All Chapters of アルファの傷深き癒やし手: Chapter 41 - Chapter 50

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第41章: 新婚旅行

ディミトリの視点何かがおかしい。私は完全に彼女へと向き直り、即座にその唇が無音のまま開閉していることに気づいた。彼女は懸命に言葉を紡ごうとしていた――必死にもがいていた――だが、一欠片の言葉も出てこない。私を見つめ返すその瞳の奥で、冷たいパニックと焦燥が渦を巻いていた。声が出ないのだ。その現実に、瞬時に思い至った。私は装甲車を路肩に止め、エンジンを切った。車内に深い静寂が満ちる中、私は座席の背もたれに体を預け、手で顔を覆ってから、疲れ果てたため息とともに鼻梁をつまんだ。「……あの魔女め、やはり貴様の声を奪ったか」私は吐き捨てた。その言葉は、認めたくはないほど激しい苛立ちを私の中に残した。魔女という連中は、対価を要求することなしに何かを与えることなど決してない。あの母とやらが相手ならば、この程度は想定しておくべきだったのだ。とはいえ、スカーレットの声を奪われたことは、事態を著しく紛糾させていた。運転席の背もたれに沈み込みながら、私はフロントガラス越しに広がる闇を見つめ尽くした。こんな状態で、ブラッドファングへ帰還するわけにはいかない。詮索の手が入る。疑念は膨れ上がる。ただでさえ、ペトルはスカーレットに対して必要以上の注視を注いでいるのだ。私は鋭く息を吐き、手で髪を掻き上げた。「まだブラッドファングへ戻るわけにはいかん」前方の道路を見据えたまま、私は告げた。「不自然な綻びを一切残すわけにはいかんのだ」再びエンジンを始動させ、装甲車を狭い山道へと滑り込ませた。今夜どこで夜を明かすべきか、すでに私の頭には浮かんでいた。そして、その選択肢を心底から呪っていた。あの宿だ。ありとあらゆる場所の中で、よりによってあの宿に戻らねばならないとは。その考えだけで苛立ちが募る。フロントのあの女主人と、私たちが新婚夫婦であるというあの馬鹿げた決めつけだけでも、一度目で十分すぎるほど鬱陶しかったのだ。あの女の要領を得ない戯言に、再び付き合わされる筋合いなど毛頭なかった。だが不幸なことに、そこが最も近く、安全な選択肢だった。スカーレットの声が戻るまで、他の場所へ立ち寄るような危険を冒すわけにはいかない。私は車を反転させて元の道を辿り、前照灯の白い光で夜の闇を切り裂きながら進んだ。望んでいたよりも早く、あの宿が姿を現した。月光の下に佇む同じ簡素な建物が、ほ
last updateLast Updated : 2026-10-09
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第42章: 紙に記す言葉

スカーレット/レイヴンの視点指先はペンを包み込んでいたが、どうしても紙の上にペン先を落とすことができなかった。痛いほど激しく肋骨の内側で心臓が打ち鳴らされ、冷たいパニックが全身の隅々へと這い上がっていく。もしアルファ・ディミトリに真実を明かせば、すべてが音を立てて崩壊してしまう。妊娠していることなど言えるはずがなかった。私が何者であるかなど、明かせるわけがない。たった一つの不用意な文言だけで、すべてが瓦解するのだ。ルーカン。我が子。スカーレット・ベインとして築き上げた人生。守り抜くために戦ってきたあらゆる秘密が、一気に突き崩されてしまう。彼を納得させつつ、他のすべてを秘匿し通せるだけの、真実に極めて近い安全な言い回しを必死に手繰り寄せながら、頭の中を激しく思考が駆け巡った。そして、その考えが閃いた。指先がペンを強く握り締め、紙の上へとペン先を落とした。手がわずかに震え、並ぶ文字の輪郭が不揃いに歪む。『キルケがあなたを飛ばした場所から連れ戻すために、私は代償を捧げねばなりませんでした。その引き換えとして、一週間の間、彼女に声を預けたのです』静かに息を吸い込み、私はメモ帳を彼の方へと向けた。彼の深緑の瞳が、紙の上の文字をゆっくりと辿っていった。ほんの一刹那、周到に自制された彼の表情を驚愕の色が突き破った。だがそれは、彼が常に澱みなく纏っている冷徹な仮面の底へと、瞬く間に掻き消えていった。彼は深く息を吸い込んだ。「そんな真似をする必要などなかったものを」先ほどよりも低く抑えられた声で、彼は言った。「キルケとやらも、いずれは俺を解放したはずだ」私は白紙の頁をめくり、呼吸をするのと同じくらい自然に湧き上がってきた言葉を走らせた。『申し訳ありません、アルファ』端を握る指先を震わせながら、私はもう一度メモ帳を彼へと差し出した。彼は沈黙のうちにその文字を見つめ、やがて小さいため息を漏らした。部屋の空気が、唐突に息苦しいほど重く感じられた。口にすることの叶わない無数の言葉が胸を内側から圧迫し、呼吸を苦しくさせていく。キルケが奪い去ったのは一週間の声にすぎなかったが、その沈黙はすでに耐え難いほどの重力となっていた。そして彼女が私に与えてくれた自由は……早くも血の匂いに塗れているように感じられていた。次に何が訪れようと耐えられるよう身構えながら、私は
last updateLast Updated : 2026-10-10
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第43章: 俺専属の治癒師

