彼は想い人のために、死んだ私の心臓を奪う? のすべてのチャプター: チャプター 1 - チャプター 10

11 チャプター

第1話

「いつまで隠れてるつもりだ!」そう吐き捨てると、悠真は私が暮らしていたアパートのドアを乱暴に蹴り開けた。長い間、人の出入りがなかった部屋には、埃がうっすらと積もっていた。ドアが開いた拍子に、それが陽の光の中へふわりと舞い上が上がった。悠真は思わず眉をひそめた。その後ろには、一ノ瀬詩音(いちのせ しおん)が寄り添うようについてきていた。悠真にかばわれるように肩を抱かれ、青白い顔で小さく咳き込んだ。「悠真……もう、やめよう?私は大丈夫だから……」悠真はすぐに振り返り、優しく微笑んだ。「詩音は気にしなくていいよ」その声は、私が一度だって向けられたことのないほど優しかった。「美咲のやつ……どこかに隠れれば、俺から逃げられると思ってるのか」悠真はそう言うと、部屋の中へゆっくりと視線を巡らせた。やがて、その目が机の上で止まった。そこには、少し色あせた写真立てが置かれていた。あれは、私と悠真が並んで写った、たった1枚の写真だった。誰にも見つからないよう、私は5年間ずっと大切にしまってきた。悠真は写真を手に取ると、小さく鼻で笑った。「姿をくらましたつもりか……相変わらず安っぽい芝居だな」そのとき、物音を聞きつけた隣のおばさん――佐藤節子(さとう せつこ)が玄関先から顔をのぞかせた。「あら、どうしたの?」悠真は写真から目を離さないまま答えた。「白石美咲を探してる」「美咲ちゃん?あの子なら、もう5年前に交通事故で亡くなったよ」その言葉に、詩音の目がかすかに揺れた。けれどすぐに視線を落とし、遠慮がちに口を開いた。「そんな……何かの間違いじゃ……少し前まで、私と電話で話してたんです」節子は2人をじっと見比べると、あきれたようにため息をついた。「間違えるはずないよ。あの日のことは、今でも忘れられないよ。警察の人と一緒に、ご家族へ何度も電話したんだ。でも、誰も来なかった。最後まで来てくれたのは、大学のお友達だけだったよ。お葬式まであの子たちが全部やってくれてね……本当に、美咲ちゃんは気の毒だった」悠真の表情は、みるみる険しくなっていった。「お前に何が分かる!美咲が俺を置いて死ぬはずない!全部、俺を振り向かせるための芝居に決まってる!」節子は思わず言葉を失った。しば
続きを読む

第2話

節子は呆れたように鼻で笑った。「まだそんなこと言ってるのかい?美咲ちゃんが事故に遭った日ね、彼女の手には、あんたの写真が入ったキーホルダーをずっと大事そうに握っていた。そんなこと、あんたは何ひとつ知らないんだろうね」節子は悠真をまっすぐ見据えた。「それに、お友達が遺品を整理してたとき、枕の下からあんた宛ての手紙が何通も出てきたんだ。どれも結局、出せないままだったけどね。あんた、一通でも読んだことあるのかい?」悠真は拳を強く握り締めた。「適当なこと言うな!」「だったら、これは何だい?」節子はくるりと背を向け、部屋の奥から色あせた紙箱を抱えて戻ってきた。「これはね、美咲ちゃんのお友達に預かったものなんだ。『もしあの人が来たら渡してください』って頼まれてね」詩音は目に涙を浮かべ、おずおずと口を開いた。「違います……悠真は、美咲さんのことを本当に大切に思ってたんです……」「大切に?」節子は苦々しくつぶやくと、紙箱を床へ放り投げた。箱が開き、中に入っていた手紙が何通も床へ散らばった。「本当にそうだったら、美咲ちゃんをこんなアパートでひとり暮らしなんかさせないわ。最後まで返事ひとつ寄こさないまま、放っておいたりもしない」悠真の視線が、床に散らばった手紙へ吸い寄せられた。見覚えのある、やわらかな文字。紛れもなく、私の字だった。節子は静かに言葉を続けた。「事故の前の日もね、美咲ちゃん、『もう一回だけ会いに行こうと思うんです』って言ってたんだよ。『ちゃんと気持ちを伝えたくて』って。でも、結局会えなかった。あの子は、そのまま帰ってこなかった。今さら後悔したような顔をしたって遅いんだよ。あの子は、もう戻ってこないわ」悠真は唇を強く噛み締め、顔色が見る見るうちに悪くなった。それでも彼は意地を張り、口先だけは決して折れようとしなかった。「……信じるか!全部、あいつが仕組んだことだ!3日待ってやる。それまでに出てこなければ、あいつの荷物は全部処分する!」そう言い残すと、悠真は詩音の腕をつかみ、そのまま部屋をあとにした。部屋を出る間際、詩音は床に散らばった手紙へ、そっと視線を落とした。そして誰にも気づかれないよう、数通の手紙を足でそっと机の下へ寄せた。節子はその背中を見送り、小さく吐き捨て
続きを読む

