると、拾い上げたノートを開き、十二ページ目を捲った。そこには、雪乃が熱を出した際のアドバイスが細やかな文字で几帳面に記されていた。『熱が出た時は、階段下の救急箱にある解熱剤を飲ませてください。食欲がない時はリンゴをすりおろして……』「……いや、ここまでする必要はないだろう」 黒木は低く呟き、ノートを閉じた。 自分はただの警護だ。家事はしないと宣言したばかりでもある。 事前に取り交わした契約書に記載されていたのは、契約金とは別に「衣食住保証」「日給あり」と破格の条件。任務は「桐生雪乃の警護・監視」の二点のみで、注意事項の欄にも「被警護者との個人的な交友は不要」とだけ記されており、そこに「家事」や「看病」といった項目は一切存在しなかった。「そこまでする義理はない」 黒木は自分に言い聞かせるように呟くと、ノートをサイドテーブルの上に放り投げた。(――なんで俺が、ここまでやらなきゃいけないんだ) 呆れ混じりの溜息を吐きながら、ベッドの上で荒い息を吐き、苦しそうに汗を浮かべて魘されている雪乃を見下ろす。冷たい表情のまま踵を返し、部屋を出ようとした。 だが、ドアノブに手をかけた瞬間、黒木の動きが止まる。背後からは今にも途切れそうな、か細い呼吸音が聞こえた。「……はぁ」 本日何度目になるか分からない重い溜息を吐き出すと、黒木は苛立ったように頭を掻き静かに部屋を出た。 ――気付けば黒木はキッチンに立っていた。 冷蔵庫を開け、奥に転がっていたリンゴを一握りで掴み出す。 ナイフを手に取り皮
last updateÚltima actualización : 2026-09-12
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023話

 驚きで固まる雪乃を余所に、黒木は依然として感情の読めない横顔のまま淡々と続けた。「ですが、警護の辞退につきましては……先ほど説明した通り契約金は既に頂いているので、無理です」 こちらの思惑を先回りするような一言であっさりと遮られ、雪乃は喉の奥を突かれたように固まってしまった。 雪乃は悔しさに唇を噛み締め、今度は一文字ずつ力を込めるように口元を動かした。『私の監視と警護は、必要ないです』 黒木は何も言わなかった。雪乃は続けた。『服と携帯とノートとペンが取り上げられている。外へ出たところで誰ともコミュニケーションなんて取れないし助けを求めることだってできない。そんな人間を監視する必要はありません』 溢れ出る感情と共に口元を激しく動かす雪乃を、黒木は視線を合わせないまま、ただ壁を見つめたまま受け止めている。『だから警護だって不要です。私を襲う理由のある人なんて、どこにもいません』(……どこにも、いない?) 唯一襲うのは――襲ったのは柊也だ。自分を追い詰め、家に閉じ込めた存在――。(もし……もしも柊也がまた私に無理強いをしようとしたら、この人はお金を払った柊也からも、私を守ってくれるのだろうか?) 喉まで出かかった問いかけは、あまりに虚しく、雪乃の唇が動くことはなかった。「ですが、一つだけ……私を追いやる方法があります」 突如頭上から降ってきた淡々とした声に、雪乃は弾かれたように顔を上げた。 先ほどまで壁を見つめていたはずの黒木が、今は静かに雪乃を見下ろしており、その黒い瞳と視線がぶつかる。「旦那様が支払った契約金以上の金額を、奥様が私にお支払いくださることです。そうしていただければ、私は契約を打ち切り、この屋敷から出ていきます」(そんなお金……あるわけがない) 自分で稼いだ自由な財産などなく、柊也から渡されている毎月のお小遣いは、いくら全額足したところで彼のようなプロの警護を雇う金額には遠く及ばないだろ
last updateÚltima actualización : 2026-09-13
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024話