ディミトリの視点「……レイヴン・ムーンシャドウが、死んだ」画面に浮かび上がる通信の文面を見据えたまま、その言葉は淀みなく私の口から零れ落ちた。周囲では携帯電話販売店の穏やかな音楽が流れ、客たちが陳列棚の間を静かに行き交っている。その光景の何一つとして、私の意識を引くことはなかった。私は届いた報せを、ただ冷徹な事実として受け止めていた。レイヴン・ムーンシャドウの遺体は、今やブラッドファングの手中にあった。アルファ・ルーカンは己の拒絶したルナを探し求めて何週間も血眼になり、その過程で近隣の群れの耳目を集めていたのだ。今や、その真実を握っているのは我々だった。この後に控えるいかなる交渉も、ブラッドファングの主導で進められることになる。私は端末を下ろし、スカーレットへと視線を移した。彼女は黒い端末が並ぶ陳列棚の前に立ち、自らの選択を告げようとしていたかのように片手を中途半端に持ち上げたまま硬直していた。その顔から、完全に血の気が引いている。見開かれた瞳は焦点を失い、声なき衝撃に唇が微かに開かれていた。店の照明を浴びて赤毛の鮮やかさが際立ち、首元に巻かれたスカーフだけが、青ざめた肌の上で唯一の色彩を放っている。彼女は、微動だにしていなかった。必要以上に長い間、私は彼女を観察した。多少の驚きくらいは見せるかと思っていたが、これほど露骨に血の気を失うとは予想外だった。誰かの死の報せが、彼女を激しく動揺させたことは明白だった。私は指を一度、鋭く澄んだ音を立てて鳴らした。その音に、スカーレットの肩が小さく跳ねた。見開かれたままの瞳が弾かれたように私へと向けられる。そして彼女は即座に陳列棚へと向き直り、無骨な黒の端末を指差した。ガラスを一度叩き、私がすぐに反応を示さないと見るや、もう一度それを叩いた。理解した。「……ああ。それがいいのだな」彼女は素早く首肯し、もう一度それを指し示した。私は少し離れた場所で礼儀正しく控えていた店員へと目を向けた。「それを貰おう」店員は笑みを浮かべて素早く動き、陳列棚の鍵を開けて端末を取り出した。端末本体と充電器、書類一式を小さな化粧箱へと手際よく収めていく。私は無言でカードを手渡した。会計のすべては二分足らずで完了した。スカーレットは私のすぐ隣に寄り添い、その箱が本当に自分のものなのか自らに言い聞かせようとするかのよう
last updateLast Updated : 2026-10-11
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第44章: ゼド

