All Chapters of 連想ゲームの後、夫も息子も捨てました: Chapter 1 - Chapter 10

15 Chapters

第1話

私――琴南紬(ことなみ つむぎ)は、何も言わずに立ち上がった。涙がこぼれる寸前にリビングを出る。背後から、佑弦の不満げな声が聞こえた。「またどうしたの?ママって、いつも楽しい気分を台なしにするよね」新一は表情ひとつ変えず、平坦な声で答えた。「さあな。放っておけ。いつものことだろ」あまりにも軽いそのひと言に、私の足が止まり、背中が強張った。今日は佑弦の7歳の誕生日だった。私は朝早くから買い出しに行き、ケーキを作り、家じゅうをパーティー用に飾りつけた。ところが、新一が佑弦を迎えに行って帰ってきた時、傍らには7年間海外にいた元恋人の帆乃香がいた。新一は何でもないことのように言った。「帆乃香は帰ってきたばかりで、こっちに知り合いもほとんどいない。せっかくだから連れてきた」それから一晩中、家族は彼女を中心に動いた。帆乃香が風船を怖がれば、新一は私が一日かけて飾ったものを自分の手で外した。帆乃香が何気なく水を飲みたいと言えば、佑弦は家じゅうを駆け回り、自分の手で彼女のところへ運んだ。普段は厳しい志津子まで帆乃香の手を取り、目尻を下げて楽しそうに笑っていた。そのあと、みんなで連想ゲームを始めた。佑弦が引いたカードに書かれていたのは、私の名前だった。3人は順番にヒントを出した。「すぐ怒る」「何でも思いどおりにしたがる」「一緒に連れて歩くのも恥ずかしい」どの言葉も、鋭く胸に突き刺さった。帆乃香がお題のカードになると、佑弦はうれしそうに褒めちぎった。「すごくきれいで上品で、パパが大好きな人。僕はこの人にママになってほしい」一瞬で血の気が引いた。聞き間違いではないかと思った。新一は私をちらりと見た。「子供の悪気のない言葉だろ」志津子も口元をわずかにゆがめた。「子供相手に本気で腹を立てるんじゃないよ」帆乃香は膝の上に両手をそろえ、申し訳なさそうに私に微笑みかけた。おとなしく無害な女性を演じる姿は、隙がないほど見事だった。「紬、誤解しないで。子供の言うことなんだから、本気にしないでね」声はどこまでも優しい。けれど、その目の奥には、よく見なければ見逃してしまいそうなほど微かな、勝ち誇った光が潜んでいた。その眼差しは、まるで私が本当に、彼らの言うとおり、すぐ腹を立てて何
Read more

第2話

「俺が8年間、ずっと心の中から消せなかった人だ」志津子も意味ありげな目で帆乃香を見る。「私が嫁に迎えたいと思うのは、この子だけよ」胸の奥で、何かが音を立てて崩れ落ちた。振り返ると、恥じらうように頬を染めた帆乃香が目に入った。その瞬間、自分の心が完全に死んでしまう音を聞いた気がした。私はスマホを取り出し、上司にメッセージを送った。【以前お話しいただいた海外赴任の件、お受けします】実はその話を持ちかけられたのは、半月ほど前だった。海外拠点で新しいプロジェクトが始まるものの、チームを一人率いられる人材が足りないという。会社は長いこと適任者を探していたが、なかなか見つからなかった。最後には本部長が直々に私を呼び、こう言ったのだ。「琴南、このポジションを任せられるのは君しかいない。任期は5年。役職は2段階上がり、給与は今の3倍になる」それでも私は断った。佑弦が小学校に入ったばかりだったから。そして新一から、女が仕事にそこまでのめり込む必要はない、家のことをする人間も必要だと言われたからだ。あの時の私は、その言葉を信じた。この家には私が必要なのだと思っていた。けれど今夜、ようやく分かった。彼らが必要としていたのは、私ではない。何を言われても逆らわず、家族の世話をしてくれる都合のいい人間が欲しかっただけなのだ。上司からはすぐに返信が届いた。【本当に決めたのか?行けば5年は戻れないぞ。息子はまだ小学校に上がったばかりだろう。置いていけるのか?それに、ご主人は同意しているのか?】私は自嘲気味に口元をゆがめ、文字を打った。【置いていけます。あの人たちは、私がいなくなることを望んでいますから】数分後、航空券の手配が完了したという通知が届いた。出発は3日後だった。私はその画面を、30分ものあいだぼんやりと見つめていた。階下から新一が呼ぶ。「紬、ケーキを切るぞ」佑弦も大声を上げた。「ママ、早く来てよ。帆乃香お姉ちゃんを待たせないで」私は数秒黙ったまま動かなかった。下へ戻る気にはなれない。だが、ふと考え直した。すべてを断ち切るために、最後のひと押しが必要なのかもしれない。あの人たちが、別の女のためならどこまで私を傷つけられるのか。この目で確
Read more