  ※ ※ ※ 再び目を覚ました時、雪乃の胃の奥は空っぽで、虫の鳴き声のような音が腹から響いた。 どんなに絶望し、傷つき、落ち込んでいても、身体は生きていくために食べ物を欲する――その人間の生理現象に、雪乃は自嘲気味に口元を歪めた。 カーディガンの前を合わせ、ドアを開ける。 やはりドアのすぐ脇には、気配もなく仁王立ちする黒木の姿があった。「奥様、おはようございます」『おはようございます』 雪乃が口元を動かして寝室を出ると、黒木が一定の距離を保ちながら後ろをついてくる。 驚くべきことに、あれだけの巨体でありながら彼の足音は全く聞こえない。まるで背後に気配の薄い巨大な影を引き連れて歩いているようだった。 階段を下りてリビングへと向かう。視界に入りそうになる布がかけられたままのグランドピアノ――雪乃は意図的にそこから視線を逸らし、一直線にキッチンへと足を向けた。 ステンレスのシンクの中に目をやった雪乃は、ふと足を止めた。 そこには、洗い場にぽつんと残されたすりおろし器と、剥かれたリンゴの皮、そして小さな包丁が転がっていた。(川本さんが……片付け忘れていくなんて) いつもなら完璧に家事をこなして帰る川本が、シンクに汚れものを残していくなんて今まで初めてだった。(やっぱり……急いで娘さんのところへ向かったから、相当慌てていたのね……) 一人で納得し、小さく息を吐く。 すぐ背後には、相変わらず無表情な黒木が控えていた。 ふと思う――この男は、食事をどうしているのだろう?『ご飯、食べますか?』 気を遣って振り向き、口元を動かしてみる。 黒木は視線を合わせたまま答えた。「結構です」 素っ気ない返事に、雪乃は冷蔵庫の扉を開けた。 中に入っていたのは、数個のリンゴ、丸ごとのカボチャ、卵、牛乳、そしてミネラルウォーター。 冷蔵庫の中を見つめながら、雪乃は以前、川本が作ってくれ
last updateÚltima actualización : 2026-09-13
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025話

 ※  黒木が作ったカボチャスープは、お世辞にも美味しいとは言い難い代物だった。 カボチャの身が完全に溶け切っておらず、口に運ぶとゴツゴツとした塊がしっかりと残る。飲むというよりは「食べる」と表現するのが正しい食感だった。川本が作るような甘さはなかったものの、雪乃はこの味を決して嫌いとは思えなかった。 目の前のテーブルで、黙々と自分の作ったスープを口に運ぶ黒木を、雪乃はそっと盗み見る。 不慣れな包丁捌きのせいで指先を軽く切りつけ、煮立たせた鍋の中身が跳ねたのか、その手首には小さな火傷の痕まで作っていた。 申し訳なさに胸が痛み、食後に救急箱から取り出した絆創膏をそっと差し出してみた。 だが、黒木は視線すら合わせず、「自然と治りますので、結構です」 と素っ気なかった。 雪乃が肩を落とすと、頭上から不機嫌そうな溜息が降ってくる。「貰うだけ貰っておきます」 吐き捨てるように言うと、彼は雪乃の手からひったくるように絆創膏を奪い取った。 二階の寝室へ戻ろうとすると、当然のように黒木が背後についてくる。ドアの前に辿り着いたところで、雪乃はくるりと振り向いた。『四六時中、見張らなくても結構です』「風呂、トイレ、寝室以外は中に入らず常に傍に控えるよう契約を取り交わしています」『いつも部屋の前にいるんですか? いつ寝ているんですか?』「立って寝られますので、ご心配には及びません」(元警察官とはいえ、立って寝られるものなのかしら……) 呆れ混じりの驚きとともに、どこまでも隙のない男だと痛感しながら、雪乃は寝室の中へと入った。 ベッドに横になり、目を閉じる。けれど、一向に眠気は訪れてくれなかった。 静まり返った暗闇の中で、脳裏に過ったのは、あのとき湊に言われた言葉だった。 ――DAWソフトを使えば、片手でも、頭の中の音をそのまま形にできます。 一度芽生えた音楽への未練が、胸の奥でじわじわと熱を帯びていく。(時間は捨てるほどあるわ) じっと
