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第1話

「雪乃、雪乃って……悠真の頭の中には、あの人しかいないの?」黒瀬音羽は目を赤くしたままタクシーを拾い、空港へ急いだ。雪乃のためなら何をしでかすか分からない悠真のことだ。少しでも遅れれば、娘の最期にさえ間に合わないかもしれない。これまでも、大雪の高速道路に音羽と莉子を置き去りにし、莉子が6年間かわいがってきた犬を、雪乃が犬の毛にアレルギーだというだけで殺処分にした。音羽のワンピースを雪乃が褒めれば、人前で無理やり脱がせて渡したことさえある。そんな悠真が今度は、雪乃のためにエレベーターのボタンを押した莉子を、スーツケースに閉じ込めたのだ。見守りカメラの映像では、さっきまで激しく揺れていたスーツケースが次第に静まり、莉子の泣き声も小さくなっていった。「悠真、お願い……莉子を出して。あの子はあなたの娘でもあるのよ。どうして少しも莉子を可哀想だと思わないの? 莉子を出してくれるなら何だってする。離婚だってする。雪乃と一緒になっても構わない。だからお願い……莉子を出して」悠真は鼻で笑った。「音羽、俺を馬鹿にするな。離婚したら、また祖母をけしかけて雪乃を困らせる気だろ。今さら遅い。恩を盾に俺と結婚したのはお前じゃないか」言い返す間もなく電話は切れ、その直後、カメラ越しに聞こえていた莉子の泣き声まで途絶えた。音羽は初めて、悠真と結婚したことを心の底から悔やんだ。幼い頃から児童養護施設で育った音羽は、努力して凪城市(なぎしろし)の進学校へ入り、その後、難関の凪城大学へ進学した。卒業後は留学するつもりでいたが、ある日、心臓発作で倒れた黒瀬千鶴(くろせ ちづる)を偶然助けた。一命を取り留めた千鶴は音羽に感謝し、やがて孫との縁談を持ちかけてきた。「そういえば、うちの孫とは高校も大学も同じなのよね。これも何かの縁じゃないかしら」音羽には好きな人がいたため、最初は断るつもりだった。ところが、その孫こそ、高校時代から思い続けていた悠真だった。その後、悠真からプロポーズされると、音羽は舞い上がるほど喜び、留学のことも忘れて結婚した。しかし新婚初夜、音羽はひとりで夜を過ごすことになった。悠真を捜して会員制クラブまで行くと、雪乃の腰に腕を回して踊る彼の姿があった。音羽が彼に怒りをぶつけたのは、そのときが初めてだった。「悠真、会社の急用
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第2話

「おばあさま、前に言いましたよね。3年経っても悠真が私を愛さなかったら、いつでも離れていいって」莉子が亡くなったことは、千鶴もすでに知っていた。何か言いかけた千鶴の言葉を、音羽は遮った。「おばあさまが何を言いたいかは分かっています。悠真と雪乃のことだけなら、莉子のためにこれからも我慢したと思います。でも、莉子はもういません。あの子を死なせた悠真と、もう一緒にはいられません」千鶴はそんな音羽を見つめ、やがて口を開いた。「音羽ちゃん、本当にごめんなさい。黒瀬家があなたと莉子ちゃんにしたことを思えば、もう引き止められないわ。離婚のことはこちらで進めるし、財産も半分はあなたに渡す。二人へのせめてもの償いにさせてちょうだい」千鶴の了承を得た音羽は、1週間後の航空券を予約し、悠真と雪乃を訴えるため弁護士にも連絡した。そこまで済ませてようやくスマホの電源を切ると、布団に潜り込み、無理やり目を閉じた。ここしばらくは仕事に追われ、食事さえ満足に取れない日が続いていたうえ、莉子を助けるため急きょ帰国したことで仕事まで駄目になった。それでも肝心の莉子を救うことはできず、何もかもが、もう終わってしまったように思えた。疲れ切った音羽は、そのまま眠りに落ちた。翌日、激しい息苦しさで目を覚ました音羽は、自分が透明な水槽の中に縛られていることに気づいた。水はすでに胸元まで達し、無数の水ヘビが体に食いついていた。「悠真……今度は何をする気?」