第3話

詩音は悠真の胸へ身を寄せ、小さく唇を震わせた。「でも……美咲さんはあの事故のとき……私を助けようとして……」悠真はその言葉を最後まで聞かず、首を横へ振った。「君のせいじゃない。あれはあいつが勝手に飛び出しただけだ。それに、美咲は俺のためなら何でもする女だった。君を守るくらい、あいつなら当然する」その言葉を聞いても、もう胸は痛まなかった。ただ、氷のように冷え切っていくだけだった。私の命でさえ、悠真にとっては、その程度の価値しかなかった。そのとき、悠真のスマホが鳴った。病院からだった。「神崎さんですね。申し訳ありませんが、一ノ瀬さんの容体があまり思わしくありません。適合するドナーが見つからなければ、かなり厳しい状況です」電話を切った悠真の表情は、さらに険しくなった。悠真はそのまま、積み上げられた私の荷物へ歩み寄った。まるで何かを探すように、1つひとつ箱を開け始めた。やがて、古びた紙箱の底から銀行のキャッシュカードと1冊の日記帳を取り出した。キャッシュカードは、昔、悠真が「生活費に使え」と言って渡してくれたものだった。けれど私は、1円も使わなかった。後になって、「あれは貸した金だ。ちゃんと返せ」と言われたからだ。そして、その日記には、悠真との日々が綴られていた。初めて出会った日のこと。初めて名前を呼んでもらえた日のこと。笑ってくれた日のこと。傷つく言葉を向けられた日のこと。どんな些細な出来事も、私は大切に書き残していた。悠真は日記を開き、黙ったままページをめくっていった。読み進めるたび、その眉間には少しずつ深い皺が刻まれていった。「こんなもん、いちいち書いてたのか」詩音も隣からのぞき込み、小さく声を上げた。「悠真、ここ……」開かれたページには、私の字でこう綴られていた。【今日も悠真が笑ってくれた。少しだけでも、私のことを好きになってくれていたらいいな】悠真はしばらくその文字を見つめていた。やがて、無言で日記を閉じた。「……くだらない」そう吐き捨てながらも、日記だけはポケットへしまった。そして、3日の期限が過ぎても、私は姿を現さなかった。悠真の怒りは、ついに限界に達した。私の荷物を庭へ運び出させると、一か所へ積み上げた。詩音は不安そ
続きを読む