last updateÚltima actualización : 2026-09-14
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026話

  ※ カーテンの隙間から差し込んでいた昼間の柔らかな光は、いつの間にか失われていた。代わりに窓の外を照らしているのは、桐生家の庭にある灯りが作る人工の光だ。 時間を忘れて画面に向かい続け、ようやく一曲の短い旋律が完成した。 胸を満たす達成感とともに、雪乃はこの出来上がった曲をどうしても湊に聴いてもらいたい、という思いを募らせる。 しかし、自分の携帯電話は柊也に取り上げられたままだ。当然、湊のメールアドレスなど分からない。だが――大学時代から変わっていない彼の電話番号だけは、はっきりと頭の中に残っていた。 雪乃はちらりと、背後に立つ黒木を振り返った。 申し訳なさそうに視線を落としつつ、はっきりと口元を動かす。『あの……作成した音楽を人に送りたいのですが、携帯を貸していただけないでしょうか』 黒木は表情を変えず、ただ雪乃を見下ろした。 契約上、被警護者に外部との連絡手段を与えることは固く禁じられている。だが、自分が横で見張っている状況であり、なおかつただ自分が作った音源データを送信する程度であれば問題はないだろう――そう黒木は瞬時に判断した。「……送信作業が終わったらすぐに返却してください」 ポケットから自分の携帯電話を取り出し、雪乃に手渡す。 雪乃は受け取ったものの、パソコンにあるこの音源ファイルを、どうやって黒木の携帯に飛ばし、そこから相手へ送ればいいのか分からない。黒木を見上げて困り顔を向けると、黒木は小さく溜息を吐き、雪乃の隣へと足を進めた。「貸してください。こちらで操作します」 黒木はパソコンと自分の携帯をケーブルで繋ぎ、手際よく画面を操作し始めた。しかし、ファイルを出力しようとしたところで、画面に予期せぬポップアップが表示され、黒木の指がピタリと止まる。「無料版の機能制限のようです。音源ファイルの書き出しおよび外部への送信には、有料プランへのアップグレードが必要です」 黒木の説明を聞き、『有料……』と口元を動かした雪乃の表情が一気に陰った
last updateÚltima actualización : 2026-09-15
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027話

  柊也が二階へ上がると、寝室ドアの脇に黒木が仁王立ちしていた。彼は柊也の姿を認めると、深く頭を下げる。「お帰りなさいませ」「……何か変わったことはあったか?」 柊也は探るような視線を向けた。黒木は表情一つ変えず、淡々と答える。「特に何も――いえ、奥様が下でパソコンを触っておられました」「珍しいな。何をしてた?」「音を鳴らしていましたが……申し訳ありません、私は音楽には疎いので、そこまで何をされていたかまでは分かりかねます」「他に何か変わったことは?」「何もありません」 黒木の言葉に、嘘を吐いているような気配は微塵もなかった。 柊也は小さく息を吐き出した。「そうか、助かったよ。今夜は俺がついているから、君は休むといい」「かしこまりました」 黒木は一礼し、自分が与えられた隣の部屋へ向かおうと足を向けた。だが、ドアノブに手をかける直前、ふと足を止めて柊也を振り返る。「……家政婦の川本さんが、ご家庭の事情で突然長期休暇に入られました。差し出がましいですが、その間は代わりにどなたかを雇われた方がよろしいかと思います」「分かった。考えておくよ」 短く答えると、黒木は再び頭を下げて自分の部屋へと入っていった。 柊也は寝室のドアを静かに引き開けた。 薄暗い部屋の中、ベッドの上で雪乃が小さな呼吸を繰り返して眠っている。そっと近付き、寝顔を見下ろした。 シーツから押し出されたカーディガンが大きくはだけていた。 乱れた胸元からは、雪乃の滑らかな肌と、露わになった白い胸の谷間が覗いている。 柊也はその無防備な姿を無言で見下ろした。 規則正しい寝息に合わせてゆっくりと上下する胸元を、昏い光を宿した瞳でじっと見つめている。 やがて柊也は手を伸ばすと、はだけたカーディガンの生地を指先で掴み、胸元を覆い隠すようにゆっくりと引き寄せた。そのままシーツを肩まで掛け直すと、目を覚ますことのない雪乃の隣へ、
