ヤンデレ辺境伯は年の離れた養い子に恋着する

ヤンデレ辺境伯は年の離れた養い子に恋着する

last updateLast Updated : 2026-10-21
By:  鷹槻れんUpdated just now
Language: Japanese
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ランディリック(ランディ)は、旅先で幼い少女リリアンナ(リリー)と出会う。 可憐で物おじしない愛らしい少女リリーを好ましく思ったランディだったのだが、数年後に再会したリリーは、両親を失いすっかり変わり果ててしまっていた。 リリーを養女として迎え入れたランディだったのだが、自分の手元でどんどん美しい女性へと成長していく彼女に劣情を抱くようになって――。 ◾️ランディリック・グラハム ・ライオール(34)  イスグラン帝国/マーロケリー国境を守るニンルシーラ領の辺境伯/侯爵 ◾️リリアンナ・オブ ・ウールウォード(18)  イスグラン帝国/首都エスパハレ出身の伯爵令嬢

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Chapter 1

1.甘くておいしい果実

「お腹が……空いたの?」

 飲みつけない異国の酒と、船の揺れにどうにも体調が優れなくて、客室へと続く通路の片隅で暗闇へ紛れるようにしてうずくまっていたランディリック・グラハム・ライオールは、突如降り注いできた可憐な声にうつむいていた顔を上向けた。

(血が飲みたい……)

 こういう時は持・病・の・発・作・が抑えられなくなりがちだ。歯止め役の友、ウィリアム・リー・ペインがそばにいない今、ランディリックに出来るのは人から距離を取ることくらいだというのに――。

 この状況は、非常にまずい。

 投げかけられた声は、まるで天使が鈴を転がしたかのような耳触りの良い旋律しらべだった。けれど、目の前に立つふわふわ猫毛の少女は天使におあつらえ向きの輝くような金髪……ではなくて、それとは程遠い〝くすんだ暗い赤バーガンディ色〟の髪の毛をしていた。

 ランディリックの住むイスグラン帝国には珍しい髪色だが、今現在国交の途絶えている隣国マーロケリー国にはありふれた毛色だ。

 本来ならば〝仲の良くない国〟の者同士。こんな風に親し気に話すのは有り得ないことだったし、イスグラン帝国ではこの髪色は不吉の象徴だとさえ言われている。だが、どうしたことだろう? ランディリックには、そんな赤毛の彼女のことが、とてもまぶしくて好ましいものに見えたのだ。

 年の頃は六つかそこらだろうか。

「大丈夫? 凄く顔色が悪いわ」

 少女は「そうだっ」とつぶやいて、手にしていた小さな紙包みをガサガサとあさると、中から血のように真っ赤な色をした果実を差し出してくる。

「林檎りんご。さっきお母様に頂いたの。甘酸っぱくて美味しいのよ? 貴方にあげる」

 そこでふと思いついたように、

「皮付きがイヤなら……これで皮を剝くことも出来るわ」

 林檎と一緒に持っていたのだろう。包みの中から折り畳み式の小さな果物ナイフを取り出した。

「私は練習中で……まだ上手く剥けないのだけれど」

 照れ臭そうにはにかんだ少女の指先には、小さな切り傷があった。切ったばかりなんだろうか? まだ薄っすらと血が滲んでいる。

(まずいな……)

 その小さな手で林檎とナイフを片手ずつに捧げ持つようにして目の前へ突き出されて、ランディリックは彼女の傷・口・か・ら・漂う甘い芳香に眩暈めまいを覚えた。

「……僕のことは気にしなくていいから……。早く……この場を離れなさい」

 グッと奥歯を噛みしめるようにして懸命に言葉を紡げば、声が掠かすれて如何にも苦しいのだとアピールしているように聞こえて、ランディリックは己の不甲斐なさに舌打ちしたくなった。

 とにかく、これ以上少女に近付かれては危・険・だ。

「でも」

 それでも傍を離れようとしない女の子に、ランディリックは小さく吐息を落とす。

「こんなところへ長居していたら、母君に心配をかけてしまうだろう?」

 ――一刻も早く自分から離れて欲しい。

 その一心でもっともらしい理由を述べれば、「林檎は嫌い?」と眉根を寄せられた。

 余りに悲しそうな声音で問うてくるから、ランディリックは「頂こう」と手を差し出さずにはいられなくて。自分がそれを食・べ・る・こ・と・は・叶・わ・な・い・けれど、ウィリアムなら食べられるはずだ。