第4話

あの日、薬の名前を勘違いしたのは詩音だった。私はそれに気づいたけれど、詩音を責めることはしなかった。代わりの薬を探すため、閉店間際の薬局を3軒も駆け回った。病院へ戻った頃には、全身びしょ濡れになっていた。それでも悠真は、私がわざと薬をすり替えたのだと思い込んだ。病院の廊下で私を突き飛ばし、頭ごなしに怒鳴りつけた。「お前、本当に最低だな。どこまで腐ってるんだ」悠真は散らばった手紙へ目を落とし、鼻で笑った。「それに、あいつの手紙もそうだ。あんなもの書いて何になる?情に訴えれば俺が振り向くとでも思ったのか。勘違いもいい加減にしろ。女なんて、その気になればいくらでも寄ってくる。あんな手紙を何通書こうが、俺の気持ちは変わらない」詩音は遠慮がちに悠真の袖をつまんだ。「悠真……もう、そのくらいにしよう?もし美咲さんが聞いてたら……」悠真は呆れたように肩をすくめた。「聞いてたら何だ。あいつが勝手にやったことだろ。今さら何を言われたって知るか。昔だってそうだ。あいつは学歴まで偽って俺に近づいた。まともな仕事にも就けず、結局は俺に養われるしかなかったくせに。そんな女がいなくなって、せいせいした」その言葉を聞いた瞬間、胸の奥で何かが音もなく崩れた。不意に、付き合い始めた頃の記憶がよみがえった。私が奨学金だけで大学に通っていたことを知ると、悠真は笑って言った。「美咲って、本当に頑張り屋だな。卒業したら、今度は俺が養ってやる」あの笑顔に、嘘なんてないと信じていた。だけど今では、その言葉さえ私を傷つけるだけのものになってしまった。「……あんた、本気でそんなこと言ってるの?」節子はいつの間にか、また戻ってきていた。手には、さっき詩音が机の下へ蹴り込んだ手紙が握られていた。きっと、立ち上る煙を見て駆けつけたのだろう。悠真を見るなり、その表情が険しくなった。「この恩知らず!あんた、美咲ちゃんがどんな思いで支えてきたか、何ひとつ分かっちゃいない!昼は大学、夜はバイト。手に豆を作ってまで働いてたんだよ。全部、あんたの起業資金の足しになればってね。あの子があんたに養われてた?よくそんなことが言えるね!」節子は手にしていた手紙を悠真の足元へ叩きつけた。「ほら、読んでみな!全部、美咲ちゃんがあんたに
続きを読む

第5話

「……白石美咲さんは、5年前の交通事故でお亡くなりになっています。死亡診断書と火葬に関する記録も確認できています」電話越しの声は、淡々としていた。悠真はスマホを握る手を震わせた。目を見開いたまま、言葉を失っていた。「……嘘だ。そんなはずない……」通話を乱暴に切ると、そのまま部屋へ駆け込んだ。ポケットから1冊のノートを取り出し、夢中でページをめくった。そして最後のページで、その手が止まった。事故の前日に、私が書き残した言葉だった。【悠真へ。最近、少し疲れちゃった。もし、私がいなくなったら……あなたは、少しでも私を思い出してくれるのかな】悠真は震える指先で、その文字をなぞった。その場に崩れ落ちるように膝をつき、両手で顔を覆った。肩だけが、小さく震えていた。悠真が泣くところなんて、見たこともなかった。それでも、胸がすくことはなかった。ただ、ひどく滑稽に思えただけだった。あの涙は、私を失った悲しみなんかじゃない。詩音を助けられる望みが、もうなくなったと知ったから。それだけだった。詩音はゆっくり近づき、悠真の背中へそっと手を添えた。「悠真……お願いだから、そんな顔しないで……私は大丈夫だから……」悠真は勢いよく顔を上げた。目は真っ赤に充血していた。「大丈夫なわけないだろ。俺は……君を失うわけにはいかない」その瞬間、何かを思いついたように目を見開いた。「いや……待て。あいつの心臓なら、まだ使えるかもしれない……!」そう叫ぶと、悠真は夢中で部屋を飛び出した。向かった先は、5年前に私が搬送された総合病院だった。その背中を見送った詩音の口元には、ほんの一瞬だけ、不気味な笑みが浮かんでいた。悠真は受付で事情を説明すると、当時の担当医を呼んでもらった。医師の姿を見るなり、悠真は駆け寄り、その腕をつかんだ。「白石美咲の心臓はどうなった!まだ使えたんだろ!」医師は驚いたように、その手を静かに振りほどいた。「神崎さん、落ち着いてください。白石さんは交通事故で亡くなられました。全身に重傷を負われ、特に心臓の損傷が深刻で、移植できる状態ではありませんでした」その言葉を聞いた瞬間、悠真は糸が切れたように力を失った。近くの椅子へ崩れ落ちた。「そんな……噓だ……」医師は静かにた
続きを読む