last updateÚltima actualización : 2026-09-16
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028話

 「上に、部屋を取ってあるんだ」 そう言った柊也の指が最後に、雪乃の左の薬指の輪郭をなぞり、ゆっくりと離れて行った。 雪乃は手元のグラスを掴み、残っていた赤ワインを一気に喉へと流し込んだ。指先の震えを止めるため、そして麻痺してしまった感覚をアルコールで誤魔化すために。けれど、いくら飲み干しても、頭は冴え渡るばかりで一向に酔う気配すらなかった。 向かいの席で、柊也は穏やかな笑みを崩さないまま、器用にナイフを動かして自身の皿のステーキを切り分けている。そこに添えられたフランボワーズが、まるで滴り落ちる血のようだった。 赤に囲まれ、逃げ場のない息苦しさに胸が詰まる。 勧められるままにワインを数杯重ねたが、結局酔いに逃げ込むことはできなかった。 拒絶の言葉を紡ぐことができないまま、促されるようにして乗せられたエレベーター。静かに上昇する密室の中で、柊也の太い腕が雪乃の背中に回され、抱き寄せるようにして強く引き寄せられる。 腰に添えられた彼の手が、まるで自分の所有物の輪郭を確認するかのように、緩やかに動き続けていた。 エレベーターを降りてスイートルームに続く赤い絨毯は、獲物を丸呑みしようとする巨大な生き物の胎内を歩いているようで生きた心地がしなかった。 雪乃はそっと背後に目をやる。そこに、いつもあるはずの無言の影――黒木の姿はなかった。いつもなら四六時中、背後をぴったりと守るように控えているはずの男が、今夜はいない。 スイートルームの扉が開いた途端、腕を強く引かれた。背中が壁へと強く押し当てられ、固く閉ざされたドアの音と同時に、柊也の唇が雪乃の唇を塞ぐ。 強引に割り込んでくる舌の熱さに、雪乃は自分の舌を奥へと逃がそうとした。けれど、その抵抗すら先回りして探り当てられ、柊也の口元から笑みが息とともに洩れた。 息が詰まり、雪乃は必死に両手で柊也の胸や背中を叩いた。強く叩いたせいで右手に鈍い痛みが走るが、懸命に拒否を示す。しかし、彼はその手を意にも介さず、空いた方の手でドレスの裾へ手をかけていく。薄桃色の布地が擦り上がり、肌に冷気が触れた瞬間、雪乃の肌が粟立った。(これ以上は、絶対に嫌&helli
last updateÚltima actualización : 2026-09-17
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29話

 ※ 五年間積み重ねてしまった期待の残骸が、未だに自分の中で消えずに不格好な傷として残っていることを突きつけられ、雪乃は静かに唇を噛み締めた。  柊也がはめた左手の薬指の指輪を外そうと右手で触れるも、そもそも力が入らない指のせいかビクともしない。  洗面所へと向かい、蛇口を捻った。冷たい水で両手を濡らし、ハンドソープを泡立てて滑りを良くすると、指輪に右手の指先を掛けた。必死に引き抜こうと力を込めるが、痛みばかりが走り、指輪はびくとも動かない。  自由になどさせない――冷たい金属の感触が、まるでそう突きつけてくるかのようだった。雪乃は溢れそうになる感情を殺し、諦めたように力を抜いてベッドルームへと戻った。  その時、静寂を破ってドアのインターホンが鳴った。 「失礼します」  扉の向こうから落ちてきたのは、聞き覚えのある低い声だった。  ロックが解除され、静かにドアが開く。そこに顔を出したのは、黒木だった。  彼は部屋へと足を踏み入れると、手にしていた紙袋から着替えを取り出した。