一夜の相手は、私から奪われた婚約者でした のすべてのチャプター: チャプター 21 - チャプター 30

56 チャプター

21・愛されるべき者は被害者の振りが得意

 アイリーンはアルフレッドからの予想もしていなかった問いかけに息を詰まらせた。この隠し口座は万が一の時の為にフィオナがアイリーンの名で作ったものだ。 まさかこの口座がアルフレッドに知られているとは、夢にも思っていなかった。「どうなんだ? それとも君が一人で考えてやったのか?」 アルフレッドはさらに強い口調で問い詰める。ここで何かしらの情報を聞き出さなければ、また巧妙に隠されてしまうだろう。それだけは避けたい。「こ、こんな口座、私知りません。誰かが私の名を騙って勝手に作ったんですわ!」「勝手に作った? それは誰だ? 母親か? 父親か? それとも、勝手に君の名を使う事が出来るほどの近親者か?」 畳み掛けるように言うと、アイリーンがふと視線をサンドラに向けたかと思うと、僅かに唇の端を上げる。「もしかしたら、姉かも……」「姉?」「ええ! きっと逃走資金に困って勝手に私の名を使ったに違いありません! そこに入金されたお金もきっと汚いお金に違いありませんわ!」 アルフレッドがどこまで事件の事を知っているのかは分からないが、どうにかして逃げ切らなければならない。ここは全ての責任を今は逃亡していると思われているリリアナに押し付けてしまおう。 我ながら良いアイディアだと思っていたのに、ふとサンドラが口を開いた。「それは少し難しいのでは?」「何故だ?」 それまで黙っていたサンドラが唐突に口を挟んでくるが、それを止めようとは思わなかった。普段のアルフレッドからは考えられない事だが、あの発表会の一件からアルフレッドはサンドラに尊敬にも似た気持ちを抱いている。「口座を作るためには偽装出来ないよう、必ず本人が居なければなりませんよね? もしくは委任状ですが、それには個人のサインと印章が必要です。あなた、お姉様に印章を預けているのですか?」「確かにその通りだな。君たちの仲は決して良くなかったようだが、そんな物を姉に預けていたのか?」 サンドラの指摘にアイリーンが笑みを完全に消した。どうやら失踪した姉に全てを擦り付けようとしたらしい。どこまで性根が腐っているんだと
last update最終更新日 : 2026-09-23
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22・幼馴染達の密談と、大きな誤解

 手紙を送った3日後、リリアナは定期検診の為と偽ってアルフレッド邸を出ると、その足で昔よく母とセレスティアとフィンと行った馴染みの喫茶店へと向かった。 喫茶店には既にセレスティアが待機していて、店に入ったリリアナを見て笑顔で手を振ってくる。「こっちよ! ごめんね、窓際しか空いて無かったの」「いいのよ。私よりも今はティアの方が危ないんじゃないの?」 リリアナは久しぶりに会う親友にハグしながら言うと、セレスティアは苦笑いしながら答えた。「そうね。ほとんど毎日、誰かの婚約者さんの側近の人が追いかけてくるの」「えっと……良い人なのよ?」 それは間違いなくルークだ。思わず笑ってしまうと、セレスティアがホッとしたような顔をする。「リリーが笑ってると安心する。良かった、元気そうで」「私もティアに会うと元気になる。ありがとう、ティア。迷惑かけてごめんね」 テーブル越しに手を握って感謝を伝えると、セレスティアがはにかんだ。その時、テーブルの上に影が落ちる。ハッとして上を向くと、そこにはフィンが人好きのする笑顔を浮かべてこちらを見下ろしていた。「よう! 外から見たら木が邪魔でリリーが一人で喋ってるみたいに見えて不気味だったぞ」「フィン!」 リリアナは立ち上がって昔のようにハグしようとすると、フィンが両手を上げて一歩下がった。「おっと、気をつけてくれよ? 誰かさんの婚約者どのは怖いからな」「もう! 事情はティアに聞いた?」 冗談混じりにそんな事を言うフィンを小突いて座り直すと、フィンはリリアナの正面に腰掛けた。「大まかにな。で、一体何がどうなってるんだ? ちょっと委員会の資格取りに大陸行ってる間に何があったんだ?」「それがね——」 リリアナは起きた事を全て包み隠さずフィンに話した。特にリリアナの妊娠を知った時の彼の顔は、驚愕を通り越して青ざめていた。「ちょっと待ってくれ! なんだよ、その急展開! おまけにフォン・ハインリヒっつったら大陸でめちゃくちゃ悪名高い投資家だぞ⁉ 言いたかないが、ヴィンス
last update最終更新日 : 2026-09-24
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23・薄れゆく記憶と、契約の本質