第6話

悠真が家へ戻ると、詩音はベッドへ横たわっていた。顔色は青白く、呼吸も浅かった。悠真は慌てて駆け寄り、その手を握った。「詩音、大丈夫か」詩音は弱々しく微笑んだ。「私は平気……少し疲れただけだから……ねえ、悠真……私、もう長くないのかな……」悠真の表情が強ばった。「そんなこと言うな。君は絶対に助かる。海外にも手を回してる。君に合うドナーは、必ず見つかる」詩音は悠真の胸へ身を預け、静かに涙をこぼした。「ごめんね……私のせいで、美咲さんまで……」悠真は首を横へ振った。「君は悪くない。あれは事故だ。あいつが勝手に飛び出しただけだ」そう言い切ったが、その目だけはわずかに揺れていた。詩音は涙をぬぐうと、小さく笑った。「ねえ……美咲さんの写真、見せてもらってもいい?なんだか急に、美咲さんの顔が見たくなっちゃって……」悠真は少しためらった。やがてポケットから日記帳を取り出し、写真が挟まれたページを開いた。私たちが一緒に写った、唯一の写真だった。私は嬉しそうに笑っていた。その隣で悠真だけが、どこか面倒くさそうな顔をしていた。詩音は写真を見つめ、小さくつぶやいた。「……美咲さん、本当に悠真のことが好きだったんだね。覚えてる?悠真が熱を出したとき、美咲さん、悠真の好きなプリンを探して、夜中まで何軒も店を回ってたよね。会社の資金繰りが苦しくなったときも、自分の貯金を全部出して……それでも足りなくて、人に頭を下げてまでお金を借りてた」悠真の表情は、少しずつ曇っていった。やがて耐えきれなくなったように、勢いよく日記帳を閉じた。「……もういい」詩音は肩を震わせ、小さく身をすくめた。それ以上、何も言えなかった。悠真は何も言わず、窓辺へ歩いていった。窓の外には、どこまでも夜の闇が広がっていた。きっと、あの頃のことを思い出していたのだろう。真冬の朝、私が震えながら朝食を届けたこと。悠真の誕生日プレゼントを買うために、何か月も節約を続けていたこと。熱を出した悠真のそばで、何日も付きっきりで看病したこと。だけど、あの頃の悠真は、それを優しさだとは思わなかった。鬱陶しい。重い。面倒くさい。そう思っていただけだった。今さら思い出したところで、もう何になるというのだろう。詩音の容
続きを読む

第7話

刑事は悠真の前にモニターを置いた。「神崎さん。こちらをご覧ください」画面に映し出されたのは、5年前の事故現場近くの防犯カメラ映像だった。画質は荒く、人影もぼやけていた。それでも、暴走したトラックがこちらへ突っ込んでくる瞬間だけは、はっきりと確認できた。確かに、最後に私を突き飛ばしたのは悠真だった。だが、その直前。詩音が悠真に何かを耳打ちしていた。刑事は静かに口を開いた。「この映像については、音声も専門機関で解析を行い、AI技術で音声を復元してもらいました。内容は合ってるでしょうか」やがて、ノイズ混じりの音声が流れ始めた。「悠真……早く助けて!美咲さんを前に……!」一瞬の沈黙が流れた。続いて、ためらうような悠真の声が聞こえた。「でも……」詩音はすぐに言葉を重ねた。「なんなんだよ!私を死なせる気なの?あの子さえいなくなれば……悠真は私だけを見てくれる」次の瞬間。トラックが猛スピードで突っ込み、悠真は私を突き飛ばした。映像はそこで途切れた。悠真はモニターを見つめたまま、言葉を失っていた。確かに、あの日、自分は美咲を突き飛ばした。その記憶は今でも鮮明だった。あの時、自分は美咲が何かを叫んでいるのをかすかに耳にしていた。だが、電光石火の一瞬の出来事の中で、聞き取れたのは「早く助けて」など、ほんの言葉の断片にすぎなかった。まさか、詩音があんな言葉を口にしていたなど、夢にも思わなかった。「……そんな」小さく漏れた声は、自分でも驚くほど震えていた。刑事は静かに資料を差し出した。「神崎さん。もう一点、ご確認いただきたいことがあります。当時のトラック運転手について調べ直した結果、一ノ瀬詩音さんのご家族との接点が確認されました。現時点では事故と断定することも、事件と断定することもできません。ですが、不自然な点がいくつか見つかっており、現在も捜査を続けています」悠真はゆっくりと顔を上げた。「……詩音を疑えっていうんですか」刑事は首を横に振った。「疑うかどうかを決めるのは、私どもではありません。ただ、事実としてお伝えしています」その一言が、悠真の胸へ重くのしかかった。「本人に直接聞きます」そう言い残すと、警察署を飛び出していった。私も、そのあとを追った。悠真
続きを読む

