All Chapters of ヤンデレ辺境伯は年の離れた養い子に恋着する: Chapter 31 - Chapter 40

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8.隔たる心⑦

 ただ、ここのものは部屋で使っているものと違ってよい香りがしなかった。 無意識に手のにおいを嗅いだリリアンナへ、セイレンが柔らかく微笑む。「リリアンナお嬢様がお部屋で使っておられるものは、これにローズオイルを付け加えた特別仕様品です。いいにおいがなさいましょう?」「あ、はい」「ラノワルムは効果こそ抜群なのですが、少々独特な獣臭がしますのでな。侯爵閣下がリリアンナ様のために特別に配合を整えさせたものが、いつもお嬢様がお使いのものでございます」 セイレンの言葉にリリアンナは瞳を見開いた。「そんなお手間を……」 軟膏を手配してもらえるだけでもありがたいのに、そんな配慮までされていたのだと思うと少しくすぐったいようなソワソワした気持ちがしてしまう。「それだけお嬢様がランディリック様にとって特別な存在ということですよ」 セイレンに柔らかく微笑まれて、「後ほどお部屋にいつもの軟膏を取りに戻られてはいかがかな?」と付け加えられたリリアンナは、その言葉に思わず目の前の老医師を見つめる。「でも……」「侍女殿の様子も見に行く約束をなさったのでございましょう?」 少し、カイルから離れなさいと、言外に含められているのを感じたリリアンナは、しばし逡巡した。 恩人であるカイルの傍を離れるのは嫌だ。 でも、ナディエルもリリアンナにとって大切な存在。 加えて、いつもの軟膏がランディリックの厚意から作られた特別仕様品だと知らされては無下には出来ないと思ってしまった。「分かりました。ちょっとだけここを離れます。申し訳ありませんがカイルのこと、少しの間お願いできますか?」 リリアンナは薬を塗ってもらったばかりの手指をギュッと握りしめると、真摯な眼差しをセイレンに向ける。「それがわたくし共の仕事でございますので、お嬢様が申し訳なく思われる必要はございません。この男のことはしばし私たちに任せて、お嬢様も身体を休めて来なされ」 セイレンの言葉に、リリアンナは頷かなかった。 少し間を空けて、
last updateLast Updated : 2026-10-09
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8.隔たる心⑧

 ほんのわずかでも自分の荒れた手を労わることが、カイルの看病を続ける力につながる。  そう思い直すと、リリアンナは小瓶を手に、医務室へと取って返した。 息を切らして医務室へ入るなり、セイレンが驚いた顔をしてリリアンナを見つめる。 「リリアンナお嬢様。お部屋でお休みにはなられなかったのですか?」  それは暗に、〝どうしてすぐに戻ってきたのですか?〟という批難を含んでいると分かったリリアンナだったけれど、手の中の小瓶をギュッと握って「カイルが心配で眠るなんて無理です」と懸命に訴えた。  セイレンは小さく吐息を落とすと、暖炉の前に置かれていた椅子へと歩み寄った。  厚く布張りされた座面はふかふかしていて、腰を下ろせば身体をやわらかく受け止めてくれる。セイレンはもとより、薬師や看護助手たちも、疲れた時にはそこへ座って身体を休めている椅子だ。  それを両手で持ち上げ、カイルの寝台の傍らへと運んでくると、元々置かれていた座面の固い木製のスツールを静かに脇へ退けた。 「せめて、これにお掛け下さい。お嬢様のお身体が持ちません」  リリアンナは一瞬ためらったものの、医師の眼差しに押され、そっと椅子へ腰を下ろした。  思った以上にやわらかく沈む座り心地に、強張っていた背中と足が少しだけ楽になる。  リリアンナはセイレンを見上げて「有難うございます」と小さく礼を言うと、それでもすぐさま立ち上がってカイルの額へ載せられた布と、首横などに置かれた布袋へ手を触れる。  さっき取り換えたばかりだというのに、どちらももうカイルの熱で温んでいた。  リリアンナはセイレンが「お嬢様!」と止める声も聞こえないみたいに布袋を手に駆けて行ってしまう。恐らくは、中庭へ新たな雪を詰めに行ったのだろう。  椅子の上にポツンと取り残された小瓶を見て、セイレンが吐息を落とした。 「旦那様へ報告しておいた方が良さそうだな」  リリアンナはきっと、ランディリックにこそ止めてもらわねばならない。  ならば、少々気は引けるものの、彼に動いてもらうしかないだろう。 ***  リリアンナは、カイルの首筋と脇下の氷嚢を取り換えると、額の上の布も雪入りの冷水で冷やし直してから、ギュッと絞って彼の額へ乗せ直す。  布を絞った時にピリリとした痛みが関節に走った。  リ
last updateLast Updated : 2026-10-10
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8.隔たる心⑨