「今日は検診か」 アルフレッドはサンドラを見送った後、執務室に戻って金属製の万年カレンダーで確認していると、ふとある事に気付いた。「サンドラと出会ってからもうこんなに経つのか」 サンドラと出会ったのはまだ残暑の残る季節だったというのに、今はもうすっかり肌寒い。季節が変わるほどの時を共に過ごしたというのに、サンドラの事は分からない事ばかりだ。 アルフレッドは引き出しの中からあの白檀の女が落として行ったロケットを取り出すと、ロケットを開き中のコットンの香りを確かめる。「もうほとんど残っていないか」 いくらロケットに保管していても、香りはいずれ揮発して消えてしまう。「そろそろ忘れてしまいそうだ……」 アルフレッドは一度覚えた香りは忘れないはずなのに、何故かそんな事を呟いてしまった。多分、忘れてしまいそうなのはあの夜の出来事だ。 彼女の肌、唇、声、涙、そして香り……。 その全てを覚えておきたいのに、あの夜の記憶はどんどん薄れていく。せめて顔を覚えていられたら良かったのに、アルフレッドは人の顔を覚える事が出来ない。それをこんなにも悔しく思った事はなかった。 サンドラにしてもそうだ。毎日会う度に美しい女だなと思うのに、次の瞬間にはもうその顔を思い出す事が出来ない。「俺は今まで、何も知らなかったんだな」 事故のせいで覚える事が出来なくなった誰かの顔は、アルフレッドにとってはさほどの意味も無かった。それよりも発達した嗅覚に感謝すらしていた。 けれど今、初めて誰かの顔を覚えたいと思い、誰かの顔を思い出したいと願っている。 アルフレッドは片手で顔を覆って背もたれにもたれると、この例えようのないもどかしさをどうにか忘れようとしたが、一度願った事はそう簡単には消えてはくれない。「サンドラ……早く戻って来てくれ」 思わず呟いた言葉はあまりにも切実で、胸の中に何かが迫るような感覚がした。 言いようの無い焦燥感に駆られていると、執務室にルークがやってくる。「あれ? まだ用意してなかっ
last update最終更新日 : 2026-09-25
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24・大きな誤解と気付かぬ嫉妬

 リリアナがアルフレッド邸に戻ると、リビングに顰め面をしたアルフレッドがまるで置物のようにソファに座って一点を見つめていた。「えっと……ただいま戻りました」 そのただならぬ雰囲気に恐る恐る声をかけると、アルフレッドは弾かれたように顔を上げてリリアナを見つめてくる。「ああ、お帰り。楽しかったか?」「え? ええ、まぁ……いつもの検診なので楽しくは無かったですが」 嘘を重ねるのは良くないと分かっているのに本当の事を告げられなくてもどかしい。「そうか。それで、今回はどうだったんだ?」 アルフレッドは出来るだけ平静を装って尋ねるが、サンドラは何か察しているのか怯えたように声を震わせる。「えっと、順調だそうです」「それは良かった。ところでサンドラ、一つ提案なんだが」「はい?」「明日からまたしばらくの間、俺の秘書に戻ってほしい」「え?」 突然の提案にリリアナは首を傾げた。まだメロウ・ブルーは完全に軌道に乗った訳ではないのに、アルフレッドの提案はあまりにも理解しがたい。「そろそろ動きづらくなってきただろうし、まだ悪阻も落ち着かないじゃないか。それにメロウ・ブルーの売上は好調だが、これを機に仕入先を整理したい。その為に君の力を貸して欲しい」 これはただの言い訳だ。アルフレッドは自分でもそれをよく分かっている。 馬車の中でルークが見たという光景にアルフレッドは憔悴していた。 サンドラは妊娠していてその相手は必ずどこかに居る。そしてそれは自分ではなく他の誰かだ。そしてその誰かとはフィンなのかもしれない。 最初はサンドラの調香技術が惜しくて受け入れた事だったはずなのに、今はそれを取り払ってもサンドラの子の父親になりたいと願っている。それが会社の為なのか自分の為なのか、その境界線はもう曖昧だ。 突然のアルフレッドの申し出にサンドラが息を飲む。「確かに悪阻は日によってまだありますが、このタイミングで仕入先を変えるのですか?」 あまりにも無謀と思えるアルフレッドの提案にリリアナが驚いてい
last update最終更新日 : 2026-09-26
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25・初めての共有と脅迫