ディミトリの視点己自身の声よりも熟知した声だった。生まれてからこの方、ずっと耳にしてきた響き。何ヶ月もの沈黙を経た後であろうと、聞き違えるはずなどなかった。『――俺の番だ』ゼド。あり得ない現実に、私はただ、自らの胸元に重ねられたスカーレットの両手を見下ろして呆然と立ち尽くしていた。彼女は自らの能力を注ぎ込むことに全神経を集中させており、私の狼が数ヶ月ぶりに口を開いたことなど露ほども気づいていない。ゼドがついに目を覚ました時、耳にするであろうと想定していたありとあらゆる言葉の中で、己の治癒師に対する独占欲を露わにした執着の宣告など、夢にも思わぬ事態だった。道理が通らない。真っ先に浮かんだのは、聞き間違いではないかという疑念だった。キルケが私に与えた束の間の解放は、私自身を含め誰一人として完全には解明できていない未知の領域なのだ。何年もの間、オロスタは私の肉体を貪り食い、狼との結びつきを少しずつ断ち切ってきた。奴を内奥深くに封じ込めることこそが、生き延びるための唯一の道だった。その長き沈黙の果てに、スカーレットが触れた瞬間、ゼドは突如として覚醒したのだ。そんな特異な状況下で、奇妙な精神の揺らぎが生じたとしても不思議ではない。今耳にした言葉には、論理的な説明など何一つ成り立たなかった。スカーレット・ベインは私の番でもなければ、ルナでもない。ましてや、私の狼が所有を主張する対象などでは断じてあり得ないのだ。馬鹿げている。すべてが荒唐無稽だった。数拍の後、スカーレットは私の胸からゆっくりと手を引き離し、一度だけ小さく首を横に振った。彼女は部屋を横切ってメモ帳とペンを取り、手早く文字を走らせると、読ませるように私へと差し出した。『病の兆候はありません。いかなる影も見当たりません』押し留める間もなく、自らの口元が綻んでいることに気づいた。低く柔らかな笑いが漏れ落ちた。それは嘘偽りのない、だが酷く久しぶりの感情だった。何年もの間、私が下すあらゆる決断のすべては、己の内に巣食う病の影によって歪められてきたのだ。耐え難い苦痛や病のこと、そしてそれが這い戻るまでに残された猶予の短さなど気に病むことなく息をしたのは、本当に久しぶりのことだった。一時的な猶予であろうと、キルケの施しは本物だった。スカーレットがそれを証明してくれたのだ。私は一度、頷いた。「…
last updateLast Updated : 2026-10-12
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第45章: 嘘つき

ディミトリの視点スカーレットの目はあまりにも大きく見開かれ、瞬きの仕方すら忘れてしまったのではないかと疑ったほどだった。抗いようのない一瞬の間、その視線が下へと落ち――そして弾かれたように私の顔へと跳ね戻ってきた。彼女の頬を一気に染め上げた赤みは、目を見張るほどだった。彼女は即座に首を巡らせ、あたかもそれが森の中で最も興味深い存在であるかのように、一番近くにあった木の一本を異様な熱量で見つめ始めた。私は何も言わなかった。口にして役に立つ言葉など、何一つ持ち合わせていなかったからだ。私は衣服を残していた岩の元へと歩み寄り、それらを拾い上げると、身支度を整えるために最も近い木の背後へと回った。人間の姿へと戻った後も、疾走の昂揚感で肉体は依然として熱を帯びていた。ゼドの気配は意識の表層近くに漂い続け、ここ数ヶ月のどんな時よりも鮮烈に覚醒していた。身支度を終えて開けた場所へと戻った時、スカーレットは地面の一点穴が空くほど凝視していた。髪の隙間から覗く耳の先端までが鮮やかな桃色に染まり、私のいる方角へ視線を向けようとする気配すら見せようとしない。装甲車の運転席の扉を開け、私は彼女を振り返った。「乗れ」彼女は何の疑問も挟まずに従った。エンジンを始動させ、車体を本道へと向けて旋回させると、私たちは森を背後に置き去りにした。最初の数分間、ゼドは静寂を保っていたが、奴の存在が私の意識の最前線に燻っているのを肌で感じていた。ようやく走る自由を許された後とあって、奴はいまだに落ち着きを失っていたのだ。折に触れて、奴の意識は隣に無言で座る女へと引き戻されていた。私は奴を無視した。あの疾走は、私が期待していた通りの結果をもたらしてくれた。病の影は微塵も戻っておらず、狼との繋がりは記憶にあるどんな時よりも強固に息を吹き返していた。それ以外の事柄のすべてが、著しく厄介な様相を呈していたが。宿へと戻り、車を止めて中へと先導した。食堂は半分ほど席が埋まっており、旅人や地元の住人たちが夕食を前に控えめな会話を交わしていた。カトラリーの擦れ合う馴染み深い音と、低くざわめく話し声が空間を満たしている。私は二つの出入り口の双方に目を配れる壁際の長卓を選び、彼女の意向を尋ねることもなく二人分の食事を注文した。肉と野菜、そして簡素な品々。彼女には滋養が必要であり、私にも必要だった
last updateLast Updated : 2026-10-12
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第46章: 嘘つき・其の二