 カイルがここへ運ばれてきて二日目の深夜。 カイルの傍でうつらうつらと眠ってしまっているリリアンナを見て、空きのベッドへ運んで横にならせようと、老医師セイレン・トウカが吐息を落として歩き出した時、医務室の出入口の重い扉が音を立てて開いた。 真夜中の訪問者とは珍しい。 そう思って戸口を窺い見れば、入ってきたのはここの城主・ランディリック・グラハム・ライオールだった。 手が空いたときに、リリアンナのことを相談しに彼の元へ出向かねばならないと思っていたところである。結局バタバタしていて行けず終いになっていたが、まさかこのタイミングで侯爵閣下のほうからこちらへ出向いてくれるとは思っていなかった。「ランディリック様」 これ幸いと、セイレンはリリアンナの方へ向かおうとしていた足を止め、ランディリックへと向き直る。セイレンが口を開くより先、ランディリックの方から「リリアンナは、昨日からずっとカイルに付き添っているのか?」と問い掛けられて出鼻をくじかれた。だが、そこは年の功で慣れたもの。「はい、カイルの熱が下がっておりませんし、意識も戻っておりませんので……心配だと申されて……」 問われた質問へさらりと答えながら、視線を医務室奥側――カイルのベッドへと流す。そうすれば、必然的にそこへ寄り添うようにして眠るリリアンナの姿が目に入る形だ。 セイレンの目論見通り、カイルの横へリリアンナが付き添っている様子に目を眇めたランディリックがつぶやく。「部屋へ戻るようには……」「はい。もちろん何度もそうなさるようお勧めさせて頂いています。ですが……なかなかに強情でいらして。実はそのことで、わたくしも閣下にご相談をせねば……と思っていたところです」 セイレンの言葉に、ランディリックが眉根を寄せた。*** オオカミの件があって以降、城主としての勤めが忙しく、なかなかゆっくりと腰を落ち着けて城内へ入ることの出来なかったランディリックである。
last updateLast Updated : 2026-10-11
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8.隔たる心⑩

「……わたくしの言葉はリリアンナ様のお耳には届きません。かくなる上は、旦那様にこそ、どうにかしていただかねばと思っていたところです」 セイレンの言葉に、ランディリックは短く頷くと、リリアンナの華奢な身体をそっと抱き上げた。 普通、ぐったりと弛緩した者を抱え上げるのは意識がある人間を抱き抱えるより重く感じる。だが、腕に収めたリリアンナの身体は、年の割にひどく軽く感じられた。(食事はまともにとっているんだろうか?) 思えば、ここ数日、リリアンナと食卓をともにしていない。 家庭教師のクラリーチェはもとより、専属侍女のナディエルもそばに控えていない状態だ。 もしかしたら食事もおろそかにしていたのではないかと懸念してしまう。「しばらくの間、ここには来させない」 言って、「カイルのことを頼む」と付け加えたランディリックに、セイレンが「かしこまりました」と恭しく礼をした。 ランディリックはリリアンナを横抱きにしたまま、彼女の自室へ運ぶ。 ここ数日使われた気配のない寝台へリリアンナの身体をそっと横たえると、「んっ」と小さく吐息を漏らしてリリアンナが薄っすらと目を開けた。「……ランディ?」 目覚めたばかりのマラカイトグリーンの美しい瞳がぼんやりとこちらを見上げ、状況を把握したいみたいに、まぶたが数度、まるで場面転換を促すみたいにぱちぱちとしばたたかれる。「ここは……」 小さくつぶやいて周囲をゆっくりと見回してから、そこが見慣れた自室だと気が付いた途端、リリアンナは慌てて身体を起こそうとした。 それを片手でグッと肩を押さえるようにして制したランディリックに、リリアンナが困惑した視線を向ける。「ランディ?」「休みなさい、リリアンナ」 あえて、〝リリー〟と呼ばずに〝リリアンナ〟と語り掛けて命令口調で言い放てば、敏い子だ。すぐにランディリックの意図を察したらしい。「イヤ! 私、カイルの看病をしなくちゃいけないの!
last updateLast Updated : 2026-10-12
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9.揺らぐ日常①