第3話

「家族」という言葉は、誰にでも当てはまるものではない。去年も今も、新一たち3人が家族だと思っていた相手は、私ではなかったのだ。そして今、スマホを手に写真を撮っている私も、3日後には彼らと何の関係もなくなる。……「撮れたよ」私はスマホを下ろした。佑弦が真っ先に列から飛び出してくる。「見せて、見せて!帆乃香お姉ちゃんをきれいに撮ってなかったら、僕、怒るからね」志津子は疑わしそうに私を見た。「もう終わったの?まさか、いい加減に撮ったんじゃないでしょうね」「見せてみろ」新一は写真を開き、わずかに眉を上げた。「悪くない。お前もようやく少しは成長したな。くだらない嫉妬をしなくなった」褒めてやったとでも言いたげな目を向けられ、私は胸の奥からせり上がる吐き気をこらえるために視線をそらした。「写真も撮れたし、次はみんなで願い事をしましょう」帆乃香は柔らかな声でそう言うと、あまりにも自然に私へ指図した。「紬、そこにいるなら、悪いけど明かりを消してきてくれる?」志津子もうなずく。「そうね。紬、行ってちょうだい」私は何も言わず、照明を消した。リビングが暗闇に沈む。誕生日ケーキのろうそくだけが、かすかな光を揺らしていた。佑弦は目を閉じて願い事をする。「一つ目のお願いは、帆乃香お姉ちゃんがずっとここにいて、どこにも行きませんように」帆乃香は目を潤ませ、片手で口元を覆った。新一は満足そうに佑弦の髪を撫でる。「佑弦も本当にいい子に育ったな」「二つ目のお願いは、ママがもうあんなにうるさくしませんように。パパをあんまり怒らせませんように」言葉が途切れた瞬間、リビングの空気まで凍りついたようだった。帆乃香は心配そうな顔を作って私を振り返ったが、その口元はわずかに上がっていた。新一は後ろめたそうに私を見てから、慌てて佑弦を叱りつけた。「でたらめを言うな」佑弦は不満そうに口を尖らせる。「でたらめじゃないよ。この前、僕たちが帆乃香お姉ちゃんと映画を見た時、パパもそう言ってたじゃないか」「佑弦!」志津子が鋭く名前を呼ぶと、佑弦は口をつぐんだ。胸の奥が一瞬、ひやりとした。帆乃香は、新一が言ったように今日帰ってきたわけではなかった。彼らは前から会っていたのだ。家
Read more