 ランディリックが林檎を受け取ったと同時。青緑色マラカイトグリーンの大きな瞳がパッと輝いて、ストロベリーレッドの愛らしい唇が嬉しそうに弧を描いた。

「お母様の生まれ故郷の林檎! 甘酸っぱくて、美味しいから!」

 その笑顔を見て、ランディリックは思わず「リトルレディ、貴女のお名前は?」と問い掛けていた。早く少女にこの場を立ち去ってもらいたいと希こいねがっておきながら、こんなことをするのは矛盾むじゅんでしかない。

(けど……)

 手の中の果物ナイフに視線を落としたランディリックは、『これを返さねばならないからね』と、心の中でもっともらしい言い訳をした。

「あら! 人に名前を尋ねる時は、まずはそちらから名乗るのが礼儀だって教わらなかったの?」

 幼い割にこまっしゃくれた物言いをしてクスッと笑った少女に、ランディリックもつられて破顔する。

「これは失礼。僕はランディリック・グラハム ・ライオール。イスグラン帝国ニンルシーラ地方の管理者になる予定の者だよ。親しい者からはランディと……。レディは?」

 本来ならば立ち上がって礼を取るのがマナーだろうが、今は体調的に少し無理そうだ。それを申し訳なく思ったランディリックだったが、少女はそんなことを気にするような、狭い心の持ち主ではないらしい。

「私はリリアンナ・オブ ・ウールウォード。エスパハレに住んでいるの。お父様やお母様からはリリーって呼ばれているわ。よろしくね、ランディリックさん」

 愛らしくスカートの裾をつまんで一丁前に膝折礼カーテシーをしてみせる少女に、ランディリックは「ランディで構いませんよ、リリアンナ嬢」と答えたのだが、どうやらリリアンナはそれが不満だったらしい。

「だったら私のこともリリーって呼んでくれなきゃフェアじゃないわ、ランディリック様・」

 先ほどは「さん」付けだったはずなのに、あえて「様」付けでランディリックを呼んだリリアンナが、小さな唇を突き出して拗ね顔をする。幼く見えても立派に淑女おんななのだと感じさせられるその仕草に、ランディリックは「これは失礼いたしました、リリー」と返しながら、口の端を緩めずにはいられなかった。

 さて、今リリアンナが口にしたエスパハレは、イスグラン帝国の王都名だ。ランディリックは、実はそのことに少し驚いていた。

(イスグランの人間で、彼女の髪色は珍しい。血縁にマーロケリー国の者でもいるんだろうか)

 てっきりその見た目から、リリアンナのことを異国の少女だろうと目星をつけていたランディリックにとって、彼女の答えは意外だった。

 ランディリックが統括する予定の領地ニンルシーラと国境を隔へだてたすぐ先の隣国・マーロケリーには、彼女のような赤毛の人間が多い。

***

「ところでランディ。誰か頼れる人は? もしも一人旅なら……私、お父様とお母様に頼んで……」

 少し物思いに耽ふけり過ぎていたらしい。不意に降ってきた心配そうな声音に、ランディリックは意識を引き戻された。

「大丈夫だよ、リリー。今はちょっとはぐれてしまっているけれど、友人と乗船しているから」

「本当? 私をじっと見つめてきてたのって、一人にされるのが不安だったからじゃないの?」

 どうやらランディリックがリリアンナの赤毛をぼんやり見詰めていたのが、寂しそうに彼女を引き留めたがっているように見えてしまったらしい。そんなリリアンナの優しさを無下にしたくなくて、ランディリックは柔らかく微笑んでみせた。