 ランディリックの執務室の片隅に、分厚い書類の山と並んで、小さな机と椅子が置かれていた。 そこにリリアンナが腰を下ろし、羽根ペンを握っている。「――この印は、領主が支払いや徴収を確認した際に押すものです」 執事のセドリックが机に帳簿の写しを置き、落ち着いた声で説明する。 実弟の怪我のため、王都エスパハレにある実家へ戻っている家庭教師のクラリーチェの代わりを買ってくれているのだ。「これは旦那様の印ですが、リリアンナ様が領地へ戻られたらウールウォード家のものがここへ捺されることになります」 リリアンナは素直に頷き、紙に写し取っていく。学ぶ姿勢は真摯に見えるけれど、時折ぼんやりと手が止まったりするところから察するに、心ここにあらずのようだった。「――では、続きは旦那さまにお願い申し上げます」 そう言い残し、セドリックは屋敷の用事に呼ばれて執務室を出ていってしまう。 基本的にライオール邸で働く使用人たちの取りまとめ役を担っているのは、彼――執事セドリックだった。 掃除や食事の支度から物資の管理まで、日常の営みを円滑に回すための采配を一手に振るっている。 そのため彼は常に忙しく、リリアンナに付きっきりで座学を教え続けるわけにはいかなかった。 結果的に執務室にランディリックとふたりきりで残されたリリアンナは、執務机で書類に目を通すランディリックの傍らで黙々と筆を走らせる。 ランディリックは書類へ目を通す傍ら、時折横目にリリアンナの様子をうかがった。「数字はなるべく列ごとで揃えるといい。そうすれば桁を見間違えるリスクが格段に減らせる。見やすい帳簿作りも円滑に仕事を回すうえで重要だからね」「……はい」 ランディリックが気になった点を指摘すれば、リリアンナからはごくごく短い返事だけが返ってくる。いつものリリアンナならそこから話を膨らませて、もっともっとその先を学ぼうとしたり、またはちょっと休憩……みたいな感じで雑談を交えてくるのだが、それ以上の言葉が続かない。 領主である自分の言いつけだから素直に従ってはいるものの、リリアンナが心の片隅に不満を抱えているのを、ランディリックは薄々気づいていた。 ランディリックから、カイルの看病へ行くことを禁じられたのが、相当腹立たしいんだろう。 だがあのままでは確実にリリ
last updateLast Updated : 2026-10-15
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9.揺らぐ日常②

「そっちは約束しただろう? 彼が意識を取り戻すまでは、行かせられない」「……でも」 リリアンナの〝でも〟という声に、ランディリックは静かに視線を向ける。「約束が守れないなら、カイルが意識を取り戻したあとも会いに行くのを禁止するけど……それでもいいのかい?」 こんな言い方をすれば、リリアンナが自分に従うしかなくなることを分かっていてなお、ランディリックはそう告げるしかなかった。 素直に従うしかないと思い知らされたんだろう。 リリアンナはギュッと小さな手を握りしめて、一瞬だけランディリックを睨んだ。 でも、すぐさま小さく吐息を落とすと「分かりました。ナディのところにだけ顔を出します」と素直にランディリックへ従うと意思表示をする。 表情にこそ一瞬しか現れなかったけれど、リリアンナの胸の奥にじくじくとした不満が溜まっているであろうことが、ランディリックには手に取るように分かった。 その証拠にリリアンナの手の下で、紙の端にわずかな皺が寄っていた。*** リリアンナが椅子を引き、立ち上がろうとしたその瞬間、ランディリックが彼女を制し、机上の小さな呼び鈴を鳴らした。 甲高く、澄んだ音色が執務室に響く。「旦那さま、お呼びでしょうか?」 執務室傍へ控えていたんだろう。すぐさまノックとともに戸口へ顔を出した侍女に、ランディリックは簡潔に告げた。「ブリジットを呼んできてくれるか?」「かしこまりました」 綺麗なお辞儀をした侍女が立ち去ってほどなくして現れた侍女頭のブリジットに視線を向けると、ランディリックが淡々と命じる。「忙しいところ申し訳ないが、リリアンナをナディエルの部屋まで案内してやってくれるかな? 一人で行かせるのは不安だからね」「……!」 ランディリックがそう告げた途端、リリアンナの唇がきゅっと噛み締められた。 ランディリックの言葉の裏にある意図を見抜くのは容易だったからだ。(私を一人で出歩かせれ
last updateLast Updated : 2026-10-16
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9.揺らぐ日常③