第4話

「新一、早く行こう」帆乃香の声だ。ようやく我に返ったように、新一は複雑な表情で私を一度見たが、結局、私には何も言わなかった。「今行く」邸宅の玄関扉が、大きな音を立てて閉まった。その音で、痛みに沈んでいた意識がようやく現実へ戻った。スマホを手に取り、上司へ電話をかける。「3日も待てません。今夜、出発します」私の声がかすれていることに気づいたのだろう。上司は数秒黙っただけで、すぐに承諾してくれた。「分かった。荷物をまとめておけ。迎えの車を手配する」電話を切ると、私はすぐに荷造りを始めた。持っていける服は、すべてスーツケースへ詰めた。持っていけないものは袋にまとめ、明日まとめて捨てることにした。これまで佑弦に買い与えてきたおもちゃや本も、残らず引っ張り出した。それらも同じように、ゴミ袋へ放り込んでいく。一番奥を片づけていると、指先が金属製の箱に触れた。中には、新一と結婚してからの8年間に集めた思い出の品が収められていた。初めて妊娠した時の検査記録。佑弦が生まれた時に残した、小さな足形のスタンプ。新一が初めて買ってくれたネックレス。そして、すでに色あせてしまった一枚の写真。写真の中で、私は生まれたばかりの佑弦を抱き、新一の肩にもたれて幸せそうに微笑んでいた。新一はベッドのそばに腰掛け、相変わらずそっけない顔をしている。けれどその口元にも、本人さえ気づいていないような喜びが、かすかに浮かんでいた。あの日、私は一晩中、陣痛の激しい苦しみに耐え抜いた。新一も一晩中、ベッドのそばにいてくれた。だからあの頃の私は、長い苦労がようやく報われたのだと本気で思っていた。自分には幸せな家庭があるのだと信じていた。今になって思えば、あまりにも考えが甘かった。私は箱の中身をすべて外へ出した。妊娠検査の記録を細かく破り、写真にはさみを入れた。自分だけが写っている部分は手元に残した。新一と佑弦が写っている側は、ゴミ袋へ投げ捨てた。スマホが何度か鳴った。志津子が帆乃香を家族用のメッセージグループへ招待したのだ。【これからは帆乃香も私たちの家族よ。紬、帆乃香は気が弱いんだから、いじめるんじゃないよ】続いて、新一からもメッセージが届いた。【今夜の話はこれで
Read more

第5話

上司が手配してくれた車が到着した時、私はちょうど二つのスーツケースを引いて階段を下りたところだった。邸宅の中は、墓地のように静まり返っている。玄関で足を止め、最後に一度だけ振り返った。壁にはまだ誕生日用の飾りが残っている。ダイニングテーブルのケーキは見るも無残に切り崩され、テーブルクロスにはクリームが汚れた雪のようにこびりついていた。私が3日かけて準備した誕生日パーティーの跡だ。そして、私が自分の手で用意した別れの儀式でもあった。運転手が荷物を車へ積んでくれた。後部座席に乗り込み、ドアを閉める。またスマホが鳴った。新一からの着信だった。画面に浮かぶ名前を見つめたまま、私は電話に出なかった。もう一度かかってきたが、それにも出ない。やがて、メッセージが立て続けに届いた。【紬、いつまで騒ぐつもりだ?佑弦の誕生日なのに、どうしてみんなを不愉快にしないと気が済まないんだ?今どこにいる?】並んだ文字を見ていると、ひどく見慣れないものに思えた。8年前から、彼はいつもこうだった。真っ先に私を悪者と決めつける。私が傷ついているかどうかを、尋ねたことなど一度もない。私はひと言だけ返した。【もう家を出ました】すぐに返信が来る。【どういう意味だ?実家に帰ったのか?紬、子供じみた真似はやめろ】それ以上、返事はしなかった。車が住宅街を抜けていく。少し開けた窓から夜風が入り、目の奥が痛むほど冷たかった。それでも涙は流れなかった。私はただ、腐りきった人生の一部をそのまま消し去るように、スマホの電源を切った。空港に着いたのは、午前3時だった。上司の堂島景樹(どうじま けいじゅ)から、わざわざ電話がかかってきた。「琴南、航空券の変更は済んだ。まずB国の空港まで飛んで、そこで本部行きの便に乗り継ぐんだ。本当に、家へ戻って事情を話さなくていいのか?」私は小さな声で答えた。「戻る必要はありません。あの人たちは、私の説明など必要としていませんから」景樹はしばらく黙っていた。「そうか。着いたら、まずはゆっくり休め。プロジェクトは一刻を争うが、何より体が一番大事だからな」私は短く返事をして、電話を切った。搭乗待合室のベンチに座ると、周囲では
Read more