水槽の外に立つ悠真が、冷ややかに言った。「音羽、お前いい加減にしろよ。この前、雪乃を刺したときだって、雪乃が許してやってって言うから見逃したんだ。それなのに今度は俺と雪乃を訴えるって?莉子をスーツケースに閉じ込めたくらいで、そこまでするか?」――閉じ込めたくらいで。その言い方に、音羽は怒りを抑えられなかった。悠真にとっては、莉子の死さえその程度のことなのか。莉子の最期を思い出すと、二人とも殺してやりたいほど憎かった。「悠真、あんた本当に最低ね。莉子をスーツケースに閉じ込めたうえ、今度は私まで水槽に閉じ込めるの?莉子は、あなたに殺され――」「もういい。お前の言い分なんか聞きに来たんじゃない。弁護士に連絡して訴えを取り下げろ。それから莉子を連れて雪乃に謝ってこい。それで許してやる」「ふざけな
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第3話

ぞくりと全身に寒気が走った。震える手で骨壺を開けると、中には何も入っていなかった。「雪乃……何をしたの?莉子の遺骨はどこ?」音羽が苦しむ様子を、雪乃は愉しげに眺めていた。「ゴミなんて、埋めたって土地の無駄でしょ。だから化学実験に使ったの。あの子が役に立つとしたら、それくらいじゃない?そうそう、莉子ちゃんをスーツケースに閉じ込めるよう悠真に言ったのも私。私がひと言言えば、悠真は実の娘だって平気で殺せるのよ。音羽、それでも私に勝てると思ってる?」そう言って、雪乃は薬指の指輪を見せつけた。淡いピンクのダイヤは、少し前に悠真が高値で落札したものだった。世界に一つしかないその石を、誰もが音羽への贈り物だと思っていた。それが今、雪乃の薬指にある。「悠真の妻だからって何?ダイヤの指輪、買ってもらったことある?結婚写真は?新婚旅行は?あんたどころか、あんたが産んだあのガキだって――」最後まで言わせず、音羽は雪乃の頬を打った。そのまま髪をつかんで床へ押し倒し、馬乗りになって何度も平手を浴びせる。「これは莉子を死なせた分!これは人の家庭を壊した分!それからこれは、8年間散々、私たちの仲をかき回してきた分よ!雪乃、あんたなんか死ねばいい。殺してやる!」怒りに任せて雪乃の首を締め上げても、その顔から勝ち誇った笑みは消えなかった。その瞬間、飛んできた花瓶が音羽の頭を直撃し、眉のあたりから血が流れた。「音羽、何やってるんだ!」駆け込んできた悠真は、血まみれの雪乃を見るなり激怒し、連れていたボディーガードたちに音羽を取り押さえさせた。床に押さえつけられた音羽は、声を上げた。「放して!悠真、雪乃が莉子を殺したのよ!遺骨まで実験に使ったの!」「もういい。俺を馬鹿にするな。莉子は、お前が戻ってからずっといないそうじゃないか。雪乃に謝りたくなくて隠したんだろ?死んだなんて嘘までついて……母親がすることか?」母親がすることか――莉子が言葉を覚え、歩き始め、学校で字を書くようになるまで、音羽はその成長をずっと見守ってきた。そして最後の葬儀も、音羽が見送った。その一方で悠真は、娘の名前を覚えるだけで3年もかかり、莉子が死んだことさえ知らない。そんな悠真に、責められる筋合いなどなかった。張り詰めた空気の中、雪乃が泣きながら口を挟んだ
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第4話

入院して3日が過ぎても、悠真が病室へ来ることはなかった。代わりに届いたのは、1か月前に卒業生代表として挨拶を頼まれていた凪城大学創立70周年記念式典のリハーサルに参加してほしいという、大学時代の指導教員からの連絡だった。まだ莉子が生きていた頃、この話をすると、あの子は嬉しそうに尋ねた。「ママ、パパも一緒に大学へ行くの?」ちょうど帰宅した悠真がそれを聞き、顔をしかめた。「俺と一緒に式典に出たいからって、莉子をだしに使ったのか?」音羽が説明しようとしたが、悠真は取り合わなかった。「勘違いするな。お前は雪乃じゃない。