ディミトリの視点私は画面から目を離さなかった。――黙れ。『俺たちの傍にあいつがいる時の空気が、俺は好きなんだ』ゼドは何の恥じらいもなく認めた。私はそんな戯言に付き合って言葉を返す気など毛頭なかった。『静かだしな。いい匂いがする。それに、お前を笑わせる』――俺は笑などせん。ゼドの忍び笑いが頭の奥で低く、面白がるように反響した。『嘘つきめ』奴を徹底的に無視し、私はスカーレットに残された初期設定の画面を案内し続けた。ついに待ち受け画面が表示された時、彼女は手元の端末をしばし見つめ、それから私の目を真正面から見上げた。その顔に浮かんだ安堵の色を、見落とすことなど不可能だった。ただの端末にすぎない。それなのに彼女は、まるで私がこの上なく高価な宝物でも手渡したかのような表情をしていた。すべての設定が完了すると、私は立ち上がり、ベッドから身を引き剥がした。「終わったぞ」私は言った。「何か用がある時は、文面を送るのに使え。充電を切らすなよ」彼女は両手で大切そうに端末を包み込みながら、即座に首肯した。まるでそれが本当に自らの物になったという事実が、いまだに信じられないとでもいうように。窓際へと歩み寄り、胸の前で腕を組んで、ガラスの向こうに広がる濃紺の夜空を見つめた。ここ数日の間に、この部屋は奇妙な居心地の良さを帯び始めており、自分はその変化をどう受け止めるべきか測りかねていた。そして案の定、ゼドはその隙を見計らって再び口を開いた。『いくら強がっても無駄だぞ』奴は気だるげに囁いた。『俺には全部伝わってくるんだからな』――何の話をしているのか分からん。『あの女を気に入っているんだろう』その手の狂気に満ちた妄言に、取り合う労力すら惜しかった。代わりに、私は沈黙のうちに窓際に立ち尽くし、背後で物音一つ立てずに座る女の存在を、本来あるべき度合いを遥かに超えて肌で意識してしまっている自分に気づいていた。ただ疲れているだけなのだと、自らに結論づけた。宿の周囲には、ゆっくりと夜が降り積もっていった。窓の外の灯りがガラスを黒い鏡へと塗り替えていく。スカーレットはベッドの端に静かに腰掛け、手にした新しい端末の機能を一つひとつ確かめていた。私は腕を組んだまま窓際に留まり、特に意識を向けるでもなく駐車場を見下ろしていた。もうすぐ、眠りに就く時間だった。満足感
last updateLast Updated : 2026-10-13
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第47章: 六日間の沈黙

スカーレット/レイヴンの視点部屋の灯りは消えていた。私はベッドの自らの側で毛布を肩口まで引き上げ、暗闇の中をじっと見つめて横たわっていた。マットレスは互いの肌が触れ合わないほど十分に広かったが、それでもわずか数歩離れた場所に彼がいるという事実を、皮膚の奥で痛いほど意識せずにはいられなかった。シーツがわずかに擦れ合う音すら、静まり返った部屋の中では不自然なほど大きく響く。彼の規則正しい寝息の音すら、無視することなど到底不可能だった。彼は、私を見ている。暗がりの中でその瞳を直接確かめることはできなかったが、私には分かっていた。彼の纏う沈黙の気配そのものが、私に確信を抱かせていたのだ。アルファ・ディミトリは、この宿で過ごした最初の夜と同じように、私が眠りに落ちるのを見届けてから自らに休息を許そうとしているのだ。その事実を悟ってしまうことこそが、なおさら神経を休めることを難しくさせていた。私は目をぎゅっと固く閉じた。爪が掌に食い込むほど、毛布の下で両の拳を強く握りしめる。その鋭い痛覚だけが、頭から離れようとしないあの記憶に身を震わせてしまうのを辛うじて押し留めていた。私は、あの男の裸体を見てしまったのだ。招かれざる記憶が、あまりにも鮮明に蘇る。変身が解けたばかりの、湿り気を帯びた黒髪。逞しい両肩。疾走の余韻をいまだその身に張り詰めた、胸元と腹部の硬質な肉体の起伏。そして、そのさらに下にある――顔中に一気に熱が吹き上がり、それを隠してくれる闇の深さに心底から感謝した。凝視してしまったのだ。長い時間ではなかった。決して、不謹慎と咎められるほど長く見つめていたわけではない。……たぶん。ああ、月の女神様。私はアルファ・ディミトリの完全に一糸まとわぬ姿を目にしてしまったのだ。見るつもりなどなかった。変身があまりにも唐突に起きたのだ。ほんの一瞬前まで、彼は木立の奥から姿を現した巨大な黒狼だった。次の瞬間には、開けた森の広場に一糸まとわぬ姿で佇む一人の男へと戻っていたのだ。頭が制止をかけるよりも早く、視線が下へと落ちてしまった。呆然とした一刹那の間、私は彼の太腿に凭れるその重々しい存在感を――想像していたよりも遥かに太く、長さを湛えたそれを――視界に収めてしまっていた。地面の一点に視線を縫い止めておくべきだったのだ。毛並みが皮膚へと変わったその瞬間に
last updateLast Updated : 2026-10-14
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第48章: 感謝のしるし