「不安がないと言えば嘘になるけど……連れとはじきに合流できるはずだ。彼は優秀だから……すぐに僕のことを見つけてくれると思うよ?」

 友・ウィリアムは、ランディリックの幼なじみだ。いい意味でも悪い意味でも、ランディリックの行動パターンをよく理解している。

「なら安心ね? けどランディ。私、貴方のお連れさんがいらっしゃるまで、ここにいても構わないかしら?」

 言うなり、リリアンナはランディリックの返事も聞かず、彼の横へちょこんと腰かけた。

 そうして結局。ウィリアムが「やっと見つけた!」と駆け寄ってくるまで、ランディリックの傍にいてくれたのだ。

 もっとも途中で眠ってしまって、ウィリアムに頼んで両親の元へ送り届けてもらわねばならなかったのだけれど――。

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2.あの木が実を結ぶ頃には①
「これ、あの時の種からだって? よく枯らさず育てられたな」 テラスで紅茶を飲みながらランディリックが見詰める先、数年ぶりに会う友ウィリアムが、自分の腰くらいの高さにある林檎の若木を見て目を細めた。「うちの庭師は優秀だからな」「ここを任される直前のお前と船旅をしてからだから……三年ちょいか……」「ああ、そうだな」 子爵家の三男として生まれたランディリックは、ウィリアム同様王都エスパハレの出身だ。 同い年でもある二人に違う点があるとすれば、ウィリアムは跡取り息子で、ランディリックは違うと言うことだろう。 上に兄が二人いるランディリックは、ライオール家特有のある問題を抱えてこの世に生を受けた。 嫡男でないだけならまだしも、自身が致命的な障害を抱えていることを鑑みたランディリックは、家にいてもさしたる扱いは受けられないと考えた。  それで十八歳の時――パブリックスクールを卒業したのを機に王直属の騎士団へ入団し、家を出ることにしたのだ。 元々座学はもちろんのこと、剣を振るうことに関してもどんな人間より遥かに優れていたランディリックは、めきめきと頭角を現し、三年前、二十二歳の年にマーロケリー国との国境ニンルシーラ領の辺境伯に任命された。  先のニンルシーラ領主が、流行り病で急逝したからだ。 男爵家の跡取り息子ウィリアムとは母親が幼なじみという縁で、幼少の頃から――それこそパブリックスクールへ入学する前から――の付き合いである。  たまたま同年齢だったことも、二人を引き寄せるきっかけになったのだが、王都にいる頃はよくつるんで悪さをしたものだ。 進む道が分かれてからも、何だかんだと付き合いの続いている腐れ縁――。それがウィリアム・リー・ペインとランディリック・グラハム・ライオールの関係だ。 ***  王都からここ――ニンルシーラまでは汽車と馬車を乗り継いで丸二日掛かる。  普段は手紙でやり取りをしている二人だが、約三年ぶり。ウィリアムが遠路はるばるランディリックの領地ニンルシーラまで出向いて来たのには理由がある。 何でも現ペイン家の当主であるウィリアムの父ベイジルが、一人息子の誕生日に合わせて男爵位を子へ譲ると宣言したのだとか。  ベイジルが親し
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2.あの木が実を結ぶ頃には②
「林檎のお嬢さんも十は超えたかな」「バカ言え。まだ九つだ」「わー、一度しか会ったことのない女の子の年齢を指折り数えてるとか……相変わらずストーカーチックで気持ち悪いね。俺が心配してるのはそう言うところだよ、ランディ」「うるさいぞ」 そんな会話をしながら近付いてきたウィリアムが、ランディリックの傍へ腰かけると、すぐさまライオール家の執事が温かな紅茶を淹れてくれる。「有難う、セドリック」 ウィリアムの謝辞に一礼すると、セドリックが後方へ下がった。 ウィリアムはテーブル上の皿に乗せられたスコーンの山から頂点に君臨していたひとつを手に取ると、腹割れ部分からさっくり半分に割った。  そうして片側にクロテッドクリームとラズベリージャムを、もう片側にラズベリージャムのみをたっぷり塗って、ジャムだけの方からかぶりつく。「キミが食べるのを見ていると、ジャムも美味そうに見えるから不思議だ」 ランディリックは基本的に果物が苦手だ。