俺と並んで式典に出られると思うな」それ以来、莉子は悠真と話すたび、音羽に確認するようになった。「ママ、今の言い方、大丈夫?」まだ幼い子供なのに、父親の顔色をうかがうようになっていた。思い出すだけで涙がこぼれたが、どうにかして気持ちを落ち着かせた音羽は、指導教員に参加すると返信した。翌日、凪城大学を訪れた音羽は、関係者とキャンパスを回る途中、化学研究棟の実験室から聞き覚えのある声がするのに気づき、目を向けると悠真と雪乃の姿があった。二人は実験をしながら楽しげに言葉を交わし、ときおり顔を寄せて耳元で囁き合っていた。その親密さに、音羽と悠真の関係を知る周囲の人々も気まずそうな視線を向けている。その空気を察した指導教員が、慌てて口を挟んだ。「白石先生は本学の化学教授で、この研究棟は黒瀬ホールディングスの支援で建てられました。黒瀬社長も今日は視察で……」視察。それにしては、悠真は雪乃のそばにつききりだった。経営を学んだ悠真が、数ある施設の中で化学研究棟にだけ出資している。そのことまで思い至ると、何もかもがひどく滑稽に思えた。音羽は二人を見なかったことにして、その場を離れようとした。だが次の瞬間、背後で凄まじい爆発音が轟いた。「火事だ!早く外へ!」研究棟はたちまち炎に包まれ、濃い黒煙が立ちのぼった。避難しようと人々が一斉に出口へ押し寄せ、その波に巻き込まれた音羽は床に倒れた。何度も足を踏まれ、起き上がれずにいると、混乱の中で誰かが手を差し伸べてくる。その手につかまって顔を上げると、そこには白々しい笑みを浮かべた雪乃と、険しい表情の悠真がいた。「雪乃、そんなやつまで助けなくていい」
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第5話

気がつくと、音羽はまた病院のベッドにいた。辺りには消毒薬の匂いが漂っていた。「起きたか」声のするほうを見ると、病床のそばに悠真が立っていた。いつになく穏やかな口調で、その理由もすぐに分かった。「明日の夜は祖母の誕生日会だ。雪乃も来る。どうすればいいか分かるよな?」結婚して8年、悠真が音羽に優しい顔を見せたことなどなかった。莉子を産んで入院していたときでさえ、見舞いに来たことはない。それが今、雪乃が千鶴に責められないよう、音羽に協力させるためわざわざ病室まで来ている。音羽は喉が詰まり、何も言えなかった。悠真はそのまま話を続けた。「明日、祖母をうまくなだめてくれれば、莉子のことはもう許して家に戻してやるし、莉子名義の信託も作って、お前たちが一生困らないようにしてやる」まるで妻ではなく、金さえ積めば言うことを聞く相手だとでも思っているようだった。莉子がもういないことを、今さら悠真に告げる気にはなれなかった。「莉子は何も悪くない。許してもらう必要もないし、そんなお金もいらない。もう帰って」以前のように声を荒らすこともなく、音羽は静かに悠真を突き放した。悠真はすぐに顔をしかめた。「明日、祖母をがっかりさせるなよ」音羽は誕生日会を断るつもりでいた。だがそのとき、枕元のスマホが震えた。千鶴からのメッセージだった。【音羽ちゃん、明日の誕生日会、来てくれるわよね?発つ前に、もう一度おばあちゃんに顔を見せてくれないかしら】黒瀬家で、音羽と莉子によくしてくれたのは千鶴だけだった。結局、その頼みを断ることはできなかった。「行くわ。でも、あなたたちのためじゃない。おばあさまに会いに行くだけ」「好きに言えばいい」翌日、誕生日会は予定どおり開かれた。傷もまだ癒えておらず、余計な騒ぎを起こしたくなかった音羽は、会場の隅にある目立たない席へ腰を下ろした。会場では、悠真と雪乃が人目もはばからず寄り添い、ダンスを踊ったかと思えば、今度は並んでピアノを弾き、さらにはデザートまで食べさせ合っていた。千鶴がたまりかねて二人を注意しようとしたが、音羽はそっと止めた。「もういいんです、おばあさま。今日はお誕生日なんですから、私のことで怒らないでください」莉子を失ったあの日を境に、悠真への思いもとうに尽きていた。今さら雪乃と