第6話

目的地に着くと、まず電話番号を変えた。次に、代理人となる弁護士へ連絡した。結婚後に築いた共有財産、不動産、証券口座に関する資料をすべて整理し、代理人へ送った。資料に目を通した代理人の高瀬直哉(たかせ なおや)は、私に尋ねた。「琴南さん、本当に親権を求めないおつもりですか?」私はパソコンの画面を見つめたまま、長いこと黙ってから、やがて口を開く。「私は、ずっと求めてきました。あの子が生まれた日から今日まで、毎日、母親でいようとしてきたんです」一口でも多く食べさせようとした。一晩でも長く、ぐっすり眠らせようとした。熱を出して泣きじゃくるたび、必死に抱きしめてなだめた。初めて「ママ」と呼んでくれる日を、ただひたすらに待った。振り返るたびに、必ず私の姿が見えるようにしてきた。それを7年間続けた。けれど佑弦は、自分の口ではっきりと言った。「ママなんかいらない」と。直哉は、それ以上説得しようとはしなかった。ただ、事務的に確認を続ける。「では、面会交流と養育費については、どのようにお考えですか?」「法律上の取り決めに従います。ただし、『母親なんだから』と義務を盾に譲歩を迫るような要求は受け入れません。子供を口実に、あの人たちが私へ付きまとうことも認めません」直哉は「承知しました」と答えた。直哉は仕事が早かった。その日のうちに、離婚協議書を新一へ送ってくれた。まもなく、新一が見知らぬ番号から電話をかけてきた。私は電話に出た。怒りを押し殺した声が聞こえる。「紬、お前はいったい何がしたいんだ?」私はオフィスの外にあるベンチへ腰を下ろしていた。目の前には海外拠点のガラス張りのオフィスがあり、中では大勢の社員が息つく暇もなく働いている。私は静かに答えた。「離婚したいの」電話の向こうが数秒、静まり返った。次いで冷笑が聞こえる。「昨夜のあんな些細なことで、離婚まで持ち出すのか?」私はスマホを強く握った。「あなたにとっては、ただ些細なことでしょうね。でも私にとっては、我慢の限界を越えさせた最後の一押しだったの」新一の声が低くなる。「自分だけが被害者みたいな言い方をするな。俺がこれまで、お前に何か不自由をさせたか?住む家を与え、金も好きに
Read more

第7話

空腹になれば、冷たくなったサンドイッチを食べた。でも不思議なことに、それを苦しいとは思わなかった。どれほど忙しくても、努力した分だけ結果が返ってきたからだ。最初の仕入れ先との契約を取りつけた時、景樹は私の肩を叩いた。「琴南、やはり私の見込みどおりだったな」その瞬間、ふと新一の言葉を思い出した。――女が仕事にそこまでのめり込む必要はない。家のことをする人間も必要だ。今なら分かる。女は仕事に打ち込むべきではない、という話ではなかったのだ。彼は、私が力をつけることを恐れ、望んでいなかっただけだ。自立して強くなった女は、うつむいたまま御影家の顔色をうかがい、足元に投げられるわずかな愛情を乞うことなどしないからだ。……私が家を出てから10日目、志津子からメールが届いた。件名は【母親として恥ずかしくないのか】だった。メールは開かず、そのまま直哉へ転送した。直哉からはすぐに返信が来た。【明らかな侮辱発言を確認しました。証拠として保全しておきます】私は【わかりました】とだけ返した。けれど仕事を終えて住まいへ戻った時、迷惑メールのフォルダに、本文のプレビューが表示されているのが目に入った。【佑弦はこの数日、ろくに食事もしていない。あんたがいないせいで、家の中はめちゃくちゃよ。今すぐ帰ってきなさい。女が意地を張るのにも限度があるでしょう】最後まで読んで、画面を閉じた。心は少しも動かなかった。彼らが後悔しているのは、私を傷つけたことではなく、尻拭いをしてくれる便利な人間がいなくなったことだけだった。私が去ったあと、帆乃香は当然のように御影家へ住み始めた。それを教えてくれたのは、以前同じ住宅街に住んでいた佐伯美和(さえき みわ)だった。近所付き合いをしていた頃から、私とは比較的親しかった人だ。美和は、言葉を選ぶように慎重なメッセージを送ってきた。【紬さん、あまり気を落とさないでくださいね。あの帆乃香という人が、最近は毎日のように紬さんの家へ出入りしています。紬さんのお義母さんは、あの人のほうが気が利くとまで話していました】私は返信した。【大丈夫です。傷ついてはいません】それは本心だった。最初のうちは、眠れないほど苦しかった。けれど、傷口をえぐられる
Read more