食べられないことはないが、好きではない。  船上でリリアンナが差し出したリンゴを受け取るのを躊躇ったのもそのためだ。美味しいと思えない自分が、彼女の大切なリンゴをもらうのは勿体ないと思ったのだ。 だからライオール家でジャムが供されるのは客人が来た時に限られるのだが、ランディリックと違ってウィリアムは果実全般をこよなく愛している。「実際甘酸っぱくて最高だって思って食べてるんだ。そう見えるのは当然だよね」 クスッと笑ったウィリアムへ、あからさまに眉根を寄せると、ランディリックは牛乳から作られたクロテッドクリームのみを載せたスコーンを一口かじった。「僕はクリームだけの方が好みだ」「ジャムあってこそのクリームだと思うけどな?」「同意しかねる」 スコーン自体に仄かな甘みがあるから、ランディリックはこれだけでも十分だと思っているのだが、ウィリアムは違うらしい。「ウィル、僕たちはどこまでも相容れない幼なじみのようだ」「バカだなぁ、ランディ。それがいいんじゃないか」 実際食べ物の好き嫌い同様、女性の好みも違う。  二人で一緒にいて何かの奪い合いになることは皆無だったから、無闇な争いに発展せず済んだのかも知れない。 ふと庭に植わったミチュポムの若木を見遣りながら、ランディリックは(あれに真っ赤な実が結ばれる頃には
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3.ウィリアムからの手紙①
『親愛なるランディへ』 そんな書き出しで始まった、友ウィリアム・リー・ペインからの手紙は、ウィリアムが男爵位を継いで三年目、ランディリック・グラハム ・ライオールがニンルシーラ辺境伯になって六年目になったころ届いた。 執務室で執事のセドリックから手紙の束を受け取ったランディリックは、その中へ見慣れた【Pと燕】があしらわれたペイン家の紋章を模った封蝋を見つけて、真っ先に開封する。 サッと内容に目を通したランディリックの眉根が寄せられる様を間近で認めたセドリックが、「いかがなさいましたか?」と控えめに口を開いた。「――セドリック。突然だが、なるべく早く王都へ出向きたい。予定の調整は付けられそうか?」 三年ごとに何かが起こるように感じるのは気のせいだろうか。 約三年前にはウィリアムが家督を継ぐ前にとニンルシーラへ出向いてくれたし、今回は看過することが出来ない内容の手紙が届いた。 今まで領地を出ることなどほとんど皆無だったランディリックの言葉に、セドリックが小さく息を呑んだのは当然だろう。「差し出がましいようですが、一体何があったのかお聞きしてもよろしいでしょうか?」 セドリックの問いかけに、ランディリックは手にしていた手紙を執事へ手渡した。 *** 「久しぶりだな、ランディ」 ランディリックはウィリアムからの手紙を受け取ってひと月も経たないうち、汽車と馬車を乗り継いで約六年ぶりに王都エスパハレへ降り立った。 本来ならば真っ先に生家であるライオール子爵家へ出向くのが筋だ。 だが、今回の帰省に関して、ランディリックはライオール子爵家の家長である父・テレンスには一切連絡を入れなかった。 元々エスパハレに長居するつもりはなかったし、目的を果たしたらすぐにでも領地――ニンルシーラへ戻るつもりだったからだ。 ***
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3.ウィリアムからの手紙②
 ダフネはストレートの黒髪に赤目という、ここイスグラン帝国ではごく一般的な見た目をした女の子で、ゆるいウェーブのあるくすんだ暗めの髪色にマラカイトグリーンの目をしたリリアンナとは似ても似つかない容姿の義妹だった。 リリアンナの母親マーガレット・エリザベス・ウールウォードが、隣国マーロケリー国の流れを汲む令嬢で、リリアンナはマーガレットの髪色と瞳の色を色濃く受け継いだのだ。 昔は隣り合った国と言うこともあって国交のあったイスグラン帝国とマーロケリー国だが、十数年前マーロケリーにイスグランが戦争を吹っ掛けて以来、ほとんど交流がない。 リリアンナの母マーガレットも、その影響で親元へ戻ることが出来なくなって、リリアンナは母方の祖父母や縁戚関係者には一度も会ったことがないのだ。 