雪乃のために自宅から持ってきたのは、見慣れたロング丈のタンクトップと、薄手のカーディガンだった。 「お着替えをお持ちしました」  ベッドの上に腰掛けたままの雪乃へ、黒木が衣服を差し出す。  雪乃はそれを受け取ると、逃げるように洗面所へと入ってドアを閉めた。  嫌味なほど身体に吸い付くドレスを脱ぎ捨て、着慣れたタンクトップに着替えて上からカーディガンに袖を通す。前を固く閉ざそうと、震える指先で生地を強く握り締めた。  洗面所のドアを開けて部屋に戻ると、待機していた黒木が静かに一礼した。「参りましょう」  雪乃は小さく頷き、黒木と共にスイートルームを後にした。  昨夜、柊也と二人で通った静まり返る廊下を踏んだ。壁や床を彩る深い赤色が、どうしても昨夜の記憶を呼び覚まし、息苦しさに喉が詰まる。  ふと、雪乃はカーディガンの上からそっと自分の腹部に手を添え、ゆっくりと擦った。  昨夜、背後から抱き締められた柊也の腕の重み。そして彼が残していった「実を結ばなかったんだな」という言葉が頭の中で不気味に渦巻く。まだ何の結果も分かっていない自分の身体への恐れと、底知れない不安を押し殺すように、冷えた腹部を撫で下ろすことしかできなかった。  ホテルの車寄せに出ると、黒木が先回
last updateÚltima actualización : 2026-09-18
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30話

 前方を見据えたまま、黒木が静かに口を開いた。彼は音楽やエンターテインメントの類には疎い男だったが、画面越しに会話した湊の顔くらいは知っている。 「先日、連絡があった男性から私宛にまた連絡がありました。彼がこれを送ってきました。確認されるかと思い流しました」  ――湊がこれを。  彼の歌詞は、曲に合わせて聴くと、不思議なほど雪乃の胸の奥へと入り込んできた。  失ったものを嘆く言葉ではない。  何もかも失くしてしまったあと、それでもなお自分の中に残っているものを探すような歌だった。  ハスキーな歌声が、自分の作った旋律に重なる。  雪乃は膝の上に置いた右手を、ゆっくりと見下ろした。  自由に動かない指。  二度と戻らない感覚。  声も、舞台も、五年間信じてきた夫への想いも、少しずつ自分の手から零れ落ちていった。  それなのに――。 『この胸に残った音だけは  私を置いていかなかった』  その一節が流れた瞬間、雪乃の喉がきゅっと狭くなった。  柊也は、何度も自分を置いていった。  昨夜でさえ、「やり直そう」と言ったその翌朝には、別の女へ「愛してる」と告げて出て行った。  けれど、この音だけは違った。  失ったと思っていた。もう自分には何も残っていないと思っていた。  それでも、頭の中にはずっと音があった。  指が動かなくても、声が出なくても――消えずに残っていた。  雪乃は唇を固く結んだ。  堪えようとした涙が、一粒だけ頬を伝った。  雪乃は立ち上がるような勢いで上半身を起こすと、前席の黒木に向かって必死に口元を動かした。 『会いに行きたいです。お願い、連れて行ってください。彼のスタジオはすぐ近くなんです』  ルームミラー越しに雪乃の必死な表情を捉え、黒木は一瞬眉を顰めた。 「無理です。寄り道はできません」  即座に却下する黒木に対し、雪乃は引かなかった。両手を合わせ、訴える。逃げるためでも、柊也への反抗でもない。ただ純粋に、この曲を聴いた感想を直接湊に伝えたかった。 『お願いします。ちゃんと戻ります。絶対に逃げませんから』 「旦那様が手配した家政婦がもうすぐ昼食を作りに来ます。それまでに帰っていなければ、今以上に拘束が厳しくなりますよ」 『お願いします!』  雪乃は深く頭を下げた――もしも柊也に知られてしま
last updateÚltima actualización : 2026-09-19
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