第8話

「もうすぐ夫ではなくなるわ」新一は大きく息を吸い、怒りをこらえるように吐いた。「離婚協議書に署名するつもりはない。お前を家へ連れ戻すために来た」私はふっと笑った。「家?いったいどこの家の話をしているの?帆乃香が私の部屋に居座り、お義母さんは彼女を本当の嫁のように扱っている。佑弦まで、彼女にママになってほしいと言ったわ。私の居場所なんて欠片も残っていないのに、それでも戻れと言うの?」新一の目に、気まずそうな色が走った。「帆乃香は一時的に泊まっているだけだ。戻ってきたばかりで、行く場所がない」私は尋ねた。「ホテルに泊まるお金もないの?」新一は言葉に詰まった。「新一、あなたは馬鹿じゃない。ただ、私なら何をされても我慢すると高を括り、自分が手招きさえすれば、いつでも都合よく戻ってくると思い上がっていただけなのよ」新一の喉が動いた。「紬、あの夜、俺がうまく間に入ってやれなかったことは認める。だが俺たちは、8年間も夫婦だったんだぞ。意地になったからって、こんな風に簡単に切り捨てていい関係じゃないだろう」私は彼を見つめた。今さらながら、この人がひどく哀れに思えた。彼はまだ、私がたった一晩の出来事を理由に出ていったと考えている。けれど、原因はたった一晩の出来事などではなく、8年という歳月そのものだ。私が病気で寝込んでいる時にも、彼は帆乃香とビデオ通話をしていた。志津子が人前で私に恥をかかせても、聞こえないふりをした。佑弦が私をうるさがれば、まだ子供だからと言って済ませた。そうして私は、少しずつ自分自身をすり減らしてきた。「新一、私は何度もあなたにチャンスを与えた。でも、あなたが一度も受け止めなかったのよ」新一の目に、ようやく動揺の色が浮かんだ。「では、佑弦はどうする?あの子まで捨てるのか?」胸は、やはりわずかに痛んだ。それでも後戻りはしなかった。「法律上の責任は果たす。それ以上のことは、もうできないわ」新一は、初めて会う人間でも見るように私を見つめた。「昔のお前は、そんな人間じゃなかった」私は小さな声で答えた。「そうね。昔の琴南紬は、佑弦の誕生日に死んだの。あなたたち全員に殺されたのよ」10分が経った。私は背を向け、その場を
Read more