幼い頃に旅行先の船内で母からもらった林檎の実は、マーロケリー国の特産品で、イスグラン帝国で見かけることはほとんどない珍しいものだと、リリアンナは大きくなってから知った。 たまたま船内にいた貿易商が持っていた品の中からミチュポムを見つけたマーガレットが、リリアンナにも自分の故郷の味を食べさせたくて買ったのだ。 結局三つ買ったうちの一つを体調が悪そうだった紳士――確かランディと名乗った――にあげたのだが、幼かったリリアンナはそれ以外のことを余り覚えていない。 ランディと名乗った男はどこかの統治者になると言っていたが、それが首都エスパハレでなかったことだけは確かだ。 庭に植えられたミチュポムの木は、そのとき食べた果実に入っていた種子を、母親が持ち帰ってきて大切に育てていたものだ。 どんなに叔父一家にいじめられても、この木のそばに立てば、母親の気配を感じられるようで何とか頑張れたリリアンナである。 その木が植えられたのはリリアンナが六つの時だったから、庭の若木にはまだ花も咲かなければ結実することもない。だがあと数年も待てば、ルビーのように真っ赤な、愛らしい小ぶりの実を結ぶことだろう。 *** イスグラン帝国には金髪・|碧眼《へきが
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4.味が分からない①
 リリアンナは半地下の自室へ戻るとチェストの中から着替えを取り出した。洗い替えはこれしかないので髪の毛から滴るインクで汚れないよう注意を払いながら、タオル代わりの布切れで包むと足早に屋敷の外へ急ぐ。  首都エスパハレは街の数か所に洗濯物を洗うための洗い場が用意されているのだが、今回リリアンナが向かったのはそこではなかった。 リリアンナは屋敷からさして離れていない場所をゆるゆると流れる小川へ向かうと、手にしてきた服を少し離れたところへ置いて、川の水に髪の毛を浸した。  途端リリアンナから薄墨色がじわりと広がって、水流に沿って拡散されていく。 そろそろ夏に差し掛かる頃というのは不幸中の幸いだったかもしれない。真冬にこんなことをしたら凍えてしまっていたはずだ。 リリアンナは丁寧に髪からインクを洗い流すと、滴る水滴をギュッと手指で絞り落とした。  リリアンナの緩いウェーブが掛かった髪の毛は柔らかな猫毛で、濡れると束の間ストレートになる。  リリアンナは粗方水気がなくなったところで、服を包んできた布切れを髪へ宛てがってポンポンと叩くようにして水分を布へと移していった。  さして吸水力の高くない布なので、そうしたところで劇的に水気が切れるわけではないのだけれど、それでもそうしておかないとせっかく持ってきた着替えがびしょ濡れになってしまう。  水滴が落ちない程度に水気をなくせば、本来のウェーブを取り戻し始めた髪の毛が首筋をふわふわとくすぐった。 リリアンナはキョロキョロと辺りを見回して、川べりの木陰へ入ると、人気がないことを確認してなるべく肌が露出しないよう気を付けながら素早く汚れた服から新しい服へと着替えた。 着替え終わってやっとほぅっと吐息を落としたリリアンナは、まだ乾き切らない髪の毛から服に水が沁み込まないよう布切れを肩に掛けて、いそいそと歩き出す。  一刻も早く屋敷へ戻らねば、どんな酷い目に遭わされるか分かったものではない。 ***  細心の注意を払っていたつもりだったのに、恐れていたことが起こった――。
last updateLast Updated : 2026-09-07
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4.味が分からない②
 結局何度作っても美味しい料理なんて、味の分からないリリアンナには作れるはずもなく――。  三度の食事の時間のたび、折檻されるのが常となった。 とはいえ、さすがに美味しくない料理をずっと食べ続けることは我慢ならなかったんだろう。  ダーレンの指示で、新しい料理人が雇い入れられた。  にもかかわらず、エダがリリアンナにも誰の手も借りず一品だけ作るよう命じるのは、ただ単に養女をいじめる口実が欲しいだけに違いない。 新たに雇われたばかりのシェフ――ギブン――がエダの仕打ちを見かねてこっそりとリリアンナを手伝おうとしてくれたのだけれど、先のシェフのこともある。リリアンナはゆるゆると首を振って、彼の厚意をやんわりと跳ねのけた。 