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第6話

音羽はそのまま、郊外にある私設の療養施設へ連れていかれた。車から降ろされるなり、音羽は門前の電柱にしがみつき、必死に抵抗した。「いやよ!私は何ともない!こんなところに閉じ込めるなんて、悠真にだって許されない!誰か助けて!お願い、誰か……!」声がかれるまで叫んでも、通りかかった人たちは不審そうな目を向けるだけで、誰も助けようとはしなかった。やがて力ずくで施設の中へ連れ込まれると、数人の入所者に床へ押さえつけられ、長い髪を無残に切られた。痰の混じった飲み物を無理やり飲まされたうえ、電気警棒で何度も殴られ、気づけば骨まで折れ、下腹部には血がにじんでいた。激痛に耐える音羽の脳裏に、あの夜、見守りカメラに映っていた激しく揺れるスーツケースと、そこから響く莉子の泣き声が鮮明によみがえった。「パパ、ごめんなさい!もうしないから、出して!怖いよ!死にたくない!誰か助けて!ママ!助けて!ママ、来て……!」……あの日の泣き声は、今も耳にこびりついている。夜が来るたび、その声に胸を締めつけられた。「莉子……あのとき、こんなに怖かったの?こんなにも苦しかったの?」視界がぐらりと揺れ、莉子の笑顔が浮かんだ。「ママ、大好き」莉子の笑顔と声が重なったところで、音羽はとうとう意識を保てなくなった。朦朧とする意識の中、どこからか雪乃が現れた。「もういいわ。懲らしめるだけで十分よ。死なれたら困るわ」雪乃は施設の責任者に封筒を渡した。「この女、どこか遠くへやって。二度と悠真に近づけないようにして」責任者は中身を確かめると、満足そうにうなずいた。「ご安心ください。二度とお二人の邪魔はさせません。人里離れたところへ送って、簡単には戻れないようにしておきます」そのあとの会話は、もう聞き取れなかった。やがて誰かに抱え上げられ、そのまま車へ押し込まれた。薄れていく意識を必死につなぎ止めながら、音羽は人目を盗んでバッグを探り、小さな腕時計を取り出した。それは出張先で莉子のために注文した、緊急通報機能付きの腕時計だった。結局、莉子に渡すことはできなかったが、今はその時計だけが音羽の命綱だった。震える指で緊急通報を作動させた瞬間、車窓の向こうが白み始め、差し込んだ朝の光が音羽の頬を照らした。音羽は、かすかに笑った。やがて
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第7話

窓の外では激しい雨が降りしきり、何度も窓を叩いていた。千鶴に付き添う悠真の頭から離れないのは、ここ最近の音羽の変わりようだった。莉子を少し懲らしめたことを恨んで、その矛先を祖母にまで向けたというのか。「悠真、どうしたの?顔色悪いよ」雪乃の声に、悠真は我に返った。「何でもない。それより、音羽は?」「言われたとおり、もう施設に閉じ込めてあるわ。おばあさまが目を覚ましてから、どうするか決めればいい」悠真は疲れ切った様子で雪乃にもたれた。「雪乃がいてくれて助かる」会社の問題に祖母のことまで重なり、そのうえ音羽にも振り回されて、悠真は心身ともに疲れ果てていた。雪乃は笑って悠真を抱き寄せた。「そんなに気を遣わなくていいのよ。家同士のことさえなければ、私たち、とっくに結婚してたんだから」以前なら喜んでいたはずの言葉に、今の悠真は眉をひそめた。「雪乃、もうそういうことは言わないほうがいい」「どうして?」「まだ音羽とは離婚してない。俺に気持ちがなくても、今はあいつが俺の妻だ。誰かに聞かれたら、雪乃まで悪く言われるのは嫌なんだ」悠真は雪乃を気遣ったつもりだったが、彼女には違う意味に聞こえた。「私は人にどう思われたっていい。悠真と一緒にいられるなら、それでいいの」悠真とやり直すため、雪乃は海外での高給の仕事を捨てて帰国した。帰国する前から、正式に悠真の妻になるつもりでいた。すでに音羽は追い払い、千鶴も医師から目を覚ます可能性は低いと言われている。望みが叶うまで、あと一歩のはずだった。