 何かを試すような口調のアルフレッドにリリアナはすぐさま頭を横に振った。「いいえ……いいえ! でも、いいんですか? その、女性ばかりですよ? 本当に誤解されてしまいますよ?」「別に構わないし、誤解ではないだろう? 俺達はもうほとんど夫婦のようなものなのだから」 これは子どもをダシにサンドラを縛り付けたいアルフレッドの身勝手な願いだ。それでもルークからサンドラとフィンが産科の前に居たと聞いた時、自分でもどうして良いか分からなくなってしまった。 けれど戸惑っているのはアルフレッドよりもサンドラだ。「えっと、その、それじゃあよろしくお願いします……」 困惑しながらもリリアナはアルフレッドの提案を受け入れた。どうして突然そんな事をアルフレッドが言い出したのかは分からないが、本当はリリアナもずっと不安だったのだ。 ホッとして思わず腹部を撫でると、そんな光景をアルフレッドが眩しそうに見つめている。「で、次の検診はいつなんだ?」「来週ですが、アルフレッド様のお仕事と被ってしまう場合は一旦キャンセルして日を改めても——」「いや、構わない。こちらが都合を合わせる。仕事は待ってくれるが、子どもの成長は待ってはくれないだろう?」 もし自分を優先させて結局またフィンと検診に行かれてしまっては元も子もないと思ったのだが、思いの外サンドラはそれを聞いて嬉しそうな顔をするのでアルフレッドは面食らってしまう。「はい!」 リリアナは自分でも驚くほど素直にその提案を受け入れる事が出来た。告げる事は出来ないが、本当の父親とこんな風に子どもの事を共有出来る事が嬉しくて仕方なかったからだ。 翌週、約束通りアルフレッドは検診に付き合ってくれた。「今回もとても順調ですよ。お父様も赤子の心音を聞いてみますか?」 産婆のマリアが言うとアルフレッドは無言でコクリと頷き、聴診器を耳に当て目を閉じる。「ど、どうですか? 何か聞こえますか?」 お父様などと言われても否定しないアルフレッドに驚きつつもリリアナが尋ねると、アルフレ
last update最終更新日 : 2026-09-27
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26・毒には毒を

 日曜日の午後、リリアナはアイリーンの正面に座り、彼女の動向を見つめていた。 突然あんな手紙を送りつけてきたかと思ったら、二人で会いたいという。 どう考えても良い内容ではないし、仲直りをしようとかそういう話ではない事はもう手紙の内容から察する事が出来た。 アイリーンは飲んでいた紅茶を優雅に下ろすと、顔を上げリリアナを見て微笑む。「久しぶりって言いたい所だけど、この間ぶりね、お姉様」「ええ、そうね」 リリアナは動じなかった。これはカマなどではない事が分かっていたからだ。 けれどそんなリリアナの態度にアイリーンはあからさまに口元を歪める。「偽名を使ってまで誘惑なんて言う古典的で古臭い手を使って私の婚約者を寝取った挙句、妊娠までするなんてチープ過ぎて笑えないけど、あなたの正体はバレてしまったわよ? ねぇ、今どんな気持ち?」「どんな気持ちでもないわ。ああ、そうなのねぐらいの感情よ」 実際、色んな事が暴かれて困るのはどう考えてもアイリーンであり、ヴェール家だ。リリアナにはこんな時の為に、あの後セレスティアに頼んで離れから持ち出してもらった物がいくつかあった。 あくまでも冷静なリリアナにアイリーンがイライラした様子で早口で捲し立ててくる。「それだけ? 例えば私がお姉様の正体を今すぐお父様に言う事も出来るわ。そうして当初の予定通りお姉様はあのハインツとか言う好色の所に嫁がせる事も出来る。それでもそんな態度でいられるのかしら?」「別に構わないわ。自由にしてしてちょうだい。その代わり、私はあなたが今まで私の作った作品を自分の作品として登録した事を全て公表するわ。今回の『霧の果て』のように。ああ、それからシャルロッテ様の名前を騙った事も言わないとね」 笑顔で言うと、アイリーンが固まった。「……私じゃないわ」「いいえ、あなたよ。あの時アルフレッド様はシャルロッテ様の名前は一切出さなかった。それなのにあなたは何故か犯人がシャルロッテ様の名を騙った事を知っていた。それはどうして?」「き、聞いたからよ。本人に」「そうなの。ではやはりあなたは共犯だっ
last update最終更新日 : 2026-09-28
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27・揺れる心と続く失敗