スカーレット/レイヴンの視点私が目を覚ましたのは、彼よりも先だった。瞼を開いた時、部屋はすでに明るい朝の光で満たされていた。アルファ・ディミトリは自らの側の寝台でまだ眠りの中にあり、片腕を頭の下に敷いたまま、緩やかで規則正しい寝息を刻んでいた。しばしの間、私はただ彼の眠る姿を見つめていた。こうしている時の彼は、より穏やかに見えた。一瞥だけで群れ全体を跪かせるあの恐ろしいアルファというよりは、ようやく自らに休息を許した一人の男のようだった。これ以上見つめ続けてしまう前に、私はマットレスを揺らさぬよう細心の注意を払いながら、そっと毛布の下から身を抜け出させた。足音を忍ばせ、慎重に部屋の中を動く。バスルームは、朝の身支度を整えるための束の間の安らぎを与えてくれた。湯を浴びて清潔な衣服に着替え、歯を磨くと、いつもの習慣から首元の傷を隠すようにスカーフを隙間なく巻きつけた。鏡の中の自分を見上げると、短く切ったあの赤毛と、見慣れた茶色の瞳が見つめ返してきた。スカーレット・ベイン。まだここにいる。今も息をしている。レイヴン・ムーンシャドウは死に、世界はその嘘を信じ込んだのだ。部屋へと戻った時も、彼はいまだ身じろぎ一つしていなかった。私は窓際の肘掛け椅子に身を沈め、膝の上に新しい端末を引き寄せた。画面のロックを解除すると、淡い光が灯る。自らの所有物があるという事実が、いまだにどこか不思議な感覚だった。手記の機能を開き、表題を打ち込んだ。『ここを発つ前にやりたいこと』最初はゆっくりと、やがて次々と案が浮かんできた。これまで試したこともなかった簡素な料理の作り方を調べる。フライパン一つで作れる焦がしニンニクとバターのパスタ。蜂蜜と木苺を添えた一晩寝かせるオートミール。電子レンジだけで作れるマグカップのチョコレートケーキ。自らが望んだというただそれだけの理由で何かを作ることが、どれほど心地よいものかを思い描きながら、一つひとつの手順を丁寧に画面に保存していった。次に、友情を結ぶ組み紐の編み方を検索した。画面に並ぶ解説は鮮やかで色彩に満ちており、刺繍糸と簡単な結び目、そして多様な文様で溢れていた。これまでに作ったことなど一度もなかった。アイアンクローにおいて、これほど小さく不要なものに割く時間など、片時たりとも許されていなかったのだから。それでも、一覧に書
last updateLast Updated : 2026-10-15
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第49章: 番に捧げる食事