「私に優しくなさるとギブンさんまで酷い目に遭わされてしまいます。前任者はそれでここを解雇されました」  リリアンナの言葉に、ギブンは息を呑むと、 「ごめんね。そういう話なら俺にも守らなきゃいけない家族がいるから、キミのことはないものとして扱わせてもらう」  ギブンは俯いたまま、気まずそうに笑った。 「……でも、誰かがちゃんと見ていてくれてる。そう思っててよ」  それは、彼なりの精一杯の励ましだった。  給金は最低クラスかも知れないが、それすら失うわけにはいかないと泣きそうな顔をしたギブンは、家に病いがちの母親がいるのだと明かしてくれた。 「治療費までは無理でも、せめて滋養の付くものを食べさせてあげたいんだ」  泣きそうな顔で申し訳なさそうにリリアンナへ頭を下げるギブンを見て、亡きお父様なら彼に母親が治療を受けられるよう手配するのにな? とそっと唇を噛んだリリアンナである。  使用人たちの苦労話を聞いても、何の力にもなれない自分のことが堪らなくイヤになったのは、何度目だろう。  自分がもっと年を経ていて後見人なんていらない大人の女性だったなら……。  もっともっと領地を治める術を学んでいたならば――。  きっと今日も叱責の対象になるであろう一品を作りながら、リリアンナは考え
last updateLast Updated : 2026-09-08
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4.味が分からない③
 帰宅後ダフネから告げ口をされて、エダから言いつけをまもらなかったことを責められてしまうだろうけれど、これ以上恥の上塗りをするのだけは避けたかった。  そんな、壁の花にもなり切れていないみすぼらしいリリアンナへ、他の貴族たちが笑いを含んだ冷たい視線を向けているのが、俯いていてもイヤというほど分かってしまう。  それもそのはず。薄汚れたドレスだけならまだしも、リリアンナの足元は、ドレスだけ与えられて用意されないままに履き古された使用人用の汚い靴のままなのだ。 (早くこの場を立ち去りたい!)  その願いすらダフネが帰ると言い出すまで叶わないのだと分かっているから、リリアンナは誰にも気づかれないよう手のひらをぎゅっと握って屈辱に耐えていた。  若き貴族たちが煌びやかな装いで集い、年に一度の華やかな夜を謳歌している会場の片隅。  その熱気からわずかに外れた壁際で、黒髪の青年が控えめに佇んでいた。  彼の名はウィリアム・リー・ペイン。  貴族の家に生まれ、王都で男爵位を継いだばかりの若き統治者である。  この夜は出席者ではなく、王命により会場内の警備と監察の任に就いていた。 その視線の先には、周囲から疎外されている一人の少女がいた。  色褪せたドレス、手入れされていない髪、怯えたような眼差し――。 (……嘘だろう?)  彼は目を細めた。 (……あれは……まさかリリアンナか……?)  何年も前の、まだほんの幼い少女の面影が、ふと目の前の華やかな舞踏会の中に重なった。  くすんだ暗めの赤毛は、ここ――イスグラン帝国では珍しい髪色。そうそう見かける毛色ではないはずだ。そう考えると、信じたくないけれど……あの少女は間違いなくウールウォード家の令嬢、リリアンナ・オブ・ウールウォードだろう。(けど……あのリリアンナが、何故あんな姿で社交界に……?)  どういうことだ。あれほど気品のあった少女が、まるで召使いのような扱いを受けている。そんな馬鹿な話があるだろうか。  誰がこんなことを許しているのだろう? ウールウォード家はま
last updateLast Updated : 2026-09-09
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4.味が分からない④