第9話

その間、佑弦からも何度か電話がかかってきた。最初のうち、彼はまだ強気だった。「ママ、いつ帰ってくるの?帆乃香お姉ちゃんの料理、おいしくないんだ。それに、僕がおもちゃをリビングに置くと怒るんだよ」私は淡々と答えた。「パパに何とかしてもらいなさい」佑弦は不満そうに口を尖らせた。「前は、いつもママがやってくれてたじゃないか」「前は前。今は違うの」しばらく黙ったあと、佑弦は突然、怒り出した。「ママは僕を捨てるの!?」胸がきつく締めつけられた。それでも私は、揺るがぬ声で答えた。「ママのこと、もういらないって言ったのは、佑弦の方でしょう?」佑弦はすぐに泣き出した。「あれは冗談だよ!どうしてそんなに根に持つの!」あまりにも聞き覚えのある言葉だった。新一も志津子も同じだ。彼らは人を傷つけるたびに、傷ついた相手が「根に持っているだけ」だと決めつけるのだ。私は泣きじゃくる佑弦をなだめなかった。ただ、静かに言った。「佑弦。一度口にした言葉は、人を深く傷つけるの。後から冗談だったと言っても、負った傷が消えるわけじゃないのよ」佑弦はさらに大きな声で泣きわめいた。「パパに言いつけるから!」「好きになさい」私は電話を切った。その夜は眠れなかった。今も胸が痛むことは、認めるしかない。10か月もお腹の中で育て、自分で産んだ子なのだ。愛していた。心から、深く愛していた。けれど、愛しているからといって、いつまでも彼らに私の尊厳を踏みにじらせておくわけにはいかない。翌日から、私は仕事に没頭した。プロジェクトは正念場を迎えていた。私たちは、世界展開する大手ブランドとの提携を勝ち取ろうとしていた。相手の選定基準は非常に厳しく、プレゼンのチャンスは一度きりだ。私はチームを率い、3日間、ほとんど眠らずに作業を続け、ようやく企画案を完成させた。プレゼン当日、会議室は関係者で埋まっていた。私がパソコンを開いた時、相手方の責任者が不意に尋ねてきた。「琴南さん。浅海帆乃香という方をご存じですか?」パソコンに伸ばした手が止まった。「……存じております」責任者は資料一式を、私の前へ差し出した。「昨日、その方から弊社に連絡がありました。この企画の中心となるアイデアを
Read more

第10話

人は自ら火傷を負って初めて、その本当の恐ろしさを思い知るものだ。……それから間もなく、御影家で騒ぎが起きた。最初に知らせてくれたのは、やはり美和だった。【紬さん、御影家が大変なことになっています。あの帆乃香という人が、佑弦くんを叩いたみたいです】その文字を見た瞬間、指先に力が入った。すぐに美和からボイスメッセージが送られてくる。背景では、佑弦が息もできないほど激しく泣いていた。そこへ、帆乃香のヒステリックな甲高い声が響いた。「いつまでビービー泣いてるのよ!私が紬だとでも思ってるわけ?毎日毎日、あんたの機嫌取りなんてやってられないの!甘やかされたガキなんて、本当にうんざりだわ!」続いて、志津子の慌てた声が聞こえた。「帆乃香、どうして佑弦を叩くのよ!」帆乃香はフンと鼻で笑った。「叩いて何が悪いのよ?私はこの子の実の母親じゃないんだから。だいたい、言ったのはそっちじゃない。『紬は年増で不細工で、一緒に歩くのも恥ずかしい』って。自分たちで散々毛嫌いして追い出したくせに、今さら私に母親代わりをやれって言うわけ?私があなたたちの召使いだとでも思ってるわけ?」そこまで聞いたところで、心臓を強くつかまれたように胸が痛んだ。同時に、あまりの皮肉さに笑いたくなるような感覚もあった。ほらね。誰もが私のように、佑弦を自分の命より大切にするわけではないのよ。志津子が金切り声を上げた。「何て言い方をするの!」帆乃香の声は、さらに大きくなった。「私は思ったことを言ってるだけよ。御影家は、自分たちがどれほど立派な家だと思ってるの?新一に金がなかったら、私がこんな茶番に付き合うと思う?子離れできない婆さん。癇癪ばかり起こす、しつけの悪い子供。それから、昔の恋人を忘れられない未練がましいクズ男。あなたたち一家は、みんな気持ち悪い!」そこでボイスメッセージは終わった。私はデスクの前に座ったまま、長いこと動けなかった。10分ほどして、新一から電話がかかってきた。今度は電話に出た。彼の声はひどくかすれていた。「紬」私は黙っていた。新一は息をするのも苦しそうだった。「帆乃香がどういう人間か、お前は前から知っていたのか?」私は淡々と聞き返した。「何を
Read more
PREV
12
SCAN CODE TO READ ON APP
DMCA.com Protection Status