ディミトリの視点階段を半ばまで降りたところで、あの女の声が耳に飛び込んできた。「……気づいた時には台所の調理台の上で大の字に跨がされて、旦那様に隅々まで貪り食われる羽目になるんだから」私は歩調を緩めた。それは……およそ尋常な会話の響きではなかった。残りの段を降り、ロビーへと足を踏み入れた。「スカーレット」これ以上の醜態を即座に止めさせるべく、私はその名を呼んだ。彼女は、まるで犯罪の現場を現行犯で押さえられでもしたかのように勢いよく振り返った。片手には端末が握り締められたままで、その顔は自らの赤毛に匹敵するほど真っ赤に染め抜かれていた。スカーフの上に覗く肌という肌がことごとく羞恥の熱に染まり、床に穴でもあれば今すぐ吸い込まれそうな勢いだった。フロントの奥では、女主人が私の姿を認めるや否や、さらに口元を大きく歪めて満面の笑みを浮かべた。自らの仕業に、心底から悦に入っている様子だった。「おはようございます」女主人は、たった今私の治癒師をあられもない体勢に仕立て上げて語っていたことなど微塵も気にしていない様子で、陽気に声を弾ませた。「奥様がね、感謝の気持ちにとあなたのためにケーキを焼きたがっておいででしたので。私はただ、親切心からちょっとした助言を差し上げていただけですよ」カウンターの脇で、スカーレットは喉の奥から言葉にならない押し殺した悲鳴のような音を漏らした。私は彼女を一瞥し、それから女主人の顔へと視線を戻した。私の表情筋は微動だにしなかった。だが不幸なことに、すでに別の何者かが余計な口を挟む決意を固めていた。『俺たちの女房が、飯を食わせたがっているぞ』ゼドの声は、この状況で許されるべき度合いを遥かに超えて活き活きと覚醒していた。私はゼドを無視し、代わりにスカーレットへと視線を据えた。彼女は硬直したまま動かなかった。耳の先端までが鮮やかな桃色に染まり、手の中の端末は忘れ去られたようにぶら下がり、もう片方の手は体の横で固い拳を作っていた。これ以上不謹慎な戯言を一つでも耳にすれば、踵を返して宿の外へ真っ直ぐ逃げ出しそうな気配を漂わせている。女主人は、自らが仕立て上げた新婚旅行の妄想劇に私が乗っかってくるのを待っているかのように、あからさまな笑みを向け続けていた。私は何の反応も返さず、重苦しい沈黙だけが引き延ばされた。スカーレットの激
last updateLast Updated : 2026-10-16
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第50章: 最寄りの娼館

ディミトリの視点スカーレットのいない部屋は、奇妙なほど静まり返っていた。ベッドへと歩み寄り、端末のロックを解除してブラッドファングへの専用回線を開いた。階下で起きた出来事にあれこれと思いを巡らせたところで、何の益もない。この宿に辿り着く遥か以前から仕事は山積みであり、ここを発った後もそれは待ち受けているのだ。もはや覆しようのない過去の会話を頭の中で再生し続けるより、私の裁定を待つ報告書や決断、そして山積する問題に向き合う方が、遥かに実りある時間の使い方だった。呼び出し音が二度鳴ったところで、回線が繋がった。「アルファ」ペトルの声が応えた。「報告を聞こう」私は言った。ペトルは無駄な言葉を好まぬ男であり、その報告も極めて簡潔だった。国境警備は安定を保っている。ブラッドファングの出方を窺っていた弱小の群れどもは、こちらの前回の威嚇行動を受けて後退した。私の不在中に評議会からの要請事項が蓄積していたが、その大半は領地や交易路を巡るいつもの小競り合いや、数ヶ月おきに蒸し返される古傷のような遺恨ばかりだった。即座に私が帰還せねばならぬ緊急の事態は何一つない。私は口を挟むことなく耳を傾け、詳細の一つひとつを記憶に刻み込んだ。彼が話し終えた時、私は最も肝要な問いを投げかけた。「……遺体は?」束の間の沈黙が落ちた。「レイヴン・ムーンシャドウの遺体は確実に確保しております」ペトルが答えた。「身元の確認も完了し、アイアンクローへは正式に通告済みです。アルファ・ルーカンの配下どもがすでに遺体の引き渡しを激しく要求してきておりますが、私は拒否いたしました」彼の声はどこまでも平然としていた。「現時点において、これは我が群れにとって強力な交渉の手札となります」「そのまま留め置け」私は命じた。「俺が戻るまで、引き渡しは一切許可せん」「承知いたしました」わずかな間を置き、ペトルが言葉を継いだ。「……捜索部隊については?」「打ち切りだ」私は即答した。「レイヴン・ムーンシャドウは死んだ。もはや狩り立てるべき獲物など存在せん」一拍の間を置き、私は付け加えた。「それらの兵力を東の国境へと再配置しろ。追って指示を出すまで、あそこの哨戒の巡回頻度を上げろ」「かしこまりました」ペトルが言った。「……ご帰還は六日後ということでよろしいですか?」「五日後だ」私は訂正した。「今日
last updateLast Updated : 2026-10-17
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