「え?」 アルフレッドが一瞬何を言っているのか分からなくてリリアナが首を傾げると、アルフレッドはすぐさま自分の言葉を否定した。「いや、忘れてくれ。俺達は互いの交友関係に口出しをするような立場ではなかったな」 思わず本音が漏れてしまったが、自分たちの間柄はあくまでも契約だ。最近はどうにもそれを忘れてしまいそうになるが、あの夜の女の事を忘れられない自分にサンドラを縛る権利などない。「……フィンではありません。親友と会っていたんです」 なんだか突き放すような言い方に引っかかりつつ答えると、アルフレッドは何故かあからさまにホッとした顔をする。「ではあのいつもの手紙の女か?」「ええ。セレスティアって言います。下町育ちなのですが、優柔不断な私と違ってはっきりした性格で、話していると元気になるんです」 貴族と平民には見えない壁のような物があるが、セレスティアはいつもそんな壁などものともせずにリリアナを支えてくれていた。「そうか。そういう友人が居るのはいいな」「てっきり下町育ちと聞いて反対されるかと思っていました。アルフレッド様にはそういう方は居ないのですか?」「何故反対するんだ? 貴族だろうとなかろうと、そういう相手は居た方がいい。俺の場合は心を許せるという意味ではルークだろうが、友人ではないな。主従関係というのは案外難しくてな」 どんな場合においてもルークは頼りになる存在だが、友人というとそれは違う。共に食事をしたり気軽に話し合ったりする仲ではないからだ。そういう意味ではアルフレッドは孤独だ。 今まではそれで良いと思っていたし、いずれエバンズ家の当主になるのであれば、そうであるべきだと思っていた。 けれどサンドラを見ているとそれはとても淋しい事かもしれないとも思う。ラボの奴らや屋敷の使用人たちとさえ上手くやっているサンドラを見ていると……。「この先、アルフレッド様と肩を並べてくれるような存在が現れますよ、きっと」 その時はきっと自分はもうアルフレッドの側には居ないに違いない。その時、アルフレッドはどんな顔をしているのだろう。ほん
last update最終更新日 : 2026-09-29
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28・天才の娘と、見知らぬ天才

 アイリーン付きのメイドが言うには、先程調香委員会が訪ねてきて新作の登録を解除したという。 理由はヴェール家の足元にも及ばない、小さなアトリエから発表された新作と酷似しているからという理由だ。「お父様! どういう事なの⁉」「どういう事かは私が聞きたい。アイリーン、どういう事だ? お前はまた誰かの模倣をしたのか?」「そ、それは……少し似てしまっただけだわ。それに香りなんて既に腐るほど世に出てるのよ⁉ 多少似ることはあるでしょ⁉」「これは多少という次元ではないだろう? ほとんど同じだ」 そう言ってヴィンスは二つのサンプルを机の上に置く。 前妻は調香の天才だった。そしてその娘リリアナもその才能をしっかりと受け継いでいたというのに、ヴィンスは金に目が眩んでリリアナを大陸一の金持ちに売ろうとした挙句、その直前にリリアナ逃げられてしまった。これは大きな損失だ。 もしあの計画が上手くいっていれば、大金の金でリリアナ以上の調香師を雇う事も出来ただろうが、残ったのは模倣する事しか出来ない出来損ないの調香師のみ。 この事にヴィンスは内心腹部立たしい思いでいた。「まぁいい。やはりこのヴェール・ノワールの代表調香師の座はお前には荷が重かったようだ」「なんですって? だったらどうするの? 頼みの綱のお姉様はもう居ないのに」「一人居るじゃないか。最近注目を集めている調香師がエバンズ家に」 ヴィンスはにんまりと笑って一人の調香師の姿を思い浮かべる。エバンズ家の新ブランド発表会で代表調香師に選ばれた、サンドラ・ウッドの顔を。「まさか……あの女をスカウトするつもりじゃないでしょうね⁉ お父様! あの女は駄目よ! 絶対に駄目!」 最近色々と注目を集めている調香師と言えばリリアナ扮するサンドラしか居ない。「よく考えるんだ、アイリーン。これはお前にとっても悪い話じゃない」「……どういう事?」「サンドラ・ウッドはあのアルフレッド・エバンズの婚約者だろう? だがもし彼女が敵対するヴェール家に引き抜かれたら、アルフレッドの
last update最終更新日 : 2026-09-30
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29・引き抜きと決別