雪乃の気持ちが高ぶっているのを見て、悠真はなだめるように声を和らげた。「雪乃、落ち着いてくれ。気持ちは分かってる。でも前にも話しただろ。祖母は心臓が悪いから、刺激できない。あと数年待ってくれないか?祖母がいなくなったら音羽と離婚して、雪乃と結婚するから」雪乃を安心させようと、その後数日、悠真は寝食をともにし、デートにも仕事にも付き添い、大事な予定にも彼女を伴った。その頃、警察に救出された音羽は悠真との離婚を済ませ、迷うことなくマレーシア行きの便に乗っていた。そこは、莉子が家族旅行で行きたいと憧れていた場所だった。けれど悠真が何度も約束を破り、結局行けずじまいになっていた。ようやく苦しみから解放された音羽は、莉子の願
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第8話

悠真は一瞬、何も考えられなくなった。「どういうことですか?」すぐにベッドへ歩み寄り、千鶴に尋ねた。「あの日、おばあさまを突き落としたのは誰なんです?」あの日、その場にいたのは音羽と雪乃だけだった。音羽でないなら――その先を考えまいとする悠真の前で、千鶴が突然頭を抱えた。「痛い……思い出せない……」「おばあさま?」「犯人が誰だったかは覚えてないよ。ただ……私を老いぼれと罵って、殺そうとしたんだよ……」呼吸を乱す千鶴は医師たちに押さえられ、鎮静剤を打たれると、やがて眠りについた。その寝顔を見つめながら、悠真は考えをまとめられずにいた。悠真の知る雪乃なら、「老いぼれ」などと口にするとは思えない。だが千鶴は、音羽ではないとはっきり否定した。なら、千鶴はただ足を滑らせただけで、音羽はたまたまその場にいて、雪乃も偶然通りかかった――そういうことだったのか。もし本当にただの誤解だったのなら、音羽を犯人と決めつけ、本人の意思も無視して施設へ閉じ込めた自分は、いったい何をしていたのか。まとまらない思考に沈んでいると、ふいに肩を揺さぶられた。「悠真!」顔を上げると、雪乃がいた。「おばあさま、目を覚ましたんでしょう?大丈夫?何か言ってた?」矢継ぎ早に尋ねるその様子が、悠真には妙に引っかかった。「どうしてそんなに慌ててるんだ?祖母が何を言ったのか、そんなに気になるのか?」悠真の視線を受け、雪乃は一瞬言葉に詰まった。「違うの。ただ、おばあさまが心配で……それに、本当に音羽さんが突き落としたのか知りたかっただけ。もしそうなら許せないし、違うなら音羽さんに濡れ衣を着せることになるでしょ?」その言葉に、悠真は愕然とした。音羽が千鶴を突き落とした――そう言い切ったのは、ほかでもない雪乃だった。それなのに今さら、本当に音羽だったのか知りたいと言う。見ていなかったのなら、なぜあの日あれほど断言できたのか。見ていたのなら、今さら確かめる必要などないはずだ。しばらく黙ったあと、悠真は本当のことを伏せた。「祖母は何も言ってない。頭を強く打ったせいで、しばらくは記憶も戻らないらしい」その答えを聞くと、雪乃の張りつめていた表情が次第にほどけていった。「そう……でも、きっとよくなるよ。焦らずに待とう」「あ
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第9話

千鶴の言葉を、悠真はすぐには理解できなかった。莉子が死んだことも、音羽が離婚を望んでいたことも、千鶴を突き落としたのが雪乃だということも、どれも現実とは思えなかった。「おばあさま、何かの間違いです。莉子は生きてます。音羽がどこかに隠してるだけだ。それに音羽だって、今は施設に――」「悠真!」千鶴は杖を振り上げ、悠真の背中を強く叩いた。「あんた、どうかしたの?それとも、この女に何を吹き込まれたの!莉子ちゃんをスーツケースに閉じ込めて、丸2日も出さなかったのはあんたでしょ。あの子はまだ6歳だったんだよ。それを、こんな女のために自分の娘を死なせるなんて……よくそんなことができたね。まだ音羽ちゃんが嘘をついてるとでも思ってるの?莉子ちゃんは生きてるって?