第8話

詩音はふっと笑みを消した。その瞳には、隠しきれない憎しみが宿っていた。「命?美咲の命なんて、私にはどうでもよかった。あなたのそばにいるためなら、邪魔なものは消えてくれれば、それでよかったの」悠真は息をのんだ。詩音はそんな彼を見つめると、口元だけで笑った。「気づいてないとでも思ってた?あなた、美咲には特別だった。ネギが苦手なのをちゃんと覚えてたし、熱を出せば誰より心配してた。それに……あの女にもらった安物のペンまで、ずっと捨てられなかったでしょう?」詩音はテーブルの上のクリスタルの置物をつかみ、そのまま床へ叩きつけた。乾いた破砕音がリビングに響き、透明な破片が四方へ飛び散った。「だから、美咲には消えてほしかった!全部、なくなってしまえばよかった!あなたが私だけを見てくれるなら、それで十分だったの!」悠真は無意識に拳を握り締めた。指先は白くなり、爪が掌へ深く食い込んでいた。その表情を見れば、何を思い出しているのかはすぐに分かった。5年前の雨の日。私を一人、雨の中へ残したあの日。詩音は悠真の腕に寄り添い、優しく笑いながら言った。「美咲さんなら大丈夫。きっと分かってくれるよ」あの言葉を、悠真は疑うことなく信じていた。会社の資金繰りが苦しかった頃もそうだった。私は生活を切り詰め、少しでも力になろうと必死で働いていた。その一方で、詩音は悠真から渡されたカードで、何不自由なく買い物を楽しんでいた。「好きな人のためにお金を使うのって、幸せでしょう?」そう笑っていた姿まで、きっと思い出しているのだろう。あれほど信じ切っていた優しさも。守り続けたいと願っていた笑顔も、全部偽りだった。悠真は今さらになって、その事実を思い知らされた。「……出て行け」低く押し殺した声だった。「今すぐ、俺の前から消えろ」詩音は一瞬だけ目を見開いた。だが、次の瞬間には甲高い笑い声を上げた。「何それ。今さら私だけ追い出すの?こんなことをしたのは、全部あなたのためなのに」そう言うと、悠真へ一歩近づいた。その瞳には、狂気じみた光が宿っていた。「勘違いしないで。美咲を突き飛ばしたのは、あなたでしょう?最後にそう決めたのも、あなた。私だけが悪いなんて思わないで」その言葉に、悠真の表情は凍りついた。私には分かって
続きを読む