 ヴェール家と聞いてサンドラの顔に緊張が走った。その表情の意味がこの時のアルフレッドには沸かならなかったが、サンドラは以前からやけにヴェール家の人間を警戒している。「分かった。サンドラ、どうする?」 サンドラとヴェール家の間に何かしらの繋がりがあるのかは分からないが、嫌なら断ればいい。ヴェール家は言わば商売敵だ。何も仲良くする必要など無いのだから。「……お会いします。断ってしまったら後から何を言われるか分かりませんから」 今更何の用があるのか知らないが、今度はアイリーンではなく父が直接会いに来ると言う。もしかしたらアイリーンはあれだけ忠告したのに、本当に父にサンドラの正体を告げたのだろうか? その確認の為にも会って確認しておいた方がいい。「だ、そうだ。急ぎ返事を出しておいてくれ。ただサンドラは妊娠している。体調次第では会うことは出来ないと言う事も忘れるなよ」「畏まりました」「大丈夫か? 手が震えているが」 これはサンドラの癖だ。怒りや焦り、不安があると彼女の手は小さく震える。 アルフレッドの問いかけにサンドラはハッとしたような顔をして頷いた。「すみません、大丈夫です。それよりもアイスクリームも頼んでいいですか?」 話題を逸らそうとメニューを広げると、まるでリリアナの心などお見通しだとでも言いたげにアルフレッドがリリアナの手からメニューを取り上げる。「流石にもう止めておけ。アイスは明日に回して、何か不安があるのなら今のうちに話しておいてくれ」「……不安なんて……」「俺は君を害する全ての物から守ると約束した。その約束を反故にするつもりはない。話せない事情があるのなら無理には聞かないが、俺に出来る事があるのなら言ってくれ」「不安というか、アルフレッド様ではなく、私に何の用事だろうと思って」 父とは母が亡くなって再婚してからはほとんどまともに口を利いていない。 アイリーンが生まれてからは父との会話は命令と服従だけになった。「確かにそうだな。明日は俺も同席しようか
last update最終更新日 : 2026-10-01
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30・ヴェール家とエバンズ家の過去

 父の言葉にリリアナは思わず固まってしまった。突然やって来て何を言い出すのかと思ったら、リリアナをエバンズ家から引き抜こうとしているらしい。「お話はそれだけですか? もちろんお断りします」 リリアナの答えは即答だった。ほんの少しも考える素振りを見せなかった。父のやり方をリリアナは熟知していたからだ。少しでも迷いを見せたら、そこから蛇のごとくしつこく食い下がってくる。 けれど今日の父はめげなかった。「まぁ最後までお話を聞いてください。あなたは今、ご自分がエバンズ家でどれほど理不尽な立場に立たされているか理解していますか?」「理不尽?」「ええ! 調香の技術を見初められ、よく知りもしない相手に拐かされ挙句の果てに妊娠を盾に無理やりエバンズ家に嫁がされようとしているのですよ? これが理不尽でなく何だと言うのでしょうか!」 声高らかにそんな事を言い出した父に呆気に取られていると、父は黙り込んだリリアナを見て調子づく。「だってそうでしょう? あなたほど優秀な方が無給で! 御子息の妻だと言う理由だけでアルフレッド様のブランドの代表調香師などと言う役職に追いやられているのですから!」「想像力が豊かな方ですね。私が無給だとか拐かされたとか。元々恋仲だったとは考えないのですか?」 にっこり微笑んで言うと、父の口元がヒクリと引きつった。もちろん自分でも無理があると分かっているのだろう。それでもいつもの調子で丸め込もうとしたに違いない。「で、ですがアルフレッド様は我がヴェール家に婚約の話を——」「ええ、もちろん知っています。でも誰がその話を取り付けたのでしょうね?」「え……?」 ヴィンスはサンドラが言っている意味が分からなくて目を白黒させてしまう。もしかしてこの女は何か知っているのだろうか? それともアルフレッドが何か感づいているのか?「自分たちの事ですよ。何も調べず、何も知らないとお思いですか?」 これは完全にカマをかけただけだが案の定、父はしどろもどろになる。やはりあのアルフレッドとアイリーンの婚約には何か裏があったようだ。「も
last update最終更新日 : 2026-10-02
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