 剣の鍛錬も、毎日続けなければ腕がなまる。 リリアンナとともに昼食を済ませたら、セドリックとブリジットによくよくリリアンナのことを頼んで、外の業務もこなさねば――。 日頃なら領民のため、また国境警備のため、忙しく兵士らと外を駆け回る時間が執務室に座っている時間より好きだ。 だが、リリアンナのことを思うと、城外へ出ることがこれほどまで不安になる。「……気を引き締めなくては」 誰にともなく呟き、羽根ペンを取り上げる指に力がこもった。*** リリアンナとともに歩いてきたブリジットは、ナディエルとペトラの部屋の扉の前で立ち止まると、優しい笑みを浮かべてリリアンナを見つめた。「リリアンナお嬢様、私はここで控えております。その方がお嬢様もナディエルも、気兼ねなくお話できるでしょう」 ブリジットは侍女頭だ。確かに彼女が入室すれば、ナディエルを緊張させてしまうかも知れない。「今、ペトラは仕事に出ておりますのでお部屋の中はナディエルしかおりません。ゆっくりお話なさっていらしてくださいませ」 それは、リリアンナの中に色々と鬱屈したものが溜まっていることを知っているかのような口ぶりだった。「有難う、ブリジット」 リリアンナはブリジットの厚意に礼を言うと、彼女を一人残してナディエルの部屋へ入る。 外からの話し声が聞こえていたんだろう。寝台に腰掛けたナディエルが、リリアンナが入室するなり深く頭を下げた。まだ顔色は冴えないものの、リリアンナを瞳に収めるなり嬉しそうに微笑んだ。「お嬢様、ご心配をおかけして、本当に申し訳ありません」「いいのよ、謝らないで? ナディの熱が下がったって聞いて、私、ホッとしているの」 寝台そばに寄ったリリアンナは、ナディエルにそっと抱き付いた。「お嬢様はお変わりありませんか? 少し疲れていらっしゃるように見受けられるのですが……」 ナディエルに労わるように頭を撫でられたリリアンナは、ポロリと涙を落とす。 実際にはランディリックにカイルの看病を
last updateLast Updated : 2026-10-17
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9.揺らぐ日常④

「もちろん! 私だってよくないことだって分かってるわ! でも……カイルは私たちのせいであんな目に遭ってしまったのよ? 放っておけるわけないじゃない!? なのに!」 興奮した様子のリリアンナに、ナディエルが「お嬢様……」と握ったままの手をそっともう一方の手で包み込んでくれる。 リリアンナはそんなナディエルの穏やかな声音に声のトーンを落とした。「無理をし過ぎだってランディから叱られて……。今ね、私、カイルが目を覚ますまでの間、彼の様子を見に行ってはいけないって禁止されてしまってるの」 リリアンナの声からは、彼女がその措置を不満に思っていることがありありとうかがえた。ナディエルとしては侯爵様の想いが嫌というほど分かる。正直な話、ナディエルだってリリアンナには無理をして欲しくない。 でも、今のリリアンナは、ナディエルに自分の気持ちに寄り添って欲しいと希っているというのも痛いほど伝わっていた。 ナディエルは困ったように眉を下げると、言葉を探すようにリリアンナの顔を見つめた。「……お嬢様は、本当にお優しい方ですね。それにお強くていらっしゃる」 自分はオオカミに襲われた恐怖で、熱を出して倒れてしまったというのに、自分より幼いリリアンナは同じような思いをしながらも、気丈にもカイルの傍へ居続けたというのだ。それは、ナディエルにとって驚愕の告白だった。 自分と同じように昏倒してくれていたならば、侯爵閣下も、リリアンナに恨まれる真似をしなくて良かっただろう。 そう思うと、城主様のことも気の毒に思えて……。 結果、ナディエルはそれ以上リリアンナに寄り添う言葉を紡ぐことが出来なくて、ただただ手の内にあるリリアンナの小さな手を握り続けることしか出来なかった。 ナディエルがほんの少し目を離したすきに出来てしまった、リリアンナの手指の荒れのことも一大事のように感じてしまう。(早く元気になってリリアンナ様のお傍に戻らないと……) 自分がいなきゃダメだ
last updateLast Updated : 2026-10-18
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9.揺らぐ日常⑤