もういい加減、現実を見なさい。そんなにこの女が大事なら、こいつがどんな人間か、よくその目で確かめるんだね」千鶴は執事に連絡し、書斎の前に設置していた防犯カメラの映像を送らせた。誕生日会を前に、念のため取り付けておいたものだった。映像には、雪乃が千鶴を階段から突き落とし、そのあと自分で頬を叩いて服を乱し、音羽を犯人に仕立て上げるまでの一部始終が残っていた。それを見た悠真の顔から血の気が引き、隣にいた雪乃も青ざめたまま、何も言えずにうつむいた。悠真が今日まで音羽を犯人だと信じて疑わなかったのは、雪乃の言葉があったからだ。すべてが明るみに出ると、雪乃は泣きながら悠真に歩み寄った。「ごめんなさい……悠真、おばあさま、本当にごめんなさい。私、どうかしてたの。離れていた8年間、ずっと悠真のことを思ってた。あのとき離れたことも、ずっと後悔してたの。どうしても、悠真と一緒にいたかったの……」以前なら、雪乃が泣けばすぐに抱きしめ、望むものは何でも与えていただろう。自分と結婚したいと言われれば、それさえ叶えてやりたいと思っていた。けれど今は、泣いている雪乃を見ても、以前のように心を動かされなかった。雪乃が悠真の手に触れようとしたその時。「触るな」「悠真……」「触るなって言ってるだろ!」悠真は雪乃の手を振り払った。十数年も愛してきたはずの雪乃が、初めて知らない人のように見えた。「俺はずっと、雪乃は優しくて純粋な人だと思ってた。だから、お前の言うことを疑ったことな
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第10話

悠真に拒まれ、雪乃はその場に立ち尽くした。自分が間違ったことをしたのは分かっている。それでも、心の底から悪かったとは思えなかった。莉子も、音羽も、8年前に自分と悠真を引き離した千鶴も、雪乃にとっては自分の幸せを邪魔する存在で、死んで当然だと思っていた。自分はただ、自分の幸せを守ろうとしただけだった。そんな本音を口にできるはずもなく、雪乃は泣きながら何度も謝った。「ごめんなさい……もう一度だけ許して。二度とこんなことはしないから」十数年思い続けた雪乃と、幼い頃から自分を見守ってくれた祖母。その間でどうすればいいのか分からず、疲れ切った悠真の頭に、ふと音羽のことが浮かんだ。莉子を失い、愛する夫との間で苦しんでいた音羽も、同じように苦しんでいたのだろうか。それでも悠真が、またいつものように雪乃を許しかけた、そのときだった。「いい加減にしなさい」千鶴は迷うことなく警察へ連絡した。「泣けば済むと思ってるの?莉子ちゃんがあれだけ泣いて助けを求めてた時、あんたは何してたの?」ほどなく雪乃は警察に身柄を拘束された。千鶴は殺人未遂として厳しく追及し、悠真の中に最後まで残っていた迷いも、それで断ち切られた。その後、雪乃は起訴され、初公判を翌日に控えたある日、悠真は拘置施設を訪れた。ガラス越しに向かい合った悠真は、以前よりひどくやつれていた。無精ひげが伸び、目の下には濃い隈が浮かんでいる。「どうして、あんなことしたんだ。俺を愛してるからって、こんなことしたのか?」雪乃はしばらく悠真を見つめたあと、あざけるように笑った。もう取り繕う必要もなかった。「悠真、自分のこと棚に上げすぎじゃない?今まで私が何をしても止めなかったし、私のためなら妻も子供も平気で傷つけてたでしょ。私は昔から何も変わってないよ。悠真が勝手に、私をいい人だと思い込んでただけ。それなのに、おばあさまにまで手を出した途端、全部私のせいみたいに言わないで。ここまで私を許してきた悠真にも責任はあるでしょ。今さら自分だけ悪くないみたいな顔しないでよ」雪乃は笑いながら、涙をこぼした。あと一歩だった。もう少しで、ずっと望んできた黒瀬家の妻になれるはずだったのに。そう思うほど悔しさは募ったが、それでも十数年愛してきた悠真とこれ以上言い争うことはせず、雪乃は
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