第9話

悠真は3日3晩、家へ閉じこもっていた。彼は詩音の荷物を何もかも処分してしまった。かつて自分で選び、自分で彼女に贈ったプレゼントまで含めて。部屋に残っていたのは、燃え残った私の私物だけだった。塗装の剥げた水筒と、何度も読み返した専門書。それから、悠真に何度も笑われた底のすり減ったスニーカー。悠真は、それらに囲まれるように一人座り込み、事故当日の映像を何度も見返していた。詩音の声を何度も再生し、そのたびに、私を突き飛ばした、あの瞬間のことを思い返していた。4日目の朝、悠真はようやく家を後にし、その足で私の墓へ向かった。風雨にさらされた墓石には、私の名前がかすかに残っているだけだった。悠真は静かにしゃがみ込み、墓石に積もった埃を指先で少しずつ払っていった。その手つきは、まるで壊れやすいものに触れるように、ひどく慎重だった。「……美咲」かすれた声で、そう呼んだ。「ごめん。今さら謝ったところで、許されるなんて思ってない。それでも……伝えたかった。昔の俺は、お前の優しさを当たり前だと思ってた。お前がそばにいることも、俺のために何かしてくれることも、全部当然だと思ってた。でも、全部失ってから気づいた。あの頃、お前と過ごした日々が……俺の人生で、一番幸せな時間だったんだ」そう言うと、悠真は墓前へ小さなオルゴールをそっと置いた。それは、私が18歳の誕生日に、初めてのアルバイト代で彼へ贈ったものだった。あのとき悠真は、一度も開けることなく棚の奥へ放り込んでいた。「これを見つけるまで、ずいぶん時間がかかった」そうつぶやくと、静かにオルゴールのゼンマイを回した。優しい音色が、静まり返った墓地に響いていった。「前に、お前が言ってたよな。一度でいいから、俺の歌を聞いてみたいって」悠真は小さく息を吸い、ぎこちなく歌い始めた。音程は何度も外れ、途中で声も震えた。それでも、最後まで歌おうとしていた。その歌は、私が一番好きだった曲だった。あの頃は一度も歌ってくれなかったのに、歌詞だけはちゃんと覚えていた。やがて悠真は歌うのをやめ、そのまま墓石へ額を押し当てた。肩は小さく震え、押し殺した嗚咽だけが静かに漏れていた。「……美咲。会いたい。もう一度だけ……会いたい……全部、やり直したい」その声は涙で途切れ
続きを読む

第10話

そして悠真は、自分なりの償いを始めていた。会社の株式の一部を手放し、私の名前を冠した奨学支援制度を立ち上げた。かつての私のように、経済的に苦しみながらも夢を諦めず学ぶ学生たちを支えるためだった。それだけではなかった。私が学生時代にアルバイトをしていたレストランへ足を運び、自ら皿を洗い、料理を運び、かつて私がしていた仕事を、1つひとつ黙ってこなしていった。店長は悠真の姿を見るなり、顔をしかめた。「今さら何しに来たんだ。後悔するくらいなら、最初からあの子を大事にしてやればよかっただろ」悠真は何も言い返さなかった。ただ黙って働き続けた。慣れない作業で手に水ぶくれができても、一言も弱音を漏らさなかった。その後、悠真は私の両親のもとを訪ねた。私が幼い頃に離婚した両親は、それぞれ新しい家庭を築き、私とはほとんど関わることなく暮らしていた。私が亡くなったあとも、葬儀に顔を出しただけで、そのまま帰っていった。悠真はそんな二人の前にひざまずき、これまでのことを包み隠さず話した。私を傷つけ続けてきたこと。あの日、自分の手で私を突き飛ばしたこと。そして、詩音に騙され続けていたこと。話を聞き終えた母は、涙を浮かべたまま悠真の頬を強く打った。「どうして……どうして美咲だったの……!あの子が何をしたっていうの……!どうしてあんな優しい子が、こんな目に遭わなきゃいけなかったの……!」悠真は何も言えず、ただ頭を垂れることしかできなかった。父は長い間、黙ったままだった。やがて小さく息をつき、静かに口を開いた。「……もう、あの子は帰ってこない。今さら何を話したところで、何も変わらない。もう来ないでくれ。俺たちも、お前の顔は見たくない」悠真は何も言わず、静かにその場をあとにした。それでも、そのあとも毎月欠かさず両親のもとへ生活費を送り続けた。二人が受け取ることは、一度もなかった。それでも悠真は、送り続けることをやめなかった。ときには母が営む小さなスーパーへも足を運び、荷運びや品出しを黙々と手伝った。周囲の人は「あの人、どうかしちゃったんじゃない?」と陰で噂していた。けれど、悠真自身が一番よく分かっていた。こんなことをしても、償いにはならない。私はもう、戻ってこない。それでも、何かをしていな
続きを読む
前へ
12
コードをスキャンしてアプリで読む
DMCA.com Protection Status