 すでに席へ着いていたランディリックは、リリアンナが椅子に腰掛けるのを待ってから、胸に手を当て、静かに口を開いた。「女神エリュナに感謝を。この命を無駄にせず、我らの生きる糧としよう」 久しぶりに聞いたその響きに、リリアンナはわずかに戸惑いを覚える。 ここしばらくはずっと、自分と同じ王都出身の家庭教師のクラリーチェに倣ってきたせいだろう。食前の祈りといえば、耳馴染みのある豊穣を司る女神セイレスへ捧げるものが当たり前だったからだ。 長らくご無沙汰だった「エリュナ」という名は、ここへきてすぐの頃も、ただ新しい土地の習わしを実感させるものとして響いたのを思い出す。 初日にそのことへ目を白黒させたリリアンナに、『エリュナは、狩られた獣の魂を天へ還すと信じられている鷹の翼をもつ女神様の名でございます。王都の方では豊穣の女神セイレス様へお祈りを捧げられますね? それと同じような意味合いです』と教えてくれたのは侍女頭のブリジットだった。 牧畜と狩猟の地ニンルシーラでは、肉や乳を口にする前にはこうして感謝の祈りがエリュナへ捧げられるのが習わしとなっているという。 同じイスグラン帝国内でも場所が変われば微妙に文化が違う。 きっと母の生まれ故郷のマーロケリー国ではまた違った風習があるんだろう。「……あの」 思わず口をついて出たリリアンナの声に、ランディリックが顔を上げた。「こちらに移り住んできて思ったのですが、こちらの食事前のお作法は王都エスパハレのものとは少し違っています。……隣国マーロケリー国のお作法も、やはりニンルシーラやエスパハレとは違うのでしょうか?」 リリアンナの素朴な疑問に、一瞬ランディリックの胸に微かなざわめきが走った。(リリアンナの母君は、マーロケリーのご出身だったな)「そうだな。彼らは狩りと戦を神聖なものとし、糧を分かち合う際にも独自の作法があると聞き及んでいる。……だが、今は国境を挟んで剣を交えかねない相手だ。――深く知る必要はない」 淡々と答えを紡ぎながらも、声
last updateLast Updated : 2026-10-19
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9.揺らぐ日常⑥

 ランディリックはその様子に、胸の奥がわずかにざわつくのを覚えた。(本当に、美味しいと思っているのか……?) ふと脳裏に蘇るのは、リリアンナが幼かった日の記憶。 船旅の途上、客室通路の片隅で小さな手に真っ赤な林檎の果実を乗せてランディリックへと差し出してきた少女は、まだ不器用な手で皮を剥き、指先を傷付けて血をにじませながらも、「甘酸っぱくて美味しいのよ?」と無邪気に笑っていた――。 その姿と、いま目の前にいる無表情に近いリリアンナの表情とが、どうしても重ならなかった。*** 結局、食卓を囲む間、リリアンナはほとんど必要最低限の言葉しか口にしなかった。 ランディリックもそれ以上追及することはせず、銀器の触れ合う音だけが広い食堂に響く。 重苦しい沈黙が、食後のティータイムまで尾を引いた。 その空気を破ったのはお互いに食事を終え、執務室に戻った直後のことだった。「旦那さま!」 慌ただしく駆け込んできたのは、若い侍女のひとりだ。顔を上気させ、息を切らせている。「カイルさまが……! カイルさまが、意識をお取り戻しになりました!」 ランディリックの傍で机に向かっていたリリアンナの肩がビクリと震える。「本当なの!?」 瞳を大きく見開いた彼女は、今にも駆け出しそうな勢いだった。 その様子を視界の端に捉えたランディリックの眉根がわずかに寄る。 だが、態度には出さないよう気を付けながら、抑えた声で告げた。「……分かった。すぐに確かめに行こう」 その声音には、どこか張り詰めたものが滲んでいた。リリアンナが「約束通り私も!」とばかりに、立ち上がるランディリックをじっと見つめてくる。ランディリックはそんなリリアンナの期待に満ちた表情を見て、胸の奥に得体の知れないざわめきが広がっていくのを感じた。*** 報せを受けてすぐ、執務室を出たリリアンナは、ランディリックの
last updateLast Updated : 2026-10-20
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