 馬車の外を流れていく街並みは宵闇にどっぷりと沈んでいて、ダフネから視線を逸らして窓の方を眺めていても、まるで鏡面のように従妹の姿を映していた。 「それは……」 (誰にも声を掛けられなかったんだもん。仕方がないじゃない!)  そう思ったものの、今のリリアンナに口ごたえなど出来るはずがない。 「お母様に報告しなくちゃ」  意地悪く微笑むダフネの顔をガラス越しに見つめながら、リリアンナは小さく吐息を落とした。 ダフネとともに夜になって屋敷へ戻ったリリアンナは、すぐさま身ぐるみを剥がされて、いつも通りのお仕着せに着替えさせられていた。  夕飯は当然のように抜かれてしまい、お腹がペコペコだ。 (お母様、お父様……)  こういう時、リリアンナはそっと屋敷を抜け出して、庭の片隅へ足を運ぶ。  そこには、六歳の頃に母と一緒に植えた林檎の木がある。今はまだ若木のため細くて華奢な幹だが、風に揺れる枝を見上げるだけで、なぜか両親のぬくもりを感じられる気がした。  リリアンナは空腹を抱えたまま、ミチュポムの木をそっと撫でて、「私もお母様とお父様の元へ行けたらいいのに……」とつぶやいてポロリと涙をこぼした。 翌朝も食事抜きを言い渡されたリリアンナは、極限状態のまま朝の仕事をこなして、すき間を縫うように裏庭へ足をむけた。ミチュポムの木へ話しかけに行くためだ。 「……えっ、うそ……何で?」  だが、そこにあったはずの若木は、根元からバッサリ伐られていて、まるでそのことを知らしめたいみたいに、無残に切り刻まれた幹と枝葉が地面へ打ち捨てられていた。細い幹には、無作為に振り下ろされたと思しき斧の跡がそこかしこに生々しく残っている。 「……誰がこんな……」  それ以上は言葉にならず、膝から崩れ落ちたリリアンナの背後から足音が近付いてくる。 「社交界で私の言いつけを守らなかった罰よ。元々目障りだった木だもの。伐られて当然でしょう?」  冷笑とともにリリアンナの耳に届いたのは、エダの蔑むような声だった。 そのあと、当然のように
last updateLast Updated : 2026-09-10
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5.あの林檎の木のもとへ①
 あと数時間もすれば太陽が中天へ掛かるだろう時間帯に、ウールウォード邸へ珍しく来客があった。 普段なら重苦しい沈黙が支配する屋敷に、今は緊張に満ちたざわめきが広がっている。 重厚な鉄扉を、さして重さを感じさせる様子もなく押し開けて現れたのは漆黒の軍服を纏い、凛とした姿勢で堂々と場を支配する一人の男だった。 月光を纏ったような銀髪は、鋭さを残すウルフカットに整えられ、その一房が肩口で静かに揺れる。濃紫のアメジストを想わせる双眸がゆっくりと場を見渡すと、それだけで空気が張り詰めた。 整った顔立ちには柔らかな笑みが浮かんでいたが、不思議とその微笑には温度が感じられない。そこに滲むのは、慈愛ではなく冷酷さ――威圧とも呼べる静かな圧力だった。 彼は帝都でも知らぬ者はいない、ライオール子爵家の美しき三男坊、ランディリック・グラハム・ライオール、その人だった。家督継承権のなかった第三子の彼は、己の実力だけで王よりニンルシーラ辺境を治める若き侯爵の地位を得ている。 そんなランディリックの到来は、ただそれだけで空気を変える力を持っていた。「こちらに、前ウールウォード伯爵のご息女、リリアンナ嬢がいらっしゃいますね?」 屋敷の玄関口に立ったランディリックがそう告げると、応対に出た女中たちがなにかに怯えたように揃って顔を引きつらせた。 すぐに、屋敷の奥から足音が響き、派手なドレスを身にまとったエダが現れる。無理やり作り上げた笑顔が、顔の筋肉と乖離していて醜かった。 エダはランディリックの美貌を一目見るなり一瞬恍惚とした表情を浮かべ、頬を上気させる。「ああ。リリアンナ。確かにおりましたが、先月流行り病であっけなく……」 そこでグスッとわざとらしく鼻をすすってみせるエダの言葉へ被せるように、そのすぐ後ろから現れた娘のダフネが、「とても優しいお姉さまでしたのにっ」と、うわぁっと泣き崩れた。 ランディリックはその様を静かに見下ろすと、ゆっくりまぶたを閉じた。その仕草には、爆発しかけた感情をかろうじて抑えこむような、張りつめた緊張が滲んでいて、彼に付き従っている従者たちの空気がピンと張りつめる。 だが、猿芝居に夢中のエダとダフネは愚かしいことに、その機微に気付けていなかった。「……そうですか」 ランディリックは全ての感情を押し殺したように、静かに言葉を返
last updateLast Updated : 2026-09-17
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